2013年9月30日月曜日

【75年後に掘り出された遺骨 習志野収容所で殺された人々】

八日 太左エ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰(もら)ふにする 小石川に二斗 本郷に二斗 麻布に二斗 朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く 九時頃に至り二人貰ってくる 都合五人 (ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて仕舞ふ 皆労(つか)れたらしく皆其此(そこ)に寝て居る 夜になるとまた各持場の警戒線に付く。

(姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』)



千葉県八千代市高津地区のある住民が残した日記である。1923年9月8日、村人が朝鮮人を斬殺した日のことを記している。この犠牲者たちは、ほかの事例のように自警団の検問にひっかかったのではない。軍によって習志野収容所で「保護」されていたはずの人々である。軍はひそかに、高津、大和田、大和田新田、萱田など、収容所周辺の村の人々に朝鮮人の殺害を行わせていたのだ。

すでに書いたように、9月4日、戒厳司令部では東京附近の朝鮮人を習志野の捕虜収容所などいくつかの施設に収容し「保護」する方針を決定した。これ以上、自警団による殺害が続けば、国際的な非難も受けるであろうし、日本の朝鮮支配にも悪い影響を与えることを恐れたのだ。

自警団ではなく、何の落ち度もない被害者である朝鮮人の自由を拘束するのは、明らかに不当である。それでも、これによって暴徒化した群衆からは守られることだけは確かなはずであった。現に、前回の記事で紹介した鄭チヨさんの一家、あるいは丸山集落の「福田」さん、「木下」さんは、その後無事に帰って来ている。最大で3200人の朝鮮人を収容した習志野収容所は、およそ2ヵ月後の10月末に閉鎖された。

ところがその間、収容所では不可解なことが起きていた。船橋警察署巡査部長として、習志野収容所への護送者や収容人員について毎日、記録していた渡辺良雄さんは、「1日に2人か3人ぐらいづつ足りなくなる」ことに気がつく。収容所附近の駐在を問いただしたところ、どうも軍が地元の自警団に殺させているのではないかという。

収容される側にいた申鴻湜(シン・ホンジェ)さん(当時18歳・学生)もまた、腑に落ちない体験をしていた。収容所内で朝鮮人の自治活動を組織していたのだが、仲間が拡声器で呼ばれて、そのまま帰って来ないということが繰り返されたのである。軍人に聞くと、「昔の知り合いが訪ねてきた」「親戚が来た」などと言う。だが何のあいさつもないのは妙だ。申さんは疑問を残したまま、収容所を後にすることになった。

軍が近所の村の人々に朝鮮人を殺害させていた事実が明らかになるのは、戦後のことである。研究者の姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)によれば、収容者と釈放累計の間に約300人のずれがあるという。収容前の負傷によって死亡した人も多いと見られるが、この幅のなかに、恐らくはこうして殺害された人々がいる。姜は、「思想的に問題がある」と目された者が選び出されて殺されたのではないかと推測する。

殺害を行った村人の当時の心情は、残された記録や証言だけではつかみかねる。しかしその後、彼らは盆や彼岸には現場に線香を上げ、だんごを供えるなどして供養していたようだ。上の日記で殺害の現場として出てくる「なぎの原」には、いつの頃か、ひそかに卒塔婆が立てられた。

高津の古老たちが重い口を開くのは、1970年代後半のことである。きっかけは、習志野市の中学校の郷土史クラブの子どもたちによる聞き取り調査であった。聞き取りに訪れた子どもたちに、古老たちは当時のことを証言し始めたのだ。冒頭の日記も、中学生が当時のことを調べていると知った住民が「子どもたちには村の歴史を正しく伝えたい」と学校に持ち込んだものである。

同じ時期、船橋市を中心に朝鮮人虐殺の歴史を掘り起こす市民グループも結成され、その働きかけもあって、1982年9月23日、高津区民一同による大施餓鬼会(せがきえ)が行われる。なぎの原には、同地区の観音寺住職の手になる新しい卒塔婆が立った。そこには「一切我今皆懺悔」の文字が入っていた。

98年9月、高津区の総会は、「子や孫の代までこの問題を残してはならない」として、地区で積み立ててきた数百万円を使って現場を発掘することを決断する。親や祖父母たちの行ったあやまちを認めることは決して簡単なことではない。観音寺住職らの粘り強い説得が受け入れられた結果だった。

警官立会いの下、8時間にわたってショベルで掘り進めると、果たして6人の遺骨があらわれた。検視の結果、死後数十年が経っており、当時のものと確認された。翌月、遺骨は観音寺に納められ、翌99年には境内に慰霊碑が建立される。同年1月12日付けの朝日新聞は「心の中では、きちんと供養すべきだとみんな思っていた。時代が流れ、先人たちの行動よりも、軍に逆らえなかった当時の異常さが問題だった、と考え方が変わってきた」という古老の言葉を伝えている。



参考資料:千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、朝日新聞99年1月12日付、沖縄タイムス03年6月13日付など。

【子どもたちの見た朝鮮人虐殺】

「ウチノ山ニ○○○○○ジンガスコシスンデヰマシタガ 七十七バンチノセイネンダンガキテ ソノ○○○○○ジンヲコロシテシマイマシタ」(本郷区尋常小学校1年男児)

「お父さんは○○○○人をころすので私やお母さんや、おばあちゃんや、よね子や、とみ子などはお父さんにわかれました」(深川区同2年女児)

「朝鮮人がころされているといふので私わ行ちゃんと二人で見にいった。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによってみた。すると頭わはれて血みどりになってしゃつわ血でそまっていた。皆んなわ竹の棒で頭をつついて『にくらしいやつだこいつがいうべあばれたやつだ』とさもにくにくしげにつばきをひきかけていってしまった」(横浜市高等小学校1年【現在の中学1年】女児)

「夜は又朝鮮人のさはぎなので驚ろきました私らは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました。それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがって居ました」(同1年女児)

「三日になると朝鮮人騒となって皆竹やりを持たり刀を持たりしてあるき廻ってた。其をして朝鮮人を見るとすぐ殺しので大騒になった。其れで朝鮮人が殺されて川へ流れてくる様を見ると、きびの悪いほどである」(同1年男児)

「オソロシイ朝鮮人ノサハギ世間一パン武器ヲツカイ朝鮮人トタタカイ、マルデ戦国時代ノヨウデアル。朝鮮人ノ死体マルデ石ガコロガツテイルヨウデアル」(横浜市尋常小学校6年男児)

「朝起きてみると、近所の子供が『朝鮮人が交番にしばられているから、見にいかないか』と大きな声で言っていました。君江さんは、私に『見にいかないか』といったので、私はいやともいえないので、じゃあゆきましよう。いって見ると、朝鮮人は電信にいわいつけられて、真青な顔をしていました。よその人は、『こいつにくたらしい人だといって』竹棒で頭をぶったので、朝鮮人はぐったりと、下へ頭をさげてしまいました。わきにいた人は、ぶってばかりいてはいけない。ちゃんと、わけをきいてからでなければいけないと言っていました。朝鮮人は頭を上げながら、かく物をくれと、手まねきしていました。君江さんはもうかえらないかといわれたので、じゃあ帰りましょう、といいながら(後略)」(同高等小学校1年女児)




以上は、震災から半年から1年後に書かれた、子どもの作文の一部である。

琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』(緑蔭書房)は、震災経験を書いた当時の児童の作文のうち、朝鮮人虐殺にふれているものを集めた大部な本だ。原文では学校や児童の名前が入っているが、ここでは省いた。

読み進むと、これまでに読んだ様々な証言以上に、こちらの心が重くなってくる。

ひとつには、あまりにも大量に、造作なく、「死んでいました」「殺してしまいました」といった描写が子どもの作文中に出てくることの衝撃と嫌悪。

もうひとつには、これほどたくさんの子どもたちが無造作に書くほどに、当時、朝鮮人の殺害が珍しくなかった事実を突きつけられること。普通、子どもが学校で「お父さんは人殺しに行きました」と作文に書いたら周囲は騒然となるはずである。学校は警察に相談するだろう。

三つ目は、そこに朝鮮人への同情や虐殺への疑問がうかがえる表現がほとんどないことだ。そうしたなかで、編者の琴秉洞(クム・ピョンドン)が唯一、「救われたような気持ちになった」と記すのは、横浜市寿小学校の高等小学校1年、榊原八重子さんの作文である。長いので、ここでは結びだけ紹介する。

「うむうむとうなっているのは、五、六人の人が木にゆわかれ、顔なぞはめちゃくちゃで目も口もなく、ただ胸のあたりがびくびくと動いているだけであった。/私はいくら朝鮮人が悪い事をしたというが、なんだかしんじようと思ってもしんじる事はできなかった。其の日けいさつのにわでうめいていた人は今何地(どこ)にいるのであろうか」

彼女がこの光景を目撃したのは明け方のことである。その数時間前、彼女の家族のそばに1人の朝鮮人が逃げてきて、助けを求めた。「私朝鮮人あります。らんぼうしません」と彼は訴え、何度も頭を下げた。追っ手に捕まり、連れて行かれる姿を見送ったあと、彼女は一睡もできずに明け方を迎え、警察署前を通りかかったのである。琴秉洞は「なろうことなら、大人たちにこの八重子さんの聡明さと優しさの何分の一かが欲しかった」と嘆じる。

最後にもうひとつ、児童の作文を名前入りで紹介する。深川区霊岸尋常小学校3年生。
彼女の名前は「鄭チヨ」である。



こまつた事/鄭チヨ

(前略)もうここまでは(火が)こないと安心して、その晩は外でねました。あくる日の朝どての所へこやをこしらへてゐると、あつちこつちから丸太を持つた人が来ておとうさんや家にいたしょくにんたちをしばつてけいさつにゆきました。そしてあしたかへしてやるといつてなかなかかへしてくれませんでした。そのばんはお母さんとにげる時、ひろつた赤ちゃんと、家にいた男の子と私と四人でさびしがつてゐました。

すると又しらない男の人が小屋の中にはいつて来て、お前等は○○の女ではないかといひました。お母さんがさうですといひましたら、きさまらころすぞといひました。そしておこりました。私はしんぱいでなき乍(なが)らなんべんもあやまりました。そんなら女の事だからゆるしてやるといつて行きました。よろこんでけいさつにいつてお父さんのいつているならしの(習志野)といふ処へつれていつてもらいました。

お父さんはみんなは死んだと思つてゐましたから、大へんよろこびました。それからみんな東京へ送つてもらいました。



「なき乍らなんべんもあやまりました」の部分に言い知れない胸苦しさを感じる。
彼女にそんなことをさせてはいけなかったのだ。



(9月30日15時加筆)

【諸君、こいつは朝鮮人だぞ  文学者が見た朝鮮人虐殺/江口渙】

屋根と云う屋根は無論の事、連結機の上から機関車の罐(かま)の周囲にまでも、ちょうど、芋虫にたかった蟻のように、べた一面、東京からの避難民を乗せた私たちの列車が、赤羽の鉄橋を北へ渡ったのは、九月八日の午後六時すぎででもあったろうか。
汽車の中は、地震の噂、火事の噂、朝鮮人、社会主義者の噂でもっていっぱいだった。(中略)

汽車が荒川の鉄橋をほとんど渡ろうとした時だった。みんなの話しに耳を貸しながらぼんやり外を眺めていた私は、一丁足らずの上流を、岸に近く、何か白い細長いものが流れて来るのに気がついた。多量に水蒸気を含んで鈍く煙った雨上がりの薄暮と、うす濁りのしている河水のために、最初はその白いものが何であるか、少しも見当がつかなかった。

然し、畦(あぜ)の草叢(くさむら)の上を一群の人々が、その白いものを追い駈けるらしくぞろぞろやって来るのを見た時、ことにみんな手に手に竹槍や鳶口(とびくち)らしいものを持っているうえに、白いものに向かってしきりと石を投げつけているのを見た時、それが何であるかを私ははじめて知った。

「あれは何です」
傍(かたわら)に立っていた若い男がこう私にきいた。
「どうも死骸のようですね」
「きっと鮮人でしょうね。それとも主義者かしら」
「さあ。どっちですかね」

重そうに流れて来る白い細長いものと、投げられた小石がその周囲にしきりにあげる飛沫に眼をやりながら、私は押し潰されるような気持ちでもってこう答えた。そして、さらに息をころしてなおもそれらのものを見詰めた。

「やあ鮮人。鮮人」
「何。鮮人だ。どこに。どこに」
「あれを見ろよ。あれを」

こんな叫びがあっちこっちに起こったと思うと、車内はたちまち物狂わしい鯨波(とき)の声でみたされてしまった。そして、一度に総立ちになったみんなは、互いに肩や頭を押しのけてまでも、ひたすら上流の河面を見ようとさえ焦った。

やがて汽車が鉄橋を渡り終わってそれらのすべてが視界から消えさった時になっても、人々の動揺は鎮まらなかった。そして鮮人と主義者との噂がなおさら盛んに話されたのは云うまでもない。

それから二十分ほどたったのちだった。私から三側後の座席で突然喧嘩(けんか)が始まった。三十四、五歳のカアキ一服を着た在郷軍人らしい男と、四十前後の眼鏡をかけて麦藁(むぎわら)帽子をかぶった商人かとも思われる男とである。(中略)
喧嘩はしばらく続いていた。すると在郷軍人らしい方が、片手を網棚にかけて、突然座席へ突っ立ち上がった。

「諸君、こいつは鮮人だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」
こう叫ぶと片手で相手を指差しながら、四角い顎(あご)を突出して昂然と車中を見渡したと思うと、いきなり足を揚げて頭を蹴った。この場合、鮮人と云う言葉が車中にどんなショックを与えたかは、私が説くまでもない。車内はたちまち総立ちになった。呻(うめ)くような怒声と罵声が一面あたりに迸(ほとばし)って、血の出るような興奮がみるみる不気味な渦を巻き起こす中で、みんなの身体は怖ろしい勢いで波を打った。

「おら鮮人だねえ。鮮人だねえ」
押し合いへし合い、折重なって詰め寄った人間の渦の下から、時どき脅えきったその男の声が聞こえた。しかも相手がおろおろすればするほど、みんなの疑いを増し昂奮を烈しくするばかりだった。

やがて次の駅についた時、その男はホームを固めていた消防隊と青年団と在郷軍人団とに引渡された。そして、手といわず襟(えり)と云わずしゃにむに掴(つか)まれて真逆さまに窓から外へ引摺(ず)り出されたと思うと、いつか物凄いほど鉄拳の雨を浴びた。

「おい。そんな事よせ。よせ日本人だ。日本人だ」
私は思わず窓から首を出してこう叫んだ。側にいた二三人の人もやはり同じような事を怒鳴った。しかしホームの人波はそんなものに耳を貸さない。怒号と叫喚との渦の中にその男を包んだまま、雪崩(なだれ)を打って改札口の方へ動いて行った。そして、いつの間にか鳶口や梶棒がそっちこっちに閃(ひらめ)いたと思うと、帽子を奪われ眼鏡を取られたその男の横顔から赤々と血の流れたのを、私は電燈の光ではっきりと見た。

こうして人の雪崩にもまれながら改札口の彼方にきえて行ったその日本人の後姿をいまだに忘れる事はできない。(中略)そして無防禦(むぼうぎょ)の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにはいかなかった。ことに、その愚昧(ぐまい)と卑劣と無節制とに対して。

(江口渙「車中の出来事」、『関東大震災と朝鮮人虐殺』収録)



1923年11月、江口渙(えぐち・かん)が東京朝日新聞に掲載した随筆である。

江口は、1887年生まれ。夏目漱石の弟子の一人として、芥川龍之介とも親交を結んだ。社会主義に接近し、1920年に日本社会主義同盟が結成されると、その中央執行委員となった。震災前後の頃、日本の社会主義運動はアナ・ボル論争と呼ばれるアナキズムとマルクス主義の対立に揺れていたが、この時期の江口はアナ系である。その後、マルクス主義に接近し、プロレタリア文学運動を主導するようになる。

彼は震災当時、栃木県那須烏山市の実家に滞在していて被害を免れたが、二度にわたって東京に入っている。そのなかで自分自身も自警団に殺されそうになったりもした。

この随筆では、車中で「朝鮮人だ」と決めつけられた男がホームで待ちかまえる自警団に引き渡され、暴行されるが、こうした例は実際に数多く記録されている。東京から東北方面へ多くの人々が列車で避難したが、その過程で、朝鮮人が列車内から引きずり出され、駅の構内や駅前で殺害された。

栃木県では、東北本線石橋駅構内で「下り列車中に潜んで居た氏名不詳の鮮人2名を引き下し、メチャメチャに殴り殺」(上毛新聞23年10月25日)した9月3日夜の事件をはじめ、宇都宮駅、間々田駅、小金井駅、石橋駅、小山駅、東那須(現・那須塩原)駅などで、駅構内や駅周辺において多くの朝鮮人が暴行された。小山駅前では、下車する避難民のなかから朝鮮人を探し出して制裁を加えようと、3000人の群衆が集まった。

検察の発表では、栃木県内で殺害されたのは朝鮮人6人、日本人2人。重傷者は朝鮮人2人、中国人1人、日本人4人。56人が検挙された。

小山駅前では、一人の女性が、朝鮮人に暴行を加えようとする群衆の前に、「こういうことはいけません」「あなた、井戸に毒を入れたところを見たのですか」と叫び、手を広げて立ちはだかったという逸話が残っている。1996年、この女性が74年に92歳で亡くなった大島貞子さんという人であることが、「栃木県朝鮮人真相調査団」の調査で分かった。彼女はキリスト教徒であった。


小山駅ホームから



那須塩原駅前。1923年9月5日夜、朝鮮人の馬達出さんと、一緒にいた宮脇辰至さんが「東那須野村大原間巡査駐在所前道路」で殺害された。



参考資料:江口渙『わが文学半世紀・続』(春陽堂書店)、関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連官庁史料』(緑蔭書房)。

2013年9月29日日曜日

【いわんや殺戮を喜ぶなどは  文学者の見た朝鮮人虐殺/芥川龍之介】

僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。

戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草を啣(くわ)へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤(もっと)も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訳(わけ)ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論(もちろん)さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう」と云ふ外はなかつた。

しかし次手(ついで)にもう一度、何でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽(たちま)ち自説(?)を撤回した。

再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○の陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装(よそ)はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。

尤も善良なる市民になることは、――兎に角(とにかく)苦心を要するものである。


(芥川龍之介「大正十二年九月一日の大震に際して」1923年9月)
(青空文庫)



○…は、検閲による伏字。○○○○○○○○は「不逞鮮人の放火だ」、○○○○は「不逞鮮人」と思われる。

芥川は震災当時、田端の自宅におり、町会で組織された自警団に参加している。このときに、彼がどのような体験をしたのかまでは分からない。たぶん、大きな出来事にはでくわしてはいないだろう。

上の文章は、一読すれば分かるとおり、自警団の一員となった自らを道化役として、朝鮮人暴動の流言が横行した世相や同調圧力を皮肉り、それに惑わされることのなかった盟友・菊池寛を逆説的な表現で称える文章である。

ところが、思いもよらぬ読み方をする人がいるのである。ノンフィクション作家の工藤美代子は、『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』のなかでこの文章についてこう解説してみせる。「芥川龍之介は大火の原因を一部朝鮮人の犯行と見ていたようである」「芥川龍之介は菊池寛に対する激憤の行方として、自死を選んだように思えてならない」「勃興する共産主義の南下を芥川のように日本の危機とみる時代認識抜きには大正という時代は考えられない」。

ようするに、芥川は朝鮮人暴動を信じていた、ところが菊池寛にそれを否定されて憤激のあまり数年後には死を選んだ、彼はまた、共産主義の浸透を日本の危機として憂えていた―というのだ。

もう手の施しようのないほどメチャクチャである。「もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装(よそ)はねばならぬものである」という一文に、平均的なリテラシーのある読者はふつう、「皮肉」を読む。工藤は「私は嘘つきだ」という人に出会ったら、彼を素直に「嘘つき」だと思い込むのであろうか。

ちなみに同書は、関東大震災で起きたことは朝鮮人虐殺ではないと主張する本である。朝鮮人テロリスト集団による暴動は実際に起こったのであり、自警団や軍の暴力はそれへの反撃であったというのである。ここではこれ以上内容について言及しないが、「アポロ11号は月に行かなかった」「プレスリーはまだ生きている」というのと同じくらいばかげた主張である。だがこのばかげた本をほとんど唯一のネタ元として、ネット上に朝鮮人虐殺否定論が広がっているのも確かだ。

芥川が、自警団による朝鮮人虐殺についてどのように考えていたかについては、当時、文芸春秋に連載された「侏儒の言葉」のなかの「或自警団員の言葉」という短文にあらわれている。

「さあ、自警の部署に就こう。今夜は星も木木の梢(こずえ)に涼しい光を放っている」と始まるこの文章は、深夜、「気楽に警戒」する自警団員の独白である。彼は、明日を心配することもなく静かに眠る鳥を称え、それに引き換え地震によって衣食住の安心を奪われただけで苦痛を味わい、過去を悔いたり、未来を不安に思ったりする人間を「なんと云う情けない動物であろう」と嘆くが、そのあとにこう続ける。


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しかしショオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにし給え。我我は兎に角(とにかく)あそこへ来た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯(ただ)冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐(あわれ)まなければならぬ。況(いわん)や殺戮(さつりく)を喜ぶなどは、――尤(もっと)も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。

我我は互に憐まなければならぬ。ショオペンハウエルの厭世観(えんせいかん)の我我に与えた教訓もこう云うことではなかったであろうか?

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(芥川龍之介「侏儒の言葉」1923年11月)
(青空文庫)


朝鮮人虐殺という事実を芥川がどう受け止めていたのか、もはや明らかだろう。

ちなみに、文学史的には「芸術至上主義的」と形容される芥川だが、研究者の関口安義(都留文科大学教授)によれば、震災前後には社会的なテーマや社会主義に強い関心を向けているのだという。震災前年には「社会主義は理非曲直の問題ではない。単に一つの必然である」とまで書いている。先に引用した「侏儒の言葉」には、反軍的なアフォリズムがいくつか見られる。

震災から1年後に芥川が書いた「桃太郎」という短編を青空文庫で読むことができる。ブラックな笑いに満ちて痛快なこの小説を読めば、朝鮮支配を含めて、彼が当時の日本の帝国主義、植民地主義をどう見ていたのか、よく分かる。彼は、工藤が「ほめ殺し」してみせたような、アホらしい人物ではなかった。

(芥川龍之介「桃太郎」1924年6月)
(青空文庫)



参考文献:青空文庫のほか、工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)、『よみがえる芥川龍之介』(NHKライブラリー)ほかの関口安義の著書。

2013年9月26日木曜日

【おん身らは誰を殺したと思ふ  文学者の見た朝鮮人虐殺/折口信夫】

国びとの
心(うら)さぶる世に値(あ)ひしより、
顔よき子らも、
頼まずなりぬ

大正12年の地震の時、9月4日の夕方ここ(増上寺山門)を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦(いったん)事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値(あ)つて以来といふものは、此国(このくに)の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた。

(折口信夫による自歌自註。『日本近代文学大系 46巻 折口信夫集』)



折口信夫(おりくちしのぶ)の晩年の言葉である。

折口信夫は1887年生まれ。国文学、民俗学、詩歌や小説と、幅広い領域で活動した人である。歌人としては「釈迢空(しゃくちょうくう)」と名乗った。しかし、折口といえばやはり民俗学研究が思いおこされる。

折口民俗学の観念で広く知られるのは「まれびと」論だろう。柳田国男が、日本の神の起源を共同体の同質性を保障する祖先への崇拝に求めたのに対して、折口は神の起源を共同体の外、遠い異郷・異界からやってきて幸せをもたらす異質な「まれびと神」への信仰だと考えた。沖縄に、海の向こうの異界「ニライカナイ」への信仰や異装のまれびとが村を訪れる「アカマタ・クロマタ」祭りが今も残っていると知った折口は、二度にわたって沖縄を訪ね、調査を行った。

1923年9月1日を、彼は北九州の門司港で迎えている。二度目の沖縄旅行を終えて帰る途中であった。その後、船で3日夜に横浜に上陸し、4日の正午から夜まで歩き続けて、ようやく谷中清水町(今の池之端)の自宅に戻ることができたのであった。

彼はその道々で、「酸鼻な、残虐な色々の姿」を見ることとなった。サディスティックな自警団の振る舞いには「人間の凄まじさあさましさを痛感した。此気持ちは3カ月や半年、元通りにならなかった」。彼自身が増上寺の門前で自警団に取り囲まれたのは、この日の夜のことだった。彼は、これまで見ることのなかった、この国の人々の別の顔を見たように感じた。

このショックは従来の「滑らかな拍子」の短歌では表現できないと痛感した折口(釈迢空)は、新しい形式として4行からなる四句詩型をつくり出し、10数連の作品「砂けぶり」を創作する。そこには、彼が見た震災直後の東京が、ざらりとした手触りでよみこまれていた。


夜になつた―。
また 蝋燭(ろうそく)と流言の夜だ。
まつくらな町を 金棒ひいて
夜警に出るとしよう


かはゆい子どもが―
大道で ぴちやぴちやしばいて居た。
あの音―。
不逞帰順民の死骸の―。


おん身らは 誰をころしたと思ふ。
陛下のみ名において―。
おそろしい呪文だ。
陛下萬歳 ばあんざあい



あなた方は、誰を殺したと思うのか。天皇の名の下で、という。
「誰」とは不思議な問いである。
あのとき殺されたのは、誰だったのだろうか。何だったのだろうか。



13/12/24修正:「砂けぶり」引用第2連を修正。「しばいて居たつけ」→「しばいて居た」。初出は後者でした。

注)「砂けぶり」の引用は初出のものを採用した。その後、まとめられるなかで、折口はそれぞれ手を加えている。たとえば最後の歌は「おん身らは/誰を殺したと思ふ。/かの尊い/御名において―。/おそろしい呪文だ。/萬歳/ばんざあい」となった。また、「帰順民」とは朝鮮人を指す言葉。韓国併合によって日本に「帰順」した人々という意味で当時使われていた。

参考資料:『日本近代文学大系 46巻 折口信夫集』(角川書店)、石井正己『文豪たちの関東大震災体験記』(小学館101新書)、『折口信夫』(筑摩書房)、中沢新一『未来から来た古代人』(ちくまプリマー新書)。

2013年9月25日水曜日

【化石しろ、醜い骸骨! 文学者の見た朝鮮人虐殺/秋田雨雀】

日本語/English

秋田雨雀は劇作家、童話作家として知られる。関東大震災当時は40歳。数年前から社会主義に接近し、ヒューマニスティックな作風で注目されていた。

1923年9月1日、彼は秋田県にいたが、震災の報を聞いて東京に戻る。雑司が谷の自宅にたどり着いたのは6日のことだったが、その帰路で、彼は殺人を自慢する自警団員と、それを平然と受け入れる群衆を目撃した。多くの朝鮮人留学生と親交を結び、彼らの人間性と民族解放への思いに共感していた秋田にとって、これは大きな衝撃だった。「私は淋しかった!」と、日本人同胞のなかで一人孤立した思いを書き残している。

翌年4月、彼は戯曲「骸骨(がいこつ)の舞跳(ぶちょう)」を発表する。朝鮮人虐殺に対する人間的な怒りをストレートに叩きつける作品であり、彼の戯曲としての代表作となった。



物語の舞台となるのは、震災直後、東京から東北方面に150里のN駅。時間は深夜。傷を負った避難民が収容された救護テントの中だ。疲れきり、ささくれだった人であふれている。

主人公の青年は、朝鮮人襲来の噂を不安げに語る老人に、それを否定して、むしろ朝鮮人が虐殺されている事実を告げて「僕は日本人がつくづく嫌やになりました。もう少し落ち着いた人間らしい国民だと思いました。それが今度のことですっかり裏切られてしまいました」とつぶやく。しかし続けてこうも言う。「僕は国民として日本人には失望しましたが、人間としての日本人には失望していません」。

しばらくすると、自警団の一団がテントに入ってくる。甲冑に陣羽織、在郷軍人の制服、そして手に手に槍や刀と、大時代で滑稽ないでたちである。「このなかに朝鮮人の奴が隠れている」と宣言する彼らは、まもなく、青年と老人の後ろに隠れる若い男を発見する。「僕は何もしていない」「僕は日本人です」と必死に否定する男だが、生年を年号で聞かれて言葉につまってしまう。自警団はおびえる彼の口ぶりを真似して嘲笑する。

このとき、主人公の青年が「よし給え!君達に何の権利があってそんなことを聞くんですか?」と抗議する。このあとに続く彼の大演説は、ほとんど秋田雨雀の叫びそのものである。

甲冑、陣羽織、柔道着…。/君達には一体着る衣服がないのか?
(中略)

君達のいうように、/この人は朝鮮人かも知れない、
しかし朝鮮人は君たちの敵ではない。/日本人、日本人、日本人、
日本人は君たちに何をしたろう?/日本人を苦しめているのは、
朝鮮人でなく日本人自身だ!
そんな簡単な事実が諸君には解っていないのか?
(中略)

この人(朝鮮人の青年)にも敵はあるだろう、
然(しか)しそれは君達じゃないんだ。
君達には解っていない。/何も知らない。
何にも知らされていない。/また何も知ろうと思っていない。
君達の仲間は、この人の友達を
罪も武器もない、/一枚の葉のように従順で無邪気な人達を、
君達の仲間は理由もなく殺したのだ!
(中略)

この人こそほんとうの人間だ!
君達は一体何んだ?/君達の持っているものは、
黴(かび)の生えた死んだ道徳だけだ。
甲冑や陣羽織は骨董品として、/価値があるだろう。
然し生きた人間に何になろう?
もし諸君の心臓の中に血が流れているならば、
諸君は諸君自身の着物が要る筈(はず)だ。

その甲冑を脱いで見給え、/その陣羽織を脱いで見給え、
諸君は生命のない操(あやつり)人形だ!/死蝋だ!
木乃伊(ミイラ)だ!/骸骨だ!

青年の激しい抗議に、自警団の人々は憎しみの目を向ける。「不逞日本人だ…」「主義者だ…」「危険人物だ…」「2人をやっつけろ!」。老人はうろたえ、女たちは泣き叫ぶ。キャンプの中は混乱状態になる。自警団がにじり寄って来る前で、青年は朝鮮人の若者の手をとってさらに語る。

何百人、何千人が、何百年何千年前から、
自分の愛する民衆のために、/殺されたか?
私達は馬鹿な民衆に媚びるために、/生まれたのじゃない、
戦って死ぬために生れたのだ!
正義と友情のために死んで、/行くのだ…。
(中略)

新しい神秘よ!/力と友情との、
新しい人類の結合のために、/生まれ出づる神秘よ!
沸上(わきあが)って/この魂のない醜い潜在の黴を払い落せ!
卑劣なる先祖崇拝の虚偽と/英雄主義と、/民族主義と
の仮面をはぎとって、/醜い骸骨の舞跳(ぶちょう)をおどらせよ。
オオケストラよ、/暫(しばら)く待って呉れ、
化石しろ、/醜い骸骨!
化石しろ、/醜い骸骨!

青年が叫ぶと、甲冑やら陣羽織やら鉢巻やらが、刀を振り上げた姿のままで化石になってしまう。続けて「骸骨よ、跳(おど)り出せ!」と命じると、骸骨と化した自警団は音楽に乗って激しく踊り始め、次第に弱っていく。すると、舞台のそでから鋭い笑い声が響いてくる。

死んだ人々よ/よく笑って呉れた!
オオケストラよ、/最後に別れの輪舞曲を…。
醜い骸骨共よ、/跳りながら消え失せよ!

骸骨たちは関節から折れて地面に倒れていく。一瞬、舞台は暗黒に包まれ、再びほの明るくなったテントのなかでは、女たちがすすり泣いている。看護婦が静かに口を開く。
「お気の毒でした…でもやっぱり…」
こうして、物語は2人の死を暗示して終わる。



秋田雨雀は、早くも1923年9月には朝鮮人虐殺についての論考を読売新聞で発表している(「民族解放の道徳」)。そのなかで彼は、自警団に現れた残虐性が、「戦争によって国家的地位を確立した」日本では「道徳の性質を帯びている」と指摘し、日本人は「国民道徳」から解放されて、「本当の広い自由な新しい道徳」「人類共存の生活」へと進まなくてはならないと主張する。そして
「もし今日の国民教育或いは民族精神というようなものを是認し或いはビ縫して行ったならば、恐らく日本人は幾度も幾度もみにくい残虐性を暴露して、民族の持っているいい素質さえも失ってしまうだろう」
と警告した。

自警団の暴力に、彼は日本の行く末をはっきりと見ていたのである。



参考資料:『日本プロレタリア文学集35』(新日本出版社)【同書には亀戸署で殺された平沢計七の作品も収められている】、山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(創史社)、関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)


How Did A Storywriter Viewed the Massacre of Koreans?
"Petrify, the Ugly Skeleton!" - Ujaku Akita, Skeletons Dance


It was a shock for Ujaku Akita to see vigilante groups boasting of killing of Koreans and people taking it for granted. The storywriter had many friends from Korea. Skeletons Dance, one of his best works, expresses his indignation against Japanese.

The scene is a refuge camp full of injured by the quake where an old man is scared at rumors of Korean riots. The leading character tells him the truth is that Japanese are killing Koreans. After a while a vigilante group comes up searching for a Korean and presses a youth with questions as it finds him hiding behind the old man.
"This man may be a Korean, but Koreans are not your enemy," the main character breaks in. "but still people like you all killed his friends for no reason!"
He accuses the vigilante group of being puppets or skeletons with masks of despicable nationalism. As he calls out, "Petrify, the ugly skeleton!" the vigilante group members turn into skeletons, and dance vigorously until they gradually fade away and finally drop.

In an article Akita contributed to Yomiuri newspaper he pointed out that the cruelty of the vigilante groups had an aspect of a moral of the Japanese society, and warned Japanese would repeatedly express the cruelties and end up losing even their good characters unless they freed themselves from such a moral.


2013年9月21日土曜日

【「あの朝鮮人たちに指一本ふれさせねえぞ」。 朝鮮人を「かくまった」庶民について考える】 

日本語/English


ところが、3丁目と馬込沢の自警団が凶器をもって「丸山に朝鮮人が二人いるが、あれを生かしておいてはならん」といって押しかけてきたんです。(中略)だから徳田安蔵だの富蔵だのの連中は「奴ら、今夜来るに相違ないが、来ても渡すまい。奴らが来ればすぐ殺されちゃう。悪いことしてない人間だし、村の人と愛情をともにしてた人間だから、いくら朝鮮人でも渡さない」ってね。(中略)

丸山の自警団は5~6人くらいで2人を守るため、鉢巻をしめて人数は少ないけど威厳をみせていたわけだ。彼らは40人くらい来たですよ。鉄砲もったり、刀もったり、槍もったりね。まわりに竹薮のある丘の高い所に丸山がいて、下に彼らがいるわけです。奴らは渡せという、こっちは渡さないという。(中略)

徳田オサムが先頭に立って「何も悪いことをしないのに殺すことはねえ、おめえたちには迷惑かけない。俺ら若いもんでもって警察に送り届けるからケエレ!」ってわけでね、やつは身体は小さかったが、けんかは強かったからね。そしたら向こうで「何オーこの! テメエから先ブッ殺すゾォ」なんていいました。そしたら安蔵がね、あのころ45歳くらい(40歳前後の誤り)だったかね。「殺すなら殺してみろ、テメェラがいくらがんばったって俺ら絶対に生命かけたって渡しゃしねえからな」「殺すなら俺こと先殺せ!」なんて言った。

その威厳に驚いて、これじゃしかたないと思ったのか、まさか日本人を殺すわけにいかないから、最後に「それじあお前たち、必ず警察に届けるか」「届ける!それくらいのこと何だ!あの朝鮮人たちに指一本でも触れさせねえぞ、おめえたちに殺す資格ネェだからなあ」と怒鳴り返した。とうとう奴ら「必ずめいわくかけねえなあ」なんていって、けんか別れになった。

その晩はみんなで交代で寝ずに2人の朝鮮人を番してたわけです。それは震災から4日だったか、その次の日船橋警察署に届けました。それから習志野の鉄条網かこった朝鮮人収容所ってところへ送られたということです。そこへ送られたものは憲兵が守ったらしい。

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』)



丸山集落に住んでいた徳田慶蔵さんの証言である。慶蔵さんは当時24歳。集落の「若いもん」だった。

丸山集落は、現在の千葉県船橋市丸山。当時は法典村に属していた。住民は20戸程度で、整備された水田もない、小さく貧しい集落である。土地をもっているのは2軒だけで、残りはみな、小作人だった。

丸山には、2年前から2人の朝鮮人がいた。日本名は「福田」と「木下」。北総鉄道の建設工事で来ていた人々で、工事が終わったあとも、丸山にあったお堂を借りて住んでいたのである。2人は集落に溶け込んでいた。住民の武藤よしさんは、丸顔の福田さんが毎日のように武藤家に来ては話し込んでいったのをおぼえている。

「丸山から死人を出すな」「あの2人は奴らに渡さない」。集落の人々を説得し、団結させたのは、徳田安蔵さん(当時40歳前後)だ。背は低いが迫力があり、間違っていると思えば村長でも怒鳴りつける正義感の強さで、丸山の人々に一目置かれていた。

船橋周辺では、1923年9月4日、自警団による朝鮮人虐殺が各地で繰り返された。もっとも規模が大きかったのは船橋駅北口附近で、38人が殺害された。安蔵さんはこの虐殺を目の当たりにしていた。幼い子どもが「アイゴー」と泣き叫んでいる姿が目に焼きついている、と晩年にも語っている。懇意にしている福田さんと木下さんがあのように殺されるのを黙ってみていることはできなかった。

小さく貧しい丸山集落にとって、周辺集落の意向に逆らうのはあまりにも危険な行動だったはずだ。だが、丸山の人々は安蔵さんの言葉に共感して一丸となり、手に手にカマ、クワ、さらには「肥やしかき棒」まで握って、自警団の集落侵入を防いだのである。徳田慶蔵さんは後に、あのときなぜできたのかを考えると不思議に思う、と語っている。

寝ずの番をして2人を守った翌日(5日ごろ?)、丸山の人々は2人を警察署に連れて行った。このまま集落で守り続けるのは不可能に思われたのだ。「送っていくときには、泣き別れでした」と武藤さんは語っている。

1年後、習志野の収容所に入っていた2人は無事に解放され、あいさつに来た。「そんとき、ひょうきんな人が『おメェら、生命助かってメデテェだから、朝鮮の踊りみたことねえから、知ってたら踊ってみせてくんねえか』っていったら、2人で涙流しながら、アリラン、アリランと踊ってくれましたよ」(徳田慶蔵さん)。

徳田安蔵さんはその後、丸山で農民組合を結成し、小作人の権利のために闘った。他地域の小作争議に応援に行っては、警察に何度も逮捕され、家宅捜索も受けたが、屈しなかった。1926年に労働農民党が結成されると、その党員にもなった。1969年、86歳で亡くなった。

武藤よしさんの夫、韻蔵さんはその後も、朝鮮人の屑買いが来ると何時間も話し込むのが常だった。「朝鮮人も日本人も同じだ」と。晩年は、船橋市で行われていた朝鮮人虐殺の慰霊祭に毎年参加していたという。



関東大震災時の朝鮮人虐殺の記録を読んでいると、朝鮮人をかくまった日本人もいたことがわかる。あれほど軽々と多くの朝鮮人の生命が奪われている最中でも、ひそかに、ときに公然と朝鮮人をかくまった人の記録にしばしば出会うのである。屋根裏にかくした、殺されようとしている子どもを連れて逃げた等である。

「朝鮮人を守った日本人」の話として最も有名なのは横浜の潮見警察署署長の大川常吉だろう。警察署を包囲した1000人の群衆を前に「朝鮮人を奪取するなら君らと死ぬまで戦う」と宣言したといわれる。

この逸話は90年代に一世を風靡した自由主義史観研究会編のベストセラー『教科書が教えない歴史』にも登場した。同書のコンセプトは、子どもや若者が日本を誇らしく思えるような歴史エピソードを集めるというものだったと記憶する。だが私たちは、こうした文脈で大川署長が取り上げられることには違和感をもつ。

もちろん大川署長は尊敬すべき人物である。しかし、多くの日本人が、警察や軍も含めて朝鮮人虐殺に手を染めたときに、それを拒絶した人物を、後世の日本人が「誇れる日本人」という仕方で称揚するのは何かがおかしい。朝鮮人虐殺が私たちにとって明らかに「誇れない歴史」であることをまず認識すべきだ。一人のシンドラーでドイツやナチスを免罪することはできないのと同じである。「都合がよすぎる」と言われても文句は言えまい。

もうひとつ、虐殺を拒絶した日本人は多く存在するのに、なぜそのなかから警察署長だけを選ぶのか、という違和感である。朝鮮人をかくまった人の多くは庶民である。下宿人を空き部屋に隠した下宿屋。隣人を集落でかくまった小作人。同僚を取り囲んで警察に送り届けた工員。列車で隣り合った朝鮮人学生のために「俺が朝鮮人ならどうするんだ」と自警団に食ってかかり、自らが連れて行かれた学生。彼らが守りたかったのは、隣の誰かとの小さな結びつきであって、「日本人の誇り」ではない。

自由主義史観研究会の人々にとって「守った日本人」が庶民ではなく、警察署長でなくてはならないのはなぜか。彼らが誇りたい、擁護したい「日本」が、理性を失った群衆を一喝する警察署長に表象されるような「何か」だからではないだろうか。

だが、たけりくるった「日本人」の群衆が、特定の誰かではなく「朝鮮人」を殺せと叫んでいるとき、その前に一人で立ちふさがる人を支えるのは、「日本人の誇り」ではなく、「人間の矜持」ではないか。私たちは、朝鮮人をかくまったという記録に出会うたびに、あの9月にも、日本人のなかに「人間」であろうとした人がいたのだと感じる。もちろん、大川署長もまた、警察官としての職務を通じて「人間」であろうとしたのに違いない。



朝鮮人を殺した日本人と、朝鮮人を守った日本人。その間にはどのような違いがあったのだろうか。山岸秀はこれについて、守った事例では「たとえ差別的な関係においてであっても、日本人と朝鮮人の間に一定の日常的な人間関係が成立していた」と指摘している。つまり、本物の朝鮮人と話したこともないような連中とは違い、ふだん、朝鮮人の誰かと人としての付き合いをもっている人のなかから、「守る人」が現れたということだ。

言ってしまえば当たり前すぎる話である。だがこの当たり前の話を逆にしてみれば、「差別扇動犯罪(ヘイトクライム)」とは何かが見えてくる。

社会は、多くの人の結びつきの網の目でできている。そこには支配と抑圧がもちろんあるが、そうした力に歪められながらも、助け合うための結びつきも確かにあり、それこそが当たり前の日常を支えている。

植民地支配という構造によって深刻に歪められながらも、当時の朝鮮人と日本人の間においてさえ、生きている日常の場では、ときに同僚だったり、商売相手だったり、友人だったり、夫婦であったりという結びつきがあった。

だが虐殺者は、朝鮮人の個々の誰かであるものを「敵=朝鮮人」という記号に変えて「非人間」化し、それへの暴力を扇動する。誰かの同僚であり、友人である個々の誰かへの暴力が「我々日本人」による敵への防衛行動として正当化される。その結果、「我々日本人」の群れが、人が生きる場に土足でなだれ込んでくることになる。当時の証言には、自宅に乱入した自警団が日本人の妻の目の前で朝鮮人の夫を殺したらしい、という噂話が出てくる。実際にそういうことがあったかどうかはともかく、つまりそういうことなのである。

ヘイトクライムは、日常の場を支えている最低限の小さな結びつきを破壊する犯罪でもあるのだ。ごく日常的な、小さな信頼関係を守るために、危険を冒さなくてはならなかった人々の存在は、日常の場に乱入し「こいつは朝鮮人。こいつは敵」と叫んで暴力を扇動するヘイトクライムの悪質さ、深刻さをこそ伝えている。



最後に蛇足になるが。
すでにふれたように、右傾化の危機が叫ばれ始めた90年代には、「日本の誇り」を叫ぶ人々は、自警団から朝鮮人を守った大川署長を英雄として称揚していた。今日、同種の人々は関東大震災時の朝鮮人虐殺を「悪い朝鮮人を自警団が征伐した事件」と考え、自警団をこそ英雄と考えている。今さらながら、日本社会が深刻な水位に来ていることに慄然とする。


(9月21日19時に、若干の加筆を行いました)


参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)


Saturday, September 21, 2013
Ordinary People Who Defended Koreans


In Funabashi, Chiba Prefecture, 38 Koreans were murdered in front of Funabashi train station in the aftermath of the quake, while in a small and poor village in Funabashi, named Maruyama, only 5 to 6 local youths courageously defended two Koreans living there for 2 years from armed vigilante groups of 40 men trying to kill the Koreans. On the following day the Koreans called Fukuda-san and Kinoshita-san respectively were escorted by the villagers to police station, and then were sent to Narashino Internment Camp. A year later they showed up to tell the villagers that they were doing well. There were many other cases of ordinary Japanese defending Koreans back then.

What's the difference between Japanese who killed Koreans and Japanese who defended Koreans?
The least you could say is that the latter had some sort of relationships with Koreans even if it was something discriminatory. On the contrary, each individual Korean was not seen by the former as a human being but as a part of enemy, and violence against Koreans who obviously were someone's colleagues or friends, or even husbands or wives was justified as a form of self-defense from the enemy. That was hate-crime.


2013年9月19日木曜日

【ある演劇青年の受難、そして間違えて殺された日本人について】

日本語/English

1923年9月2日の夜。19歳の演劇青年、伊藤国夫は興奮していた。軍が多摩川沿いに展開し、神奈川県方面から北上してきた「不逞鮮人」集団を迎え撃って激突しているという噂を耳にしたからだ。戦場は遠からずこの千駄ヶ谷まで拡大してくるに違いない。彼は二階の長持の底から先祖伝来の小刀を持ち出し、いつでも使えるように便所の小窓の下に隠しておいて、向かいの少年とともに家の前で杖を握って「警備」についた。

だが、いつまでたっても何も始まらない。業を煮やした彼は、千駄ヶ谷駅近くの線路の土手に登って「敵情視察」を試みる。すると闇のなか、後ろの方から「鮮人だ、鮮人だ!」という叫び声が聞こえるではないか。さらに、こちらに向かっていくつもの提灯が近づいてくるのが見える。朝鮮人を追っているのだ。よし、はさみ撃ちにしてやろう。伊藤は提灯の方向にまっしぐらに走り出した。

(以下、引用)
そっちへ走って行くと、いきなり腰のあたりをガーンとやられた。あわてて向きなおると、雲つくばかりの大男がステッキをふりかざして「イタア、イタア」と叫んでいる。登山杖をかまえて後ずさりしながら「違うよ!…ちがいますったら!」といくら弁解しても相手は聞こうともせず、ステッキをめったやたらに振りまわしながら「センジンダア、センジンダア!」とわめきつづける。

そのうち提灯たちが集まって来て、ぐるりと私たちを取りまいた。見ると、わめいている大男は、千駄ヶ谷駅前に住む白系ロシア人(ロシア革命時に日本に亡命してきたロシア人)の羅紗売りだった。そっちは朝鮮人でないことは一目でわかるのだが、私の方はそうは行かない。その証拠に、棍棒だの木剣だの竹槍だの薪割だのをもった、これも日本人だか朝鮮人だか見分けのつきにくい連中が、「畜生、白状しろ」「ふてえ野郎だ、国籍をいえ」「うそをぬかすと、叩き殺すぞ」と私をこづきまわすのである。

「いえ、日本人です。そのすぐ先に住んでいるイトウ・クニオです。この通り早稲田の学生です」と学生証を見せても一向ききいれない。そして薪割りを私の頭の上に振りかざしながら「アイウエオ」をいってみろだの、「教育勅語」を暗誦しろだのという。まあ、この二つはどうやら及第したが歴代の天皇の名をいえというには弱った。

(千田是也「わが家の人形芝居」『テアトロ』1961年5号。『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』より重引)


この直後、自警団のなかにいた近所の人が彼に気づき、伊藤は怪我もせずにすんだ。彼は後に、この出来事にちなんで「千田是也」という芸名を名乗るようになる。千駄ヶ谷のコリアンという意味である。千田是也はその後、俳優座を立ち上げるなど、演出家、俳優として成功し、89歳で亡くなった。

彼は運がよかった。当時、朝鮮人に間違えられて殺された日本人や中国人は数多くいる。

政府のまとめでは、朝鮮人に間違えられて殺された日本人は58人。これは犯人が逮捕され、司法手続きの対象となっているものを数えているだけなので、実際にはもっと多くの人が殺されているだろう。記録されている殺害方法は実に残酷だ。たとえば「竹槍、鳶口及び棒を以て乱打し日本刀にて斬付け又は足蹴して」、あるいは「河中にて日本刀を以て後頭部を斬付」け、あるいは「帆桁薪梶柄を以て頭部腰部を殴打し水中に溺死せしめて」、「石塊を投付け」て、「木剣、金熊手、バット等を以て殴打」し、「針金にて後手に縛し竹の棒、鳶口等」で、という具合。

有名なのは千葉県で起きた福田村事件だ。香川県から薬の行商にやってきた親族集団が、朝鮮人と間違われて襲撃を受け、鳶口や棍棒で刺されたり殴られたりしたあげく、8人が利根川に投げ込まれて溺死させられ、逃げた1人は斬り殺された。1923年11月29日付の東京日日新聞は「被害者、売薬商人の妻が渡船場の水中に逃げのび乳まで水の達する所で赤児をだきあげ『助けてくれ』と悲鳴をあげていた」と報じている(『いわれなく殺された人びと』)。

浦安では「日本語がうまくしゃべれず殺された」沖縄県人がいたという証言もある(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。

当時の政府は、これらの日本人殺害について、朝鮮人虐殺という問題の本質をぼやかす方向で積極的に位置づけようとした気配がある。臨時震災救護事務局が極秘でまとめた「鮮人問題に関する協定」(1923年9月5日)には、こうある。

「朝鮮人にして混雑の際危害を受けたるもの少数あるべきも、内地人(日本人)も同様の危害を蒙りたるもの多数あり。皆混乱の際に生じたるものにして、鮮人に対しことさらに大なる危害を加えたる事実なし」

だがこれは詭弁である。これらの日本人はみな、朝鮮人に間違えられたからこそ殺されたのだ。言いかえれば、犯人は、相手を朝鮮人と思って殺したのである。上の言い分では、まるで殺された中にたまたま朝鮮人もいただけであるかのようだ。朝鮮人も日本人も同様に混乱の犠牲になった、というようなまとめ方は事実に反する。

また、上に紹介したような残酷な殺害方法も、「朝鮮人だと思った」相手に向けられたものである。つまり、はるかに多くの朝鮮人が、同様に残酷な方法で殺されたことを意味している。

もうひとつ、千田是也のエピソードで見落としてはならないのは、彼はそもそも短刀や杖を武器に、倒すべき「不逞鮮人」を求めて走っていったということだ。たまたまぶつかったのがロシア人であったために(そして知人が居合わせたために)笑い話に終わったが、本当に朝鮮人にぶつかっていたらどうなっただろうか。彼は純然たる被害者ではないのである。



参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』

Thursday, September 19, 2013
Fortune and Misfortune for Koreya Senda/Mistakenly Murdered Japanese


Instead of encountering "the insurgent Koreans" a student, who later became known as a famous director
Koreya Senda, was surrounded by a vigilante group who mistook him for a Korean.
He was lucky enough to be identified as a Japanese, but according to a government document 58 Japanese were murdered in the aftermath of the quake including the 9 family members from Kagawa Prefecture who were thrown into Tonegawa River and drowned to death by vigilante groups who mistook them for Koreans - known as the Fukudamura Village Case (Chiba Prefecture).

The death toll was certainly more than 58, and a lot more Koreans were also brutally murdered. The facts that we must bear in mind that these Japanese were murdered precisely because they were all mistaken for Koreans, and that Koreya Senda was not genuinely a victim since he was there with swords to beat up Koreans.


2013年9月12日木曜日

【リアルタイム報告の終了と19日からの「まとめ」編予告】

9月1日から6日までの惨劇の時期(まさに桜井誠の言う「殺戮期」)を経て、当ブログは、その虐殺を隠ぺいするために12日未明に行われた王希天の殺害までたどり着きました。

90年前の今頃になると、状況はだいぶ落ち着いてきています。とはいうものの、今日から4日後の9月16日夜には、アナキストの大杉栄、伊藤野枝、そして6歳の甥、橘宗一の3人が甘粕大尉らによって殺害されることになります。これもまた、王希天の殺害と同様、軍組織が手を下した事件ですが、当ブログが追いかけてきた朝鮮人、中国人虐殺とはテーマが離れるので、私たちはそちらに進まずに、別の方向に行こうと思います。

私たちはここで、90年前の今日の今をリアルタイムに伝える報告をいったん終了します。

そして、1週間の休憩をはさんで、19日から掲載を再開。9月前半のような、時間軸に沿って進む報告ではなく、ひとつのテーマや、日時を特定できない出来事などをとりあげる、いわば「まとめ」編に進みます。

ランダムに予告しておけば、習志野収容所は安全だったのか、朝鮮人虐殺から得るべき教訓、朝鮮人を守った庶民をどう見るか、千田是也の経験、国家責任の問題、追悼と慰霊の系譜…などをとりあげる考えです。

そして、当初の予告どおり、9月末には最終的な更新を終えます。
ここまで、90年前の重苦しい時間を共に見てきた皆さん、ありがとうございました。
今しばらく、お付き合いいただければと思います。

【1923年9月12日未明/逆井橋 王希天の70年の「行方不明」】

日本語/English



中隊長初めとして、王希天君を誘い、「お前の国の同胞が騒でるから、訓戒をあたえてくれ」と云うてつれだし、逆井橋の処の鉄橋の処にさしかかりしに、待機していた垣内中尉が来り、君等何処にゆくと、六中隊の将校の一行に云い、まあ一ぷくでもと休み、背より肩にかけ切りかけた。そして彼の顔面及手足等を切りこまさきて、服は焼きすててしまい、携帯の拾円七十銭の金と万年筆は奪ってしまった。(中略)
右の如きことは不法な行為だが、同権利に支配されている日本人でない、外交上不利のため余は黙している。

(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)



上は、第1師団野戦重砲兵第3旅団第1連隊の第6中隊に属する一等兵、久保野茂次が1923年10月19日に記した日記の一部である。

逆井橋は旧中川にかかっている橋で、都営新宿線東大島駅から北に10分ほど歩いた所にある。王希天は1923年9月12日未明、この逆井橋のたもとで、第1連隊の中島大隊長副官の垣内八州夫中尉(終戦時、大佐)によって殺害された。殺害を指示したのは同連隊第6中隊長の佐々木兵吉大尉。金子直旅団長の黙認のもとに行われたものだ。遺体は中川に投げ捨てられた。

王希天は中国人留学生で、当時27歳だった。1896年8月5日、旧満州南の吉林省、長春市に皮革商品を扱う豊かな商人の息子として生まれ、対華21か条要求が出された1915年、18歳で日本へ留学。一高在学中から学生運動に参加するようになり、日中両国を行き来して活動した。周恩来、救世軍の山室軍平、賀川豊彦などとも親交があった。

王は次第に、日本で弱い立場におかれていた中国人労働者の状況に関心を寄せるようになり、震災前年の22年9月、労働者を支援する「僑日共済会」を大島3丁目に設立する。9月3日の記事「中国人はなぜ殺されたのか」で説明したように、大島には中国人の肉体労働者が集住していた。僑日共済会は、彼らのために巡回医療や夜間学校を行い、ばくちやアヘンをやめよう、と生活改善を呼びかけた。労働者たちは王に絶大な信頼を寄せ、ばくち道具を取り上げられても文句ひとつ言わなかったという。

こうして高まっていった団結を背景に、王は、日本人労働ブローカーが中国人に対して日常的に行っていた賃金不払いに対して交渉に乗り出し、これを支払わせる運動を開始する。王の活動は東京にとどまらず、全国に広がっていった。

王は鉄の闘士といったタイプではなく、思想的にも穏健で、裕福な家の出身らしい快活で楽天的な性格だったようだ。だが彼が踏み込んだのは、1980年代に山谷の日雇い労働者の労働運動を指導して暴力団に殺害された山岡強一が立っていたような領域であったと言ってよいだろう。当然、労働ブローカーや労働運動を敵視する亀戸署の刑事たちには激しく憎まれる。後をつけられて短刀で脅されたり、身に覚えのない罪で3日間、警察に拘留されたこともあったという。

9月1日、王は留学生が寄宿する神保町YMCAにいて、その後の数日間は留学生救援に奔走した。一段落ついた9日朝、彼はずっと気になっていた労働者の被災状況を確認するために、自転車に乗って大島に向かう。あの中国人虐殺から6日がたっていた。

大島に入った彼が、虐殺の事実にたどり着いたのかどうかはわからない。というのは、その日の午後には彼は軍に逮捕されてしまったからだ。

軍は、捕らえた中国人が労働者に人望が厚い活動家であることを知り、習志野収容所への中国人移送に協力させることにした。夜は亀戸署に留置され、日中は軍の下で働く。強いられた結果ではあるが、王もまた、習志野移送について「不当であっても唯一の保護策」と考えたのだろう。それから数日間、「習志野に護送されても心配はない」と中国語で書いた掲示を貼り出すなど、積極的に協力している(実際に心配なかったのかどうかについては後日、当ブログで報告する)。

このとき、移送を担当していたのが佐々木大尉率いる第6中隊であり、その1人として王とともに働いた兵士が、冒頭の日記を書いた久保野一等兵だった。文学青年肌で軍組織になじめない22歳の彼は、少し年上でスマートな王に対して、すぐに好感を抱くようになった。

「いつもきちんと蝶ネクタイをしめた好男子。落ちついたらアメリカに留学すると楽しそうに話していた。無学なわれわれ(兵卒)は王希天君と呼んで尊敬していた。お茶もよく一緒に飲んで世間話をしたことを憶えている」(『関東大震災と王希天事件』)。

だが旅団の一部には、「王はさっさと殺したほうがよい」と強く主張する者たちがいた。その背景は分からない。だが、9月3日の中国人虐殺の隠蔽をはかる軍、中国人の指導者を葬り去りたい労働ブローカーと亀戸署の3者の利害が、王の殺害で一致するのは確かだろう。王を解放すれば、また大島で余計なことをかぎまわるに違いないのだ。

軍の書類には、殺害を現場で指導した佐々木大尉が、亀戸署の「巡査ノ1名」から「王希天ハ排日支那人ノ巨頭」だと告げられていたとある。王希天事件を研究する田原洋と仁木ふみ子はともに、事件の背景に警察と労働ブローカーから軍への働きかけを推測している。

こうして9月12日未明、王は殺害された。その後、当時まだ高価だった自転車は「戦利品だ」と称して第6中隊の者が乗り回していた。


12日の朝から姿を見なくなった王希天が、実は殺害されていたことを、久保野一等兵が知ったのは、逆井橋の現場で歩哨に立っていた兵士の口からであった。久保野一等兵は「よくも殺しやがったな。ふざけやがって」と激しい怒りをおぼえる。だが、下手なことを言えば営倉入りではすまない。そのうえ、佐々木大尉は彼の中隊長である。実際、2ヵ月後の11月には、中隊長は講話で「震災の際、兵隊が沢山の鮮人を殺害したそのことにつきては、夢にも一切語ってはならない」と強調する。「それについては、中隊長が殺せし支那人に有名なるものあるので、非常に恐れて、兵隊の口をとめてると一同は察した」(久保野日記1923年11月28日)。久保野は兵営で密かにつけていた日記に、事件について聞いたことを書き残すことしかできなかった。

中国で労働者虐殺への非難と王の失踪への疑惑の声が高まる中、軍は隠ぺいのシナリオを用意する。9月12日未明、佐々木大尉に連行された王希天は、大尉の独断で解放された、その後のことは軍も関知しない、というものである。

「シカシテ翌12日午前3時、(佐々木大尉は)亀戸警察署ヨリ王希天ヲ受領シ、亀戸町東洋モスリン株式会社ニ在リタル右旅団司令部ニ同行ノ途中、種々取調ベヲナシタルトコロ、王希天ハ相当ノ教育モアリ、元支那ノ名望家ニテ在京ノ支那人中ニ知ラレオリ、何等危険ナキ者ト認メタルニヨリ、旅団司令部ニ連レ行キ厳重ナル手続キヲナスヨリハ、此ノママ放置スルヲ可ナリト考エ、本人ニ対シ「(中略)自分ガ責任ヲ負イ逃ガシテヤル」ト告ゲタレバ本人モ非常ニ悦ビタリ。ヨッテ同日午前4時30分ゴロ前記会社西北約千米ノ電車線路附近ニ於テ同人ヲ放置シタルニ、東方小松町方面ニ向カイ立去リタリ」
(戒厳司令部から外務省に提出された文書。『関東大震災と王希天事件』)

王希天はこうして長い間、「行方不明」のままで歴史のなかに消えてしまう。

戦後、事件の真相が少しずつ隠ぺいの底から浮かび上がってくる。最初に、第3旅団で事件の隠ぺい工作を行った遠藤三郎大尉(終戦時、陸軍中将)が、王希天が軍によって殺害されたことを明らかにした。そして1970年代、久保野一等兵がひそかに記していた日記を公表する。彼は兵役を終えてからも「抹殺」を恐れて日記を隠し、大事に保管していたのだ。「あれ以来、そのことが私の脳裏から消えなかった。永い間、私の念願だった王希天の最後の模様を、是非、王の家族に伝えて、成仏させてやりたい」(『いわれなく殺された人々』)。

そして1980年代初め、ジャーナリストの田原洋が、王を斬った垣内八州夫中尉(終戦時、大佐)を探し当て、本人の口から事実が明らかにされるに至った。垣内は、誰を斬ったのかそのときは知らなかった、可哀そうなことをした、中川の鉄橋を渡るときいつも思い出していた、と後悔の言葉を口にする。

1990年、仁木ふみ子が王希天の息子を探し出し、事件の真相を伝える。
その死から約70年が経っていた。


逆井橋(江東区地図




参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、田原洋『関東大震災と王希天事件』(三一書房)、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(青木書店)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人々』(青木書店)


Before Dawn on September 12, 1923
At Sakaibashi Bridge
Wang Xi Tian - Uncovered Truth


A Chinese student and labor movement activist, who went missing right after the quake, was found to have been murdered. Being afraid of his murder developing into a diplomatic problem the military covered up its crime.

Wang Zi Tian, 27, came to Ojimacho on September 9, 1923 to find out what had happened to the Chinese workers there, but soon he was captured, and a few days later was killed by the military.
Decades later, Saburo Endo, then captain, revealed that the military commited the murder, and in the early 80's Yasuo Kakiuchi, then first lieutenant, admitted killing the Chinese at Sakaibashi Bridge.

2013年9月10日火曜日

【1923年9月/小平市・喜平橋 東京西部地域での朝鮮人迫害の状況】

日本語/English




地震の後には必ず火事が付き物。当然、関東大震災のときも東京は火災が発生して東京中が火の海と化して、9月1日の夜は小平からも東の空が真赤に見え炎がメラメラ燃え上がるのも見えるほどだった。当時の東京は殆んど木造平屋の燃えやすい建物であった為、忽ち東京中が火の海になったのである。次の日9月2日になってもまだ東の空が夕焼けのように真赤に見えたほどだった。

この時、誰が何処で言い出したのか大変なデマが飛んで「外国人が川の中へ毒を投げ入れたから水が飲めなくなった」とか、東京に火を点けたのは○○外国人だとか、とんでもないデマが飛び大騒ぎとなった。もうすぐその連中が小平に押し寄せて来るという騒ぎになり大変なパニックになってしまった。

何とか食い止めなければということで回田新田の大人はみんな集まれということになり、各自竹槍、鎌、鍬等を手に茜屋橋に集まったという。山家、野中の人達は喜平橋に、上鈴木の人達は久衛門橋にということで、今日も明日も明後日も毎日待機をしていたそうである。

その後この件でどんな犠牲が出たのか出なかったのか分からない。

(神山金作『ふるさと昔ばなし』〈私家版〉 「小平ふるさと村」に所蔵)


(9月11日追記:タイトルを「東京東部地域~」と間違えていました。もちろん正しくは「東京西部地域~」です)

喜平橋、茜屋橋、久衛門橋は小平市内、五日市街道に沿って流れる玉川上水にかかる橋。国分寺駅から北へ2キロ弱、北上したあたりにある。

当時は東京府北多摩郡小平村。西武線が通り、宅地が切り開かれていくのは昭和に入ってからで、この当時はまだ農村であった。人口約6000人。

都心の混乱から遠く離れた、森深いこの小平村にさえ、自警団が結成されたのである。府中署、八王子署、青梅署といった警察署の後日の報告を見ると、これらの地域でも、人々が朝鮮人の攻撃を恐れて山林に逃げ込み、自警団を結成して武装し、「朝鮮人が吉祥寺巡査駐在所を襲う」「朝鮮人と社会主義者が八王子に大挙して押し寄せてくる」といった流言に右往左往していたことが分かる。

このブログを始めて、よく耳にした感想が、「朝鮮人虐殺は東京東部地域の話だと思っていた、自分の住む西部地域でもあったことがわかって驚いた」といったものだった。もちろん、東京西部でも自警団は結成され、朝鮮人への迫害も起きている。記録に残る殺害件数は確かに少ないが、これは当時、この地域の人口自体が少なかったからにすぎないのかもしれない。もちろん、記録に残っていない殺人があった可能性は大いにある。実際、朝鮮独立派による調査では中野1人、世田谷2人、府中2人死亡となっている。(追記。政府によるまとめで見ると、東京西部地域の死亡者は世田谷・太子堂1、千歳烏山13。日本人を朝鮮人と誤認して殺害したのは品川3、四谷1、広尾1。地名は現在のもの)

以下に、東京西部に住む読者にとってなじみの深い地域の警察署の流言関連報告から少しずつ紹介しておく。ただし、警察署の自己評価であるため、どの報告でも警察は冷静沈着なヒーローとなっている。事実は必ずしもそうではなかったことは、すでに書いてきたとおりである。


淀橋警察署(現在の新宿警察署)
「早稲田に於て鮮人4名が放火せるを発見せしが其内(そのうち)2名は戸山ケ原より大久保方面に遁入せり」との報告に接す、是に警戒及び捜査の為巡査5名を同方面に派遣せしが、幾(いくら)もなく、又「鮮人等が或(あるい)は放火し、或は爆弾を投じ、或は毒薬を撤布す」の流言盛んに行はれて、鮮人の迫害随所に演ぜられ、之を本署に同行するもの亦(また)少なからず。

中野警察署
即ち其訛伝(誤報)、蜚語(流言)に過ぎざる事を民衆に宣伝し、人心の安定を図るに努めたるにも拘(かかわ)らず、容易に之を信ぜず、却(かえっ)て悪化の傾向ありし。

渋谷警察署
然れども民衆は固く鮮人の暴行を信じて疑はず、遂に良民と鮮人と誤解して世田谷附近に於て銃殺するの惨劇を演ずるに至り騒擾(さわぎ)漸く甚しく、流言亦次第に拡大せられ、同3日には「鮮人等毒薬を井戸に投じたり」と云ひ、果ては「中渋谷某の井戸に毒薬を投ぜり」とて之を告訴するものありたれども就きて之を検するに又事実にあらず…自警団の警戒亦激越となり、戒凶器を携へて所在に徘徊し…挙動不審と認められるものは直ちに迫害せらるるなど粗暴の行為少なからず。
(文中の世田谷の殺害事件は、政府の報告書の表にはこう記録されている。日時:9月2日午後5時。場所:〈東京〉府下世田ケ谷町大字大子堂425附近道路。犯人氏名:小林隆三。被害者氏名:鮮人(氏名不詳)。罪名:殺人。犯罪事実:猟銃を以て頭部を撃ち殺害す)

世田谷警察署
鮮人を本署に拉致するもの2日の午後8時に於て既に120名に及べり。…4日に至りて鮮人、三軒茶屋に放火せりとの報告に接し、直(ただち)に之を調査すれど、犯人は鮮人にあらずして家僕(使用人)が主家の物置に放火せるなり。

板橋警察署
本署は鮮人に対して外出の中止を慫慂し(勧め)、以て其危険を予防せしも、民衆の感情は次第に興奮し、遂に鮮人の住宅を襲撃するに至りしかば…。

麻布六本木警察署
斯くて自警団の成立を促し、之が為に1名の通行人は鮮人と誤解せられ、霞町に於て群衆の殺害する所となれり。

赤坂青山警察署
同4日午後11時30分、青山南町5丁目裏通方面に方り、数ケ所より、警笛の起ると共に、銃声が亦頻り(しきり)に聞こゆるに至りて鮮人の襲来と誤認し、一時騒擾を生じたりしが、其真相を究むれば、附近邸内なる(附近の屋敷の)、月下の樹影を鮮人と誤解して警戒者の空砲を放てるものなりき。

四谷警察署
鮮人に対する迫害、到る所に起れり。

牛込早稲田警察署
早稲田・山吹町・鶴巻町方面に於ては、恐怖の余り家財を携へて避難するもの多し、是に於て署長自ら部下を率いて同地に赴き、民情の鎮撫に努め、且つ曰く「本日爆弾を携帯せりとて同行せる鮮人を調査するに爆弾と誤解せるものは缶詰、食料品に過ぎず、其の他の鮮人も亦遂に疑ふべきものなし、放火の事、蓋し訛伝に出るなり」と。

喜平橋(google map)

参考資料:神山金作『ふるさと昔ばなし』〈私家版〉、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)


September, 1923
Western Tokyo


As rumors such as riots or fire-settings by Koreans were spreading vigilante groups were formed one after another even in western Tokyo with little damage by the disaster.
According to a government survey 19 were murdered in western Tokyo, including 5 Japanese who were mistakenly murdered as Koreans, but the actual death toll may be higher.

2013年9月9日月曜日

【1923年9月9日前後 池袋 あそこに朝鮮人が行く!】

9月2日の朝、下宿先(長崎村現在の豊島区千川、高松、千早、長崎町あたり)を出ると、近所の人から「李くん、井戸に薬を入れるとか火をつけるとか言って、朝鮮人をみな殺しにしているから行くな」と止められた。「そんな人なら殺されてもしかたがない。私はそんなことしないから」と言って忠告を聞かなかったのがまちがいだった。

雑司が谷をすぎたあたりで避難民に道を尋ねたら、「朝鮮人だ!」と殴るのだ。ちょうど地下足袋を『東亜日報』にくるんでいたが、そのなかにノロ(鹿)狩りの記事があって、「銃」という漢字を見とがめられたのである。大塚警察署に青年たちに連行された。

「警察に行っても話にならない。明日殺すんだ、今日殺すんだ、という話ばかり。信じられなければいけないわけは、半分死んだような人を新しく入れてくるんだ。あ、これは私も殺されると思った。あんまり殴られて、いま(89年)は腰がいたくて階段も登れない」(李さん)

一週間から9日して「君の家はそのままあるから、帰りたければ帰れ」と言われた。不安だったが、安全だからと晩の6時ごろ出された。池袋あたりまできて道に迷ったが、普通の人間に聞いたら大変な目にあう。わざわざ娘さんに聞いたが、教えてくれてから、「あそこに朝鮮人がいく!」と叫んだ。青年たちが追いかけてきたが、李さんは早足で行くしかない。「朝鮮人が行く!」。その声が大きく聞こえる。(中略)

目についた交番に飛び込んで巡査にしがみついた。青年たちは交番のなかでも金さんをこづき、蹴飛ばした。警察官にも殴られた。大塚警察署でもらった風邪薬が発見されると、今度は毒薬だということになった。飲んでみせるとやっと信用され、帰された。

自分の村に着くと、近所の娘さんたちが「よく無事で」と、フロを沸かしたり夕食を作ってくれた。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』教育史料出版会)


当時、東京物理学校(現在の東京理科大学)の学生だった李性求(イ・ソング)さんの経験。後に朝鮮に戻って教職についてからも、後ろから生徒が走ってくる音が聴こえると身体がいつも硬直したという。

先日に引き続き、同会の人々が韓国で聞き取りした証言である。
ほかにもいくつかの証言が掲載されているが、もうひとつだけ紹介する。




婚約中の夫(都相鳳画伯)をおって来日した羅祥允(ナ・サンユン)さんは当時20歳。本郷区弓町の栄楽館という高級下宿にいた。主人がいちばん奥の部屋に隠してくれ、宿泊人名簿を見せろと青年団がきても、追いかえしてくれた。つきあいもなかったが、近所の日本人の奥さんも「外に出ると危険だから」と、缶詰などを買ってきてくれた。(中略)

下宿の窓から外をうかがったとき、前の道を金剛杖のようなものをもって通る青年たちの声が聞こえた。神田で朝鮮人妊婦の腹を刺したら「アボジ(お父さん)、アボジ」と叫んだ、「アボジって何のことだろう」と笑いながら話していたという。

(『風よ鳳仙花の歌をはこべ』)

2013年9月8日日曜日

【2013年9月8日/水道橋 悼む人々(中国人労働者を追悼する集い)】

日本語/English


(前略)その中には私の祖父周瑞楷とその実弟である周瑞興、周瑞方、周瑞勲一家4人兄弟が殺害されています。これは全中国、全世界においても希にみる一家4人の惨殺、全滅という残酷な悲劇です。(中略)

1923年冬、日本から村の18人が殺害されたという消息が伝わりました。当時わが村は全体でも30世帯余り、100人余りしかいない小さな村です。村中に悲憤があふれ、泣き声は3ヶ月以上も続き、悲憤はその後十数年にわたって続きました。わが家では4人も殺されたので、祖母は悲憤の余り病気になり、まともな治療も受けられないままにこの世を去りました。享年25歳でした。祖父たちの遺骨さえなかったので、祖母の遺体は今も大坪山に孤独に埋葬されたままです。

(1923年9月3日、大島7丁目で虐殺された中国人労働者の1人、周瑞楷さんの孫、周江法さんの発言。「関東大震災90周年 関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」資料集より)


当時、中国から日本に働きに来ていたのは、肉体労働者の多くが浙江省温州の人々であった。また、大島では中国人労働者は宿舎に集住していた。そのなかには一族でともに暮らす人々もいた。

「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」(主催・関東大震災中国人受難者を追悼する会)には、中国から多くの遺族が参加した。そのなかには、その死が70年代になってようやく確認された中国人活動家・王希天さんの孫も含まれている(王希天については、9月12日に取り上げる予定)。


「王希天事件」の真相を1980年代初に解明したジャーナリストの田原洋さん


中国の同じ地域から来ていること、日本でも同じ地域で宿舎に集住していたことから、大島で殺害された人々については、名前がほぼ分かっている。「追悼する会」では日本政府に事件の真相究明を求め、これを日本社会の集団的記憶として次の世代に伝えていくことを目指している。


温州の事件遺族たちが焼きものでつくった被害者の名簿


死んだ人は再び生き返ることはありません。生きている人は死者に成り代わって声を上げる必要があります。私たちは死んでいったひとに成り代わって、彼らの苦痛と恨み、憤怒を伝えねばなりません。それはこうした歴史の悲劇を二度と再演させないためです! この世界が永遠に野蛮から遠のき、この世界から戦争を遠ざけ、文明と平和を謳歌するためです。(中略)

この世を去って久しい先人たちよ、安らかなれ!

(周江法さんの発言・同上)

September 8, 2013 at Suidobashi
Ceremony to Commemorate the Chinese Victims

A dozen more family members, including the family of Wang Xi Tian whose death was confirmed only in the 70's, attended the ceremony to commemorate the Chinese workers murdered in the aftermath of the Great Kanto Earthquake.
Zhou Jiang Fa, who lost 4 family members in the Ojima Massacre, said, "We must speak pains, resentments and angers for the deceased in order to prevent the tragedy from happening again".

Many of the victims of Ojima have been identified.
The Association to Commemorate the Chinese Victims of the Great Kanto Earthquake declared at the ceremony that it will call on the Japanese government for thorough investigation of the massacre, and will pass down the truth to the next generation as our remembrance.

【2013年9月8日午後/新大久保 憎む人々】

日本語/English/esperanto



「東京韓国学校無償化撤廃デモin新大久保」



殺戮期を乗り越えた時に国家は変わる。
必ずこの国にも再び殺戮の時代が訪れる。在日韓国人・朝鮮人そして反日極左と本気で命のやり取りをやって叩き殺さなきゃいけない時が必ず到来するんです。
その時に心の強さが問われる。泣いて許しを乞う相手を本当に一刀両断で斬り捨てることが出来るか。大変厳しい選択です。朝鮮人であってもまだ子供。その子供を生かしておいたら、また同じ事を繰り返される。
徳川家康は豊臣家の年端もいかぬ子供まで打ち首にした。生かしておいたら徳川幕府に必ず仇を為したんです。その厳しさがあったからこそ徳川300年の天下泰平が続いた。
(中略)
敵を敵として認識しなさい。
殺戮の時代が到来するまで、恐らくそう時間はかからないと思うんですよ。日常覚悟という言葉を皆さんそれぞれの胸に刻み込みなさい。

(在特会・桜井誠会長の発言。ブログ「最右翼勢力」2011年5月11日付記事より)



桜井誠は、13年4月6日のニコニコ動画で、「有事の際、万が一テロが起きた時には、朝鮮人狩りを行います。誰が何と言おうとやります」とも語ったという(ブログ「松沢呉一の黒子の部屋」13年4月13日付記事による)。彼はまた、関東大震災時の朝鮮人虐殺について、暴れまわった朝鮮人に対して日本人民衆が自警団を作って反撃した結果だ、とも語っている。


かつて私たちは、関東大震災時の朝鮮人虐殺を過去のことだと考えてきた。しかし2000年の石原「三国人発言」を経て、レイシストたちの大久保差別デモ(「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」)を目の当たりにしている2013年、もはやそれを大昔のこととは思えない。今や大事なことは、それを「未来」のことにしないために何ができるかだ。


大久保通りに侵入した差別デモの前に座り込んだ人々
Sit-in against the racist demonstration


On the afternoon of September 8, 2013
Hate Speech at Shin-Okubo

Makoto Sakurai says, "When era of massacre comes to Japan, we must kill Koreans and leftists. Can you kill a man begging you to spare his life? Can you kill a Korean child? You need to prepare yourselves for the time. It will come before too long."

The leader of a racist group also actively affirms the massacre of Koreans after the Great Kanto Earthquake as the "counterattacks" against Koreans trying to riot in the confusion.

We can no longer dismiss the massacre as a thing of the past. What’s important is to prevent it from taking place again.


En la 8-a de septembro 2013, posttagmeze en Shinookubo, Malamantaj homoj

Guvidanto de rasista grupo SAKURAI Makoto diras “Estonte venos epoko de masakro en nia lando. En la epoko ni devos mortigi koreojn kaj maldekstrulojn. Tiam ĉu ni povos mortigi homojn kiuj plorante petas ne mortigu. Ĉu ni mortigu koreajn infanojn. Ni devas havi pretecon. Epoko de masakro venos ne foran estontecon.

Laŭ la opinio de SAKURAI, masakro al koreoj ĉe Kanto-a granda tertremo estis kontraŭatako de japana popolamaso kontraŭ koreoj kiuj puĉis.
Ni japanoj pensis ke masakro al koreoj estis en pasinteco, sed nun ne povas pensi tiel. Grave estas neniam refoje prezenti ĝin

【2013年9月7日/旧四ッ木橋付近 悼む人々】

日本語/English/esperanto


関東大震災90周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式ご挨拶

1923年9月、旧四ッ木橋あたりで犠牲となった方々へ。
今日、私たちは皆様方を追悼するため、ここに集まりました。河川敷で追悼式を始めて、32回目となります。

四ッ木橋あたりでは、9月1日から「津波が来る」「朝鮮人が襲ってくる」「朝鮮人が井戸に毒を入れる」などのデマが流れ、民衆による虐殺が始まりました。2日か3日には軍隊が来て、民衆は「万歳、万歳」で迎えました。軍隊は機関銃で撃ち、さらに民衆の虐殺はひどくなったと聞きました。

1982年には「まだ遺体が埋まったままではないか」というお年寄りの証言をもとに試掘を行いましたが、遺体は発見できませんでした。のちに新聞資料で震災後の11月半ば、憲兵と警察官があたりを封鎖して、2日にわたり遺体をどこかに運び去ったことがわかりました。

以後の犠牲者の行方は、わからないまま90周年をむかえています。

(中略)

今年、政府は文部科学省令を変えてまで、朝鮮学校に通う生徒たちを学費無償化から排除しました。東京都教育委員会は、高校日本史副読本の朝鮮人虐殺の記述を、「朝鮮人が尊い命を奪われた」と碑に書いてあると、他人事のように変更しました。大久保や大阪・鶴橋などで、ヘイトスピーチが跋扈しているのはご承知のとおりです。

私たちは、追悼碑解説文の最後を「この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された」と結びました。

今日、3回目のほうせんかの夕べが、この地から日本で共に生きていく意思の発信となり、犠牲者追悼になることを願って主催者の挨拶といたします。

2013年9月7日 
一般社団法人ほうせんか
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会

(「『関東大震災90周年/韓国・朝鮮人犠牲者追悼式とほうせんかの夕べ』リーフレットから)



「関東大震災90周年/韓国・朝鮮人犠牲者追悼式とほうせんかの夕べ」は午後3時に始まった。参加者は約400人。会場は、荒川河川敷。90年前には存在しなかった木根川橋の下だが、かつて四ッ木橋のあった場所より少し下流の方と言うのがふさわしいだろう。90年前、多くの朝鮮人が虐殺されたその場所である。


李政美

朴保




2009年に建てられた追悼碑は、地域の人の協力も得て、きれいに守られている。


「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」(google map)



李政美「京成線」(you tube)

重くよどんだ 川の水に
4両の短い影 映しながら
今日も走るよ 京成線

低い鉄橋の その下には
埋もれたままの 悲しみ眠る
エヘイヨ エヘイヨ

(中略)

顔も知らない ハルモニ、ハラボジ
いくつものアリラン峠越えて
辿り着いたこの町

京成線に乗って帰ろう
この町もまた ふるさと


September 7, 2013
Memorial Ceremony near Yotsugibashi Bridge
A ceremony has been annually held in September since 1982 at the scene of massacre on Arakawa River bank, and 400 people attended this year to commemorate Korean victims. Near the site stands a monument for the victims, which reads: "This was built by people seeking a society where various ethnic groups can live happy lives. We commemorate the victims, reflect on the history and warn against racism and racial discrimination."


En la 7-a de septembro 2013, proksime de la ponto Yotsugibashi, Funebraj homoj

Ĉe masakrejo de multaj koreoj antaŭ 90 jaroj, estis la ponto Yotsugibashi. Tie 400 homoj kolektiĝis kaj havis funebran kunvenon.Oni havas la kunvenon ĉiujare, kaj ĉi-jare la kuveno estis la 32-a fojo. En 2009, oni konstruis la monumenton. Sur la monumento troviĝas “Ni funebras viktimojn, revidi historion, admoni nin pri ekskludo pro alinacieco. La monumento estas konstruata de multaj civitanoj kiuj volas konstrui japanan socion en kiu multaj nacioj kune kaj feliĉe vivas.”


2013年9月6日金曜日

【1923年9月/高円寺 留学生の経験】

日本語/English/esperanto

尹克栄(ユン・クギョン)さん(ソウル出身)は、震災当時21歳だった。(中略)1921年に東洋音楽学校に留学、同胞の留学生と高円寺に下宿していた。

震災の後、好奇心で都心はどうなったかと銀座あたりまで出かけて夜通し歩いた。2日にどの場所でか、握り飯配給の列に加わっていたところ、朝鮮人労働者が引きずり出されて殴られるのを目撃する。誰何されて日本語で答えられなかったのだ。こうした場面を数回見た。帰り道では、「朝鮮人が井戸に毒を入れて日本人を殺す」「あらゆる犯罪をしている。朝鮮人を追い出せ」などの貼紙が、時間がたつにつれて増えていった。何カ所かで尹さんも誰何されたが、なれた日本語と日本の学生とかわらない雰囲気のためにまぬがれることができた。

下宿に戻ったが余震が続くため、何日か近くの留学生17人でかたまって竹林で野宿をしていた。中野には電信第一連隊があったが、ふいにそこから7、8人の兵士がやってきた。「朝鮮人だろう、井戸に毒を入れたことがあるか」と尋問する。「そんなことはしない」と言うと、嘘をつくなと2、3人が殴られ、下宿を捜索された。そのころの学生なら有島武郎の本の1冊ぐらいは持っていたが、『惜しみなく愛は奪う』のタイトルが赤い字のため、「共産党だろう」と銃剣を突きつけられ、みんな電信隊に連行されてしまった。「保護」の名目で2、3日留置、調査されたのである。

帰されても軍隊にいたほうが安全だったほど、周囲は物騒だった。友人たちと「どうせ殺されるなら、1人殺して殺されるほうがよい」とまで話していたが(後略)

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』教育史料出版会)



この引用部分のあと、1人の男が彼らを訪ねて来て頭を下げる。玉と石を混同していた、と。「石」とは朝鮮人労働者を指している。さらに軍までが「誤解しないでほしい」と伝えてきたそうだ。要するに、有力者の子弟が多い留学生にむやみに怪我でも負わせれば後々まずいというわけである。

上記の証言は、同会が韓国に渡り、日本留学経験者に聞き取りを行ったもの。

「証言者の多くが語ったのが『労働者が殺された。私たちは留学生だったから助かった』ということだった」(同書)。それは上記のような理由のほかに、労働者たちは日本語を体系的に学んでおらず、「誰何や検問に引っかかったとき、まぬがれるのはむずかしかったろう」ということもある。さらに地域の日本人との関係も薄い場合が多かった。

朝鮮人の多くは労働者で、留学生は少ない。留学生が住んでいたのは現在の杉並区、豊島区、新宿区、文京区などの東京西部の郊外だった。

私たちにとって気になるのは、やはりというべきか、われらが高円寺もまた、朝鮮人にとって命の危険を感じるほどに「物騒」だったということだろう(実際に誰も殺されていないと言えるだろうか)。ちなみに彼らが連行された電信第1連隊は、現在の中野駅北側の「中野四季の都市」(警察学校跡)にあった。

高円寺北中商店街の「なんとかバー」に行くと、留学生や外国の若者と呑むこともしばしばだ。彼らにとって、21世紀の高円寺が「物騒」でない、居心地のいい街であり続けてほしいと思う。



追記:尹克栄は、後に高名な作曲家になり、多くの創作童謡を残した。「オッパ・センガク(お兄ちゃんのことを思う)」など、今も多くの曲が歌い継がれている。

「オッパ・センガク」(you tube)

September, 1923
Experience of a Korean Student

In fear of further damages by the intermittent aftershocks a Korean student living in Koenji slept outside with some other Korean friends. One day soldiers showed up and battered them, saying, "You poured poinson into wells!" They were all taken to the military base nearby and detained for 3 days.
A few days later a man came to his place and apologized for having treated them like Korean workers.

The military did not want the colonial rule of the Korean Peninsula affected by hurting Korean students in Japan, many of whom were from affluent families. In fact, most of the murdered Koreans were workers.


En la septembro 1923, La sperto de iu korea studento en Japanio

La korea studento en Japanio kiu loĝis en Kooenji tiama ĉirkaŭurbo de okcidenta Tokio. Timante duan tertremon li fuĝis kaj tranoktis en arbaro, la armeo proksima batis dirante “vi ĵetis venenon al putoj” kaj kondukis lin. Post 3 tagoj li estis liberigita. Post kelkaj tagoj iu viro vizitis lin kaj pardonpetis al li. Ni pardonpetas trakti vin, korea studento en Japanio, kiel korean laboriston.
Tiam multe da studentoj el koreio estis filoj de eminentuloj. La armeo timis ke okazas probremo por japana rego de koreio pro vundigi filojn de eminentuloj. Plej parto de mortintoj estis koreaj laboristoj.

【1923年9月6日午前2時/埼玉県寄居町警察分署 なんじの隣人を】

日本語/English/esperanto

寄居駅からの眺め

寄居の目抜き通り

当時、朝鮮アメ売りというものがいた。彼らは天秤棒の両端に大きな箱をつけたものを担いで、「ちょーせんにんじーん、にんじんあーめ」と独特の節回しで声を張り上げながら、朝鮮人参が原料だというアメを子どもに売って歩くのである。簡単な芸をみせることもあったらしい。工事人夫として働いていた朝鮮人が、工事が終わり仕事がなくなったためにアメ売りになることも多かった。資本がほとんどなくてもできる商売だからだろう。

秩父に近い埼玉県大里郡寄居町にも、朝鮮人の飴売りの若者がいた。28歳の具学永(グ・ハギョン)さんだ。彼が寄居にいついたのは2年前。それ以前はどこで何をしていたのかわからない。やはり工事人夫として働いていたのかもしれない。寄居駅の南にある浄土宗の寺院、正樹院の隣にある安宿「真下屋」に1人で暮らしていた。小柄でやせ型。おだやかで人のいい若者だったという。町の人で、声を張り上げて往来を行く彼のことを知らない者はなかった。

9月1日の震災以降、東京の避難民が持ち込む流言と自警団結成を求める例の県の通達によって、寄居でも消防団がとりあえず自警団に衣替えしたが、橋のたもとに座っているだけでなんということもなく、ましてや具さんに危害を加えようという者はいなかった。

それでも具さんは、不安を感じていた。あるいは、前日に熊谷で何十人もの朝鮮人が何の理由もなく虐殺された事件の報がすでに耳に届いていたのかもしれない。5日の昼ごろ、彼は寄居警察分署に現れ、自ら「保護」を求める。そうは言っても寄居は平和そのものだったので、彼は「何も仕事をせずに遊んでいては申し訳ない」と笑い、敷地の草むしりをして時間を潰していた。

かつて寄居警察分署があった付近(正樹院の東隣)

だが寄居の隣、用土村では、人々は「不逞鮮人」の襲撃に立ち向かう緊張と高揚に包まれていた。事件のきっかけをつくったのは、その日夜遅く、誰かが怪しい男を捕まえてきたことだった。自警団は男を村役場に連行する。ついに本物の「不逞鮮人」を捕らえた興奮に、100人以上が集まったが、取調べの結果、男は本庄署の警部補であることがわかった。

がっかりした人々に対して、芝崎庫之助という男が演説を始める。「寄居の真下屋には本物の朝鮮人がいる。殺してしまおう」。新しい敵をみつけた村人たちはこれに応え、手に手に日本刀、鳶口、棍棒をもって寄居町へと駆け出していった。

途中、具学永さんが寄居警察分署で保護されていることを知った村人は警察署に押し寄せる。朝鮮人を引き渡せと叫ぶ彼らに対し、星柳三署長は玄関先で、わずか4、5人の署員たちとともに説得に努めた。そのうちに寄居の有力者である在郷軍人会の酒井竹次郎中尉も駆けつけ、「ここにいる朝鮮人は善良なアメ売りである」と訴えるが、興奮した彼らは聞く耳をもたない。群衆は署長らを排除して署内になだれ込む。

竹やりや日本刀で斬りつけられ、血を流しながら、具学永さんは留置房のなかに逃げ込んだ。格子の間から竹やりを突き出してくる男たちとにらみ合いがしばらく続いた後、具さんは突入した男たちにずるずると玄関先まで運ばれていき、そこで集団で暴行されて亡くなった。6日の深夜、2時から3時の間の出来事だった。

『大正の朝鮮人虐殺事件』には、留置房のなかに追い込まれていたとき、彼がそばにあったなにかのポスターのうえに、自らの血で「罰 日本 罪無」と書いたという話が出てくる。「日本人、罪なき者を罰す」という意味ではないかという。それははっきりと抗議の意思表示だったと、同著は語る。

10月、芝崎ほか12人が逮捕された。

具学永さんの墓が、今も寄居の正樹院に残っている。正面に「感天愁雨信士」と戒名。右の側面には「大正十二年九月六日亡 朝鮮慶南蔚山郡廂面山田里居 俗名 具学永 行年 二十八才」、左の側面には「施主 宮澤菊次郎 外有志之者」と彫られている。虐殺犠牲者で、名前と出身地が分かり、さらに戒名もついているというのは珍しいという。山岸秀は「それだけ地元住民との日常関係が成立していたということである」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)と書いている。寄居の人々にとって、具学永の死は、確かに名前と個性をもった隣人の死であった。さらに言えば、用土村という隣人による死(殺害)でもあった。

具学永さんの墓


「具学永」の文字が見える。

正樹院(google map)


寄居警察分署の惨劇が未明にあった6日、戒厳司令部は「朝鮮人に対し、其の性質の善悪に拘らず、無法の待遇をなすことを絶対に慎め」「之に暴行を加へたりして、自ら罪人となるな」といった強い調子の「注意」を発表する。これ以来、「有りもせぬことを言触らすと処罰されます」というビラをまき、メディアを規制するなど、政府・軍の流言に対する態度がようやく、はっきりと否定的になる。

この頃から、東京では騒擾状態は次第に落ち着いていった。とは言うものの、すべてが終わったわけではない。軍や民衆による犯罪は一部ではまだ続く。しかし、9月1日からずっと、事件がおきた時間にこだわって日に数回、更新してきたこのブログのスタイルはギアチェンジする時期に来たようだ。

というわけで、明日からは、基本的にはほぼ1日1本のペースでの、とくに時間を特定しない更新になります。日付や時間を特定できない出来事や人々の体験を紹介していくつもりです。今日まで重苦しい数日間を見つめる試みにお付き合いくださった皆さん、ありがとうございます。少なくとも12日まで(たぶんもう少し先まで)は更新を続ける予定です。つまり、もうしばらく1923年9月という時期をみていくことになります。途絶えている英語・韓国語・エスペラント説明文も、追って補いますので、今しばらく、お付き合いください。


参考資料:『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)、北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』(鳩の森書房)

At 2:00am on September 6, 1923
Yorii, Saitama
Death of A Neighbor

KOO Hag-yong had been peacefully living in Yorii, Saitama for 2 years. As everybody in the village knew he was a peaceful candy seller. But things changed after the quake.
Late at night on 6th September folks from neighboring villages rushed into Yorii to hunt an evil Korean. Without listening to the police chief and an influential figure trying to convince that KOO Hag-yong was peaceful and innocent the blood-thirsty mob burst in and lynched him to death. He wrote on a piece of paper with his blood, "The Japanese punished an innocent."
Yorii folks built him a grave and gave him a posthumous Buddhist name. There are only a few cases like this where people made grave for their neighbor Koreans killed by Japanese, and that shows he was truly a neighbor of the people in Yorii.


En la 6-a de septembro je la 2-a antaŭtagiĝe, en Yorii en la gbernio Saitama, Morto de najbaro.

Yorii en la gbernio Saitama estas malgranda urbeto. De antaŭ 2 jaroj tie loĝis korea junulo KOO Hag-yong kiu estis vendisto de dolĉaĵo. Ĉiuj urbetanoj sciis lian mildan karakteron.
Tamen ĉi tiu tago homoj de najbaraj vilaĝoj kiuj serĉas “malbonajn koreojn” alkuris amase. Kvankam konvinkado “li estas bona koreo” de policestro kaj haltigo de urbetaj eminentuloj, ili eniris la policejon kaj mortigis Koo Hag-yong. Skribante sur papero “Japanoj mortigas senkulpulon” KOO mortis.
Poste, la loĝantoj de Yorii konstruis tombon de KOO. Kaj laŭ la budisma kutimo ili nomis postmortan nomon de KOO. En tiu tempo estis rare ke loĝantoj konstruis la tombon de viktima koreo tiel. Tio estas pruvo ke Koo estis vere bona najbaro por Yorii.

2013年9月5日木曜日

【1923年9月5日16時半/羅漢寺(現在の西大島駅)付近 放り出された16人】

日本語/English/esperanto




千葉街道に出ると、朝鮮人が1000人に近いなと思うほど4列に並ばされていました。亀戸警察に一時収容していた人たちです。憲兵と兵隊がある程度ついて、習志野のほうへ護送されるところでした。

もちろん歩いて。列からはみ出すと殴って、捕虜みたいなもので人間扱いじゃないです。(中略)僕は当時純粋の盛りですからね。この人たちが本当に悪いことをするのかなって、気の毒で異様な感じでした。(中略)

ここ(羅漢寺隣の銭湯前)まで来たら、針金で縛って連れてきた朝鮮人が8人ずつ16人いました。さっきの人たちの一部ですね。憲兵が確か2人。兵隊と巡査が4、5人ついているのですが、そのあとを民衆がぞろぞろついてきて「渡せ、渡せ」「俺たちのかたきを渡せ」って、いきり立っているのです。

銭湯に朝鮮人を入れたんです。民衆を追っ払ってね。僕も怖いもの見たさについてきたんだけど、ここで保護して習志野(収容所)に送るんだなあと、よかったなーって思いましたよ。それで帰ろうと思ったら、何分もしないうちに「裏から出たぞー」って騒ぐわけなんです。

何だって見ると、民衆、自警団が殺到していくんです。裏というのは墓地で、一段低くなって水がたまっていました。軍隊も巡査も、あとはいいようにしろと言わんばかりに消えちゃって。さあもうそのあとは、切る、刺す、殴る、蹴る、さすがに鉄砲はなかったけれど、見てはおれませんでした。16人完全にね、殺したんです。5、60人がかたまって、半狂乱で。(中略)

自警団ばかりじゃなく、一般の民衆も裸の入れ墨をした人も、「こいつらがやったんだ」って、夢中になってやったんです。(中略)ちょうど夕方4時半かそこらで、走った血に夕陽が照るのが、いまだに60何年たっても目の前に浮かびます。

(浦辺政雄〈当時16歳〉証言。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』より)



全焼した本所から大島町の親戚のもとに避難していた渡辺さんが目撃した光景である。当時、羅漢寺は現在の位置ではなく、現在の西大島駅(都営新宿線)付近にあった。

やや分かりにくいが、習志野収容所に送られる途中の、1000人近いとも思われる朝鮮人の列から、憲兵が16人だけをよりわけて銭湯の裏口から「放免」し、群衆の殺すがままに任せたということである。

政府と軍は、この数日で、当初実在を信じていた「朝鮮人暴動」がそもそも存在しなかったことに気づき、少しずつ軌道修正を図りつつあった。

朝鮮人の習志野移送は、前日4日の午後4時に第1師団司令部によって決定され、午後10時に具体的な命令が下された。その内容は、かつて戦時捕虜を収容していた習志野収容所に東京近辺の朝鮮人を収容すること、各隊はその警備地域の朝鮮人を「適時収集」して移送すること、というものであった。

朝鮮人を習志野に集中隔離するのは、自警団による虐殺をこれ以上拡大させないための処置である。山本権兵衛首相が5日、「震災に際し、国民自重に関する件(鮮人の所為取締に関する件)」という内閣告諭を出して国民に暴力の自重を求めている。「民衆自ら濫(みだり)に鮮人に迫害を加ふるが如きことは固(もと)より日鮮同化の根本主義に背戻(はいれい)するのみならず、又諸外国に報ぜられて決して好ましきことに非(あら)ず」。警察や軍ではなく、民衆自身が朝鮮人を迫害するのは、韓国を併合した日本の「善意」に反するし、外国で報道されるのは好ましくないという内容だ。虐殺の事実が諸外国で報道され、日本の不利益になることを恐れていたのである。

ちなみに、朝鮮人だけでなく、中国人も習志野に送られている。9月17日の収容最大人数が朝鮮人3079人、中国人1692人であった。9月3日の記事で大島の中国人虐殺について書いたが、この習志野移送命令によって、大島の中国人労働者のうち、虐殺にあわなかった数百人も警官隊によって捕縛され、全員習志野に送られた。大島から中国人の姿は消え、空き家となった中国人宿舎は、そのまま日本人労働者の宿舎となった(先の記事では書き損ねたが、中国人虐殺と時を同じくして、中国人に宿舎を貸していた日本人経営者3、4人も殺されている)。


渡辺少年が目撃したのは、前日夜の命令を受けて、習志野に移送されていく朝鮮人たちだった。ではなぜ、あの16人だけは途中で放り出されて、自警団のえじきに供されたのだろうか。関東大震災時の朝鮮人虐殺の研究では第一人者といえる姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)は、『関東大震災・虐殺の記憶』で、軍や警察の失態を知りすぎた者を処分したのではないかと推察している。

そうかもしれない。しかし、もっと卑小な、わけのわからない理由でたまたま選ばれたのかもしれない。いずれにしろ彼ら16人は、「保護」の建前に従って移送される途中で、自らのあずかり知らない気まぐれのような事情から惨殺されたのである。

(次の更新は6日午前2時の予定です)

参考資料:関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会)、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(青木書店)、田原洋『関東大震災と王希天事件』(三一書房)。





西大島駅(google map)

At 16:30pm on September 5, 1923
Rakanji Temple near the current Nishi-Ojima Train Station
16 Abandoned Koreans

"I saw a procession of over 1000 Koreans being taken by force to a camp in Chiba. They were continually battered by soldiers. The unit somehow released 16 Koreans on the way. As they fleed into the Rakanji Temple, the crowd followed and slaughtered them all. Even now, after 60 years, I still recall seas of blood reflecting the evening sun", said a 76-year-old man.
Although the military decided on September 4, 1923 to take Koreans living in Tokyo to the old internment camp in Narashino, Chiba to stop the massacre by civilians from spreading the 16 Koreans were abondoned. Why?
The historian, Kang Dok Sang, thinks that they might have known too much about blunders by the military and the police, but the actual reason is unknown.


En la 5-a de septembro je la 4-a posttagmeze, ĉe la templo Rakan (ĉ. nuna stacio Nishiooshima), Forĵetataj 16 koreoj

“Mi vidis koreojn kiuj estas transportataj al la koncentrejo en Chiba. Estis vidataj de mi pli ol mil koreoj. Ili piediris batate de japanaj soldatoj kiu gardas ilin. Tio ne estis trakto al homoj. La soldatoj elektis 16 koreojn kaj “reliberigis” ilin sur la loko. La koreoj fuĝis al tombejo malantaŭ la templo. Do amaspopolo alkuris kaj mortigis ilin. Eĉ post 60 jaroj, mi memoras ke subira suno lumigis fluantajn sangojn” (atesto de tiama 16 jaraĝa knabo)
En la antaŭa tago La armeo decidis meti koreojn kiuj loĝas en Tokio al la koncentrejo Narasino en Chiba. Ĉar la armeo ne volas ke popolo ne plu mortigi koreojn. Do kial la armeo forĵetis 16 koreojn? Historiisto GANG Deoksang supozas “Ĉar 16 koreoj sciis eraron de armeo kaj polico.” Sed neniu scias veran kialon.

2013年9月4日水曜日

【1923年9月4日夜/埼玉県熊谷市 地方へと拡大する虐殺:後編】

それにしても、息を呑むほかないような惨劇である。焼け出された人々が、過剰防衛意識ややり場のない怒りから暴力的になるというならまだ分かる。だが被災地から遠く離れた人々がなぜ、ここまで残酷になれたのだろうか。山岸秀は、前掲書のなかで、流入した新住民の過剰な忠誠心、同調意識などを背景として指摘しているが、どうもすっきりしない。しかし、私たちが心にひっかかったのは以下の一節だった。

「自警団、自警団員の中には、自警を超えて、虐殺、朝鮮人いじめを楽しむ者も出てきた。前述で見たような殺し方は、もはや自衛のためのものではなく、社会的に抑圧されていた者が、その屈折した心の発散を弱者に向けるようになったものである」「危険な朝鮮人ではないということを十分に知った上での暴虐であり、自分たちのストレスの発散を求めた、完全な弱い者いじめになっている」「対象は安全に攻撃できる、自分より弱いものであればいいということになる」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)

これは熊谷の事件に特定したものではなく、自警団一般について書いた文章である。むしろ、ここで描かれているのは、特定の時代や国、地域などと関係ない、人間が普遍的にもつ醜さにすぎないといえばそれまでだ。だが、2013年9月の私たちにとって、妙にどこかで見た光景に思えるのはなぜだろうか。少なくとも私たち「知らせ隊」は、こんな光景を見たおぼえがある。

話を1923年9月の熊谷に戻す。
町のあちこちに転がった遺体は、暑いなか、すぐに激しい腐臭を発するようになる。野犬が食いあさる。放置されたままで誰も近づかなかったこれらの遺体を黙々と荷車に積み込み、野焼きしたのは、一人の火葬人夫と、町の助役である新井良作だけだったと、山岸は書いている。その後、熊谷市の初代市長となった新井は、1938年に朝鮮人犠牲者の供養塔を建立。今も供養塔は守られ、毎年、熊谷市主催で供養が営まれている。(※)

熊谷と同じ5日に起こった本庄市(100人前後殺害)や神保原村(現上里町。42人殺害)の事件をはじめ、埼玉県内で殺された朝鮮人は、山岸のまとめによれば200人を超える。それらを裁く公判はその年の11月には判決となったが、懲役4年を最長として、ほとんどが半年か1年程度だった。証人として出廷した本庄署の巡査は「検事は虐殺の様子などに触れることは努めて避けていたようで、最初から最後まで事件に立ち会っていた私に、何ひとつ聞こうとはしなかった」と述懐している(『大正の朝鮮人虐殺事件』)。不真面目な裁判だったようだ。

また、これだけの惨事の引き金を引いたのは、あの県の通達であることは明らかであり、そのことは事件直後からメディアでも指摘されていた。だがこれに対して、当時の県内務部長は「アノ当時ノ状態としてアレ丈の事に気づいたのは寧ろよい事をしたとさへ思つている」(「東京日日新聞」1923年10月24日付。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)と居直るだけだったという。責任はどこかに消えてしまったわけである。

(次の更新は5日午後4時半ごろの予定です)

熊谷寺大原霊園にある供養塔。慰霊塔の左にある献花は民団、右は総連のもの(2013年9月1日撮影)




(※)この供養塔に刻まれた碑文には、具体的な事件の内容も、殺されたのが朝鮮人であることも明記されていないという限界があることも、山岸は指摘している。

参考文献:山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』(早稲田出版)、北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』(鳩の森書房)。

事件が起きた場所

最初の虐殺現場(google map)

熊谷寺(google map)

供養碑(野口石材店の正面墓地内すぐ)(google map)

【1923年9月4日夜/埼玉県熊谷市 地方へと拡大する虐殺:前編】

熊谷寺

「熊谷寺では、生から死まで見ました。寺の庭では1人の朝鮮人を日本人がぐるって取りまいたグループが、5つほど出来ました。そして殺すたびに『わあ、わあー』『万才、万才』と喚声があがるのです」(関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼実行委員会編『かくされていた歴史、増補版』。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)。


上は、埼玉県熊谷市の市内中心部にある熊谷寺の、1923年9月4日夜の光景である。
主に東京でおきたことを主にとりあげると最初に書いた当ブログだが、今回と明後日の2回だけは、埼玉県でおきた事件をとりあげさせて頂きたい。


地震の被害が少なかった埼玉県だったが、東京から流入する避難民を通じて、朝鮮人暴動の流言は広まっていったという。「今、上野の山で日本の陸軍と朝鮮人で内乱が起きちゃってね」(引用同上)といった言葉も、ぼろぼろの姿をした避難民の口から聞くと切迫した信憑性を帯びたのである。

さらに、この流言にお墨付きを与えたのが、例によって行政である。埼玉県は2日、「東京に於ける震災に乗じ暴行をなしたる不逞鮮人」が埼玉に入ってくる可能性があるから各町村で在郷軍人会などと協力して有事に備えよ、という趣旨の通達を各郡町村に発する。これに応じて、各地に自警団が結成された。

あわせて県は、県内に避難してくる朝鮮人を実際に川口で検束し、蕨に移送。その北への護送を各町村の自警団にゆだねた。各町村の自警団が少数の警官とともに駅伝式に隣町まで護送するのである。目的地は群馬県の高崎連隊だったのではないかと見られているが、いまだにはっきりしないそうだ。残暑の厳しいなか、家族連れも含む朝鮮人たちは、徒歩で休憩もなく延々と歩かされた。途中、逃亡した者が合わせて10数人、殺害されている。

蕨から大宮、桶川と彼らは歩き続け、町から町へとリレーされて、熊谷に着いたのは4日の夕方、蕨から50キロを30時間かけて歩き続けた末のことだった。市内中心部に入るあたりで、柳原の自警団から熊谷町の自警団に引き継ぐはずだったが、現場の状況はそれまでの町や村とは異なっていた。

熊谷町中心部は、数千とも思われる人々に埋め尽くされていた。当時、急速に膨張しつつあった熊谷の人口は約2万3000人。一軒に1人、自警団に参加せよという呼びかけは、不必要な数の人々を街頭に呼び寄せてしまっていた。彼らは東京の仇を打とうと殺気立った烏合の衆と化している。

群衆は、引き継ぎポイントに現れた朝鮮人の群れにどっと殺到する。
「家の叔母さんだ、兄貴だ、いとこだのをこの朝鮮人が殺っちゃったんだから、家を焼いちゃったんだから、このやつらは敵だ」(引用同上)
とこれをあおる者もいたという。20人以上がここで殺害された。

最初の虐殺が起きた付近(ニットーモール裏手の秩父鉄道踏み切りあたり)

「中心部入り口における殺戮に加わった民衆は、その昂奮をそのまま市街地へ持ち込んだ。彼らは血がついた刀、竹槍、棍棒を持って逃げた朝鮮人を探し、みつけ出しては殺す。そこに自警のかけらは少しもない」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。

逃げずに縄で縛られ、おとなしく連行されていく者も容赦なく暴行を受けた。「その時私は、眼の前で日本刀を持って来た人が、『よせ、よせ』というのをふりきって、日本刀で朝鮮人を斬ったのを見ました。…こんな時に斬ってみなければ切れ味がわからないといって、斬ったのだそうです」(『かくされていた歴史、増補版』。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)。竹やりを背中に何本も刺された朝鮮人も目撃されている。

彼らが最終的にたどり着いたのが深夜の熊谷寺の境内だった。ここで残りのすべての朝鮮人が「万才、万才」の声のなか、殺害されたのである。

熊谷寺は、かつて熊谷直実が出家生活を送っていた庵のあとに開かれた浄土宗の寺である。熊谷直実とはもちろん、平家物語の「敦盛最期」で、わが子と同じ年頃の平敦盛の首を泣く泣く斬った(「泣く泣く首をぞ掻いてける」)、あの熊谷だ。彼は後に、その懺悔から出家し、法然の弟子となった。

熊谷市在住の研究者、山岸秀は、殺害された朝鮮人の数を、40~80人ほどと見ている。「殺された人数すらはっきりとわかっていないのだから、名前、年齢、性別、職業、出身地などは何も残されていない」。

(後編へ続く)

【1923年9月 四ッ木橋付近での軍による虐殺】

日本語/English

木根川橋近く。軍による虐殺があったあたり。

何度か引用してきた『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、自警団の一般の人々による朝鮮人虐殺だけでなく、軍による朝鮮人虐殺についての証言がいくつも掲載されている。

一般的に、関東大震災時の朝鮮人虐殺というと、一般の人が自警団をつくって朝鮮人を殺した事件というイメージで固まっている。もちろんそれは事実である。しかし、それだけでは行政が果たした役割が消えてしまう。現場の警察官による「不逞鮮人注意」の宣伝はもちろんだが、中央レベルでも、内務省警保局が各地方行政に「朝鮮人が放火している」といった報告を打電するなど、誤った情報を拡散していた。後に読売新聞を創刊するの中興の祖となる正力松太郎は当時、警視庁官房主事の立場にあったが、彼も軍も、9月2日の時点では朝鮮人暴動を信じていたと、戦後太平洋戦争末期に語っている。
そして軍は、朝鮮人暴徒を「討伐」すべく各地に進撃し、多くの朝鮮人を虐殺した。

上記の本によれば、四ッ木橋周辺に軍が来たのは2日か3日ごろという以上はわからないという。今回の記事では、日付は区切らず、四ッ木橋周辺での軍による虐殺の証言をいくつか、ピックアップしておこうと思う。

「四ッ木橋は習志野の騎兵(連隊)でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮人がデマを飛ばしたそうで…。それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」(高田さん〈仮名〉)

「一個小隊くらい、つまり2、30人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2、3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち合いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ」(田中さん〈仮名〉)

「四ッ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」(浅岡重蔵)

「9月5日、18歳の兄といっしょに二人して、本所の焼けあとに行こうと思い、旧四ッ木橋を渡り、西詰めまで来たとき、大勢の人が橋の下を見ているので、私たち二人も下を見たら、朝鮮人10人以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました」(篠塚行吉さん)

篠原さんの証言については、直筆の証言と現場状況地図が上記の本をつくった「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の「体験談」のところで見ることができる。
http://www.maroon.dti.ne.jp/housenka/taiken.html



すでに3日の記事でご紹介したが、2013年9月7日(土)には、同会主催による「韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」が旧四ッ木橋のたもと付近の河川敷で開かれる。この追悼式は、1982年から毎年、続けられてきたものだ。

関東大震災90周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式とほうせんかの夕べ
2013年9月7日(土) 15時~ 荒川河川敷(京成押上線八広駅から徒歩5分)
http://moon.ap.teacup.com/housenka/125.html


翌8日(日)には、「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」(関東大震災中国人受難者を追悼する会主催)もある。
2013年9月8日(日)1時~5時/韓国YMCA9階ホール(JR水道橋駅東口下車)。
中国人虐殺について掘り起こしてきた田原洋さんの記念講演「王希天事件の発見」もある。参加費は1000円。

(次の更新予定は4日午後7時です)




September, 1923
Massacre by Military
Yotsugibashi Bridge

The military and the police actually believed the rumor that Koreans were causing riots in the immediate aftermath of the quake. There are withness accounts that a lot of Koreans were killed by the military. These include the killing near Yotsugibashi Bridge caused by the regiment based in Narashino, Chiba.

【1923年9月4日朝/亀戸署 警察署の中での惨劇】

日本語/English

震災当時、亀戸署は左の高いビルの付近にあった。

朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず2名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。私は同志の殺されたことをここで始めて知り、明け方に聞いた銃声の意味も判りました。

朝になって我慢できなくなり便所に行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3、40の死体が積んでありました。この虐殺について、私は2階だったので直接は見ては居ませんが、階下に収容された人は皆見ているはずです。虐殺のことが判って収容された人は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声をたてず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。

虐殺は4日も一日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降り続きましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。(中略)

亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。

(朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』掲載の全虎巌さんの証言)



有名な「亀戸事件」である。被災者救援活動にあたっていた平沢計七や川合義虎などの労働運動活動家10人が、9月3日夜、亀戸署に検束され、5日に警察の要請を受けた軍(騎兵13連隊)によって殺害されたというものだ(4日の朝、彼らの死について聞いたというのは全さんの記憶違いか?→3日夜殺害説もあり。13/12/24注に追記)。殺された10人のうち、平沢以外は20代、多くは20歳そこそこだった。(注)

しかし、このとき殺されたのは彼らだけではない。自警団4人と、そして人数もわからない多くの朝鮮人たちがいた。

中国人虐殺の記事でふれたように、亀戸署は管轄に工場が密集し、労働運動が多く、ストライキもさかんに行われていることから、これに対する取締り、監視を重要な任務とする公安色の強い警察署であった。ようするに左翼や外国人を敵視する雰囲気がほかの警察署以上に強かった。震災当時の署長の古森繁高も、警視庁特高課長出身であった。

さらに、亀戸署の管内は混乱が激しく(四ッ木橋、大島、亀戸駅周辺も管内)、亀戸署の警官隊は、軍とともに騒擾の現場に出向いては朝鮮人を検束。1000人を超える朝鮮人、中国人で署内はすし詰め状態だった(これに対して、署員の数は230人程度)。これは決して朝鮮人を保護することへの積極性の表れではなく、むしろ「不逞鮮人」検束への積極性の結果である。

先述のように、亀戸署では拘留中の日本人自警団4人も殺害されている。
警視庁は前日の3日以降、勝手にリンチを行うなといった内容のビラをまくなど、権力のコントロールのきかない自警団の活動を抑え込み始めた(同日、「朝鮮人暴動」の飛ばし記事を書き続ける地方紙にも警告)。朝鮮人暴動の実在に否定的になってきた現われでもあるが、この時点ではまだどちらつかずだった。軍は依然として「朝鮮人討伐」を続けている。

自警団の4人は彼らの行動をとがめた警官に日本刀で切りかかって逮捕されていた。房内で「殺すなら殺せ」と騒ぎ続ける彼らに対して、亀戸署は軍に要請して殺害させたのである。

証言者の全虎巌(チョン・ホオム)さんは、川合義虎などが指導する南葛労働組合のメンバーだった。3年前に学校に通うために来日した全さんは、朝鮮独立への思いから社会変革の必要を考えるようになり、この頃、ヤスリ工場の労働者として労組の活動を熱心に行っていた。

2日以降、街中で自警団が朝鮮人を襲うのを目にするようになり、全さんは身の危険を感じる。警察で朝鮮人を収容し始めていると聞き、その方が安全だと判断。2日昼ごろ、工場の日本人の友人たち10数人に取り囲んでもらいつつ、亀戸警察署に向かったのである。道すがら、竹やりが刺さった朝鮮人の死体をあちこちで見た。

だが亀戸署は外よりも危険な場所であった。署内で殺されたなかには、自警団から逃げて亀戸署に飛び込んだ人も多かったと、全さんは語っている。

全さんは7日まで亀戸署に置かれ、その後、習志野の収容所に送られた。4日午後4時に戒厳司令部が東京付近の朝鮮人を習志野の旧捕虜収容所に収容するとの命令を出したのだ。虐殺が国際問題化することを恐れたのである。解放されたあと、全さんは帰国を考えるが、やはり南葛に戻ることにする。組合の仲間たちの安否が知りたかったのである。

亀戸署における10人の活動家殺害については、社会問題となり、政府も10月、事実を認めたが、軍の適正な行動であったとして誰も罪に問われることはなかった。一方、同じ夜に同じ署でおきた朝鮮人虐殺については、真相の一端さえ公式には明らかにされていない。

亀戸署があった場所(google map)

(注)当記事は当初、本日の昼前にアップしましたが、直後に、自警団4人と平沢ら労働運動活動家の死の日時について、資料を誤読していることに気づき、若干の修正をしました。
 ◆13/12/24追記。3日夜に殺害されたという説もあることを知りました。
二村一夫「亀戸事件小論」 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/kameidojikenshoron.html

(次の更新は4日午後4時半の予定です)

参考文献:上記のほか、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、田原洋『関東大震災と王希天事件』(三一書房)など。


On the morning of September 4, 1923
Massacre at a Police Station

The Kameido Police Station began cracking down labor unions and local Koreans immediately after the quake. The station was packed with over a thousand arrested Koreans and Chinese.
Chun Ho-uhm, a member of Nankatsu Labor Union, heard 2 gunshorts a few days after he asked the police for protection. As far as he witnessed himself 50 to 60 people including those who were also asking for protection were killed in the police station. Later he knew 2 leaders of the labor union were the victims of the gunshots. However, little is known about those Koreans killed at the police station.

【1923年9月4日午前2時/京成線の荒川鉄橋上で】

日本語/English/한국어




「一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞き取ることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で呼び『何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ』と、声を張りあげました。その言葉が終わるやいなや自警団の手から、日本刀が振り降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。…私は横にいる弟動勲と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました」

慎昌範(シン・チャンボム)さんが日本に来たのは1923年8月20日。親戚など15人の仲間とともに日本に旅行に来たのである。関西を回り、30日に東京に着いた。
9月1日午前11時58分には、彼は上野の旅館で昼食の最中だった。朝鮮半島には地震がほとんどない。「生まれて初めての経験なので、階段から転げ落ちるやら、わなわなふるえている者やら、様々でした。私は二階から外へ飛び降りました」。

その後、燃えさかる町を逃げまどい、朝鮮人の知人を頼りながら転々と避難。荒川の堤防にたどり着いたのは3日の夜だった。堤防の上は歩くのも困難なほど避難民であふれ、押し寄せる人波のために、気がつくと京成線鉄橋の半ばまで押し出されていった。東京で暮らす同胞も合流していた。

深夜2時ごろ、うとうとしていると、「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてくる。気がつくと、武装した一団が群がる避難民を一人一人起こしては朝鮮人かどうかを確かめているようだった。

日本語でいろいろ聞かれても分からなかった林善一さんが日本刀で一刀の下に切り捨てられ、横にいた男も殺害されるのを目の当たりにした慎さんは、弟や義兄とともに鉄橋の上から荒川に飛び込んだのである。

だが彼は、小船で追ってきた自警団にすぐつかまってしまう。岸に引き上げられた彼はすぐに日本刀で切りつけられたが、相手に飛びかかって抵抗する。

次の瞬間に、周りの日本人たちに襲いかかられて失神したらしく、慎さんにその後の記憶はない。気がつくと、全身に重傷を負って寺島警察署の死体置き場に転がされていた。同じ寺島警察署に収容されていた弟が、死体のなかに埋もれている彼を見つけて介抱してくれたことで、奇跡的に一命を取りとめた。

10月末に重傷者が寺島警察署から日赤病院に移された際、彼は総督府の役人に「この度の事は、天災と思ってあきらめるように」と念を押されている。重傷者のなかで唯一、日本語が理解できた彼は、その言葉を翻訳して仲間たちに伝えなくてはならなかった。日赤病院でも、まともな治療はなく、同じ病室の16人中、生き残ったのは9人だけだった。

慎さんの体には、終生、無数の傷跡が残った。頭に4ヶ所、右頬、左肩、右脇。両足首の内側にある傷は、死んだと思われた慎さんを運ぶ際、鳶口をそこに刺して引きずったためだと彼は考えている。ちょうど魚河岸で大きな魚を引っかけて引きずるのと同じだと。



※朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』(1963年)掲載の慎昌範さんの証言を「知らせ隊」でまとめた。京成線の荒川鉄橋とは、旧四ッ木橋のすぐ横を平行してかかっている鉄橋である。

京成線荒川鉄橋付近(google map)



At 2:00am on September 4, 1923. Off the Arakawa Railroad Bridge.

Sin Chang-beom, who was visited by the quake on his family trip to Japan, jumped off the railroad bridge into the Arakawa River as he saw a fellow countryman named Rim sun-il killed by a bunch of armed Japanese, but he was easily captured by the vigilante group.

When he came to himself he was critically injured lying in a morgue at the Terashima Police Station. Although he miraculously survived the attack and the subsequent insufficient treatment by the Japan Red Cross hospital left him a number of permanent scars including those at the ankles, which he thought had been stabbed with hooks to help drag his body.

1923년 9월 4일 오전 2시. 케이세이선의 아라카와 철교.
신창범 씨는 친척 등 15명과 함께 일본에 여행하러 와 대지진을 경험했다. 이 날, 아라카와의 철교상에 피난하고 있었는데 갑자기 눈앞에서 동료가 자경단에 습격당한다. 신창범 씨는 강에 뛰어들지만 잡히고 폭행을 받아 실신. 깨달으면 경찰서의 시체안치소에 있었다. 경찰서에서도 병원에서도 비인간적인 취급을 받았다. 신창범 씨의 신체에는 그 후도 무수한 상처 자국이 남았다.