2013年10月8日火曜日

【あとがき  「非人間」化に抗する】


具学永の墓を立てた宮澤菊次郎は、あんま師だった。

具学永(グ・ハギョン)は埼玉県寄居町に住んでいた、アメ売りの若者である。1923年9月6日深夜、隣村から押し寄せた自警団に殺害された。

私たち「知らせ隊」は、ブログに写真を掲載するために、地元の人々が建てたという彼の墓を訪れた。その際、墓の側面に「宮澤菊次郎 他有志之者」とあるのを見たが、この時点ではそれが誰なのかを知らなかった。立派な墓石を見て、私たちは、「地元の有力者なのだろうか」と首をかしげるしかなかった。

その後、ブログ中で何度も引用してきた山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(創史社)に、それについて書いた部分を見つけた。読み落としていたのだ。

それによると、寄居署で具学永が虐殺された後、その遺体を引き取り、墓を建てたのは、宮澤菊次郎というあんま師だったとある。あんま師がそれほど裕福とも思われないので、「他有志之者」がそれなりに費用を出したのだろう。

目抜き通りを売り声をあげながら行き来するアメ売りと、あんま師。私たちは、彼らが出会う光景が想像できるような気がする。

寄居は荒川に面する水上交通の拠点であり、かつては宿場町でもあった。大正の頃、その目抜き通りは今よりもずっと華やかだったに違いない。おそらくはその路上で、彼らは出会った。もしかしたら、たとえば同じ下宿屋の店子だったのかもしれないが、いずれにしろ二人は、路上を行き来して生計を立てている者として、互いに身近な存在だったのだろう。

もうひとつ、あんまといえば、当時はもっぱら視覚障害者の仕事である。宮澤菊次郎は、声と手触り、体温を通じてのみ、具学永を知っていたのかもしれないとも思う。

さらに私たちは、具学永につけられた「感天愁雨信士」という戒名からも、込められた思いを受け取る。「雨」の字にも、具学永が売っていた「アメ」を読み込んだのではないかと空想する。

具学永さんの墓(埼玉県寄居町・正調院)

もちろん、本には「宮澤菊次郎というあんま師が具学永の遺体を引き取り、墓を建てた」としか書いていない。実際には、それ以上のことは何もわからない。だが、とにかく具学永を親しく思う誰かがいたから、その死を悼む人がいたから、あの墓がある。

「はじめに」でも書いたように、私たちがこのブログを始めるとき、もっとも大事にしたいと考えたのは、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺について、事実を「知る」こと以上に、「感じる」ことだった。

関東大震災時に、朝鮮人たちは「不逞鮮人」と呼ばれて殺されたが、「不逞鮮人」とはそもそも、日本の植民地支配に抵抗する人々を指す言葉として当時のマスコミで多用されていたもので、震災の4年前に起こった三一独立運動も、「不逞鮮人の暴動」とされた。

外国の強権支配に怒るのは、人間として当然の感情だ。それを否定するには、相手を、その訴えに耳を傾ける必要がない、「非人間」として描く必要がある。朝鮮人が、向き合って対話をする必要がない、その能力がない相手であるかのように描くため、「嘘つき」「犯罪者」「外国の手先」等々といったあらゆる否定的なレッテルを貼り付けるキャンペーンが行われたのである。

関東大震災はそんななかで起こった。朝鮮人を「非人間」化する「不逞鮮人」というイメージが増殖し、存在そのものの否定である虐殺に帰結したのは、論理としては当然だった。

そして2013年の今、その歴史をなぞるかのように、メディアにもネットにも、「韓国」「朝鮮」と名がつくすべての人や要素の「非人間」化の嵐が吹き荒れている。そこでは、植民地支配に由来する差別感情にせっせと薪がくべられている。「中国」についてもほぼ同様と言ってよい。

それは90年代の歴史修正主義の台頭から始まったのだと思う。南京大虐殺や日本軍「慰安婦」問題など、日本の「負の歴史」とされる史実を―私たちは歴史に正負があるとは思わないが―打ち消すために、その被害者、被害国の「非人間」化が必要だったのだ。

21世紀に入ると、「非人間」化の営みは、歴史の打ち消しから、「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」という、存在の否定にまで行き着いた。しかし、「あのお婆さんたちは泣きながら訴えているが、実際には売春を強制させられたわけではない」という語りが、「くたばれ売春ババア」に行き着くのは、もともとそこに「非人間」化の論理があったからで、不思議でもなんでもない。そして、ときに「ヘイトスピーチ」に眉をしかめてみせるメディアは、毎日、毎週、「嫌韓」「嫌中」と称する「非人間」化キャンペーンを続けて、相変わらずレイシズムに栄養を与えている。

「非人間」化をすすめる勢力が恐れているのは、人々が相手を普通の人間と認めて、その声に耳を傾けることだ。そのとき、相手の「非人間」化によらなければ通用しない歴史観やイデオロギーや妄執やナルシシズムは崩壊してしまう。だからこそ彼らは、「共感」というパイプを必死にふさごうとする。人間として受け止め、考えるべき史実を、無感情な数字論争(何人死んだか)に変えてしまうのも、耳をふさぎ、共感を防ぐための手段にすぎない。

だからこそ私たちは、このブログを始めるとき、「感じる」ことを大事にしたかった。90年前の路上に確かに存在した人々のことを感じ、共感できるものにしたかった。記号としての朝鮮人や日本人ではなく、名前をもつ誰かとしての朝鮮人や中国人や日本人がそこにいたことを伝えたかったのだ。「共感」こそ、やつらが恐れるものだから。

そして、撮影に走り回り、文章をまとめていくなかで初めて気づいたのは、実は90年前の路上も、「非人間」化と共感がせめぎあう現場だったということだ。ときには同じ人間の中でそのせめぎあいがおきている。殺してしまった人々を、殺した人々が供養するのは、そういうことだろう。

私たちはとくに、宮澤菊次郎と具学永の間にあったような、小さな共感を思う。歴史問題や外交といった、一見、身近な世界からは遠くに思える次元から始まる「非人間」化が、昂じていけば、そんな誰かと誰かの共感の糸まで断ち切ってしまうことを、おぼえておきたい。

上野、両国、千歳烏山、高円寺…90年前、私たちがよく知る東京の路上が、共感と「非人間」化のせめぎあいの現場だった。結果として、数千人とも言われる人々を殺してしまった都市に、私たちは今も住んでいて、再びそのせめぎあいのなかにいる。

右翼政治家たちがけしかけ、メディアが展開する、集団ヒステリーのような「非人間」化=レイシズム・キャンペーンを、誰も疑問に思わない状況。それはどこにたどり着くのだろうか。私たちはいつまで、当たり前の共感を手放さずにいられるだろうか。90年前の9月に確かに存在した、具学永、洪其白、鄭チヨ、徳田安蔵、岩波清貞少尉、染川春彦といった人々のことを、私たちは覚えておこうと思う。



2013年10月8日
民族差別(レイシズム)への抗議行動・知らせ隊

sirasetai5595■yahoo.co.jp
(■は @ に置き換えてください)





「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」(墨田区八広6-31-8)
(碑文)
一九二三年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。/東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。/この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。
二〇〇九年九月 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会/グループ ほうせんか



お知らせ
・9月末までといいつつ、10月第1週まで続けてしまいましたが、このブログの更新は、これで終了します。
・ただし、各記事の英語/韓国語/エスペラント文については少しずつ整備し、また誤字脱字などの校正、事実説明の誤りなどについては、明記して訂正していきます。
・そのうえで当面は、このまま掲げておきますので、アーカイブとしてお読みいただければ幸いです。

追記:
ブログ開始から、10月9日午前9時までで、アクセスの回数が4万4175ビューとなりました。この1ヶ月、思いを共有して下さったみなさんにお礼申し上げます。

2013年10月5日土曜日

【東京は今も、90年前のトラウマを抱えている】

「今日の東京をみますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もはや東京の犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況で、すごく大きな災害が起きた時には大きな大きな騒じょう事件すらですね想定される、そういう現状であります。こういうことに対処するためには我々警察の力をもっても限りがある。だからこそ、そういう時に皆さん(自衛隊)に出動願って、災害の救急だけではなしに、やはり治安の維持も一つ皆さんの大きな目的として遂行していただきたいということを期待しております」(「毎日新聞」2000年4月10日付夕刊)

「東京の犯罪は凶悪化しており、全部三国人、つまり不法入国して居座っている外国人じゃないか」「(関東大震災の時に在日朝鮮人が虐殺されたことに触れ)今度は逆に不法に入国している外国人が必ず騒じょう事件を起こす」(「毎日新聞」同年4月11日付)

「騒じょう事件が起こったときに仮定して、三軍を出動して治安の対策をしてもらううんぬんと言ったのは、言うことが良いことなの。これが抑止力になるの」「中国製の覚せい剤がどんどんどんどん輸入されてきて、売るのはパキスタン人」「もっともっと大量な、そういう危険な薬物が、まさに『三国人』、外国人の手によってまん延してんだ、この日本に」「肩身の狭い、後ろめたい思いをしている外国人がいて、現に狡知にたけた犯罪をしていながらだね、つまり、なかなか手が及ばない。それが大きな災害の時、どんな形で爆発するかということを考えたら、私は知事として本当に寒心に耐えないね」「だから私は、その人間たちが大きな引き金を引いて、大きな騒じょう事件を起こす可能性があると」「とにかく国家に頼んで治安の出動を要請する。その演出をすることで、未然に防げると思ったんで、あえてそういう発言をしてきました」(「毎日新聞」同年4月14日付)

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2000年4月9日、当時の石原慎太郎都知事が陸上自衛隊第1師団の行事で隊員たちを前に語った、いわゆる「三国人発言」である。正確に言うと、上段が「三国人発言」そのもので、中段と下段は、それへの批判に対する反論、釈明として、石原都知事が会見で語った内容だ。

ここまでブログを読み進んでいただいている読者には、この発言がなぜおそろしいのかを細かく説明する必要は、もはやないだろう。当時は「三国人」という差別表現にばかり焦点があてられていたが、それは問題の矮小化である。

ここには、かつて朝鮮人虐殺を拡大させた要素のすべてがある。外国人に対する差別・偏見。その偏見に基づく風聞を信じ込む態度。それを拡散して怪しまない感覚。「治安」最優先の災害対応イメージ。軍事の論理の動員(ちなみに第1師団は、関東大震災当時の戒厳軍の主力であった)。

石原都知事在任中に東京で直下型の大地震がおきなかったことは、都民にとって本当に幸運なことだった。差別的な予見をもった男が行政のトップに立ち、地震の際には外国人が暴動を起こすから自衛隊を治安出動させろ、それが抑止力になると言っているのだ。とんでもない過ちを犯す可能性があった。

もちろん、21世紀の東京でさすがに先祖伝来の日本刀は登場しないだろう。しかし自警団は95年の阪神淡路大震災でも登場している。実際、私たちの友人のジャーナリストは深夜、被災地を移動中に泥棒と間違えられ、バットをもった自警団に取り囲まれている。それでも神戸では「犯人を捕まえようといった積極的攻撃的活動は、危険であるとして回避される傾向にあった」(『世界史としての関東大震災』)から、大事には至らなかった。

そして、阪神淡路大震災でも東日本大震災でも、外国人が悪さをしているといった類の流言は存在した。東京で大地震が起こるときも、「必ず」流されるだろう。行政が間違った対応をした場合、それが現実に跳ね返って、思わぬ形で思わぬ犠牲者を生む可能性を否定できない。

私たちが、「関東大震災時の朝鮮人虐殺は過去のことではない」と重ねて強調してきたのは、こういうリアルな話なのであって、単なる修辞ではないのだ。

防災行政に求められるのは、「エリート・パニック」に乗せられた治安対策ではなく、災害弱者である外国人などのマイノリティを支援する政策であり、差別的な流言によって彼らに被害が及ぶようなことがないようにする対応である。最低限、行政が率先して差別的な予見で動かないことだ。その大前提は、関東大震災の経験を教訓化し、決して忘れないことである。そのことは、行政だけでなく、私たちの社会そのものに求められている。

三国人発言直後、人材育成コンサルタントの辛淑玉(シン・スゴ)がこう語っている。
「東京は、関東大震災の時、朝鮮半島出身者に対する襲撃事件が現実に発生した都市である。その東京の特殊性を考慮するなら、次の震災時に備えて、無法者から外国籍住民の安全を確保する準備を考える方が健全であろう」(2000年4月13日付「毎日新聞」)。

私たちは、かつてレイシズムによって多くの隣人を虐殺した「特殊」な歴史をもつ都市に住んでいる。関東大震災の記憶は、在日の人々の間で今も悪夢として想起され続けている。そして日本人の側は、ありもしなかった「朝鮮人暴動」の鮮烈なイメージを、くりかえし意識下から引っ張り出してきた。石原「三国人発言」も、そこから生まれてきたものだ。東京は、90年まえのトラウマに今もとらわれていることを自覚しなければならない。過ちを繰り返さないために。

そういう意味で、レイシズムやその扇動は、道徳的に間違っているだけでなく、この社会にとって、火薬庫で火遊びをするほどに危険なのである。

とくに私たちの住む東京で絶対に許してはならないのが、関東大震災時に「朝鮮人暴動」が実際にあったと主張する、歴史修正主義の名にも値しないプロパガンダである。その内容は確かにお粗末だが、だからといって放置するわけにはいかない。

「関東大震災時には実際に朝鮮人暴動があり、放火やテロが行われた」と信じる人々は、東京を再び大地震が襲った時に、どのような発想をするだろうか。彼らは揺れが収まると真っ先に「外国人の暴動」を心配するだろう。思いもよらない火災の拡大を見たとき、まず「外国人の放火」を疑うだろう(実際、阪神大震災ではそうした流言が発生している)。

彼らはそうした妄想を、そのままネットに垂れ流すだろう。同じような妄想にとらわれた人が「やっぱりか」とそれをさらに拡大する。そのなかには、事実かどうかなどどうでもいい、朝鮮人をたたく絶好の機会だとはしゃぐ者もいるだろう。その先に何が起こるか。

虐殺否定論は、未来の虐殺を準備することになる。関東大震災時の朝鮮人虐殺という史実をさかさまに捻じ曲げ、「災害時には外国人・少数者に気をつけろ」という「教訓」に歪めてしまう行為を絶対に許してはならない。さらに、当時の新聞のデマ記事を「証拠」として掲げる工藤美代子の本(『関東大震災「朝鮮人虐殺の真実」』)を、ほかならぬ産経「新聞」出版が出したことの罪深さも指摘しておきたい。



【長くなりました。次回はようやく、「あとがき」です】


参考資料:関東大震災80周年記念行事実行委員会編『世界史としての関東大震災』(日本経済評論社)。
引用部分は、同書収録の田中正敬の文章中で紹介されている斉藤豊治論文「阪神大震災と犯罪問題」のもの。留意したいのは、ここで言う「危険」という言葉の意味が「エリート・パニック」の文脈の「治安」と正反対の意味で使われていること。斉藤はこれを、関東大震災の教訓が生かされたものと評価しているという。

【2005年9月、ニューオリンズの路上で】


カトリーナの直後にホルムが加わることができたバーベキューで、キーウエスト土産のティーシャツを着た、白髪が薄くなりつつあるずんぐりした白人の男性が、得意げに笑いながら言った。

「11ヵ月前には、ニューオリンズの通りを2本の38口径と散弾銃を肩に担いで歩く日が来るなんてこたあ、夢にも思っちゃいなかったがね。そりゃあ、いい気分だったぜ。まるでサウスダコダのキジ狩りシーズンだった。動いたら、撃つ」

肉付きのいい腕をしたショートヘアのたくましそうな女性が付け加えた。「もちろん、相手はキジじゃないし、ここはサウスダコダじゃないわよ。でも、それのどこが悪いの?」

男はいかにも楽しげに言った。「あのときは、そんな感じだったな」

(レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』亜紀書房)


翻訳出版されたのが東日本大震災直後というタイミングもあり(→誤り。2010年12月初版。13/12/24追記)、レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』は当時、大きな話題を呼んだ。「ニューオリンズ―コモングラウンドと殺人者」と題されたその第5章は、2005年にニューオリンズで起こった出来事を扱っている。

この年の8月末、アメリカ南部を襲ったハリケーン・カトリーナによって、ニューオリンズ全域が冠水。死者1800人以上という大惨事となった。このとき、豊かな白人たちは車などで安全な場所にいちはやく避難できたのに対して、黒人を中心とした貧しい人々は、水浸しの市内に取り残されていた。彼らはインフラが破壊された巨大施設に避難して、いっこうにやって来ない救援を待っていた。浸水に体力を奪われた老人たちがむなしく死んでいくなかで、ふだんギャングスタイルで往来を歩いていた若者たちは、弱い人々の命を守るために必死で奔走していた。

きっかけは、一部の地域でおきた商店からの「略奪」をテレビが恐ろしげに取り上げたことだった。しかしそれは、孤立した地域で生き延びるのに必要な食料や水、寝具を無人のスーパーマーケットから調達している光景にすぎなかった。これを「略奪」と呼ぶ歪みは、黒人へのレイシズムの視線に発している。

だがこの映像から、被災地周辺に流言が広がっていく。市内では強盗が横行している、避難所はギャングに支配されており、殺人やレイプが頻発している、人肉を食っている者もいるらしい、と。そして最悪なことに、市長など、行政のトップの地位にある人々がこれを事実であるかのように宣伝し始めたのだ。ある警察署長はテレビで泣きながら「避難所では赤ん坊までがレイプされている」と訴えたという。こうした行政の発信がGOサインとなり、メディアも「無法地帯ニューオリンズ」といった構図の報道を繰り返す。CNNさえその例外ではなかった。

その結果、レイシズムと結合した「治安回復」が暴走していったのである。救援目的で投入されたはずの州兵部隊は、自動小銃で身を固め、装甲車で街をパトロールし始める。イラク帰りの彼らに加え、ファルージャ掃討戦の引き金を引いたことで悪名高いあの民間軍事会社までが乗り込んできた。「貧しい黒人が人々を襲うだろう、または襲っている、ニューオリンズは獣性の渦巻く大混乱に陥っているという思い込みが、政府の対応とメディアの報道を方向づけていた。そして、そのせいで市民は自警団を結成した」。

豊かな白人たちが結成した自警団は、通りを行く非白人に無差別に銃撃を加えた。地元の若い医師が証言している。「ある人は『おれたちで7人の人間を撃ち殺した』と言い、『殺したのは5人だよ。あとの2人がどうなったかはわからない』と言う人もいれば、『4人と3人だ』という人もいました」「(殺してしまったのは)たぶん保安官がばらまいた噂のせいでしょうね」。警官もまた、自警団同様に殺人に手を染めた。当局から防弾チョッキと銃を渡され、「ニガーを撃ってこい」と命じられた人の話も出てくる。殺された人は全体で数十人にのぼると見られるようだ。

ソルニットは怒りを込めて書く。「確かにメディアが執拗に書き立てた殺人集団は存在した。ただし、それは白人の老人たちであり、その公道での行動は明るみには出なかった」と。

背筋が寒くなる。これは、私たちがこの間見てきた90年まえの東京の光景とまったく同じである。実際に読んでいただくとわかるが、出来事の詳細なディティールのひとつひとつ、証言のひとつひとつが、まるでコピーのように、私たちの知る9月の光景とそっくりなのである。

「災害ユートピア」とは、自然災害の現場で人々がおのずと作り出す相互扶助の空間のことを指しているが、その反対に、災害現場に行政が持ち込む人災として、ソルニットは「エリート・パニック」という概念を紹介する。災害時の公権力の無力化に対して、これを自分たちの支配の正統性への挑戦ととらえる行政エリートたちが起こす恐慌である。その中身として挙げられているのは「社会的混乱に対する恐怖、貧乏人やマイノリティや移民に対する恐怖、火事場泥棒や窃盗に対する強迫観念、すぐに致死的手段に訴える性向、噂をもとに起こすアクション」だ。

ここから見えるのは、ある種の行政エリートの脳裏にある「治安」という概念が、必ずしも人々の生命と健康を守ることを意味しないということである。それどころか、マイノリティや移民の生命や健康など、最初から員数に入っていないということである。

ニューオリンズのある地域には、被害の深刻な一帯と安全な郊外を結ぶ橋があった。ここをわたって避難しようとした市内の人々、赤ん坊を抱いた母親、松葉杖の老人などを含む人々は、保安官たちの威嚇射撃によってけちらされたという。後にこの命令を非難された警察署長はこう語っている。「あの決断について、あとからあれこれ説明する気はありません。正しい理由のもとに下した決断だったという自信がありますから。良心の呵責など微塵もなしに、毎晩、眠りについています」。

この言葉は、彼らにとっての「治安」が何であるかを物語っているが、私たちはこれを読んで、1923年に日本のエリートたちが残したいくつかの言葉を思い出す。

「流言蜚語、其ものは少しも害にならなかったものを伝播したのではなくして、此注意は当時にあって、甚だ必要なるものでありしと云ふことも疑なきことであります」(後藤新平内相〔震災直後に水野錬太郎から引き継いで就任した〕。姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』)

「アノ当時の状態としてアレ丈の事に気づいたのは寧ろよい事をしたとさへ思っている」(埼玉県内務部長。山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』)

暴動はデマだったし、いくらかの朝鮮人が死んだかもしれないが、万が一に備えて「治安」を守ろうとした結果だから仕方ないだろう、と言うわけだ。朝鮮人の生命は最初から「治安」のなかに含まれていないから、こうした論理が出てくる。

そして、彼らとまったく同質の言葉を公然と語った行政エリートが、現代の日本にもいた。その言葉を最後に置いて、次の記事に進もうと思う。

「騒じょう事件が起こったときに仮定して、三軍を出動して治安の対策をしてもらううんぬんと言ったのは、言うことが良いことなの。これが抑止力になるの」。

2012年まで13年間、東京都知事を務めた石原慎太郎の発言である。



参考資料:レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』亜紀書房、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)

2013年10月4日金曜日

【無所属の人・田渕豊吉と「他日の答え」】


私は内閣諸公が最も人道上悲しむべき所の大事件を一言半句も此神聖なる議会に報告しないで、又神聖なるべき筈(はず)の諸君が一言半句も此点に付て述べられないのは、非常なる憤激と悲みを有する者であります。それは何であるかと言へば、朝鮮人殺傷事件であります。(中略)

千人以上の人が殺された大事件を不問に附して宜(よろし)いのであるか。朝鮮人であるから宜いと云ふ考を持つて居るのであるか。吾々(われわれ)は悪い事をした場合には、謝罪すると云ふことは、人間の礼儀でなければならぬと思ふ。(中略)

日本国民として吾々は之に向つて相当朝鮮人に対する陳謝をするとか、或は物質的の援助をなするとかしなければ、吾々は気が済まぬやうに私は考へるのである(拍手)(中略)

被害者の遺族の救済と云ふことも講じなければならぬ。各国に向つて(震災支援に対する)謝電を送り、外国に向つて先日吾々議院が謝意を表明する前に、先づ朝鮮人に謝するのが事の順序ではなからうか。

1923年12月14日 田渕豊吉衆議院議員による国会質問(『朝鮮人虐殺関連官庁史料』)



田渕豊吉は1882年、和歌山県御坊市生まれ。早稲田大学卒業後、ヨーロッパ各地で政治や哲学を学んだ。1920年に初当選して衆議院議員となるが、政党の勧誘を拒否して生涯、無所属を貫いた。「タトイ一人でも言いたい事を云ってノケル」(『警世の人 田渕豊吉伝』)ためである。リベラリズムの立場からの巧みな質問と鋭い野次によって、彼はすぐに名物議員となった。一方でユーモラスな奇行も多く、マスコミは彼を「田渕仙人」と親しみを込めて呼んだ。

1923年12月14日。この日、彼の質問の趣旨は震災復興関連であった。後半、朝鮮人虐殺問題に話が進んでいくと、議場は静まり返ったという。それでも、そのまっすぐな訴えは、議員たちの心にも響いたようだ。先の引用部分も含め、何度か拍手さえ沸き起こった。漫画家の岡本一平(岡本太郎の父)は、新聞紙上で、この日の田渕の姿を「自由自在、無所属なるかな。舌端、巧みを弄するに似たれど、一条の真摯、満場の腹中に通ずるものあって存す、故に弥次の妨害を蒙らず」と描写する。岡本はまた、「震後、別人の感あり」とも言う。震災前とは別人のようだと。「非常なる憤激と悲しみ」が、彼に異様な気迫を与えていた。

だが、これに対する山本権兵衛首相の答弁は、木で鼻をくくったような、という言葉そのものだった。

「只今田淵君より熱心にして且つ高遠なる諸方面に対しての御意見、且又質問もあつたことでございます。右に対しましては相当に御答えするの必要を認めておりますが、何にせよ、随分多岐に亙(わた)つておりますから尚(な)ほ熟考の上他日御答を致すことと御承知を願つています」

熟考して、あとでお答えします(他日御答を致す)、というのだ。

翌15日には、田渕の早稲田大学時代からの盟友・永井龍太郎が、やはり政府の責任を問う質問を行って二の矢を放つ。先日紹介した、内務省警保局の「不逞鮮人」通牒は、このときに永井によって暴露されたものだ。だがこれに対しても、政府は何も答えなかった。

しかし田渕はあきらめなかった。同月23日の議会最終日、「他日の答え」はどうなったのかと議長席に登って問い詰め、大もめする。これが尾を引いて、後に懲戒も受けた。

左は自由法曹団の布施達治から、右は天皇至上主義の憲法学者、上杉慎吉まで、社会の各方面から、自警団は起訴しつつも警察や軍の責任は問おうとしない政府への批判の声が上がっていた。だが当局は、これにきちんと向き合うのではなく、むしろ自警団の処罰を緩めることでバランスをとった。たとえば、最大で80人が殺されたと見られるあの熊谷の事件で、実刑に服したのはたったの1人。しかも懲役2年であった。

田渕の求めた「他日の答え」は、そのまま棚上げとなった。

田渕はその後も、議場を騒然とさせた張作霖爆殺事件(28年)の際の真相暴露演説をはじめ、政府も野党も真っ青にさせる鋭い質問を放ち続けた。だが満州事変(31年)の翌年には、議院法の改正によって無所属の彼は質問の機会さえ事実上奪われてしまう。すると彼は、もっぱら野次を武器に闘いを続けた。41年には東条英機に「(対米)戦争、やったらあきまへんで」と警告し、東条に追従する議員たちに「そんなことで日本が救えるか!」と怒鳴った。退場を命じられるのは毎度のことだった。しかし、42年の選挙は大政翼賛会が相手とあって衆寡敵せず、無所属の彼は落選。その翌年、60歳の若さで亡くなった。

歴史学者の小山仁示は田渕について「自分の発言が速記録に記されることで永遠の生命をもつことにすべてを託した」のだと評している。政争を通じて政治を変えることを断念し、その代わりに、政治の場に、正しくまっとうな「言葉」を撃ち込むこと。それが彼にとっての「無所属」の意味だったのだろう。異形の代議士であるが、そんな彼がいたことで、私たちの民主主義は、1923年12月14日の「言葉」を速記録上の財産としてもつことができたのだ。

政府に「他日の答え」を求める動きはしかし、決して終わらなかった。90年後の2003年、日弁連が、朝鮮人虐殺の最後の生き証人と言われた文戊仙(ムン・ムソン)さんの申し立てを受理し、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺に対する国家責任を認め、謝罪と、事件の真相究明を求める人権救済勧告を出したのである。その後も、研究者の姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)や山田昭次(立教大学名誉教授)らが共同代表となって、「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」という運動も始まっている。

田渕の無所属の言葉は、90年後の今も、アクチュアルなままだ。



参考資料:

琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連関連官庁史料』(緑蔭書房)、山本亨介『警世の人 田渕豊吉伝』(詩画工房)、小山仁示「権勢に抗した田淵豊吉代議士」(『月刊ヒューマンライツ』2003年8月号)、同「権勢に抗した田淵豊吉代議士Ⅱ」(同12月号)

日弁連「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」
ごく短い文章だが、非常に手堅い検証を踏んで、虐殺に対する国の責任を明らかにしており、この問題に関心がある方にはお勧めである。

「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」は、衆参両院議長と内閣総理大臣宛てに「関東大震災時の朝鮮人虐殺の真相究明を求める請願」という署名を集めている。事件の実態調査や資料の開示・保存などを求める内容である。公式サイトらしきものは見当たらないが、署名についての問い合わせ先は、こちらで確認できる。

月刊イオ「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会 第7回学習会」

2013年10月3日木曜日

【俯瞰的な視点② いったい何人が殺されたのか】

いったい何人が殺されたのか。

これについては「正確なことはわからない」というのが研究者の一致した見解のようだ。当時、政府は虐殺の全貌を調査しようとせず、むしろ「『遺骨ハ内鮮人判明セザル様処置』し『起訴セラレタル事件ニシテ鮮人ニ被害アルモノハ速ニ其ノ遺骨ヲ不明ノ程度ニ始末』する方針」(『震災と治安秩序構想』)を打ち出すなど、事件の矮小化、ごまかしに努めたからである。

朝鮮人殺害によって起訴された事件はたった53件で、その被害死者数をカウントすると233人(司法省まとめ。内務省では231人)になる。だが言うまでもなく、この233人は、立件された事件のなかの被害者総数にすぎず、虐殺された人の総数とは言えない。

さらに政府は、刑事事件として立件するものをあらかじめ「顕著なるもののみに限定」する方針だった(「臨時震災救護事務局警備打合せ/大正12年9月11日決定事項」。『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)。理由は「情状酌量すべき点少なからざる」(同)からだという。あまり逮捕者を増やすと矛先が警察や軍の責任追及へと向かうことになるのを恐れたというのが本音だろう。実際、そういう声があがったことで、起訴された人々の最終的な量刑も非常に甘くなった。

その「限定」に当たっても、「警察権に反抗の実ある」(同)事件がもっとも重視された。朝鮮人殺害そのものよりも、警察に反抗して治安を乱したほうが重要だったわけである。その結果、埼玉や群馬で起きたような、警察署を襲って朝鮮人を殺した事件が大きな存在感を占める一方で、虐殺証言が多かった横浜市では2人の死についてしか事件化されていないという具合になる。

あれだけ多くの目撃証言がある四ッ木橋周辺でも、最大で10人の死についてしか立件されていない。9月5日の羅漢寺(西大島駅)での殺害は、記事でとりあげた渡辺政雄さんの証言だけでなく「黒龍会」(有力な右翼結社)の調査にも登場するが、やはり立件されていない。暴行の怪我がもとで収容所で亡くなった人も、収容所から引き出されて殺され、98年に遺骨が発掘された高津の6人も、このなかには数えられていない。もちろん軍の「適正な」武器使用の犠牲者も入っていない。「233人」とは、そういう数字にすぎないのだ。

姜徳相は、『関東大震災・虐殺の記憶』のなかで、よく知られている朝鮮独立派の「独立新聞」調査による「6661人」という数字のほかに、同じ調査団の途中までの調査に基づく吉野作造の「2613人」、黒龍会の調査に基づく「東京府のみで722人」、新聞報道に表れている死者数を合計した「1464人」の数字を示している。これらはもちろん、目安として参考にする以上の正確さは期待できないだろう。

身元がわからないように遺体や遺骨を処分したり、「なるべく限定しよう」という方針の下で立件された事件の被害者総数が233人であること。10万人が地震と火災で亡くなり、避難民が大移動している状況では、「限定」の意図以前に、警察が認識できてもいない事件が多数あったと想像されること。また、子どもの作文に殺人の話が出てきても誰もあやしまない(そのまま東京市の震災記念文集に収録されたりしている)ほど多くの目撃証言があり、そのなかには信頼度の高いものも少なくないことを思えば、実際に殺された朝鮮人の数は3ケタ4ケタ(1000~数千人)にのぼると考えて不自然ではない―私たちにはそのように思える。

中国人殺害については、東大島で殺された人に各地で朝鮮人に間違われて殺された人を加えると、200数十人~750人の間と推定されている(日弁連「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」)。


参考資料:宮地忠彦『震災と治安秩序構想』(クレイン)、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、日弁連「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」(http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html)

修正情報:2013年10月10日午前11時、最後から2つ目の段落で1箇所、修正しました。誤字です。

【俯瞰的な視点① 虐殺はなぜ起こったのか】

「遅くとも9月末には更新を終了する」と大見得を切って始めたこのブログですが、10月に入ってしまいました。4日(金)までには終了させますので、今しばらくお付き合いください。

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この1ヶ月、私たちは、90年まえの9月に起こったことを、東京を中心に様々な現場でみてきた。このブログの目的は、俯瞰的な解説をすることよりも、当時の朝鮮人や日本人、そして中国人が見たもの、経験したものを、その現場で目撃し、読者のみなさんと共有していくことにあったからだ。

とはいえ、多くの人の心中には、疑問が残るのではないだろうか。いったいどうしてこんなことが起きてしまったのか。だが、歴史学者でもない私たちには、自信をもって俯瞰的な説明をする能力はない。

それでも、朝鮮人虐殺について研究してきた人々の言葉を読んできたなかで素人なりに理解したことを、簡単に書いておこうと思う。とはいえ、こうしたまとめ方は不得手な私たちであるから、足りない部分もあるかと思う。よりくわしく正確に知りたい人は、これまで紹介してきた書籍に直接あたっていただければ幸いである。





「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れている」といった流言が、どこでなぜ発生したのか。これについては、はっきりしたことは言えないようだ。震災直後の流言は朝鮮人についてのものだけに限らなかった。「今日の午後3時に再び地震が、あるいは津波が来る」「地震は某国が人工的に引き起こしたものだ」「富士山も噴火する」など、さまざまだった。攻めてくるのも、朝鮮人ではなくて「大本教信者」というバージョンもあった。

それでも、もっとも猛威を振るったのはやはり朝鮮人暴動の流言だった。突然の地震と火事ですべてを失った人々の驚き、恐怖、怒りをぶつける対象として、朝鮮人が選ばれたのだろうか。先に紹介した、児童の作文を集めた『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』のなかに、焼け焦げた橋のうえで刃物をもって立ち、通行人を誰彼かまわず詰問する男の話が出てくる。「俺の子どもを連れ去ったのはお前だろう!子どもを返せ!」と男は叫ぶのである。

だがそうした感情をぶつける対象として朝鮮人が選ばれたのは、決してたまたまのことではない。その背景には、植民地支配に由来する朝鮮人蔑視があり(上野公園の銀行員を想起してほしい)、4年前の三一独立運動以降の、いつか復讐されるではないかという恐怖心や罪悪感があった。そうした感情が差別意識を作り出し、目の前の朝鮮人を「非人間」化してしまう。過剰な防衛意識に発した暴力は、「非人間」に対するサディスティックな暴力へと肥大化していく。

しかし、庶民の差別意識だけでは、惨事はあそこまで拡大しなかった。事態を拡大させ、深刻化させたのは治安行政・警察であり、軍である。水野錬太郎内相を頂点として治安にかかわる人々は、地震と火災によって東京が壊滅的な被害を受ける様を目前にしたとき、まっさきに反政府暴動を警戒するという発想に陥ってしまった。さらに彼らは、独立運動を取り締まる者として、普通の庶民以上に朝鮮人への差別意識と強い敵意をもっていた。

だからこそ、朝鮮人暴動の流言に接したとき、警官や官僚の一部は「さもありなん」と考えて疑わずに拡散してしまったのである。震災初日にはメガフォンを口に当てて「朝鮮人襲来」を宣伝して回る警官たちが現われる。これらは現場の勝手な判断だろう。しかし翌日には、警視庁中枢さえも流言を「現実」と受け止めてしまう。

「急ぎ帰りますれば警視庁前はすでに物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。(中略)しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうち、ようやく夜の10時頃に至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。(中略)警視庁当局として誠に面目なき次第でありますが(後略)」(正力松太郎『米騒動や大震災の思い出』読売新聞社冊子 1944年2月刊。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)。

後に読売新聞の中興の祖となる正力松太郎は当時、警視庁官房主事という、警視総監に次ぐ地位にあったが、少なくとも9月2日の1日間は、流言を信じて行動していたのである。正力よりもっと上位である内務省警保局の後藤文夫局長も「不逞鮮人が各地で放火しているので厳しく取り締まってほしい」という趣旨の通牒を各県知事に発している。それが、たとえば埼玉県では熊谷市や寄居町などでの凶行に帰結した。妄想は中枢から現場へと還流していったのだ。

右翼の憲法学者として高名な上杉慎吉は、「関東全体を挙げて動乱の状況を呈するに至ったのは、主として警察官憲が自動車ポスター口達者の主張による大袈裟なる宣伝に由れることは、市民を挙げて目撃体験せる疑うべからざる事実である」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)と書いている。要するに警察は、流言にお墨付きを与えて拡散し、自警団による虐殺を後押ししてしまったのである。これによって、朝鮮人迫害は一部の地域から関東全域へと広がってしまう。

さらに、戒厳令によって強大な権限を与えられた軍も、同様に迫害を後押しする役割を果たす。王希天の記事のなかで紹介した「久保野日記」には、「軍隊が到着するや在郷軍人等非常なものだ。鮮人と見るやものも云わず、大道であろうが何処であろうが斬殺してしまうた。そして川に投げこんでしまう。余等見たのばかりで、20人一かたまり、4人、8人、皆地方人(民間人)に斬殺されてしまっていた」という一節がある。ものものしく武装した軍の登場は、戦争が本当に起こっていることを人々に確信させたのだ。

軍の場合、それだけではすまなかった。司令部の意図はともかく、現場の軍部隊には朝鮮人を敵として戦争をしているかのような雰囲気があり、実際に多くの朝鮮人が虐殺された。当時の軍は、三一運動を弾圧し、シベリア出兵では村を焼き払うような対ゲリラ戦を経験している(シベリア出兵帰りは自警団の中核をなす在郷軍人にも多かった)。イラクやアフガンでの米軍の行動を思い出してほしい。こうした軍事の論理がそのまま東京に持ち込まれたのだ。

軍が殺害した人数は、公式の記録では朝鮮人57~60人、中国人200人(東大島の件。軍は朝鮮人だとしている)、日本人23~25人(『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』)。このなかには、「9月3日午後4時 永代橋付近」の記事で取り上げた事例も含まれている。軍はこれらについてすべて適正な武器使用だったとしているが、状況説明記録を読んでも、とてもそうは思えない。また、これらの記録に入っていない虐殺の証言も多数あり、公式記録に残っているのは軍による殺害の一部にすぎないと思われる。

陸軍少将でもある津野田是重代議士は当時、「戒厳部当局は当時あたかも敵国が国内にでも乱入した場合のようなやりかたをしたのではなかったろうか」と軍の行動を批判した(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。

関東大震災時の朝鮮人虐殺は、普通の人々の間に根ざした差別意識に始まり、避難民の群れを見て真っ先に暴動の心配をするような治安優先の発想(と庶民以上の差別意識)をもつ行政が拡大させ、さらにこれに、朝鮮やシベリアで弾圧や対ゲリラ戦を戦ってきた軍が「軍事の論理」を加えることで、一層深刻化したということが言えそうである。



参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』、山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(創史社)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』(緑蔭書房)

2013年9月30日月曜日

【75年後に掘り出された遺骨 習志野収容所で殺された人々】

八日 太左エ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰(もら)ふにする 小石川に二斗 本郷に二斗 麻布に二斗 朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く 九時頃に至り二人貰ってくる 都合五人 (ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて仕舞ふ 皆労(つか)れたらしく皆其此(そこ)に寝て居る 夜になるとまた各持場の警戒線に付く。

(姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』)



千葉県八千代市高津地区のある住民が残した日記である。1923年9月8日、村人が朝鮮人を斬殺した日のことを記している。この犠牲者たちは、ほかの事例のように自警団の検問にひっかかったのではない。軍によって習志野収容所で「保護」されていたはずの人々である。軍はひそかに、高津、大和田、大和田新田、萱田など、収容所周辺の村の人々に朝鮮人の殺害を行わせていたのだ。

すでに書いたように、9月4日、戒厳司令部では東京附近の朝鮮人を習志野の捕虜収容所などいくつかの施設に収容し「保護」する方針を決定した。これ以上、自警団による殺害が続けば、国際的な非難も受けるであろうし、日本の朝鮮支配にも悪い影響を与えることを恐れたのだ。

自警団ではなく、何の落ち度もない被害者である朝鮮人の自由を拘束するのは、明らかに不当である。それでも、これによって暴徒化した群衆からは守られることだけは確かなはずであった。現に、前回の記事で紹介した鄭チヨさんの一家、あるいは丸山集落の「福田」さん、「木下」さんは、その後無事に帰って来ている。最大で3200人の朝鮮人を収容した習志野収容所は、およそ2ヵ月後の10月末に閉鎖された。

ところがその間、収容所では不可解なことが起きていた。船橋警察署巡査部長として、習志野収容所への護送者や収容人員について毎日、記録していた渡辺良雄さんは、「1日に2人か3人ぐらいづつ足りなくなる」ことに気がつく。収容所附近の駐在を問いただしたところ、どうも軍が地元の自警団に殺させているのではないかという。

収容される側にいた申鴻湜(シン・ホンジェ)さん(当時18歳・学生)もまた、腑に落ちない体験をしていた。収容所内で朝鮮人の自治活動を組織していたのだが、仲間が拡声器で呼ばれて、そのまま帰って来ないということが繰り返されたのである。軍人に聞くと、「昔の知り合いが訪ねてきた」「親戚が来た」などと言う。だが何のあいさつもないのは妙だ。申さんは疑問を残したまま、収容所を後にすることになった。

軍が近所の村の人々に朝鮮人を殺害させていた事実が明らかになるのは、戦後のことである。研究者の姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)によれば、収容者と釈放累計の間に約300人のずれがあるという。収容前の負傷によって死亡した人も多いと見られるが、この幅のなかに、恐らくはこうして殺害された人々がいる。姜は、「思想的に問題がある」と目された者が選び出されて殺されたのではないかと推測する。

殺害を行った村人の当時の心情は、残された記録や証言だけではつかみかねる。しかしその後、彼らは盆や彼岸には現場に線香を上げ、だんごを供えるなどして供養していたようだ。上の日記で殺害の現場として出てくる「なぎの原」には、いつの頃か、ひそかに卒塔婆が立てられた。

高津の古老たちが重い口を開くのは、1970年代後半のことである。きっかけは、習志野市の中学校の郷土史クラブの子どもたちによる聞き取り調査であった。聞き取りに訪れた子どもたちに、古老たちは当時のことを証言し始めたのだ。冒頭の日記も、中学生が当時のことを調べていると知った住民が「子どもたちには村の歴史を正しく伝えたい」と学校に持ち込んだものである。

同じ時期、船橋市を中心に朝鮮人虐殺の歴史を掘り起こす市民グループも結成され、その働きかけもあって、1982年9月23日、高津区民一同による大施餓鬼会(せがきえ)が行われる。なぎの原には、同地区の観音寺住職の手になる新しい卒塔婆が立った。そこには「一切我今皆懺悔」の文字が入っていた。

98年9月、高津区の総会は、「子や孫の代までこの問題を残してはならない」として、地区で積み立ててきた数百万円を使って現場を発掘することを決断する。親や祖父母たちの行ったあやまちを認めることは決して簡単なことではない。観音寺住職らの粘り強い説得が受け入れられた結果だった。

警官立会いの下、8時間にわたってショベルで掘り進めると、果たして6人の遺骨があらわれた。検視の結果、死後数十年が経っており、当時のものと確認された。翌月、遺骨は観音寺に納められ、翌99年には境内に慰霊碑が建立される。同年1月12日付けの朝日新聞は「心の中では、きちんと供養すべきだとみんな思っていた。時代が流れ、先人たちの行動よりも、軍に逆らえなかった当時の異常さが問題だった、と考え方が変わってきた」という古老の言葉を伝えている。



参考資料:千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、朝日新聞99年1月12日付、沖縄タイムス03年6月13日付など。

【子どもたちの見た朝鮮人虐殺】

「ウチノ山ニ○○○○○ジンガスコシスンデヰマシタガ 七十七バンチノセイネンダンガキテ ソノ○○○○○ジンヲコロシテシマイマシタ」(本郷区尋常小学校1年男児)

「お父さんは○○○○人をころすので私やお母さんや、おばあちゃんや、よね子や、とみ子などはお父さんにわかれました」(深川区同2年女児)

「朝鮮人がころされているといふので私わ行ちゃんと二人で見にいった。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによってみた。すると頭わはれて血みどりになってしゃつわ血でそまっていた。皆んなわ竹の棒で頭をつついて『にくらしいやつだこいつがいうべあばれたやつだ』とさもにくにくしげにつばきをひきかけていってしまった」(横浜市高等小学校1年【現在の中学1年】女児)

「夜は又朝鮮人のさはぎなので驚ろきました私らは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました。それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがって居ました」(同1年女児)

「三日になると朝鮮人騒となって皆竹やりを持たり刀を持たりしてあるき廻ってた。其をして朝鮮人を見るとすぐ殺しので大騒になった。其れで朝鮮人が殺されて川へ流れてくる様を見ると、きびの悪いほどである」(同1年男児)

「オソロシイ朝鮮人ノサハギ世間一パン武器ヲツカイ朝鮮人トタタカイ、マルデ戦国時代ノヨウデアル。朝鮮人ノ死体マルデ石ガコロガツテイルヨウデアル」(横浜市尋常小学校6年男児)

「朝起きてみると、近所の子供が『朝鮮人が交番にしばられているから、見にいかないか』と大きな声で言っていました。君江さんは、私に『見にいかないか』といったので、私はいやともいえないので、じゃあゆきましよう。いって見ると、朝鮮人は電信にいわいつけられて、真青な顔をしていました。よその人は、『こいつにくたらしい人だといって』竹棒で頭をぶったので、朝鮮人はぐったりと、下へ頭をさげてしまいました。わきにいた人は、ぶってばかりいてはいけない。ちゃんと、わけをきいてからでなければいけないと言っていました。朝鮮人は頭を上げながら、かく物をくれと、手まねきしていました。君江さんはもうかえらないかといわれたので、じゃあ帰りましょう、といいながら(後略)」(同高等小学校1年女児)




以上は、震災から半年から1年後に書かれた、子どもの作文の一部である。

琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』(緑蔭書房)は、震災経験を書いた当時の児童の作文のうち、朝鮮人虐殺にふれているものを集めた大部な本だ。原文では学校や児童の名前が入っているが、ここでは省いた。

読み進むと、これまでに読んだ様々な証言以上に、こちらの心が重くなってくる。

ひとつには、あまりにも大量に、造作なく、「死んでいました」「殺してしまいました」といった描写が子どもの作文中に出てくることの衝撃と嫌悪。

もうひとつには、これほどたくさんの子どもたちが無造作に書くほどに、当時、朝鮮人の殺害が珍しくなかった事実を突きつけられること。普通、子どもが学校で「お父さんは人殺しに行きました」と作文に書いたら周囲は騒然となるはずである。学校は警察に相談するだろう。

三つ目は、そこに朝鮮人への同情や虐殺への疑問がうかがえる表現がほとんどないことだ。そうしたなかで、編者の琴秉洞(クム・ピョンドン)が唯一、「救われたような気持ちになった」と記すのは、横浜市寿小学校の高等小学校1年、榊原八重子さんの作文である。長いので、ここでは結びだけ紹介する。

「うむうむとうなっているのは、五、六人の人が木にゆわかれ、顔なぞはめちゃくちゃで目も口もなく、ただ胸のあたりがびくびくと動いているだけであった。/私はいくら朝鮮人が悪い事をしたというが、なんだかしんじようと思ってもしんじる事はできなかった。其の日けいさつのにわでうめいていた人は今何地(どこ)にいるのであろうか」

彼女がこの光景を目撃したのは明け方のことである。その数時間前、彼女の家族のそばに1人の朝鮮人が逃げてきて、助けを求めた。「私朝鮮人あります。らんぼうしません」と彼は訴え、何度も頭を下げた。追っ手に捕まり、連れて行かれる姿を見送ったあと、彼女は一睡もできずに明け方を迎え、警察署前を通りかかったのである。琴秉洞は「なろうことなら、大人たちにこの八重子さんの聡明さと優しさの何分の一かが欲しかった」と嘆じる。

最後にもうひとつ、児童の作文を名前入りで紹介する。深川区霊岸尋常小学校3年生。
彼女の名前は「鄭チヨ」である。



こまつた事/鄭チヨ

(前略)もうここまでは(火が)こないと安心して、その晩は外でねました。あくる日の朝どての所へこやをこしらへてゐると、あつちこつちから丸太を持つた人が来ておとうさんや家にいたしょくにんたちをしばつてけいさつにゆきました。そしてあしたかへしてやるといつてなかなかかへしてくれませんでした。そのばんはお母さんとにげる時、ひろつた赤ちゃんと、家にいた男の子と私と四人でさびしがつてゐました。

すると又しらない男の人が小屋の中にはいつて来て、お前等は○○の女ではないかといひました。お母さんがさうですといひましたら、きさまらころすぞといひました。そしておこりました。私はしんぱいでなき乍(なが)らなんべんもあやまりました。そんなら女の事だからゆるしてやるといつて行きました。よろこんでけいさつにいつてお父さんのいつているならしの(習志野)といふ処へつれていつてもらいました。

お父さんはみんなは死んだと思つてゐましたから、大へんよろこびました。それからみんな東京へ送つてもらいました。



「なき乍らなんべんもあやまりました」の部分に言い知れない胸苦しさを感じる。
彼女にそんなことをさせてはいけなかったのだ。



(9月30日15時加筆)

【諸君、こいつは朝鮮人だぞ  文学者が見た朝鮮人虐殺/江口渙】

屋根と云う屋根は無論の事、連結機の上から機関車の罐(かま)の周囲にまでも、ちょうど、芋虫にたかった蟻のように、べた一面、東京からの避難民を乗せた私たちの列車が、赤羽の鉄橋を北へ渡ったのは、九月八日の午後六時すぎででもあったろうか。
汽車の中は、地震の噂、火事の噂、朝鮮人、社会主義者の噂でもっていっぱいだった。(中略)

汽車が荒川の鉄橋をほとんど渡ろうとした時だった。みんなの話しに耳を貸しながらぼんやり外を眺めていた私は、一丁足らずの上流を、岸に近く、何か白い細長いものが流れて来るのに気がついた。多量に水蒸気を含んで鈍く煙った雨上がりの薄暮と、うす濁りのしている河水のために、最初はその白いものが何であるか、少しも見当がつかなかった。

然し、畦(あぜ)の草叢(くさむら)の上を一群の人々が、その白いものを追い駈けるらしくぞろぞろやって来るのを見た時、ことにみんな手に手に竹槍や鳶口(とびくち)らしいものを持っているうえに、白いものに向かってしきりと石を投げつけているのを見た時、それが何であるかを私ははじめて知った。

「あれは何です」
傍(かたわら)に立っていた若い男がこう私にきいた。
「どうも死骸のようですね」
「きっと鮮人でしょうね。それとも主義者かしら」
「さあ。どっちですかね」

重そうに流れて来る白い細長いものと、投げられた小石がその周囲にしきりにあげる飛沫に眼をやりながら、私は押し潰されるような気持ちでもってこう答えた。そして、さらに息をころしてなおもそれらのものを見詰めた。

「やあ鮮人。鮮人」
「何。鮮人だ。どこに。どこに」
「あれを見ろよ。あれを」

こんな叫びがあっちこっちに起こったと思うと、車内はたちまち物狂わしい鯨波(とき)の声でみたされてしまった。そして、一度に総立ちになったみんなは、互いに肩や頭を押しのけてまでも、ひたすら上流の河面を見ようとさえ焦った。

やがて汽車が鉄橋を渡り終わってそれらのすべてが視界から消えさった時になっても、人々の動揺は鎮まらなかった。そして鮮人と主義者との噂がなおさら盛んに話されたのは云うまでもない。

それから二十分ほどたったのちだった。私から三側後の座席で突然喧嘩(けんか)が始まった。三十四、五歳のカアキ一服を着た在郷軍人らしい男と、四十前後の眼鏡をかけて麦藁(むぎわら)帽子をかぶった商人かとも思われる男とである。(中略)
喧嘩はしばらく続いていた。すると在郷軍人らしい方が、片手を網棚にかけて、突然座席へ突っ立ち上がった。

「諸君、こいつは鮮人だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」
こう叫ぶと片手で相手を指差しながら、四角い顎(あご)を突出して昂然と車中を見渡したと思うと、いきなり足を揚げて頭を蹴った。この場合、鮮人と云う言葉が車中にどんなショックを与えたかは、私が説くまでもない。車内はたちまち総立ちになった。呻(うめ)くような怒声と罵声が一面あたりに迸(ほとばし)って、血の出るような興奮がみるみる不気味な渦を巻き起こす中で、みんなの身体は怖ろしい勢いで波を打った。

「おら鮮人だねえ。鮮人だねえ」
押し合いへし合い、折重なって詰め寄った人間の渦の下から、時どき脅えきったその男の声が聞こえた。しかも相手がおろおろすればするほど、みんなの疑いを増し昂奮を烈しくするばかりだった。

やがて次の駅についた時、その男はホームを固めていた消防隊と青年団と在郷軍人団とに引渡された。そして、手といわず襟(えり)と云わずしゃにむに掴(つか)まれて真逆さまに窓から外へ引摺(ず)り出されたと思うと、いつか物凄いほど鉄拳の雨を浴びた。

「おい。そんな事よせ。よせ日本人だ。日本人だ」
私は思わず窓から首を出してこう叫んだ。側にいた二三人の人もやはり同じような事を怒鳴った。しかしホームの人波はそんなものに耳を貸さない。怒号と叫喚との渦の中にその男を包んだまま、雪崩(なだれ)を打って改札口の方へ動いて行った。そして、いつの間にか鳶口や梶棒がそっちこっちに閃(ひらめ)いたと思うと、帽子を奪われ眼鏡を取られたその男の横顔から赤々と血の流れたのを、私は電燈の光ではっきりと見た。

こうして人の雪崩にもまれながら改札口の彼方にきえて行ったその日本人の後姿をいまだに忘れる事はできない。(中略)そして無防禦(むぼうぎょ)の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにはいかなかった。ことに、その愚昧(ぐまい)と卑劣と無節制とに対して。

(江口渙「車中の出来事」、『関東大震災と朝鮮人虐殺』収録)



1923年11月、江口渙(えぐち・かん)が東京朝日新聞に掲載した随筆である。

江口は、1887年生まれ。夏目漱石の弟子の一人として、芥川龍之介とも親交を結んだ。社会主義に接近し、1920年に日本社会主義同盟が結成されると、その中央執行委員となった。震災前後の頃、日本の社会主義運動はアナ・ボル論争と呼ばれるアナキズムとマルクス主義の対立に揺れていたが、この時期の江口はアナ系である。その後、マルクス主義に接近し、プロレタリア文学運動を主導するようになる。

彼は震災当時、栃木県那須烏山市の実家に滞在していて被害を免れたが、二度にわたって東京に入っている。そのなかで自分自身も自警団に殺されそうになったりもした。

この随筆では、車中で「朝鮮人だ」と決めつけられた男がホームで待ちかまえる自警団に引き渡され、暴行されるが、こうした例は実際に数多く記録されている。東京から東北方面へ多くの人々が列車で避難したが、その過程で、朝鮮人が列車内から引きずり出され、駅の構内や駅前で殺害された。

栃木県では、東北本線石橋駅構内で「下り列車中に潜んで居た氏名不詳の鮮人2名を引き下し、メチャメチャに殴り殺」(上毛新聞23年10月25日)した9月3日夜の事件をはじめ、宇都宮駅、間々田駅、小金井駅、石橋駅、小山駅、東那須(現・那須塩原)駅などで、駅構内や駅周辺において多くの朝鮮人が暴行された。小山駅前では、下車する避難民のなかから朝鮮人を探し出して制裁を加えようと、3000人の群衆が集まった。

検察の発表では、栃木県内で殺害されたのは朝鮮人6人、日本人2人。重傷者は朝鮮人2人、中国人1人、日本人4人。56人が検挙された。

小山駅前では、一人の女性が、朝鮮人に暴行を加えようとする群衆の前に、「こういうことはいけません」「あなた、井戸に毒を入れたところを見たのですか」と叫び、手を広げて立ちはだかったという逸話が残っている。1996年、この女性が74年に92歳で亡くなった大島貞子さんという人であることが、「栃木県朝鮮人真相調査団」の調査で分かった。彼女はキリスト教徒であった。


小山駅ホームから



那須塩原駅前。1923年9月5日夜、朝鮮人の馬達出さんと、一緒にいた宮脇辰至さんが「東那須野村大原間巡査駐在所前道路」で殺害された。



参考資料:江口渙『わが文学半世紀・続』(春陽堂書店)、関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連官庁史料』(緑蔭書房)。

2013年9月29日日曜日

【いわんや殺戮を喜ぶなどは  文学者の見た朝鮮人虐殺/芥川龍之介】

僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。

戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草を啣(くわ)へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤(もっと)も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訳(わけ)ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論(もちろん)さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう」と云ふ外はなかつた。

しかし次手(ついで)にもう一度、何でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽(たちま)ち自説(?)を撤回した。

再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○の陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装(よそ)はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。

尤も善良なる市民になることは、――兎に角(とにかく)苦心を要するものである。


(芥川龍之介「大正十二年九月一日の大震に際して」1923年9月)
(青空文庫)



○…は、検閲による伏字。○○○○○○○○は「不逞鮮人の放火だ」、○○○○は「不逞鮮人」と思われる。

芥川は震災当時、田端の自宅におり、町会で組織された自警団に参加している。このときに、彼がどのような体験をしたのかまでは分からない。たぶん、大きな出来事にはでくわしてはいないだろう。

上の文章は、一読すれば分かるとおり、自警団の一員となった自らを道化役として、朝鮮人暴動の流言が横行した世相や同調圧力を皮肉り、それに惑わされることのなかった盟友・菊池寛を逆説的な表現で称える文章である。

ところが、思いもよらぬ読み方をする人がいるのである。ノンフィクション作家の工藤美代子は、『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』のなかでこの文章についてこう解説してみせる。「芥川龍之介は大火の原因を一部朝鮮人の犯行と見ていたようである」「芥川龍之介は菊池寛に対する激憤の行方として、自死を選んだように思えてならない」「勃興する共産主義の南下を芥川のように日本の危機とみる時代認識抜きには大正という時代は考えられない」。

ようするに、芥川は朝鮮人暴動を信じていた、ところが菊池寛にそれを否定されて憤激のあまり数年後には死を選んだ、彼はまた、共産主義の浸透を日本の危機として憂えていた―というのだ。

もう手の施しようのないほどメチャクチャである。「もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装(よそ)はねばならぬものである」という一文に、平均的なリテラシーのある読者はふつう、「皮肉」を読む。工藤は「私は嘘つきだ」という人に出会ったら、彼を素直に「嘘つき」だと思い込むのであろうか。

ちなみに同書は、関東大震災で起きたことは朝鮮人虐殺ではないと主張する本である。朝鮮人テロリスト集団による暴動は実際に起こったのであり、自警団や軍の暴力はそれへの反撃であったというのである。ここではこれ以上内容について言及しないが、「アポロ11号は月に行かなかった」「プレスリーはまだ生きている」というのと同じくらいばかげた主張である。だがこのばかげた本をほとんど唯一のネタ元として、ネット上に朝鮮人虐殺否定論が広がっているのも確かだ。

芥川が、自警団による朝鮮人虐殺についてどのように考えていたかについては、当時、文芸春秋に連載された「侏儒の言葉」のなかの「或自警団員の言葉」という短文にあらわれている。

「さあ、自警の部署に就こう。今夜は星も木木の梢(こずえ)に涼しい光を放っている」と始まるこの文章は、深夜、「気楽に警戒」する自警団員の独白である。彼は、明日を心配することもなく静かに眠る鳥を称え、それに引き換え地震によって衣食住の安心を奪われただけで苦痛を味わい、過去を悔いたり、未来を不安に思ったりする人間を「なんと云う情けない動物であろう」と嘆くが、そのあとにこう続ける。


・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかしショオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにし給え。我我は兎に角(とにかく)あそこへ来た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯(ただ)冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐(あわれ)まなければならぬ。況(いわん)や殺戮(さつりく)を喜ぶなどは、――尤(もっと)も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。

我我は互に憐まなければならぬ。ショオペンハウエルの厭世観(えんせいかん)の我我に与えた教訓もこう云うことではなかったであろうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(芥川龍之介「侏儒の言葉」1923年11月)
(青空文庫)


朝鮮人虐殺という事実を芥川がどう受け止めていたのか、もはや明らかだろう。

ちなみに、文学史的には「芸術至上主義的」と形容される芥川だが、研究者の関口安義(都留文科大学教授)によれば、震災前後には社会的なテーマや社会主義に強い関心を向けているのだという。震災前年には「社会主義は理非曲直の問題ではない。単に一つの必然である」とまで書いている。先に引用した「侏儒の言葉」には、反軍的なアフォリズムがいくつか見られる。

震災から1年後に芥川が書いた「桃太郎」という短編を青空文庫で読むことができる。ブラックな笑いに満ちて痛快なこの小説を読めば、朝鮮支配を含めて、彼が当時の日本の帝国主義、植民地主義をどう見ていたのか、よく分かる。彼は、工藤が「ほめ殺し」してみせたような、アホらしい人物ではなかった。

(芥川龍之介「桃太郎」1924年6月)
(青空文庫)



参考文献:青空文庫のほか、工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)、『よみがえる芥川龍之介』(NHKライブラリー)ほかの関口安義の著書。

2013年9月26日木曜日

【おん身らは誰を殺したと思ふ  文学者の見た朝鮮人虐殺/折口信夫】

国びとの
心(うら)さぶる世に値(あ)ひしより、
顔よき子らも、
頼まずなりぬ

大正12年の地震の時、9月4日の夕方ここ(増上寺山門)を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦(いったん)事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値(あ)つて以来といふものは、此国(このくに)の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた。

(折口信夫による自歌自註。『日本近代文学大系 46巻 折口信夫集』)



折口信夫(おりくちしのぶ)の晩年の言葉である。

折口信夫は1887年生まれ。国文学、民俗学、詩歌や小説と、幅広い領域で活動した人である。歌人としては「釈迢空(しゃくちょうくう)」と名乗った。しかし、折口といえばやはり民俗学研究が思いおこされる。

折口民俗学の観念で広く知られるのは「まれびと」論だろう。柳田国男が、日本の神の起源を共同体の同質性を保障する祖先への崇拝に求めたのに対して、折口は神の起源を共同体の外、遠い異郷・異界からやってきて幸せをもたらす異質な「まれびと神」への信仰だと考えた。沖縄に、海の向こうの異界「ニライカナイ」への信仰や異装のまれびとが村を訪れる「アカマタ・クロマタ」祭りが今も残っていると知った折口は、二度にわたって沖縄を訪ね、調査を行った。

1923年9月1日を、彼は北九州の門司港で迎えている。二度目の沖縄旅行を終えて帰る途中であった。その後、船で3日夜に横浜に上陸し、4日の正午から夜まで歩き続けて、ようやく谷中清水町(今の池之端)の自宅に戻ることができたのであった。

彼はその道々で、「酸鼻な、残虐な色々の姿」を見ることとなった。サディスティックな自警団の振る舞いには「人間の凄まじさあさましさを痛感した。此気持ちは3カ月や半年、元通りにならなかった」。彼自身が増上寺の門前で自警団に取り囲まれたのは、この日の夜のことだった。彼は、これまで見ることのなかった、この国の人々の別の顔を見たように感じた。

このショックは従来の「滑らかな拍子」の短歌では表現できないと痛感した折口(釈迢空)は、新しい形式として4行からなる四句詩型をつくり出し、10数連の作品「砂けぶり」を創作する。そこには、彼が見た震災直後の東京が、ざらりとした手触りでよみこまれていた。


夜になつた―。
また 蝋燭(ろうそく)と流言の夜だ。
まつくらな町を 金棒ひいて
夜警に出るとしよう


かはゆい子どもが―
大道で ぴちやぴちやしばいて居た。
あの音―。
不逞帰順民の死骸の―。


おん身らは 誰をころしたと思ふ。
陛下のみ名において―。
おそろしい呪文だ。
陛下萬歳 ばあんざあい



あなた方は、誰を殺したと思うのか。天皇の名の下で、という。
「誰」とは不思議な問いである。
あのとき殺されたのは、誰だったのだろうか。何だったのだろうか。



13/12/24修正:「砂けぶり」引用第2連を修正。「しばいて居たつけ」→「しばいて居た」。初出は後者でした。

注)「砂けぶり」の引用は初出のものを採用した。その後、まとめられるなかで、折口はそれぞれ手を加えている。たとえば最後の歌は「おん身らは/誰を殺したと思ふ。/かの尊い/御名において―。/おそろしい呪文だ。/萬歳/ばんざあい」となった。また、「帰順民」とは朝鮮人を指す言葉。韓国併合によって日本に「帰順」した人々という意味で当時使われていた。

参考資料:『日本近代文学大系 46巻 折口信夫集』(角川書店)、石井正己『文豪たちの関東大震災体験記』(小学館101新書)、『折口信夫』(筑摩書房)、中沢新一『未来から来た古代人』(ちくまプリマー新書)。

2013年9月25日水曜日

【化石しろ、醜い骸骨! 文学者の見た朝鮮人虐殺/秋田雨雀】

日本語/English

秋田雨雀は劇作家、童話作家として知られる。関東大震災当時は40歳。数年前から社会主義に接近し、ヒューマニスティックな作風で注目されていた。

1923年9月1日、彼は秋田県にいたが、震災の報を聞いて東京に戻る。雑司が谷の自宅にたどり着いたのは6日のことだったが、その帰路で、彼は殺人を自慢する自警団員と、それを平然と受け入れる群衆を目撃した。多くの朝鮮人留学生と親交を結び、彼らの人間性と民族解放への思いに共感していた秋田にとって、これは大きな衝撃だった。「私は淋しかった!」と、日本人同胞のなかで一人孤立した思いを書き残している。

翌年4月、彼は戯曲「骸骨(がいこつ)の舞跳(ぶちょう)」を発表する。朝鮮人虐殺に対する人間的な怒りをストレートに叩きつける作品であり、彼の戯曲としての代表作となった。



物語の舞台となるのは、震災直後、東京から東北方面に150里のN駅。時間は深夜。傷を負った避難民が収容された救護テントの中だ。疲れきり、ささくれだった人であふれている。

主人公の青年は、朝鮮人襲来の噂を不安げに語る老人に、それを否定して、むしろ朝鮮人が虐殺されている事実を告げて「僕は日本人がつくづく嫌やになりました。もう少し落ち着いた人間らしい国民だと思いました。それが今度のことですっかり裏切られてしまいました」とつぶやく。しかし続けてこうも言う。「僕は国民として日本人には失望しましたが、人間としての日本人には失望していません」。

しばらくすると、自警団の一団がテントに入ってくる。甲冑に陣羽織、在郷軍人の制服、そして手に手に槍や刀と、大時代で滑稽ないでたちである。「このなかに朝鮮人の奴が隠れている」と宣言する彼らは、まもなく、青年と老人の後ろに隠れる若い男を発見する。「僕は何もしていない」「僕は日本人です」と必死に否定する男だが、生年を年号で聞かれて言葉につまってしまう。自警団はおびえる彼の口ぶりを真似して嘲笑する。

このとき、主人公の青年が「よし給え!君達に何の権利があってそんなことを聞くんですか?」と抗議する。このあとに続く彼の大演説は、ほとんど秋田雨雀の叫びそのものである。

甲冑、陣羽織、柔道着…。/君達には一体着る衣服がないのか?
(中略)

君達のいうように、/この人は朝鮮人かも知れない、
しかし朝鮮人は君たちの敵ではない。/日本人、日本人、日本人、
日本人は君たちに何をしたろう?/日本人を苦しめているのは、
朝鮮人でなく日本人自身だ!
そんな簡単な事実が諸君には解っていないのか?
(中略)

この人(朝鮮人の青年)にも敵はあるだろう、
然(しか)しそれは君達じゃないんだ。
君達には解っていない。/何も知らない。
何にも知らされていない。/また何も知ろうと思っていない。
君達の仲間は、この人の友達を
罪も武器もない、/一枚の葉のように従順で無邪気な人達を、
君達の仲間は理由もなく殺したのだ!
(中略)

この人こそほんとうの人間だ!
君達は一体何んだ?/君達の持っているものは、
黴(かび)の生えた死んだ道徳だけだ。
甲冑や陣羽織は骨董品として、/価値があるだろう。
然し生きた人間に何になろう?
もし諸君の心臓の中に血が流れているならば、
諸君は諸君自身の着物が要る筈(はず)だ。

その甲冑を脱いで見給え、/その陣羽織を脱いで見給え、
諸君は生命のない操(あやつり)人形だ!/死蝋だ!
木乃伊(ミイラ)だ!/骸骨だ!

青年の激しい抗議に、自警団の人々は憎しみの目を向ける。「不逞日本人だ…」「主義者だ…」「危険人物だ…」「2人をやっつけろ!」。老人はうろたえ、女たちは泣き叫ぶ。キャンプの中は混乱状態になる。自警団がにじり寄って来る前で、青年は朝鮮人の若者の手をとってさらに語る。

何百人、何千人が、何百年何千年前から、
自分の愛する民衆のために、/殺されたか?
私達は馬鹿な民衆に媚びるために、/生まれたのじゃない、
戦って死ぬために生れたのだ!
正義と友情のために死んで、/行くのだ…。
(中略)

新しい神秘よ!/力と友情との、
新しい人類の結合のために、/生まれ出づる神秘よ!
沸上(わきあが)って/この魂のない醜い潜在の黴を払い落せ!
卑劣なる先祖崇拝の虚偽と/英雄主義と、/民族主義と
の仮面をはぎとって、/醜い骸骨の舞跳(ぶちょう)をおどらせよ。
オオケストラよ、/暫(しばら)く待って呉れ、
化石しろ、/醜い骸骨!
化石しろ、/醜い骸骨!

青年が叫ぶと、甲冑やら陣羽織やら鉢巻やらが、刀を振り上げた姿のままで化石になってしまう。続けて「骸骨よ、跳(おど)り出せ!」と命じると、骸骨と化した自警団は音楽に乗って激しく踊り始め、次第に弱っていく。すると、舞台のそでから鋭い笑い声が響いてくる。

死んだ人々よ/よく笑って呉れた!
オオケストラよ、/最後に別れの輪舞曲を…。
醜い骸骨共よ、/跳りながら消え失せよ!

骸骨たちは関節から折れて地面に倒れていく。一瞬、舞台は暗黒に包まれ、再びほの明るくなったテントのなかでは、女たちがすすり泣いている。看護婦が静かに口を開く。
「お気の毒でした…でもやっぱり…」
こうして、物語は2人の死を暗示して終わる。



秋田雨雀は、早くも1923年9月には朝鮮人虐殺についての論考を読売新聞で発表している(「民族解放の道徳」)。そのなかで彼は、自警団に現れた残虐性が、「戦争によって国家的地位を確立した」日本では「道徳の性質を帯びている」と指摘し、日本人は「国民道徳」から解放されて、「本当の広い自由な新しい道徳」「人類共存の生活」へと進まなくてはならないと主張する。そして
「もし今日の国民教育或いは民族精神というようなものを是認し或いはビ縫して行ったならば、恐らく日本人は幾度も幾度もみにくい残虐性を暴露して、民族の持っているいい素質さえも失ってしまうだろう」
と警告した。

自警団の暴力に、彼は日本の行く末をはっきりと見ていたのである。



参考資料:『日本プロレタリア文学集35』(新日本出版社)【同書には亀戸署で殺された平沢計七の作品も収められている】、山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(創史社)、関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)


How Did A Storywriter Viewed the Massacre of Koreans?
"Petrify, the Ugly Skeleton!" - Ujaku Akita, Skeletons Dance


It was a shock for Ujaku Akita to see vigilante groups boasting of killing of Koreans and people taking it for granted. The storywriter had many friends from Korea. Skeletons Dance, one of his best works, expresses his indignation against Japanese.

The scene is a refuge camp full of injured by the quake where an old man is scared at rumors of Korean riots. The leading character tells him the truth is that Japanese are killing Koreans. After a while a vigilante group comes up searching for a Korean and presses a youth with questions as it finds him hiding behind the old man.
"This man may be a Korean, but Koreans are not your enemy," the main character breaks in. "but still people like you all killed his friends for no reason!"
He accuses the vigilante group of being puppets or skeletons with masks of despicable nationalism. As he calls out, "Petrify, the ugly skeleton!" the vigilante group members turn into skeletons, and dance vigorously until they gradually fade away and finally drop.

In an article Akita contributed to Yomiuri newspaper he pointed out that the cruelty of the vigilante groups had an aspect of a moral of the Japanese society, and warned Japanese would repeatedly express the cruelties and end up losing even their good characters unless they freed themselves from such a moral.


2013年9月21日土曜日

【「あの朝鮮人たちに指一本ふれさせねえぞ」。 朝鮮人を「かくまった」庶民について考える】 

日本語/English


ところが、3丁目と馬込沢の自警団が凶器をもって「丸山に朝鮮人が二人いるが、あれを生かしておいてはならん」といって押しかけてきたんです。(中略)だから徳田安蔵だの富蔵だのの連中は「奴ら、今夜来るに相違ないが、来ても渡すまい。奴らが来ればすぐ殺されちゃう。悪いことしてない人間だし、村の人と愛情をともにしてた人間だから、いくら朝鮮人でも渡さない」ってね。(中略)

丸山の自警団は5~6人くらいで2人を守るため、鉢巻をしめて人数は少ないけど威厳をみせていたわけだ。彼らは40人くらい来たですよ。鉄砲もったり、刀もったり、槍もったりね。まわりに竹薮のある丘の高い所に丸山がいて、下に彼らがいるわけです。奴らは渡せという、こっちは渡さないという。(中略)

徳田オサムが先頭に立って「何も悪いことをしないのに殺すことはねえ、おめえたちには迷惑かけない。俺ら若いもんでもって警察に送り届けるからケエレ!」ってわけでね、やつは身体は小さかったが、けんかは強かったからね。そしたら向こうで「何オーこの! テメエから先ブッ殺すゾォ」なんていいました。そしたら安蔵がね、あのころ45歳くらい(40歳前後の誤り)だったかね。「殺すなら殺してみろ、テメェラがいくらがんばったって俺ら絶対に生命かけたって渡しゃしねえからな」「殺すなら俺こと先殺せ!」なんて言った。

その威厳に驚いて、これじゃしかたないと思ったのか、まさか日本人を殺すわけにいかないから、最後に「それじあお前たち、必ず警察に届けるか」「届ける!それくらいのこと何だ!あの朝鮮人たちに指一本でも触れさせねえぞ、おめえたちに殺す資格ネェだからなあ」と怒鳴り返した。とうとう奴ら「必ずめいわくかけねえなあ」なんていって、けんか別れになった。

その晩はみんなで交代で寝ずに2人の朝鮮人を番してたわけです。それは震災から4日だったか、その次の日船橋警察署に届けました。それから習志野の鉄条網かこった朝鮮人収容所ってところへ送られたということです。そこへ送られたものは憲兵が守ったらしい。

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』)



丸山集落に住んでいた徳田慶蔵さんの証言である。慶蔵さんは当時24歳。集落の「若いもん」だった。

丸山集落は、現在の千葉県船橋市丸山。当時は法典村に属していた。住民は20戸程度で、整備された水田もない、小さく貧しい集落である。土地をもっているのは2軒だけで、残りはみな、小作人だった。

丸山には、2年前から2人の朝鮮人がいた。日本名は「福田」と「木下」。北総鉄道の建設工事で来ていた人々で、工事が終わったあとも、丸山にあったお堂を借りて住んでいたのである。2人は集落に溶け込んでいた。住民の武藤よしさんは、丸顔の福田さんが毎日のように武藤家に来ては話し込んでいったのをおぼえている。

「丸山から死人を出すな」「あの2人は奴らに渡さない」。集落の人々を説得し、団結させたのは、徳田安蔵さん(当時40歳前後)だ。背は低いが迫力があり、間違っていると思えば村長でも怒鳴りつける正義感の強さで、丸山の人々に一目置かれていた。

船橋周辺では、1923年9月4日、自警団による朝鮮人虐殺が各地で繰り返された。もっとも規模が大きかったのは船橋駅北口附近で、38人が殺害された。安蔵さんはこの虐殺を目の当たりにしていた。幼い子どもが「アイゴー」と泣き叫んでいる姿が目に焼きついている、と晩年にも語っている。懇意にしている福田さんと木下さんがあのように殺されるのを黙ってみていることはできなかった。

小さく貧しい丸山集落にとって、周辺集落の意向に逆らうのはあまりにも危険な行動だったはずだ。だが、丸山の人々は安蔵さんの言葉に共感して一丸となり、手に手にカマ、クワ、さらには「肥やしかき棒」まで握って、自警団の集落侵入を防いだのである。徳田慶蔵さんは後に、あのときなぜできたのかを考えると不思議に思う、と語っている。

寝ずの番をして2人を守った翌日(5日ごろ?)、丸山の人々は2人を警察署に連れて行った。このまま集落で守り続けるのは不可能に思われたのだ。「送っていくときには、泣き別れでした」と武藤さんは語っている。

1年後、習志野の収容所に入っていた2人は無事に解放され、あいさつに来た。「そんとき、ひょうきんな人が『おメェら、生命助かってメデテェだから、朝鮮の踊りみたことねえから、知ってたら踊ってみせてくんねえか』っていったら、2人で涙流しながら、アリラン、アリランと踊ってくれましたよ」(徳田慶蔵さん)。

徳田安蔵さんはその後、丸山で農民組合を結成し、小作人の権利のために闘った。他地域の小作争議に応援に行っては、警察に何度も逮捕され、家宅捜索も受けたが、屈しなかった。1926年に労働農民党が結成されると、その党員にもなった。1969年、86歳で亡くなった。

武藤よしさんの夫、韻蔵さんはその後も、朝鮮人の屑買いが来ると何時間も話し込むのが常だった。「朝鮮人も日本人も同じだ」と。晩年は、船橋市で行われていた朝鮮人虐殺の慰霊祭に毎年参加していたという。



関東大震災時の朝鮮人虐殺の記録を読んでいると、朝鮮人をかくまった日本人もいたことがわかる。あれほど軽々と多くの朝鮮人の生命が奪われている最中でも、ひそかに、ときに公然と朝鮮人をかくまった人の記録にしばしば出会うのである。屋根裏にかくした、殺されようとしている子どもを連れて逃げた等である。

「朝鮮人を守った日本人」の話として最も有名なのは横浜の潮見警察署署長の大川常吉だろう。警察署を包囲した1000人の群衆を前に「朝鮮人を奪取するなら君らと死ぬまで戦う」と宣言したといわれる。

この逸話は90年代に一世を風靡した自由主義史観研究会編のベストセラー『教科書が教えない歴史』にも登場した。同書のコンセプトは、子どもや若者が日本を誇らしく思えるような歴史エピソードを集めるというものだったと記憶する。だが私たちは、こうした文脈で大川署長が取り上げられることには違和感をもつ。

もちろん大川署長は尊敬すべき人物である。しかし、多くの日本人が、警察や軍も含めて朝鮮人虐殺に手を染めたときに、それを拒絶した人物を、後世の日本人が「誇れる日本人」という仕方で称揚するのは何かがおかしい。朝鮮人虐殺が私たちにとって明らかに「誇れない歴史」であることをまず認識すべきだ。一人のシンドラーでドイツやナチスを免罪することはできないのと同じである。「都合がよすぎる」と言われても文句は言えまい。

もうひとつ、虐殺を拒絶した日本人は多く存在するのに、なぜそのなかから警察署長だけを選ぶのか、という違和感である。朝鮮人をかくまった人の多くは庶民である。下宿人を空き部屋に隠した下宿屋。隣人を集落でかくまった小作人。同僚を取り囲んで警察に送り届けた工員。列車で隣り合った朝鮮人学生のために「俺が朝鮮人ならどうするんだ」と自警団に食ってかかり、自らが連れて行かれた学生。彼らが守りたかったのは、隣の誰かとの小さな結びつきであって、「日本人の誇り」ではない。

自由主義史観研究会の人々にとって「守った日本人」が庶民ではなく、警察署長でなくてはならないのはなぜか。彼らが誇りたい、擁護したい「日本」が、理性を失った群衆を一喝する警察署長に表象されるような「何か」だからではないだろうか。

だが、たけりくるった「日本人」の群衆が、特定の誰かではなく「朝鮮人」を殺せと叫んでいるとき、その前に一人で立ちふさがる人を支えるのは、「日本人の誇り」ではなく、「人間の矜持」ではないか。私たちは、朝鮮人をかくまったという記録に出会うたびに、あの9月にも、日本人のなかに「人間」であろうとした人がいたのだと感じる。もちろん、大川署長もまた、警察官としての職務を通じて「人間」であろうとしたのに違いない。



朝鮮人を殺した日本人と、朝鮮人を守った日本人。その間にはどのような違いがあったのだろうか。山岸秀はこれについて、守った事例では「たとえ差別的な関係においてであっても、日本人と朝鮮人の間に一定の日常的な人間関係が成立していた」と指摘している。つまり、本物の朝鮮人と話したこともないような連中とは違い、ふだん、朝鮮人の誰かと人としての付き合いをもっている人のなかから、「守る人」が現れたということだ。

言ってしまえば当たり前すぎる話である。だがこの当たり前の話を逆にしてみれば、「差別扇動犯罪(ヘイトクライム)」とは何かが見えてくる。

社会は、多くの人の結びつきの網の目でできている。そこには支配と抑圧がもちろんあるが、そうした力に歪められながらも、助け合うための結びつきも確かにあり、それこそが当たり前の日常を支えている。

植民地支配という構造によって深刻に歪められながらも、当時の朝鮮人と日本人の間においてさえ、生きている日常の場では、ときに同僚だったり、商売相手だったり、友人だったり、夫婦であったりという結びつきがあった。

だが虐殺者は、朝鮮人の個々の誰かであるものを「敵=朝鮮人」という記号に変えて「非人間」化し、それへの暴力を扇動する。誰かの同僚であり、友人である個々の誰かへの暴力が「我々日本人」による敵への防衛行動として正当化される。その結果、「我々日本人」の群れが、人が生きる場に土足でなだれ込んでくることになる。当時の証言には、自宅に乱入した自警団が日本人の妻の目の前で朝鮮人の夫を殺したらしい、という噂話が出てくる。実際にそういうことがあったかどうかはともかく、つまりそういうことなのである。

ヘイトクライムは、日常の場を支えている最低限の小さな結びつきを破壊する犯罪でもあるのだ。ごく日常的な、小さな信頼関係を守るために、危険を冒さなくてはならなかった人々の存在は、日常の場に乱入し「こいつは朝鮮人。こいつは敵」と叫んで暴力を扇動するヘイトクライムの悪質さ、深刻さをこそ伝えている。



最後に蛇足になるが。
すでにふれたように、右傾化の危機が叫ばれ始めた90年代には、「日本の誇り」を叫ぶ人々は、自警団から朝鮮人を守った大川署長を英雄として称揚していた。今日、同種の人々は関東大震災時の朝鮮人虐殺を「悪い朝鮮人を自警団が征伐した事件」と考え、自警団をこそ英雄と考えている。今さらながら、日本社会が深刻な水位に来ていることに慄然とする。


(9月21日19時に、若干の加筆を行いました)


参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)


Saturday, September 21, 2013
Ordinary People Who Defended Koreans


In Funabashi, Chiba Prefecture, 38 Koreans were murdered in front of Funabashi train station in the aftermath of the quake, while in a small and poor village in Funabashi, named Maruyama, only 5 to 6 local youths courageously defended two Koreans living there for 2 years from armed vigilante groups of 40 men trying to kill the Koreans. On the following day the Koreans called Fukuda-san and Kinoshita-san respectively were escorted by the villagers to police station, and then were sent to Narashino Internment Camp. A year later they showed up to tell the villagers that they were doing well. There were many other cases of ordinary Japanese defending Koreans back then.

What's the difference between Japanese who killed Koreans and Japanese who defended Koreans?
The least you could say is that the latter had some sort of relationships with Koreans even if it was something discriminatory. On the contrary, each individual Korean was not seen by the former as a human being but as a part of enemy, and violence against Koreans who obviously were someone's colleagues or friends, or even husbands or wives was justified as a form of self-defense from the enemy. That was hate-crime.


2013年9月19日木曜日

【ある演劇青年の受難、そして間違えて殺された日本人について】

日本語/English

1923年9月2日の夜。19歳の演劇青年、伊藤国夫は興奮していた。軍が多摩川沿いに展開し、神奈川県方面から北上してきた「不逞鮮人」集団を迎え撃って激突しているという噂を耳にしたからだ。戦場は遠からずこの千駄ヶ谷まで拡大してくるに違いない。彼は二階の長持の底から先祖伝来の小刀を持ち出し、いつでも使えるように便所の小窓の下に隠しておいて、向かいの少年とともに家の前で杖を握って「警備」についた。

だが、いつまでたっても何も始まらない。業を煮やした彼は、千駄ヶ谷駅近くの線路の土手に登って「敵情視察」を試みる。すると闇のなか、後ろの方から「鮮人だ、鮮人だ!」という叫び声が聞こえるではないか。さらに、こちらに向かっていくつもの提灯が近づいてくるのが見える。朝鮮人を追っているのだ。よし、はさみ撃ちにしてやろう。伊藤は提灯の方向にまっしぐらに走り出した。

(以下、引用)
そっちへ走って行くと、いきなり腰のあたりをガーンとやられた。あわてて向きなおると、雲つくばかりの大男がステッキをふりかざして「イタア、イタア」と叫んでいる。登山杖をかまえて後ずさりしながら「違うよ!…ちがいますったら!」といくら弁解しても相手は聞こうともせず、ステッキをめったやたらに振りまわしながら「センジンダア、センジンダア!」とわめきつづける。

そのうち提灯たちが集まって来て、ぐるりと私たちを取りまいた。見ると、わめいている大男は、千駄ヶ谷駅前に住む白系ロシア人(ロシア革命時に日本に亡命してきたロシア人)の羅紗売りだった。そっちは朝鮮人でないことは一目でわかるのだが、私の方はそうは行かない。その証拠に、棍棒だの木剣だの竹槍だの薪割だのをもった、これも日本人だか朝鮮人だか見分けのつきにくい連中が、「畜生、白状しろ」「ふてえ野郎だ、国籍をいえ」「うそをぬかすと、叩き殺すぞ」と私をこづきまわすのである。

「いえ、日本人です。そのすぐ先に住んでいるイトウ・クニオです。この通り早稲田の学生です」と学生証を見せても一向ききいれない。そして薪割りを私の頭の上に振りかざしながら「アイウエオ」をいってみろだの、「教育勅語」を暗誦しろだのという。まあ、この二つはどうやら及第したが歴代の天皇の名をいえというには弱った。

(千田是也「わが家の人形芝居」『テアトロ』1961年5号。『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』より重引)


この直後、自警団のなかにいた近所の人が彼に気づき、伊藤は怪我もせずにすんだ。彼は後に、この出来事にちなんで「千田是也」という芸名を名乗るようになる。千駄ヶ谷のコリアンという意味である。千田是也はその後、俳優座を立ち上げるなど、演出家、俳優として成功し、89歳で亡くなった。

彼は運がよかった。当時、朝鮮人に間違えられて殺された日本人や中国人は数多くいる。

政府のまとめでは、朝鮮人に間違えられて殺された日本人は58人。これは犯人が逮捕され、司法手続きの対象となっているものを数えているだけなので、実際にはもっと多くの人が殺されているだろう。記録されている殺害方法は実に残酷だ。たとえば「竹槍、鳶口及び棒を以て乱打し日本刀にて斬付け又は足蹴して」、あるいは「河中にて日本刀を以て後頭部を斬付」け、あるいは「帆桁薪梶柄を以て頭部腰部を殴打し水中に溺死せしめて」、「石塊を投付け」て、「木剣、金熊手、バット等を以て殴打」し、「針金にて後手に縛し竹の棒、鳶口等」で、という具合。

有名なのは千葉県で起きた福田村事件だ。香川県から薬の行商にやってきた親族集団が、朝鮮人と間違われて襲撃を受け、鳶口や棍棒で刺されたり殴られたりしたあげく、8人が利根川に投げ込まれて溺死させられ、逃げた1人は斬り殺された。1923年11月29日付の東京日日新聞は「被害者、売薬商人の妻が渡船場の水中に逃げのび乳まで水の達する所で赤児をだきあげ『助けてくれ』と悲鳴をあげていた」と報じている(『いわれなく殺された人びと』)。

浦安では「日本語がうまくしゃべれず殺された」沖縄県人がいたという証言もある(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。

当時の政府は、これらの日本人殺害について、朝鮮人虐殺という問題の本質をぼやかす方向で積極的に位置づけようとした気配がある。臨時震災救護事務局が極秘でまとめた「鮮人問題に関する協定」(1923年9月5日)には、こうある。

「朝鮮人にして混雑の際危害を受けたるもの少数あるべきも、内地人(日本人)も同様の危害を蒙りたるもの多数あり。皆混乱の際に生じたるものにして、鮮人に対しことさらに大なる危害を加えたる事実なし」

だがこれは詭弁である。これらの日本人はみな、朝鮮人に間違えられたからこそ殺されたのだ。言いかえれば、犯人は、相手を朝鮮人と思って殺したのである。上の言い分では、まるで殺された中にたまたま朝鮮人もいただけであるかのようだ。朝鮮人も日本人も同様に混乱の犠牲になった、というようなまとめ方は事実に反する。

また、上に紹介したような残酷な殺害方法も、「朝鮮人だと思った」相手に向けられたものである。つまり、はるかに多くの朝鮮人が、同様に残酷な方法で殺されたことを意味している。

もうひとつ、千田是也のエピソードで見落としてはならないのは、彼はそもそも短刀や杖を武器に、倒すべき「不逞鮮人」を求めて走っていったということだ。たまたまぶつかったのがロシア人であったために(そして知人が居合わせたために)笑い話に終わったが、本当に朝鮮人にぶつかっていたらどうなっただろうか。彼は純然たる被害者ではないのである。



参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』

Thursday, September 19, 2013
Fortune and Misfortune for Koreya Senda/Mistakenly Murdered Japanese


Instead of encountering "the insurgent Koreans" a student, who later became known as a famous director
Koreya Senda, was surrounded by a vigilante group who mistook him for a Korean.
He was lucky enough to be identified as a Japanese, but according to a government document 58 Japanese were murdered in the aftermath of the quake including the 9 family members from Kagawa Prefecture who were thrown into Tonegawa River and drowned to death by vigilante groups who mistook them for Koreans - known as the Fukudamura Village Case (Chiba Prefecture).

The death toll was certainly more than 58, and a lot more Koreans were also brutally murdered. The facts that we must bear in mind that these Japanese were murdered precisely because they were all mistaken for Koreans, and that Koreya Senda was not genuinely a victim since he was there with swords to beat up Koreans.


2013年9月12日木曜日

【リアルタイム報告の終了と19日からの「まとめ」編予告】

9月1日から6日までの惨劇の時期(まさに桜井誠の言う「殺戮期」)を経て、当ブログは、その虐殺を隠ぺいするために12日未明に行われた王希天の殺害までたどり着きました。

90年前の今頃になると、状況はだいぶ落ち着いてきています。とはいうものの、今日から4日後の9月16日夜には、アナキストの大杉栄、伊藤野枝、そして6歳の甥、橘宗一の3人が甘粕大尉らによって殺害されることになります。これもまた、王希天の殺害と同様、軍組織が手を下した事件ですが、当ブログが追いかけてきた朝鮮人、中国人虐殺とはテーマが離れるので、私たちはそちらに進まずに、別の方向に行こうと思います。

私たちはここで、90年前の今日の今をリアルタイムに伝える報告をいったん終了します。

そして、1週間の休憩をはさんで、19日から掲載を再開。9月前半のような、時間軸に沿って進む報告ではなく、ひとつのテーマや、日時を特定できない出来事などをとりあげる、いわば「まとめ」編に進みます。

ランダムに予告しておけば、習志野収容所は安全だったのか、朝鮮人虐殺から得るべき教訓、朝鮮人を守った庶民をどう見るか、千田是也の経験、国家責任の問題、追悼と慰霊の系譜…などをとりあげる考えです。

そして、当初の予告どおり、9月末には最終的な更新を終えます。
ここまで、90年前の重苦しい時間を共に見てきた皆さん、ありがとうございました。
今しばらく、お付き合いいただければと思います。

【1923年9月12日未明/逆井橋 王希天の70年の「行方不明」】

日本語/English



中隊長初めとして、王希天君を誘い、「お前の国の同胞が騒でるから、訓戒をあたえてくれ」と云うてつれだし、逆井橋の処の鉄橋の処にさしかかりしに、待機していた垣内中尉が来り、君等何処にゆくと、六中隊の将校の一行に云い、まあ一ぷくでもと休み、背より肩にかけ切りかけた。そして彼の顔面及手足等を切りこまさきて、服は焼きすててしまい、携帯の拾円七十銭の金と万年筆は奪ってしまった。(中略)
右の如きことは不法な行為だが、同権利に支配されている日本人でない、外交上不利のため余は黙している。

(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)



上は、第1師団野戦重砲兵第3旅団第1連隊の第6中隊に属する一等兵、久保野茂次が1923年10月19日に記した日記の一部である。

逆井橋は旧中川にかかっている橋で、都営新宿線東大島駅から北に10分ほど歩いた所にある。王希天は1923年9月12日未明、この逆井橋のたもとで、第1連隊の中島大隊長副官の垣内八州夫中尉(終戦時、大佐)によって殺害された。殺害を指示したのは同連隊第6中隊長の佐々木兵吉大尉。金子直旅団長の黙認のもとに行われたものだ。遺体は中川に投げ捨てられた。

王希天は中国人留学生で、当時27歳だった。1896年8月5日、旧満州南の吉林省、長春市に皮革商品を扱う豊かな商人の息子として生まれ、対華21か条要求が出された1915年、18歳で日本へ留学。一高在学中から学生運動に参加するようになり、日中両国を行き来して活動した。周恩来、救世軍の山室軍平、賀川豊彦などとも親交があった。

王は次第に、日本で弱い立場におかれていた中国人労働者の状況に関心を寄せるようになり、震災前年の22年9月、労働者を支援する「僑日共済会」を大島3丁目に設立する。9月3日の記事「中国人はなぜ殺されたのか」で説明したように、大島には中国人の肉体労働者が集住していた。僑日共済会は、彼らのために巡回医療や夜間学校を行い、ばくちやアヘンをやめよう、と生活改善を呼びかけた。労働者たちは王に絶大な信頼を寄せ、ばくち道具を取り上げられても文句ひとつ言わなかったという。

こうして高まっていった団結を背景に、王は、日本人労働ブローカーが中国人に対して日常的に行っていた賃金不払いに対して交渉に乗り出し、これを支払わせる運動を開始する。王の活動は東京にとどまらず、全国に広がっていった。

王は鉄の闘士といったタイプではなく、思想的にも穏健で、裕福な家の出身らしい快活で楽天的な性格だったようだ。だが彼が踏み込んだのは、1980年代に山谷の日雇い労働者の労働運動を指導して暴力団に殺害された山岡強一が立っていたような領域であったと言ってよいだろう。当然、労働ブローカーや労働運動を敵視する亀戸署の刑事たちには激しく憎まれる。後をつけられて短刀で脅されたり、身に覚えのない罪で3日間、警察に拘留されたこともあったという。

9月1日、王は留学生が寄宿する神保町YMCAにいて、その後の数日間は留学生救援に奔走した。一段落ついた9日朝、彼はずっと気になっていた労働者の被災状況を確認するために、自転車に乗って大島に向かう。あの中国人虐殺から6日がたっていた。

大島に入った彼が、虐殺の事実にたどり着いたのかどうかはわからない。というのは、その日の午後には彼は軍に逮捕されてしまったからだ。

軍は、捕らえた中国人が労働者に人望が厚い活動家であることを知り、習志野収容所への中国人移送に協力させることにした。夜は亀戸署に留置され、日中は軍の下で働く。強いられた結果ではあるが、王もまた、習志野移送について「不当であっても唯一の保護策」と考えたのだろう。それから数日間、「習志野に護送されても心配はない」と中国語で書いた掲示を貼り出すなど、積極的に協力している(実際に心配なかったのかどうかについては後日、当ブログで報告する)。

このとき、移送を担当していたのが佐々木大尉率いる第6中隊であり、その1人として王とともに働いた兵士が、冒頭の日記を書いた久保野一等兵だった。文学青年肌で軍組織になじめない22歳の彼は、少し年上でスマートな王に対して、すぐに好感を抱くようになった。

「いつもきちんと蝶ネクタイをしめた好男子。落ちついたらアメリカに留学すると楽しそうに話していた。無学なわれわれ(兵卒)は王希天君と呼んで尊敬していた。お茶もよく一緒に飲んで世間話をしたことを憶えている」(『関東大震災と王希天事件』)。

だが旅団の一部には、「王はさっさと殺したほうがよい」と強く主張する者たちがいた。その背景は分からない。だが、9月3日の中国人虐殺の隠蔽をはかる軍、中国人の指導者を葬り去りたい労働ブローカーと亀戸署の3者の利害が、王の殺害で一致するのは確かだろう。王を解放すれば、また大島で余計なことをかぎまわるに違いないのだ。

軍の書類には、殺害を現場で指導した佐々木大尉が、亀戸署の「巡査ノ1名」から「王希天ハ排日支那人ノ巨頭」だと告げられていたとある。王希天事件を研究する田原洋と仁木ふみ子はともに、事件の背景に警察と労働ブローカーから軍への働きかけを推測している。

こうして9月12日未明、王は殺害された。その後、当時まだ高価だった自転車は「戦利品だ」と称して第6中隊の者が乗り回していた。


12日の朝から姿を見なくなった王希天が、実は殺害されていたことを、久保野一等兵が知ったのは、逆井橋の現場で歩哨に立っていた兵士の口からであった。久保野一等兵は「よくも殺しやがったな。ふざけやがって」と激しい怒りをおぼえる。だが、下手なことを言えば営倉入りではすまない。そのうえ、佐々木大尉は彼の中隊長である。実際、2ヵ月後の11月には、中隊長は講話で「震災の際、兵隊が沢山の鮮人を殺害したそのことにつきては、夢にも一切語ってはならない」と強調する。「それについては、中隊長が殺せし支那人に有名なるものあるので、非常に恐れて、兵隊の口をとめてると一同は察した」(久保野日記1923年11月28日)。久保野は兵営で密かにつけていた日記に、事件について聞いたことを書き残すことしかできなかった。

中国で労働者虐殺への非難と王の失踪への疑惑の声が高まる中、軍は隠ぺいのシナリオを用意する。9月12日未明、佐々木大尉に連行された王希天は、大尉の独断で解放された、その後のことは軍も関知しない、というものである。

「シカシテ翌12日午前3時、(佐々木大尉は)亀戸警察署ヨリ王希天ヲ受領シ、亀戸町東洋モスリン株式会社ニ在リタル右旅団司令部ニ同行ノ途中、種々取調ベヲナシタルトコロ、王希天ハ相当ノ教育モアリ、元支那ノ名望家ニテ在京ノ支那人中ニ知ラレオリ、何等危険ナキ者ト認メタルニヨリ、旅団司令部ニ連レ行キ厳重ナル手続キヲナスヨリハ、此ノママ放置スルヲ可ナリト考エ、本人ニ対シ「(中略)自分ガ責任ヲ負イ逃ガシテヤル」ト告ゲタレバ本人モ非常ニ悦ビタリ。ヨッテ同日午前4時30分ゴロ前記会社西北約千米ノ電車線路附近ニ於テ同人ヲ放置シタルニ、東方小松町方面ニ向カイ立去リタリ」
(戒厳司令部から外務省に提出された文書。『関東大震災と王希天事件』)

王希天はこうして長い間、「行方不明」のままで歴史のなかに消えてしまう。

戦後、事件の真相が少しずつ隠ぺいの底から浮かび上がってくる。最初に、第3旅団で事件の隠ぺい工作を行った遠藤三郎大尉(終戦時、陸軍中将)が、王希天が軍によって殺害されたことを明らかにした。そして1970年代、久保野一等兵がひそかに記していた日記を公表する。彼は兵役を終えてからも「抹殺」を恐れて日記を隠し、大事に保管していたのだ。「あれ以来、そのことが私の脳裏から消えなかった。永い間、私の念願だった王希天の最後の模様を、是非、王の家族に伝えて、成仏させてやりたい」(『いわれなく殺された人々』)。

そして1980年代初め、ジャーナリストの田原洋が、王を斬った垣内八州夫中尉(終戦時、大佐)を探し当て、本人の口から事実が明らかにされるに至った。垣内は、誰を斬ったのかそのときは知らなかった、可哀そうなことをした、中川の鉄橋を渡るときいつも思い出していた、と後悔の言葉を口にする。

1990年、仁木ふみ子が王希天の息子を探し出し、事件の真相を伝える。
その死から約70年が経っていた。


逆井橋(江東区地図




参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、田原洋『関東大震災と王希天事件』(三一書房)、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(青木書店)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人々』(青木書店)


Before Dawn on September 12, 1923
At Sakaibashi Bridge
Wang Xi Tian - Uncovered Truth


A Chinese student and labor movement activist, who went missing right after the quake, was found to have been murdered. Being afraid of his murder developing into a diplomatic problem the military covered up its crime.

Wang Zi Tian, 27, came to Ojimacho on September 9, 1923 to find out what had happened to the Chinese workers there, but soon he was captured, and a few days later was killed by the military.
Decades later, Saburo Endo, then captain, revealed that the military commited the murder, and in the early 80's Yasuo Kakiuchi, then first lieutenant, admitted killing the Chinese at Sakaibashi Bridge.

2013年9月10日火曜日

【1923年9月/小平市・喜平橋 東京西部地域での朝鮮人迫害の状況】

日本語/English




地震の後には必ず火事が付き物。当然、関東大震災のときも東京は火災が発生して東京中が火の海と化して、9月1日の夜は小平からも東の空が真赤に見え炎がメラメラ燃え上がるのも見えるほどだった。当時の東京は殆んど木造平屋の燃えやすい建物であった為、忽ち東京中が火の海になったのである。次の日9月2日になってもまだ東の空が夕焼けのように真赤に見えたほどだった。

この時、誰が何処で言い出したのか大変なデマが飛んで「外国人が川の中へ毒を投げ入れたから水が飲めなくなった」とか、東京に火を点けたのは○○外国人だとか、とんでもないデマが飛び大騒ぎとなった。もうすぐその連中が小平に押し寄せて来るという騒ぎになり大変なパニックになってしまった。

何とか食い止めなければということで回田新田の大人はみんな集まれということになり、各自竹槍、鎌、鍬等を手に茜屋橋に集まったという。山家、野中の人達は喜平橋に、上鈴木の人達は久衛門橋にということで、今日も明日も明後日も毎日待機をしていたそうである。

その後この件でどんな犠牲が出たのか出なかったのか分からない。

(神山金作『ふるさと昔ばなし』〈私家版〉 「小平ふるさと村」に所蔵)


(9月11日追記:タイトルを「東京東部地域~」と間違えていました。もちろん正しくは「東京西部地域~」です)

喜平橋、茜屋橋、久衛門橋は小平市内、五日市街道に沿って流れる玉川上水にかかる橋。国分寺駅から北へ2キロ弱、北上したあたりにある。

当時は東京府北多摩郡小平村。西武線が通り、宅地が切り開かれていくのは昭和に入ってからで、この当時はまだ農村であった。人口約6000人。

都心の混乱から遠く離れた、森深いこの小平村にさえ、自警団が結成されたのである。府中署、八王子署、青梅署といった警察署の後日の報告を見ると、これらの地域でも、人々が朝鮮人の攻撃を恐れて山林に逃げ込み、自警団を結成して武装し、「朝鮮人が吉祥寺巡査駐在所を襲う」「朝鮮人と社会主義者が八王子に大挙して押し寄せてくる」といった流言に右往左往していたことが分かる。

このブログを始めて、よく耳にした感想が、「朝鮮人虐殺は東京東部地域の話だと思っていた、自分の住む西部地域でもあったことがわかって驚いた」といったものだった。もちろん、東京西部でも自警団は結成され、朝鮮人への迫害も起きている。記録に残る殺害件数は確かに少ないが、これは当時、この地域の人口自体が少なかったからにすぎないのかもしれない。もちろん、記録に残っていない殺人があった可能性は大いにある。実際、朝鮮独立派による調査では中野1人、世田谷2人、府中2人死亡となっている。(追記。政府によるまとめで見ると、東京西部地域の死亡者は世田谷・太子堂1、千歳烏山13。日本人を朝鮮人と誤認して殺害したのは品川3、四谷1、広尾1。地名は現在のもの)

以下に、東京西部に住む読者にとってなじみの深い地域の警察署の流言関連報告から少しずつ紹介しておく。ただし、警察署の自己評価であるため、どの報告でも警察は冷静沈着なヒーローとなっている。事実は必ずしもそうではなかったことは、すでに書いてきたとおりである。


淀橋警察署(現在の新宿警察署)
「早稲田に於て鮮人4名が放火せるを発見せしが其内(そのうち)2名は戸山ケ原より大久保方面に遁入せり」との報告に接す、是に警戒及び捜査の為巡査5名を同方面に派遣せしが、幾(いくら)もなく、又「鮮人等が或(あるい)は放火し、或は爆弾を投じ、或は毒薬を撤布す」の流言盛んに行はれて、鮮人の迫害随所に演ぜられ、之を本署に同行するもの亦(また)少なからず。

中野警察署
即ち其訛伝(誤報)、蜚語(流言)に過ぎざる事を民衆に宣伝し、人心の安定を図るに努めたるにも拘(かかわ)らず、容易に之を信ぜず、却(かえっ)て悪化の傾向ありし。

渋谷警察署
然れども民衆は固く鮮人の暴行を信じて疑はず、遂に良民と鮮人と誤解して世田谷附近に於て銃殺するの惨劇を演ずるに至り騒擾(さわぎ)漸く甚しく、流言亦次第に拡大せられ、同3日には「鮮人等毒薬を井戸に投じたり」と云ひ、果ては「中渋谷某の井戸に毒薬を投ぜり」とて之を告訴するものありたれども就きて之を検するに又事実にあらず…自警団の警戒亦激越となり、戒凶器を携へて所在に徘徊し…挙動不審と認められるものは直ちに迫害せらるるなど粗暴の行為少なからず。
(文中の世田谷の殺害事件は、政府の報告書の表にはこう記録されている。日時:9月2日午後5時。場所:〈東京〉府下世田ケ谷町大字大子堂425附近道路。犯人氏名:小林隆三。被害者氏名:鮮人(氏名不詳)。罪名:殺人。犯罪事実:猟銃を以て頭部を撃ち殺害す)

世田谷警察署
鮮人を本署に拉致するもの2日の午後8時に於て既に120名に及べり。…4日に至りて鮮人、三軒茶屋に放火せりとの報告に接し、直(ただち)に之を調査すれど、犯人は鮮人にあらずして家僕(使用人)が主家の物置に放火せるなり。

板橋警察署
本署は鮮人に対して外出の中止を慫慂し(勧め)、以て其危険を予防せしも、民衆の感情は次第に興奮し、遂に鮮人の住宅を襲撃するに至りしかば…。

麻布六本木警察署
斯くて自警団の成立を促し、之が為に1名の通行人は鮮人と誤解せられ、霞町に於て群衆の殺害する所となれり。

赤坂青山警察署
同4日午後11時30分、青山南町5丁目裏通方面に方り、数ケ所より、警笛の起ると共に、銃声が亦頻り(しきり)に聞こゆるに至りて鮮人の襲来と誤認し、一時騒擾を生じたりしが、其真相を究むれば、附近邸内なる(附近の屋敷の)、月下の樹影を鮮人と誤解して警戒者の空砲を放てるものなりき。

四谷警察署
鮮人に対する迫害、到る所に起れり。

牛込早稲田警察署
早稲田・山吹町・鶴巻町方面に於ては、恐怖の余り家財を携へて避難するもの多し、是に於て署長自ら部下を率いて同地に赴き、民情の鎮撫に努め、且つ曰く「本日爆弾を携帯せりとて同行せる鮮人を調査するに爆弾と誤解せるものは缶詰、食料品に過ぎず、其の他の鮮人も亦遂に疑ふべきものなし、放火の事、蓋し訛伝に出るなり」と。

喜平橋(google map)

参考資料:神山金作『ふるさと昔ばなし』〈私家版〉、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)


September, 1923
Western Tokyo


As rumors such as riots or fire-settings by Koreans were spreading vigilante groups were formed one after another even in western Tokyo with little damage by the disaster.
According to a government survey 19 were murdered in western Tokyo, including 5 Japanese who were mistakenly murdered as Koreans, but the actual death toll may be higher.

2013年9月9日月曜日

【1923年9月9日前後 池袋 あそこに朝鮮人が行く!】

9月2日の朝、下宿先(長崎村現在の豊島区千川、高松、千早、長崎町あたり)を出ると、近所の人から「李くん、井戸に薬を入れるとか火をつけるとか言って、朝鮮人をみな殺しにしているから行くな」と止められた。「そんな人なら殺されてもしかたがない。私はそんなことしないから」と言って忠告を聞かなかったのがまちがいだった。

雑司が谷をすぎたあたりで避難民に道を尋ねたら、「朝鮮人だ!」と殴るのだ。ちょうど地下足袋を『東亜日報』にくるんでいたが、そのなかにノロ(鹿)狩りの記事があって、「銃」という漢字を見とがめられたのである。大塚警察署に青年たちに連行された。

「警察に行っても話にならない。明日殺すんだ、今日殺すんだ、という話ばかり。信じられなければいけないわけは、半分死んだような人を新しく入れてくるんだ。あ、これは私も殺されると思った。あんまり殴られて、いま(89年)は腰がいたくて階段も登れない」(李さん)

一週間から9日して「君の家はそのままあるから、帰りたければ帰れ」と言われた。不安だったが、安全だからと晩の6時ごろ出された。池袋あたりまできて道に迷ったが、普通の人間に聞いたら大変な目にあう。わざわざ娘さんに聞いたが、教えてくれてから、「あそこに朝鮮人がいく!」と叫んだ。青年たちが追いかけてきたが、李さんは早足で行くしかない。「朝鮮人が行く!」。その声が大きく聞こえる。(中略)

目についた交番に飛び込んで巡査にしがみついた。青年たちは交番のなかでも金さんをこづき、蹴飛ばした。警察官にも殴られた。大塚警察署でもらった風邪薬が発見されると、今度は毒薬だということになった。飲んでみせるとやっと信用され、帰された。

自分の村に着くと、近所の娘さんたちが「よく無事で」と、フロを沸かしたり夕食を作ってくれた。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』教育史料出版会)


当時、東京物理学校(現在の東京理科大学)の学生だった李性求(イ・ソング)さんの経験。後に朝鮮に戻って教職についてからも、後ろから生徒が走ってくる音が聴こえると身体がいつも硬直したという。

先日に引き続き、同会の人々が韓国で聞き取りした証言である。
ほかにもいくつかの証言が掲載されているが、もうひとつだけ紹介する。




婚約中の夫(都相鳳画伯)をおって来日した羅祥允(ナ・サンユン)さんは当時20歳。本郷区弓町の栄楽館という高級下宿にいた。主人がいちばん奥の部屋に隠してくれ、宿泊人名簿を見せろと青年団がきても、追いかえしてくれた。つきあいもなかったが、近所の日本人の奥さんも「外に出ると危険だから」と、缶詰などを買ってきてくれた。(中略)

下宿の窓から外をうかがったとき、前の道を金剛杖のようなものをもって通る青年たちの声が聞こえた。神田で朝鮮人妊婦の腹を刺したら「アボジ(お父さん)、アボジ」と叫んだ、「アボジって何のことだろう」と笑いながら話していたという。

(『風よ鳳仙花の歌をはこべ』)

2013年9月8日日曜日

【2013年9月8日/水道橋 悼む人々(中国人労働者を追悼する集い)】

日本語/English


(前略)その中には私の祖父周瑞楷とその実弟である周瑞興、周瑞方、周瑞勲一家4人兄弟が殺害されています。これは全中国、全世界においても希にみる一家4人の惨殺、全滅という残酷な悲劇です。(中略)

1923年冬、日本から村の18人が殺害されたという消息が伝わりました。当時わが村は全体でも30世帯余り、100人余りしかいない小さな村です。村中に悲憤があふれ、泣き声は3ヶ月以上も続き、悲憤はその後十数年にわたって続きました。わが家では4人も殺されたので、祖母は悲憤の余り病気になり、まともな治療も受けられないままにこの世を去りました。享年25歳でした。祖父たちの遺骨さえなかったので、祖母の遺体は今も大坪山に孤独に埋葬されたままです。

(1923年9月3日、大島7丁目で虐殺された中国人労働者の1人、周瑞楷さんの孫、周江法さんの発言。「関東大震災90周年 関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」資料集より)


当時、中国から日本に働きに来ていたのは、肉体労働者の多くが浙江省温州の人々であった。また、大島では中国人労働者は宿舎に集住していた。そのなかには一族でともに暮らす人々もいた。

「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」(主催・関東大震災中国人受難者を追悼する会)には、中国から多くの遺族が参加した。そのなかには、その死が70年代になってようやく確認された中国人活動家・王希天さんの孫も含まれている(王希天については、9月12日に取り上げる予定)。


「王希天事件」の真相を1980年代初に解明したジャーナリストの田原洋さん


中国の同じ地域から来ていること、日本でも同じ地域で宿舎に集住していたことから、大島で殺害された人々については、名前がほぼ分かっている。「追悼する会」では日本政府に事件の真相究明を求め、これを日本社会の集団的記憶として次の世代に伝えていくことを目指している。


温州の事件遺族たちが焼きものでつくった被害者の名簿


死んだ人は再び生き返ることはありません。生きている人は死者に成り代わって声を上げる必要があります。私たちは死んでいったひとに成り代わって、彼らの苦痛と恨み、憤怒を伝えねばなりません。それはこうした歴史の悲劇を二度と再演させないためです! この世界が永遠に野蛮から遠のき、この世界から戦争を遠ざけ、文明と平和を謳歌するためです。(中略)

この世を去って久しい先人たちよ、安らかなれ!

(周江法さんの発言・同上)

September 8, 2013 at Suidobashi
Ceremony to Commemorate the Chinese Victims

A dozen more family members, including the family of Wang Xi Tian whose death was confirmed only in the 70's, attended the ceremony to commemorate the Chinese workers murdered in the aftermath of the Great Kanto Earthquake.
Zhou Jiang Fa, who lost 4 family members in the Ojima Massacre, said, "We must speak pains, resentments and angers for the deceased in order to prevent the tragedy from happening again".

Many of the victims of Ojima have been identified.
The Association to Commemorate the Chinese Victims of the Great Kanto Earthquake declared at the ceremony that it will call on the Japanese government for thorough investigation of the massacre, and will pass down the truth to the next generation as our remembrance.

【2013年9月8日午後/新大久保 憎む人々】

日本語/English/esperanto



「東京韓国学校無償化撤廃デモin新大久保」



殺戮期を乗り越えた時に国家は変わる。
必ずこの国にも再び殺戮の時代が訪れる。在日韓国人・朝鮮人そして反日極左と本気で命のやり取りをやって叩き殺さなきゃいけない時が必ず到来するんです。
その時に心の強さが問われる。泣いて許しを乞う相手を本当に一刀両断で斬り捨てることが出来るか。大変厳しい選択です。朝鮮人であってもまだ子供。その子供を生かしておいたら、また同じ事を繰り返される。
徳川家康は豊臣家の年端もいかぬ子供まで打ち首にした。生かしておいたら徳川幕府に必ず仇を為したんです。その厳しさがあったからこそ徳川300年の天下泰平が続いた。
(中略)
敵を敵として認識しなさい。
殺戮の時代が到来するまで、恐らくそう時間はかからないと思うんですよ。日常覚悟という言葉を皆さんそれぞれの胸に刻み込みなさい。

(在特会・桜井誠会長の発言。ブログ「最右翼勢力」2011年5月11日付記事より)



桜井誠は、13年4月6日のニコニコ動画で、「有事の際、万が一テロが起きた時には、朝鮮人狩りを行います。誰が何と言おうとやります」とも語ったという(ブログ「松沢呉一の黒子の部屋」13年4月13日付記事による)。彼はまた、関東大震災時の朝鮮人虐殺について、暴れまわった朝鮮人に対して日本人民衆が自警団を作って反撃した結果だ、とも語っている。


かつて私たちは、関東大震災時の朝鮮人虐殺を過去のことだと考えてきた。しかし2000年の石原「三国人発言」を経て、レイシストたちの大久保差別デモ(「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」)を目の当たりにしている2013年、もはやそれを大昔のこととは思えない。今や大事なことは、それを「未来」のことにしないために何ができるかだ。


大久保通りに侵入した差別デモの前に座り込んだ人々
Sit-in against the racist demonstration


On the afternoon of September 8, 2013
Hate Speech at Shin-Okubo

Makoto Sakurai says, "When era of massacre comes to Japan, we must kill Koreans and leftists. Can you kill a man begging you to spare his life? Can you kill a Korean child? You need to prepare yourselves for the time. It will come before too long."

The leader of a racist group also actively affirms the massacre of Koreans after the Great Kanto Earthquake as the "counterattacks" against Koreans trying to riot in the confusion.

We can no longer dismiss the massacre as a thing of the past. What’s important is to prevent it from taking place again.


En la 8-a de septembro 2013, posttagmeze en Shinookubo, Malamantaj homoj

Guvidanto de rasista grupo SAKURAI Makoto diras “Estonte venos epoko de masakro en nia lando. En la epoko ni devos mortigi koreojn kaj maldekstrulojn. Tiam ĉu ni povos mortigi homojn kiuj plorante petas ne mortigu. Ĉu ni mortigu koreajn infanojn. Ni devas havi pretecon. Epoko de masakro venos ne foran estontecon.

Laŭ la opinio de SAKURAI, masakro al koreoj ĉe Kanto-a granda tertremo estis kontraŭatako de japana popolamaso kontraŭ koreoj kiuj puĉis.
Ni japanoj pensis ke masakro al koreoj estis en pasinteco, sed nun ne povas pensi tiel. Grave estas neniam refoje prezenti ĝin

【2013年9月7日/旧四ッ木橋付近 悼む人々】

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関東大震災90周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式ご挨拶

1923年9月、旧四ッ木橋あたりで犠牲となった方々へ。
今日、私たちは皆様方を追悼するため、ここに集まりました。河川敷で追悼式を始めて、32回目となります。

四ッ木橋あたりでは、9月1日から「津波が来る」「朝鮮人が襲ってくる」「朝鮮人が井戸に毒を入れる」などのデマが流れ、民衆による虐殺が始まりました。2日か3日には軍隊が来て、民衆は「万歳、万歳」で迎えました。軍隊は機関銃で撃ち、さらに民衆の虐殺はひどくなったと聞きました。

1982年には「まだ遺体が埋まったままではないか」というお年寄りの証言をもとに試掘を行いましたが、遺体は発見できませんでした。のちに新聞資料で震災後の11月半ば、憲兵と警察官があたりを封鎖して、2日にわたり遺体をどこかに運び去ったことがわかりました。

以後の犠牲者の行方は、わからないまま90周年をむかえています。

(中略)

今年、政府は文部科学省令を変えてまで、朝鮮学校に通う生徒たちを学費無償化から排除しました。東京都教育委員会は、高校日本史副読本の朝鮮人虐殺の記述を、「朝鮮人が尊い命を奪われた」と碑に書いてあると、他人事のように変更しました。大久保や大阪・鶴橋などで、ヘイトスピーチが跋扈しているのはご承知のとおりです。

私たちは、追悼碑解説文の最後を「この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された」と結びました。

今日、3回目のほうせんかの夕べが、この地から日本で共に生きていく意思の発信となり、犠牲者追悼になることを願って主催者の挨拶といたします。

2013年9月7日 
一般社団法人ほうせんか
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会

(「『関東大震災90周年/韓国・朝鮮人犠牲者追悼式とほうせんかの夕べ』リーフレットから)



「関東大震災90周年/韓国・朝鮮人犠牲者追悼式とほうせんかの夕べ」は午後3時に始まった。参加者は約400人。会場は、荒川河川敷。90年前には存在しなかった木根川橋の下だが、かつて四ッ木橋のあった場所より少し下流の方と言うのがふさわしいだろう。90年前、多くの朝鮮人が虐殺されたその場所である。


李政美

朴保




2009年に建てられた追悼碑は、地域の人の協力も得て、きれいに守られている。


「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」(google map)



李政美「京成線」(you tube)

重くよどんだ 川の水に
4両の短い影 映しながら
今日も走るよ 京成線

低い鉄橋の その下には
埋もれたままの 悲しみ眠る
エヘイヨ エヘイヨ

(中略)

顔も知らない ハルモニ、ハラボジ
いくつものアリラン峠越えて
辿り着いたこの町

京成線に乗って帰ろう
この町もまた ふるさと


September 7, 2013
Memorial Ceremony near Yotsugibashi Bridge
A ceremony has been annually held in September since 1982 at the scene of massacre on Arakawa River bank, and 400 people attended this year to commemorate Korean victims. Near the site stands a monument for the victims, which reads: "This was built by people seeking a society where various ethnic groups can live happy lives. We commemorate the victims, reflect on the history and warn against racism and racial discrimination."


En la 7-a de septembro 2013, proksime de la ponto Yotsugibashi, Funebraj homoj

Ĉe masakrejo de multaj koreoj antaŭ 90 jaroj, estis la ponto Yotsugibashi. Tie 400 homoj kolektiĝis kaj havis funebran kunvenon.Oni havas la kunvenon ĉiujare, kaj ĉi-jare la kuveno estis la 32-a fojo. En 2009, oni konstruis la monumenton. Sur la monumento troviĝas “Ni funebras viktimojn, revidi historion, admoni nin pri ekskludo pro alinacieco. La monumento estas konstruata de multaj civitanoj kiuj volas konstrui japanan socion en kiu multaj nacioj kune kaj feliĉe vivas.”


2013年9月6日金曜日

【1923年9月/高円寺 留学生の経験】

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尹克栄(ユン・クギョン)さん(ソウル出身)は、震災当時21歳だった。(中略)1921年に東洋音楽学校に留学、同胞の留学生と高円寺に下宿していた。

震災の後、好奇心で都心はどうなったかと銀座あたりまで出かけて夜通し歩いた。2日にどの場所でか、握り飯配給の列に加わっていたところ、朝鮮人労働者が引きずり出されて殴られるのを目撃する。誰何されて日本語で答えられなかったのだ。こうした場面を数回見た。帰り道では、「朝鮮人が井戸に毒を入れて日本人を殺す」「あらゆる犯罪をしている。朝鮮人を追い出せ」などの貼紙が、時間がたつにつれて増えていった。何カ所かで尹さんも誰何されたが、なれた日本語と日本の学生とかわらない雰囲気のためにまぬがれることができた。

下宿に戻ったが余震が続くため、何日か近くの留学生17人でかたまって竹林で野宿をしていた。中野には電信第一連隊があったが、ふいにそこから7、8人の兵士がやってきた。「朝鮮人だろう、井戸に毒を入れたことがあるか」と尋問する。「そんなことはしない」と言うと、嘘をつくなと2、3人が殴られ、下宿を捜索された。そのころの学生なら有島武郎の本の1冊ぐらいは持っていたが、『惜しみなく愛は奪う』のタイトルが赤い字のため、「共産党だろう」と銃剣を突きつけられ、みんな電信隊に連行されてしまった。「保護」の名目で2、3日留置、調査されたのである。

帰されても軍隊にいたほうが安全だったほど、周囲は物騒だった。友人たちと「どうせ殺されるなら、1人殺して殺されるほうがよい」とまで話していたが(後略)

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』教育史料出版会)



この引用部分のあと、1人の男が彼らを訪ねて来て頭を下げる。玉と石を混同していた、と。「石」とは朝鮮人労働者を指している。さらに軍までが「誤解しないでほしい」と伝えてきたそうだ。要するに、有力者の子弟が多い留学生にむやみに怪我でも負わせれば後々まずいというわけである。

上記の証言は、同会が韓国に渡り、日本留学経験者に聞き取りを行ったもの。

「証言者の多くが語ったのが『労働者が殺された。私たちは留学生だったから助かった』ということだった」(同書)。それは上記のような理由のほかに、労働者たちは日本語を体系的に学んでおらず、「誰何や検問に引っかかったとき、まぬがれるのはむずかしかったろう」ということもある。さらに地域の日本人との関係も薄い場合が多かった。

朝鮮人の多くは労働者で、留学生は少ない。留学生が住んでいたのは現在の杉並区、豊島区、新宿区、文京区などの東京西部の郊外だった。

私たちにとって気になるのは、やはりというべきか、われらが高円寺もまた、朝鮮人にとって命の危険を感じるほどに「物騒」だったということだろう(実際に誰も殺されていないと言えるだろうか)。ちなみに彼らが連行された電信第1連隊は、現在の中野駅北側の「中野四季の都市」(警察学校跡)にあった。

高円寺北中商店街の「なんとかバー」に行くと、留学生や外国の若者と呑むこともしばしばだ。彼らにとって、21世紀の高円寺が「物騒」でない、居心地のいい街であり続けてほしいと思う。



追記:尹克栄は、後に高名な作曲家になり、多くの創作童謡を残した。「オッパ・センガク(お兄ちゃんのことを思う)」など、今も多くの曲が歌い継がれている。

「オッパ・センガク」(you tube)

September, 1923
Experience of a Korean Student

In fear of further damages by the intermittent aftershocks a Korean student living in Koenji slept outside with some other Korean friends. One day soldiers showed up and battered them, saying, "You poured poinson into wells!" They were all taken to the military base nearby and detained for 3 days.
A few days later a man came to his place and apologized for having treated them like Korean workers.

The military did not want the colonial rule of the Korean Peninsula affected by hurting Korean students in Japan, many of whom were from affluent families. In fact, most of the murdered Koreans were workers.


En la septembro 1923, La sperto de iu korea studento en Japanio

La korea studento en Japanio kiu loĝis en Kooenji tiama ĉirkaŭurbo de okcidenta Tokio. Timante duan tertremon li fuĝis kaj tranoktis en arbaro, la armeo proksima batis dirante “vi ĵetis venenon al putoj” kaj kondukis lin. Post 3 tagoj li estis liberigita. Post kelkaj tagoj iu viro vizitis lin kaj pardonpetis al li. Ni pardonpetas trakti vin, korea studento en Japanio, kiel korean laboriston.
Tiam multe da studentoj el koreio estis filoj de eminentuloj. La armeo timis ke okazas probremo por japana rego de koreio pro vundigi filojn de eminentuloj. Plej parto de mortintoj estis koreaj laboristoj.

【1923年9月6日午前2時/埼玉県寄居町警察分署 なんじの隣人を】

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寄居駅からの眺め

寄居の目抜き通り

当時、朝鮮アメ売りというものがいた。彼らは天秤棒の両端に大きな箱をつけたものを担いで、「ちょーせんにんじーん、にんじんあーめ」と独特の節回しで声を張り上げながら、朝鮮人参が原料だというアメを子どもに売って歩くのである。簡単な芸をみせることもあったらしい。工事人夫として働いていた朝鮮人が、工事が終わり仕事がなくなったためにアメ売りになることも多かった。資本がほとんどなくてもできる商売だからだろう。

秩父に近い埼玉県大里郡寄居町にも、朝鮮人の飴売りの若者がいた。28歳の具学永(グ・ハギョン)さんだ。彼が寄居にいついたのは2年前。それ以前はどこで何をしていたのかわからない。やはり工事人夫として働いていたのかもしれない。寄居駅の南にある浄土宗の寺院、正樹院の隣にある安宿「真下屋」に1人で暮らしていた。小柄でやせ型。おだやかで人のいい若者だったという。町の人で、声を張り上げて往来を行く彼のことを知らない者はなかった。

9月1日の震災以降、東京の避難民が持ち込む流言と自警団結成を求める例の県の通達によって、寄居でも消防団がとりあえず自警団に衣替えしたが、橋のたもとに座っているだけでなんということもなく、ましてや具さんに危害を加えようという者はいなかった。

それでも具さんは、不安を感じていた。あるいは、前日に熊谷で何十人もの朝鮮人が何の理由もなく虐殺された事件の報がすでに耳に届いていたのかもしれない。5日の昼ごろ、彼は寄居警察分署に現れ、自ら「保護」を求める。そうは言っても寄居は平和そのものだったので、彼は「何も仕事をせずに遊んでいては申し訳ない」と笑い、敷地の草むしりをして時間を潰していた。

かつて寄居警察分署があった付近(正樹院の東隣)

だが寄居の隣、用土村では、人々は「不逞鮮人」の襲撃に立ち向かう緊張と高揚に包まれていた。事件のきっかけをつくったのは、その日夜遅く、誰かが怪しい男を捕まえてきたことだった。自警団は男を村役場に連行する。ついに本物の「不逞鮮人」を捕らえた興奮に、100人以上が集まったが、取調べの結果、男は本庄署の警部補であることがわかった。

がっかりした人々に対して、芝崎庫之助という男が演説を始める。「寄居の真下屋には本物の朝鮮人がいる。殺してしまおう」。新しい敵をみつけた村人たちはこれに応え、手に手に日本刀、鳶口、棍棒をもって寄居町へと駆け出していった。

途中、具学永さんが寄居警察分署で保護されていることを知った村人は警察署に押し寄せる。朝鮮人を引き渡せと叫ぶ彼らに対し、星柳三署長は玄関先で、わずか4、5人の署員たちとともに説得に努めた。そのうちに寄居の有力者である在郷軍人会の酒井竹次郎中尉も駆けつけ、「ここにいる朝鮮人は善良なアメ売りである」と訴えるが、興奮した彼らは聞く耳をもたない。群衆は署長らを排除して署内になだれ込む。

竹やりや日本刀で斬りつけられ、血を流しながら、具学永さんは留置房のなかに逃げ込んだ。格子の間から竹やりを突き出してくる男たちとにらみ合いがしばらく続いた後、具さんは突入した男たちにずるずると玄関先まで運ばれていき、そこで集団で暴行されて亡くなった。6日の深夜、2時から3時の間の出来事だった。

『大正の朝鮮人虐殺事件』には、留置房のなかに追い込まれていたとき、彼がそばにあったなにかのポスターのうえに、自らの血で「罰 日本 罪無」と書いたという話が出てくる。「日本人、罪なき者を罰す」という意味ではないかという。それははっきりと抗議の意思表示だったと、同著は語る。

10月、芝崎ほか12人が逮捕された。

具学永さんの墓が、今も寄居の正樹院に残っている。正面に「感天愁雨信士」と戒名。右の側面には「大正十二年九月六日亡 朝鮮慶南蔚山郡廂面山田里居 俗名 具学永 行年 二十八才」、左の側面には「施主 宮澤菊次郎 外有志之者」と彫られている。虐殺犠牲者で、名前と出身地が分かり、さらに戒名もついているというのは珍しいという。山岸秀は「それだけ地元住民との日常関係が成立していたということである」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)と書いている。寄居の人々にとって、具学永の死は、確かに名前と個性をもった隣人の死であった。さらに言えば、用土村という隣人による死(殺害)でもあった。

具学永さんの墓


「具学永」の文字が見える。

正樹院(google map)


寄居警察分署の惨劇が未明にあった6日、戒厳司令部は「朝鮮人に対し、其の性質の善悪に拘らず、無法の待遇をなすことを絶対に慎め」「之に暴行を加へたりして、自ら罪人となるな」といった強い調子の「注意」を発表する。これ以来、「有りもせぬことを言触らすと処罰されます」というビラをまき、メディアを規制するなど、政府・軍の流言に対する態度がようやく、はっきりと否定的になる。

この頃から、東京では騒擾状態は次第に落ち着いていった。とは言うものの、すべてが終わったわけではない。軍や民衆による犯罪は一部ではまだ続く。しかし、9月1日からずっと、事件がおきた時間にこだわって日に数回、更新してきたこのブログのスタイルはギアチェンジする時期に来たようだ。

というわけで、明日からは、基本的にはほぼ1日1本のペースでの、とくに時間を特定しない更新になります。日付や時間を特定できない出来事や人々の体験を紹介していくつもりです。今日まで重苦しい数日間を見つめる試みにお付き合いくださった皆さん、ありがとうございます。少なくとも12日まで(たぶんもう少し先まで)は更新を続ける予定です。つまり、もうしばらく1923年9月という時期をみていくことになります。途絶えている英語・韓国語・エスペラント説明文も、追って補いますので、今しばらく、お付き合いください。


参考資料:『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)、北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』(鳩の森書房)

At 2:00am on September 6, 1923
Yorii, Saitama
Death of A Neighbor

KOO Hag-yong had been peacefully living in Yorii, Saitama for 2 years. As everybody in the village knew he was a peaceful candy seller. But things changed after the quake.
Late at night on 6th September folks from neighboring villages rushed into Yorii to hunt an evil Korean. Without listening to the police chief and an influential figure trying to convince that KOO Hag-yong was peaceful and innocent the blood-thirsty mob burst in and lynched him to death. He wrote on a piece of paper with his blood, "The Japanese punished an innocent."
Yorii folks built him a grave and gave him a posthumous Buddhist name. There are only a few cases like this where people made grave for their neighbor Koreans killed by Japanese, and that shows he was truly a neighbor of the people in Yorii.


En la 6-a de septembro je la 2-a antaŭtagiĝe, en Yorii en la gbernio Saitama, Morto de najbaro.

Yorii en la gbernio Saitama estas malgranda urbeto. De antaŭ 2 jaroj tie loĝis korea junulo KOO Hag-yong kiu estis vendisto de dolĉaĵo. Ĉiuj urbetanoj sciis lian mildan karakteron.
Tamen ĉi tiu tago homoj de najbaraj vilaĝoj kiuj serĉas “malbonajn koreojn” alkuris amase. Kvankam konvinkado “li estas bona koreo” de policestro kaj haltigo de urbetaj eminentuloj, ili eniris la policejon kaj mortigis Koo Hag-yong. Skribante sur papero “Japanoj mortigas senkulpulon” KOO mortis.
Poste, la loĝantoj de Yorii konstruis tombon de KOO. Kaj laŭ la budisma kutimo ili nomis postmortan nomon de KOO. En tiu tempo estis rare ke loĝantoj konstruis la tombon de viktima koreo tiel. Tio estas pruvo ke Koo estis vere bona najbaro por Yorii.

2013年9月5日木曜日

【1923年9月5日16時半/羅漢寺(現在の西大島駅)付近 放り出された16人】

日本語/English/esperanto




千葉街道に出ると、朝鮮人が1000人に近いなと思うほど4列に並ばされていました。亀戸警察に一時収容していた人たちです。憲兵と兵隊がある程度ついて、習志野のほうへ護送されるところでした。

もちろん歩いて。列からはみ出すと殴って、捕虜みたいなもので人間扱いじゃないです。(中略)僕は当時純粋の盛りですからね。この人たちが本当に悪いことをするのかなって、気の毒で異様な感じでした。(中略)

ここ(羅漢寺隣の銭湯前)まで来たら、針金で縛って連れてきた朝鮮人が8人ずつ16人いました。さっきの人たちの一部ですね。憲兵が確か2人。兵隊と巡査が4、5人ついているのですが、そのあとを民衆がぞろぞろついてきて「渡せ、渡せ」「俺たちのかたきを渡せ」って、いきり立っているのです。

銭湯に朝鮮人を入れたんです。民衆を追っ払ってね。僕も怖いもの見たさについてきたんだけど、ここで保護して習志野(収容所)に送るんだなあと、よかったなーって思いましたよ。それで帰ろうと思ったら、何分もしないうちに「裏から出たぞー」って騒ぐわけなんです。

何だって見ると、民衆、自警団が殺到していくんです。裏というのは墓地で、一段低くなって水がたまっていました。軍隊も巡査も、あとはいいようにしろと言わんばかりに消えちゃって。さあもうそのあとは、切る、刺す、殴る、蹴る、さすがに鉄砲はなかったけれど、見てはおれませんでした。16人完全にね、殺したんです。5、60人がかたまって、半狂乱で。(中略)

自警団ばかりじゃなく、一般の民衆も裸の入れ墨をした人も、「こいつらがやったんだ」って、夢中になってやったんです。(中略)ちょうど夕方4時半かそこらで、走った血に夕陽が照るのが、いまだに60何年たっても目の前に浮かびます。

(浦辺政雄〈当時16歳〉証言。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』より)



全焼した本所から大島町の親戚のもとに避難していた渡辺さんが目撃した光景である。当時、羅漢寺は現在の位置ではなく、現在の西大島駅(都営新宿線)付近にあった。

やや分かりにくいが、習志野収容所に送られる途中の、1000人近いとも思われる朝鮮人の列から、憲兵が16人だけをよりわけて銭湯の裏口から「放免」し、群衆の殺すがままに任せたということである。

政府と軍は、この数日で、当初実在を信じていた「朝鮮人暴動」がそもそも存在しなかったことに気づき、少しずつ軌道修正を図りつつあった。

朝鮮人の習志野移送は、前日4日の午後4時に第1師団司令部によって決定され、午後10時に具体的な命令が下された。その内容は、かつて戦時捕虜を収容していた習志野収容所に東京近辺の朝鮮人を収容すること、各隊はその警備地域の朝鮮人を「適時収集」して移送すること、というものであった。

朝鮮人を習志野に集中隔離するのは、自警団による虐殺をこれ以上拡大させないための処置である。山本権兵衛首相が5日、「震災に際し、国民自重に関する件(鮮人の所為取締に関する件)」という内閣告諭を出して国民に暴力の自重を求めている。「民衆自ら濫(みだり)に鮮人に迫害を加ふるが如きことは固(もと)より日鮮同化の根本主義に背戻(はいれい)するのみならず、又諸外国に報ぜられて決して好ましきことに非(あら)ず」。警察や軍ではなく、民衆自身が朝鮮人を迫害するのは、韓国を併合した日本の「善意」に反するし、外国で報道されるのは好ましくないという内容だ。虐殺の事実が諸外国で報道され、日本の不利益になることを恐れていたのである。

ちなみに、朝鮮人だけでなく、中国人も習志野に送られている。9月17日の収容最大人数が朝鮮人3079人、中国人1692人であった。9月3日の記事で大島の中国人虐殺について書いたが、この習志野移送命令によって、大島の中国人労働者のうち、虐殺にあわなかった数百人も警官隊によって捕縛され、全員習志野に送られた。大島から中国人の姿は消え、空き家となった中国人宿舎は、そのまま日本人労働者の宿舎となった(先の記事では書き損ねたが、中国人虐殺と時を同じくして、中国人に宿舎を貸していた日本人経営者3、4人も殺されている)。


渡辺少年が目撃したのは、前日夜の命令を受けて、習志野に移送されていく朝鮮人たちだった。ではなぜ、あの16人だけは途中で放り出されて、自警団のえじきに供されたのだろうか。関東大震災時の朝鮮人虐殺の研究では第一人者といえる姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)は、『関東大震災・虐殺の記憶』で、軍や警察の失態を知りすぎた者を処分したのではないかと推察している。

そうかもしれない。しかし、もっと卑小な、わけのわからない理由でたまたま選ばれたのかもしれない。いずれにしろ彼ら16人は、「保護」の建前に従って移送される途中で、自らのあずかり知らない気まぐれのような事情から惨殺されたのである。

(次の更新は6日午前2時の予定です)

参考資料:関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会)、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(青木書店)、田原洋『関東大震災と王希天事件』(三一書房)。





西大島駅(google map)

At 16:30pm on September 5, 1923
Rakanji Temple near the current Nishi-Ojima Train Station
16 Abandoned Koreans

"I saw a procession of over 1000 Koreans being taken by force to a camp in Chiba. They were continually battered by soldiers. The unit somehow released 16 Koreans on the way. As they fleed into the Rakanji Temple, the crowd followed and slaughtered them all. Even now, after 60 years, I still recall seas of blood reflecting the evening sun", said a 76-year-old man.
Although the military decided on September 4, 1923 to take Koreans living in Tokyo to the old internment camp in Narashino, Chiba to stop the massacre by civilians from spreading the 16 Koreans were abondoned. Why?
The historian, Kang Dok Sang, thinks that they might have known too much about blunders by the military and the police, but the actual reason is unknown.


En la 5-a de septembro je la 4-a posttagmeze, ĉe la templo Rakan (ĉ. nuna stacio Nishiooshima), Forĵetataj 16 koreoj

“Mi vidis koreojn kiuj estas transportataj al la koncentrejo en Chiba. Estis vidataj de mi pli ol mil koreoj. Ili piediris batate de japanaj soldatoj kiu gardas ilin. Tio ne estis trakto al homoj. La soldatoj elektis 16 koreojn kaj “reliberigis” ilin sur la loko. La koreoj fuĝis al tombejo malantaŭ la templo. Do amaspopolo alkuris kaj mortigis ilin. Eĉ post 60 jaroj, mi memoras ke subira suno lumigis fluantajn sangojn” (atesto de tiama 16 jaraĝa knabo)
En la antaŭa tago La armeo decidis meti koreojn kiuj loĝas en Tokio al la koncentrejo Narasino en Chiba. Ĉar la armeo ne volas ke popolo ne plu mortigi koreojn. Do kial la armeo forĵetis 16 koreojn? Historiisto GANG Deoksang supozas “Ĉar 16 koreoj sciis eraron de armeo kaj polico.” Sed neniu scias veran kialon.