2013年9月9日月曜日

【1923年9月9日前後 池袋 あそこに朝鮮人が行く!】

9月2日の朝、下宿先(長崎村現在の豊島区千川、高松、千早、長崎町あたり)を出ると、近所の人から「李くん、井戸に薬を入れるとか火をつけるとか言って、朝鮮人をみな殺しにしているから行くな」と止められた。「そんな人なら殺されてもしかたがない。私はそんなことしないから」と言って忠告を聞かなかったのがまちがいだった。

雑司が谷をすぎたあたりで避難民に道を尋ねたら、「朝鮮人だ!」と殴るのだ。ちょうど地下足袋を『東亜日報』にくるんでいたが、そのなかにノロ(鹿)狩りの記事があって、「銃」という漢字を見とがめられたのである。大塚警察署に青年たちに連行された。

「警察に行っても話にならない。明日殺すんだ、今日殺すんだ、という話ばかり。信じられなければいけないわけは、半分死んだような人を新しく入れてくるんだ。あ、これは私も殺されると思った。あんまり殴られて、いま(89年)は腰がいたくて階段も登れない」(李さん)

一週間から9日して「君の家はそのままあるから、帰りたければ帰れ」と言われた。不安だったが、安全だからと晩の6時ごろ出された。池袋あたりまできて道に迷ったが、普通の人間に聞いたら大変な目にあう。わざわざ娘さんに聞いたが、教えてくれてから、「あそこに朝鮮人がいく!」と叫んだ。青年たちが追いかけてきたが、李さんは早足で行くしかない。「朝鮮人が行く!」。その声が大きく聞こえる。(中略)

目についた交番に飛び込んで巡査にしがみついた。青年たちは交番のなかでも金さんをこづき、蹴飛ばした。警察官にも殴られた。大塚警察署でもらった風邪薬が発見されると、今度は毒薬だということになった。飲んでみせるとやっと信用され、帰された。

自分の村に着くと、近所の娘さんたちが「よく無事で」と、フロを沸かしたり夕食を作ってくれた。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』教育史料出版会)


当時、東京物理学校(現在の東京理科大学)の学生だった李性求(イ・ソング)さんの経験。後に朝鮮に戻って教職についてからも、後ろから生徒が走ってくる音が聴こえると身体がいつも硬直したという。

先日に引き続き、同会の人々が韓国で聞き取りした証言である。
ほかにもいくつかの証言が掲載されているが、もうひとつだけ紹介する。




婚約中の夫(都相鳳画伯)をおって来日した羅祥允(ナ・サンユン)さんは当時20歳。本郷区弓町の栄楽館という高級下宿にいた。主人がいちばん奥の部屋に隠してくれ、宿泊人名簿を見せろと青年団がきても、追いかえしてくれた。つきあいもなかったが、近所の日本人の奥さんも「外に出ると危険だから」と、缶詰などを買ってきてくれた。(中略)

下宿の窓から外をうかがったとき、前の道を金剛杖のようなものをもって通る青年たちの声が聞こえた。神田で朝鮮人妊婦の腹を刺したら「アボジ(お父さん)、アボジ」と叫んだ、「アボジって何のことだろう」と笑いながら話していたという。

(『風よ鳳仙花の歌をはこべ』)