2013年9月4日水曜日

【1923年9月4日朝/亀戸署 警察署の中での惨劇】

日本語/English

震災当時、亀戸署は左の高いビルの付近にあった。

朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず2名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。私は同志の殺されたことをここで始めて知り、明け方に聞いた銃声の意味も判りました。

朝になって我慢できなくなり便所に行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3、40の死体が積んでありました。この虐殺について、私は2階だったので直接は見ては居ませんが、階下に収容された人は皆見ているはずです。虐殺のことが判って収容された人は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声をたてず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。

虐殺は4日も一日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降り続きましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。(中略)

亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。

(朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』掲載の全虎巌さんの証言)



有名な「亀戸事件」である。被災者救援活動にあたっていた平沢計七や川合義虎などの労働運動活動家10人が、9月3日夜、亀戸署に検束され、5日に警察の要請を受けた軍(騎兵13連隊)によって殺害されたというものだ(4日の朝、彼らの死について聞いたというのは全さんの記憶違いか?→3日夜殺害説もあり。13/12/24注に追記)。殺された10人のうち、平沢以外は20代、多くは20歳そこそこだった。(注)

しかし、このとき殺されたのは彼らだけではない。自警団4人と、そして人数もわからない多くの朝鮮人たちがいた。

中国人虐殺の記事でふれたように、亀戸署は管轄に工場が密集し、労働運動が多く、ストライキもさかんに行われていることから、これに対する取締り、監視を重要な任務とする公安色の強い警察署であった。ようするに左翼や外国人を敵視する雰囲気がほかの警察署以上に強かった。震災当時の署長の古森繁高も、警視庁特高課長出身であった。

さらに、亀戸署の管内は混乱が激しく(四ッ木橋、大島、亀戸駅周辺も管内)、亀戸署の警官隊は、軍とともに騒擾の現場に出向いては朝鮮人を検束。1000人を超える朝鮮人、中国人で署内はすし詰め状態だった(これに対して、署員の数は230人程度)。これは決して朝鮮人を保護することへの積極性の表れではなく、むしろ「不逞鮮人」検束への積極性の結果である。

先述のように、亀戸署では拘留中の日本人自警団4人も殺害されている。
警視庁は前日の3日以降、勝手にリンチを行うなといった内容のビラをまくなど、権力のコントロールのきかない自警団の活動を抑え込み始めた(同日、「朝鮮人暴動」の飛ばし記事を書き続ける地方紙にも警告)。朝鮮人暴動の実在に否定的になってきた現われでもあるが、この時点ではまだどちらつかずだった。軍は依然として「朝鮮人討伐」を続けている。

自警団の4人は彼らの行動をとがめた警官に日本刀で切りかかって逮捕されていた。房内で「殺すなら殺せ」と騒ぎ続ける彼らに対して、亀戸署は軍に要請して殺害させたのである。

証言者の全虎巌(チョン・ホオム)さんは、川合義虎などが指導する南葛労働組合のメンバーだった。3年前に学校に通うために来日した全さんは、朝鮮独立への思いから社会変革の必要を考えるようになり、この頃、ヤスリ工場の労働者として労組の活動を熱心に行っていた。

2日以降、街中で自警団が朝鮮人を襲うのを目にするようになり、全さんは身の危険を感じる。警察で朝鮮人を収容し始めていると聞き、その方が安全だと判断。2日昼ごろ、工場の日本人の友人たち10数人に取り囲んでもらいつつ、亀戸警察署に向かったのである。道すがら、竹やりが刺さった朝鮮人の死体をあちこちで見た。

だが亀戸署は外よりも危険な場所であった。署内で殺されたなかには、自警団から逃げて亀戸署に飛び込んだ人も多かったと、全さんは語っている。

全さんは7日まで亀戸署に置かれ、その後、習志野の収容所に送られた。4日午後4時に戒厳司令部が東京付近の朝鮮人を習志野の旧捕虜収容所に収容するとの命令を出したのだ。虐殺が国際問題化することを恐れたのである。解放されたあと、全さんは帰国を考えるが、やはり南葛に戻ることにする。組合の仲間たちの安否が知りたかったのである。

亀戸署における10人の活動家殺害については、社会問題となり、政府も10月、事実を認めたが、軍の適正な行動であったとして誰も罪に問われることはなかった。一方、同じ夜に同じ署でおきた朝鮮人虐殺については、真相の一端さえ公式には明らかにされていない。

亀戸署があった場所(google map)

(注)当記事は当初、本日の昼前にアップしましたが、直後に、自警団4人と平沢ら労働運動活動家の死の日時について、資料を誤読していることに気づき、若干の修正をしました。
 ◆13/12/24追記。3日夜に殺害されたという説もあることを知りました。
二村一夫「亀戸事件小論」 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/kameidojikenshoron.html

(次の更新は4日午後4時半の予定です)

参考文献:上記のほか、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、田原洋『関東大震災と王希天事件』(三一書房)など。


On the morning of September 4, 1923
Massacre at a Police Station

The Kameido Police Station began cracking down labor unions and local Koreans immediately after the quake. The station was packed with over a thousand arrested Koreans and Chinese.
Chun Ho-uhm, a member of Nankatsu Labor Union, heard 2 gunshorts a few days after he asked the police for protection. As far as he witnessed himself 50 to 60 people including those who were also asking for protection were killed in the police station. Later he knew 2 leaders of the labor union were the victims of the gunshots. However, little is known about those Koreans killed at the police station.