2013年9月12日木曜日

【1923年9月12日未明/逆井橋 王希天の70年の「行方不明」】

日本語/English



中隊長初めとして、王希天君を誘い、「お前の国の同胞が騒でるから、訓戒をあたえてくれ」と云うてつれだし、逆井橋の処の鉄橋の処にさしかかりしに、待機していた垣内中尉が来り、君等何処にゆくと、六中隊の将校の一行に云い、まあ一ぷくでもと休み、背より肩にかけ切りかけた。そして彼の顔面及手足等を切りこまさきて、服は焼きすててしまい、携帯の拾円七十銭の金と万年筆は奪ってしまった。(中略)
右の如きことは不法な行為だが、同権利に支配されている日本人でない、外交上不利のため余は黙している。

(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)



上は、第1師団野戦重砲兵第3旅団第1連隊の第6中隊に属する一等兵、久保野茂次が1923年10月19日に記した日記の一部である。

逆井橋は旧中川にかかっている橋で、都営新宿線東大島駅から北に10分ほど歩いた所にある。王希天は1923年9月12日未明、この逆井橋のたもとで、第1連隊の中島大隊長副官の垣内八州夫中尉(終戦時、大佐)によって殺害された。殺害を指示したのは同連隊第6中隊長の佐々木兵吉大尉。金子直旅団長の黙認のもとに行われたものだ。遺体は中川に投げ捨てられた。

王希天は中国人留学生で、当時27歳だった。1896年8月5日、旧満州南の吉林省、長春市に皮革商品を扱う豊かな商人の息子として生まれ、対華21か条要求が出された1915年、18歳で日本へ留学。一高在学中から学生運動に参加するようになり、日中両国を行き来して活動した。周恩来、救世軍の山室軍平、賀川豊彦などとも親交があった。

王は次第に、日本で弱い立場におかれていた中国人労働者の状況に関心を寄せるようになり、震災前年の22年9月、労働者を支援する「僑日共済会」を大島3丁目に設立する。9月3日の記事「中国人はなぜ殺されたのか」で説明したように、大島には中国人の肉体労働者が集住していた。僑日共済会は、彼らのために巡回医療や夜間学校を行い、ばくちやアヘンをやめよう、と生活改善を呼びかけた。労働者たちは王に絶大な信頼を寄せ、ばくち道具を取り上げられても文句ひとつ言わなかったという。

こうして高まっていった団結を背景に、王は、日本人労働ブローカーが中国人に対して日常的に行っていた賃金不払いに対して交渉に乗り出し、これを支払わせる運動を開始する。王の活動は東京にとどまらず、全国に広がっていった。

王は鉄の闘士といったタイプではなく、思想的にも穏健で、裕福な家の出身らしい快活で楽天的な性格だったようだ。だが彼が踏み込んだのは、1980年代に山谷の日雇い労働者の労働運動を指導して暴力団に殺害された山岡強一が立っていたような領域であったと言ってよいだろう。当然、労働ブローカーや労働運動を敵視する亀戸署の刑事たちには激しく憎まれる。後をつけられて短刀で脅されたり、身に覚えのない罪で3日間、警察に拘留されたこともあったという。

9月1日、王は留学生が寄宿する神保町YMCAにいて、その後の数日間は留学生救援に奔走した。一段落ついた9日朝、彼はずっと気になっていた労働者の被災状況を確認するために、自転車に乗って大島に向かう。あの中国人虐殺から6日がたっていた。

大島に入った彼が、虐殺の事実にたどり着いたのかどうかはわからない。というのは、その日の午後には彼は軍に逮捕されてしまったからだ。

軍は、捕らえた中国人が労働者に人望が厚い活動家であることを知り、習志野収容所への中国人移送に協力させることにした。夜は亀戸署に留置され、日中は軍の下で働く。強いられた結果ではあるが、王もまた、習志野移送について「不当であっても唯一の保護策」と考えたのだろう。それから数日間、「習志野に護送されても心配はない」と中国語で書いた掲示を貼り出すなど、積極的に協力している(実際に心配なかったのかどうかについては後日、当ブログで報告する)。

このとき、移送を担当していたのが佐々木大尉率いる第6中隊であり、その1人として王とともに働いた兵士が、冒頭の日記を書いた久保野一等兵だった。文学青年肌で軍組織になじめない22歳の彼は、少し年上でスマートな王に対して、すぐに好感を抱くようになった。

「いつもきちんと蝶ネクタイをしめた好男子。落ちついたらアメリカに留学すると楽しそうに話していた。無学なわれわれ(兵卒)は王希天君と呼んで尊敬していた。お茶もよく一緒に飲んで世間話をしたことを憶えている」(『関東大震災と王希天事件』)。

だが旅団の一部には、「王はさっさと殺したほうがよい」と強く主張する者たちがいた。その背景は分からない。だが、9月3日の中国人虐殺の隠蔽をはかる軍、中国人の指導者を葬り去りたい労働ブローカーと亀戸署の3者の利害が、王の殺害で一致するのは確かだろう。王を解放すれば、また大島で余計なことをかぎまわるに違いないのだ。

軍の書類には、殺害を現場で指導した佐々木大尉が、亀戸署の「巡査ノ1名」から「王希天ハ排日支那人ノ巨頭」だと告げられていたとある。王希天事件を研究する田原洋と仁木ふみ子はともに、事件の背景に警察と労働ブローカーから軍への働きかけを推測している。

こうして9月12日未明、王は殺害された。その後、当時まだ高価だった自転車は「戦利品だ」と称して第6中隊の者が乗り回していた。


12日の朝から姿を見なくなった王希天が、実は殺害されていたことを、久保野一等兵が知ったのは、逆井橋の現場で歩哨に立っていた兵士の口からであった。久保野一等兵は「よくも殺しやがったな。ふざけやがって」と激しい怒りをおぼえる。だが、下手なことを言えば営倉入りではすまない。そのうえ、佐々木大尉は彼の中隊長である。実際、2ヵ月後の11月には、中隊長は講話で「震災の際、兵隊が沢山の鮮人を殺害したそのことにつきては、夢にも一切語ってはならない」と強調する。「それについては、中隊長が殺せし支那人に有名なるものあるので、非常に恐れて、兵隊の口をとめてると一同は察した」(久保野日記1923年11月28日)。久保野は兵営で密かにつけていた日記に、事件について聞いたことを書き残すことしかできなかった。

中国で労働者虐殺への非難と王の失踪への疑惑の声が高まる中、軍は隠ぺいのシナリオを用意する。9月12日未明、佐々木大尉に連行された王希天は、大尉の独断で解放された、その後のことは軍も関知しない、というものである。

「シカシテ翌12日午前3時、(佐々木大尉は)亀戸警察署ヨリ王希天ヲ受領シ、亀戸町東洋モスリン株式会社ニ在リタル右旅団司令部ニ同行ノ途中、種々取調ベヲナシタルトコロ、王希天ハ相当ノ教育モアリ、元支那ノ名望家ニテ在京ノ支那人中ニ知ラレオリ、何等危険ナキ者ト認メタルニヨリ、旅団司令部ニ連レ行キ厳重ナル手続キヲナスヨリハ、此ノママ放置スルヲ可ナリト考エ、本人ニ対シ「(中略)自分ガ責任ヲ負イ逃ガシテヤル」ト告ゲタレバ本人モ非常ニ悦ビタリ。ヨッテ同日午前4時30分ゴロ前記会社西北約千米ノ電車線路附近ニ於テ同人ヲ放置シタルニ、東方小松町方面ニ向カイ立去リタリ」
(戒厳司令部から外務省に提出された文書。『関東大震災と王希天事件』)

王希天はこうして長い間、「行方不明」のままで歴史のなかに消えてしまう。

戦後、事件の真相が少しずつ隠ぺいの底から浮かび上がってくる。最初に、第3旅団で事件の隠ぺい工作を行った遠藤三郎大尉(終戦時、陸軍中将)が、王希天が軍によって殺害されたことを明らかにした。そして1970年代、久保野一等兵がひそかに記していた日記を公表する。彼は兵役を終えてからも「抹殺」を恐れて日記を隠し、大事に保管していたのだ。「あれ以来、そのことが私の脳裏から消えなかった。永い間、私の念願だった王希天の最後の模様を、是非、王の家族に伝えて、成仏させてやりたい」(『いわれなく殺された人々』)。

そして1980年代初め、ジャーナリストの田原洋が、王を斬った垣内八州夫中尉(終戦時、大佐)を探し当て、本人の口から事実が明らかにされるに至った。垣内は、誰を斬ったのかそのときは知らなかった、可哀そうなことをした、中川の鉄橋を渡るときいつも思い出していた、と後悔の言葉を口にする。

1990年、仁木ふみ子が王希天の息子を探し出し、事件の真相を伝える。
その死から約70年が経っていた。


逆井橋(江東区地図




参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、田原洋『関東大震災と王希天事件』(三一書房)、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(青木書店)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人々』(青木書店)


Before Dawn on September 12, 1923
At Sakaibashi Bridge
Wang Xi Tian - Uncovered Truth


A Chinese student and labor movement activist, who went missing right after the quake, was found to have been murdered. Being afraid of his murder developing into a diplomatic problem the military covered up its crime.

Wang Zi Tian, 27, came to Ojimacho on September 9, 1923 to find out what had happened to the Chinese workers there, but soon he was captured, and a few days later was killed by the military.
Decades later, Saburo Endo, then captain, revealed that the military commited the murder, and in the early 80's Yasuo Kakiuchi, then first lieutenant, admitted killing the Chinese at Sakaibashi Bridge.