2013年10月4日金曜日

【無所属の人・田渕豊吉と「他日の答え」】


私は内閣諸公が最も人道上悲しむべき所の大事件を一言半句も此神聖なる議会に報告しないで、又神聖なるべき筈(はず)の諸君が一言半句も此点に付て述べられないのは、非常なる憤激と悲みを有する者であります。それは何であるかと言へば、朝鮮人殺傷事件であります。(中略)

千人以上の人が殺された大事件を不問に附して宜(よろし)いのであるか。朝鮮人であるから宜いと云ふ考を持つて居るのであるか。吾々(われわれ)は悪い事をした場合には、謝罪すると云ふことは、人間の礼儀でなければならぬと思ふ。(中略)

日本国民として吾々は之に向つて相当朝鮮人に対する陳謝をするとか、或は物質的の援助をなするとかしなければ、吾々は気が済まぬやうに私は考へるのである(拍手)(中略)

被害者の遺族の救済と云ふことも講じなければならぬ。各国に向つて(震災支援に対する)謝電を送り、外国に向つて先日吾々議院が謝意を表明する前に、先づ朝鮮人に謝するのが事の順序ではなからうか。

1923年12月14日 田渕豊吉衆議院議員による国会質問(『朝鮮人虐殺関連官庁史料』)



田渕豊吉は1882年、和歌山県御坊市生まれ。早稲田大学卒業後、ヨーロッパ各地で政治や哲学を学んだ。1920年に初当選して衆議院議員となるが、政党の勧誘を拒否して生涯、無所属を貫いた。「タトイ一人でも言いたい事を云ってノケル」(『警世の人 田渕豊吉伝』)ためである。リベラリズムの立場からの巧みな質問と鋭い野次によって、彼はすぐに名物議員となった。一方でユーモラスな奇行も多く、マスコミは彼を「田渕仙人」と親しみを込めて呼んだ。

1923年12月14日。この日、彼の質問の趣旨は震災復興関連であった。後半、朝鮮人虐殺問題に話が進んでいくと、議場は静まり返ったという。それでも、そのまっすぐな訴えは、議員たちの心にも響いたようだ。先の引用部分も含め、何度か拍手さえ沸き起こった。漫画家の岡本一平(岡本太郎の父)は、新聞紙上で、この日の田渕の姿を「自由自在、無所属なるかな。舌端、巧みを弄するに似たれど、一条の真摯、満場の腹中に通ずるものあって存す、故に弥次の妨害を蒙らず」と描写する。岡本はまた、「震後、別人の感あり」とも言う。震災前とは別人のようだと。「非常なる憤激と悲しみ」が、彼に異様な気迫を与えていた。

だが、これに対する山本権兵衛首相の答弁は、木で鼻をくくったような、という言葉そのものだった。

「只今田淵君より熱心にして且つ高遠なる諸方面に対しての御意見、且又質問もあつたことでございます。右に対しましては相当に御答えするの必要を認めておりますが、何にせよ、随分多岐に亙(わた)つておりますから尚(な)ほ熟考の上他日御答を致すことと御承知を願つています」

熟考して、あとでお答えします(他日御答を致す)、というのだ。

翌15日には、田渕の早稲田大学時代からの盟友・永井龍太郎が、やはり政府の責任を問う質問を行って二の矢を放つ。先日紹介した、内務省警保局の「不逞鮮人」通牒は、このときに永井によって暴露されたものだ。だがこれに対しても、政府は何も答えなかった。

しかし田渕はあきらめなかった。同月23日の議会最終日、「他日の答え」はどうなったのかと議長席に登って問い詰め、大もめする。これが尾を引いて、後に懲戒も受けた。

左は自由法曹団の布施達治から、右は天皇至上主義の憲法学者、上杉慎吉まで、社会の各方面から、自警団は起訴しつつも警察や軍の責任は問おうとしない政府への批判の声が上がっていた。だが当局は、これにきちんと向き合うのではなく、むしろ自警団の処罰を緩めることでバランスをとった。たとえば、最大で80人が殺されたと見られるあの熊谷の事件で、実刑に服したのはたったの1人。しかも懲役2年であった。

田渕の求めた「他日の答え」は、そのまま棚上げとなった。

田渕はその後も、議場を騒然とさせた張作霖爆殺事件(28年)の際の真相暴露演説をはじめ、政府も野党も真っ青にさせる鋭い質問を放ち続けた。だが満州事変(31年)の翌年には、議院法の改正によって無所属の彼は質問の機会さえ事実上奪われてしまう。すると彼は、もっぱら野次を武器に闘いを続けた。41年には東条英機に「(対米)戦争、やったらあきまへんで」と警告し、東条に追従する議員たちに「そんなことで日本が救えるか!」と怒鳴った。退場を命じられるのは毎度のことだった。しかし、42年の選挙は大政翼賛会が相手とあって衆寡敵せず、無所属の彼は落選。その翌年、60歳の若さで亡くなった。

歴史学者の小山仁示は田渕について「自分の発言が速記録に記されることで永遠の生命をもつことにすべてを託した」のだと評している。政争を通じて政治を変えることを断念し、その代わりに、政治の場に、正しくまっとうな「言葉」を撃ち込むこと。それが彼にとっての「無所属」の意味だったのだろう。異形の代議士であるが、そんな彼がいたことで、私たちの民主主義は、1923年12月14日の「言葉」を速記録上の財産としてもつことができたのだ。

政府に「他日の答え」を求める動きはしかし、決して終わらなかった。90年後の2003年、日弁連が、朝鮮人虐殺の最後の生き証人と言われた文戊仙(ムン・ムソン)さんの申し立てを受理し、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺に対する国家責任を認め、謝罪と、事件の真相究明を求める人権救済勧告を出したのである。その後も、研究者の姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)や山田昭次(立教大学名誉教授)らが共同代表となって、「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」という運動も始まっている。

田渕の無所属の言葉は、90年後の今も、アクチュアルなままだ。



参考資料:

琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連関連官庁史料』(緑蔭書房)、山本亨介『警世の人 田渕豊吉伝』(詩画工房)、小山仁示「権勢に抗した田淵豊吉代議士」(『月刊ヒューマンライツ』2003年8月号)、同「権勢に抗した田淵豊吉代議士Ⅱ」(同12月号)

日弁連「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」
ごく短い文章だが、非常に手堅い検証を踏んで、虐殺に対する国の責任を明らかにしており、この問題に関心がある方にはお勧めである。

「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」は、衆参両院議長と内閣総理大臣宛てに「関東大震災時の朝鮮人虐殺の真相究明を求める請願」という署名を集めている。事件の実態調査や資料の開示・保存などを求める内容である。公式サイトらしきものは見当たらないが、署名についての問い合わせ先は、こちらで確認できる。

月刊イオ「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会 第7回学習会」