2013年10月5日土曜日

【2005年9月、ニューオリンズの路上で】


カトリーナの直後にホルムが加わることができたバーベキューで、キーウエスト土産のティーシャツを着た、白髪が薄くなりつつあるずんぐりした白人の男性が、得意げに笑いながら言った。

「11ヵ月前には、ニューオリンズの通りを2本の38口径と散弾銃を肩に担いで歩く日が来るなんてこたあ、夢にも思っちゃいなかったがね。そりゃあ、いい気分だったぜ。まるでサウスダコダのキジ狩りシーズンだった。動いたら、撃つ」

肉付きのいい腕をしたショートヘアのたくましそうな女性が付け加えた。「もちろん、相手はキジじゃないし、ここはサウスダコダじゃないわよ。でも、それのどこが悪いの?」

男はいかにも楽しげに言った。「あのときは、そんな感じだったな」

(レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』亜紀書房)


翻訳出版されたのが東日本大震災直後というタイミングもあり(→誤り。2010年12月初版。13/12/24追記)、レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』は当時、大きな話題を呼んだ。「ニューオリンズ―コモングラウンドと殺人者」と題されたその第5章は、2005年にニューオリンズで起こった出来事を扱っている。

この年の8月末、アメリカ南部を襲ったハリケーン・カトリーナによって、ニューオリンズ全域が冠水。死者1800人以上という大惨事となった。このとき、豊かな白人たちは車などで安全な場所にいちはやく避難できたのに対して、黒人を中心とした貧しい人々は、水浸しの市内に取り残されていた。彼らはインフラが破壊された巨大施設に避難して、いっこうにやって来ない救援を待っていた。浸水に体力を奪われた老人たちがむなしく死んでいくなかで、ふだんギャングスタイルで往来を歩いていた若者たちは、弱い人々の命を守るために必死で奔走していた。

きっかけは、一部の地域でおきた商店からの「略奪」をテレビが恐ろしげに取り上げたことだった。しかしそれは、孤立した地域で生き延びるのに必要な食料や水、寝具を無人のスーパーマーケットから調達している光景にすぎなかった。これを「略奪」と呼ぶ歪みは、黒人へのレイシズムの視線に発している。

だがこの映像から、被災地周辺に流言が広がっていく。市内では強盗が横行している、避難所はギャングに支配されており、殺人やレイプが頻発している、人肉を食っている者もいるらしい、と。そして最悪なことに、市長など、行政のトップの地位にある人々がこれを事実であるかのように宣伝し始めたのだ。ある警察署長はテレビで泣きながら「避難所では赤ん坊までがレイプされている」と訴えたという。こうした行政の発信がGOサインとなり、メディアも「無法地帯ニューオリンズ」といった構図の報道を繰り返す。CNNさえその例外ではなかった。

その結果、レイシズムと結合した「治安回復」が暴走していったのである。救援目的で投入されたはずの州兵部隊は、自動小銃で身を固め、装甲車で街をパトロールし始める。イラク帰りの彼らに加え、ファルージャ掃討戦の引き金を引いたことで悪名高いあの民間軍事会社までが乗り込んできた。「貧しい黒人が人々を襲うだろう、または襲っている、ニューオリンズは獣性の渦巻く大混乱に陥っているという思い込みが、政府の対応とメディアの報道を方向づけていた。そして、そのせいで市民は自警団を結成した」。

豊かな白人たちが結成した自警団は、通りを行く非白人に無差別に銃撃を加えた。地元の若い医師が証言している。「ある人は『おれたちで7人の人間を撃ち殺した』と言い、『殺したのは5人だよ。あとの2人がどうなったかはわからない』と言う人もいれば、『4人と3人だ』という人もいました」「(殺してしまったのは)たぶん保安官がばらまいた噂のせいでしょうね」。警官もまた、自警団同様に殺人に手を染めた。当局から防弾チョッキと銃を渡され、「ニガーを撃ってこい」と命じられた人の話も出てくる。殺された人は全体で数十人にのぼると見られるようだ。

ソルニットは怒りを込めて書く。「確かにメディアが執拗に書き立てた殺人集団は存在した。ただし、それは白人の老人たちであり、その公道での行動は明るみには出なかった」と。

背筋が寒くなる。これは、私たちがこの間見てきた90年まえの東京の光景とまったく同じである。実際に読んでいただくとわかるが、出来事の詳細なディティールのひとつひとつ、証言のひとつひとつが、まるでコピーのように、私たちの知る9月の光景とそっくりなのである。

「災害ユートピア」とは、自然災害の現場で人々がおのずと作り出す相互扶助の空間のことを指しているが、その反対に、災害現場に行政が持ち込む人災として、ソルニットは「エリート・パニック」という概念を紹介する。災害時の公権力の無力化に対して、これを自分たちの支配の正統性への挑戦ととらえる行政エリートたちが起こす恐慌である。その中身として挙げられているのは「社会的混乱に対する恐怖、貧乏人やマイノリティや移民に対する恐怖、火事場泥棒や窃盗に対する強迫観念、すぐに致死的手段に訴える性向、噂をもとに起こすアクション」だ。

ここから見えるのは、ある種の行政エリートの脳裏にある「治安」という概念が、必ずしも人々の生命と健康を守ることを意味しないということである。それどころか、マイノリティや移民の生命や健康など、最初から員数に入っていないということである。

ニューオリンズのある地域には、被害の深刻な一帯と安全な郊外を結ぶ橋があった。ここをわたって避難しようとした市内の人々、赤ん坊を抱いた母親、松葉杖の老人などを含む人々は、保安官たちの威嚇射撃によってけちらされたという。後にこの命令を非難された警察署長はこう語っている。「あの決断について、あとからあれこれ説明する気はありません。正しい理由のもとに下した決断だったという自信がありますから。良心の呵責など微塵もなしに、毎晩、眠りについています」。

この言葉は、彼らにとっての「治安」が何であるかを物語っているが、私たちはこれを読んで、1923年に日本のエリートたちが残したいくつかの言葉を思い出す。

「流言蜚語、其ものは少しも害にならなかったものを伝播したのではなくして、此注意は当時にあって、甚だ必要なるものでありしと云ふことも疑なきことであります」(後藤新平内相〔震災直後に水野錬太郎から引き継いで就任した〕。姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』)

「アノ当時の状態としてアレ丈の事に気づいたのは寧ろよい事をしたとさへ思っている」(埼玉県内務部長。山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』)

暴動はデマだったし、いくらかの朝鮮人が死んだかもしれないが、万が一に備えて「治安」を守ろうとした結果だから仕方ないだろう、と言うわけだ。朝鮮人の生命は最初から「治安」のなかに含まれていないから、こうした論理が出てくる。

そして、彼らとまったく同質の言葉を公然と語った行政エリートが、現代の日本にもいた。その言葉を最後に置いて、次の記事に進もうと思う。

「騒じょう事件が起こったときに仮定して、三軍を出動して治安の対策をしてもらううんぬんと言ったのは、言うことが良いことなの。これが抑止力になるの」。

2012年まで13年間、東京都知事を務めた石原慎太郎の発言である。



参考資料:レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』亜紀書房、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)