2013年9月4日水曜日

【1923年9月4日夜/埼玉県熊谷市 地方へと拡大する虐殺:後編】

それにしても、息を呑むほかないような惨劇である。焼け出された人々が、過剰防衛意識ややり場のない怒りから暴力的になるというならまだ分かる。だが被災地から遠く離れた人々がなぜ、ここまで残酷になれたのだろうか。山岸秀は、前掲書のなかで、流入した新住民の過剰な忠誠心、同調意識などを背景として指摘しているが、どうもすっきりしない。しかし、私たちが心にひっかかったのは以下の一節だった。

「自警団、自警団員の中には、自警を超えて、虐殺、朝鮮人いじめを楽しむ者も出てきた。前述で見たような殺し方は、もはや自衛のためのものではなく、社会的に抑圧されていた者が、その屈折した心の発散を弱者に向けるようになったものである」「危険な朝鮮人ではないということを十分に知った上での暴虐であり、自分たちのストレスの発散を求めた、完全な弱い者いじめになっている」「対象は安全に攻撃できる、自分より弱いものであればいいということになる」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)

これは熊谷の事件に特定したものではなく、自警団一般について書いた文章である。むしろ、ここで描かれているのは、特定の時代や国、地域などと関係ない、人間が普遍的にもつ醜さにすぎないといえばそれまでだ。だが、2013年9月の私たちにとって、妙にどこかで見た光景に思えるのはなぜだろうか。少なくとも私たち「知らせ隊」は、こんな光景を見たおぼえがある。

話を1923年9月の熊谷に戻す。
町のあちこちに転がった遺体は、暑いなか、すぐに激しい腐臭を発するようになる。野犬が食いあさる。放置されたままで誰も近づかなかったこれらの遺体を黙々と荷車に積み込み、野焼きしたのは、一人の火葬人夫と、町の助役である新井良作だけだったと、山岸は書いている。その後、熊谷市の初代市長となった新井は、1938年に朝鮮人犠牲者の供養塔を建立。今も供養塔は守られ、毎年、熊谷市主催で供養が営まれている。(※)

熊谷と同じ5日に起こった本庄市(100人前後殺害)や神保原村(現上里町。42人殺害)の事件をはじめ、埼玉県内で殺された朝鮮人は、山岸のまとめによれば200人を超える。それらを裁く公判はその年の11月には判決となったが、懲役4年を最長として、ほとんどが半年か1年程度だった。証人として出廷した本庄署の巡査は「検事は虐殺の様子などに触れることは努めて避けていたようで、最初から最後まで事件に立ち会っていた私に、何ひとつ聞こうとはしなかった」と述懐している(『大正の朝鮮人虐殺事件』)。不真面目な裁判だったようだ。

また、これだけの惨事の引き金を引いたのは、あの県の通達であることは明らかであり、そのことは事件直後からメディアでも指摘されていた。だがこれに対して、当時の県内務部長は「アノ当時ノ状態としてアレ丈の事に気づいたのは寧ろよい事をしたとさへ思つている」(「東京日日新聞」1923年10月24日付。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)と居直るだけだったという。責任はどこかに消えてしまったわけである。

(次の更新は5日午後4時半ごろの予定です)

熊谷寺大原霊園にある供養塔。慰霊塔の左にある献花は民団、右は総連のもの(2013年9月1日撮影)




(※)この供養塔に刻まれた碑文には、具体的な事件の内容も、殺されたのが朝鮮人であることも明記されていないという限界があることも、山岸は指摘している。

参考文献:山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』(早稲田出版)、北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』(鳩の森書房)。

事件が起きた場所

最初の虐殺現場(google map)

熊谷寺(google map)

供養碑(野口石材店の正面墓地内すぐ)(google map)