2013年9月26日木曜日

【おん身らは誰を殺したと思ふ  文学者の見た朝鮮人虐殺/折口信夫】

国びとの
心(うら)さぶる世に値(あ)ひしより、
顔よき子らも、
頼まずなりぬ

大正12年の地震の時、9月4日の夕方ここ(増上寺山門)を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦(いったん)事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値(あ)つて以来といふものは、此国(このくに)の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた。

(折口信夫による自歌自註。『日本近代文学大系 46巻 折口信夫集』)



折口信夫(おりくちしのぶ)の晩年の言葉である。

折口信夫は1887年生まれ。国文学、民俗学、詩歌や小説と、幅広い領域で活動した人である。歌人としては「釈迢空(しゃくちょうくう)」と名乗った。しかし、折口といえばやはり民俗学研究が思いおこされる。

折口民俗学の観念で広く知られるのは「まれびと」論だろう。柳田国男が、日本の神の起源を共同体の同質性を保障する祖先への崇拝に求めたのに対して、折口は神の起源を共同体の外、遠い異郷・異界からやってきて幸せをもたらす異質な「まれびと神」への信仰だと考えた。沖縄に、海の向こうの異界「ニライカナイ」への信仰や異装のまれびとが村を訪れる「アカマタ・クロマタ」祭りが今も残っていると知った折口は、二度にわたって沖縄を訪ね、調査を行った。

1923年9月1日を、彼は北九州の門司港で迎えている。二度目の沖縄旅行を終えて帰る途中であった。その後、船で3日夜に横浜に上陸し、4日の正午から夜まで歩き続けて、ようやく谷中清水町(今の池之端)の自宅に戻ることができたのであった。

彼はその道々で、「酸鼻な、残虐な色々の姿」を見ることとなった。サディスティックな自警団の振る舞いには「人間の凄まじさあさましさを痛感した。此気持ちは3カ月や半年、元通りにならなかった」。彼自身が増上寺の門前で自警団に取り囲まれたのは、この日の夜のことだった。彼は、これまで見ることのなかった、この国の人々の別の顔を見たように感じた。

このショックは従来の「滑らかな拍子」の短歌では表現できないと痛感した折口(釈迢空)は、新しい形式として4行からなる四句詩型をつくり出し、10数連の作品「砂けぶり」を創作する。そこには、彼が見た震災直後の東京が、ざらりとした手触りでよみこまれていた。


夜になつた―。
また 蝋燭(ろうそく)と流言の夜だ。
まつくらな町を 金棒ひいて
夜警に出るとしよう


かはゆい子どもが―
大道で ぴちやぴちやしばいて居た。
あの音―。
不逞帰順民の死骸の―。


おん身らは 誰をころしたと思ふ。
陛下のみ名において―。
おそろしい呪文だ。
陛下萬歳 ばあんざあい



あなた方は、誰を殺したと思うのか。天皇の名の下で、という。
「誰」とは不思議な問いである。
あのとき殺されたのは、誰だったのだろうか。何だったのだろうか。



13/12/24修正:「砂けぶり」引用第2連を修正。「しばいて居たつけ」→「しばいて居た」。初出は後者でした。

注)「砂けぶり」の引用は初出のものを採用した。その後、まとめられるなかで、折口はそれぞれ手を加えている。たとえば最後の歌は「おん身らは/誰を殺したと思ふ。/かの尊い/御名において―。/おそろしい呪文だ。/萬歳/ばんざあい」となった。また、「帰順民」とは朝鮮人を指す言葉。韓国併合によって日本に「帰順」した人々という意味で当時使われていた。

参考資料:『日本近代文学大系 46巻 折口信夫集』(角川書店)、石井正己『文豪たちの関東大震災体験記』(小学館101新書)、『折口信夫』(筑摩書房)、中沢新一『未来から来た古代人』(ちくまプリマー新書)。