2013年10月5日土曜日

【東京は今も、90年前のトラウマを抱えている】

「今日の東京をみますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もはや東京の犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況で、すごく大きな災害が起きた時には大きな大きな騒じょう事件すらですね想定される、そういう現状であります。こういうことに対処するためには我々警察の力をもっても限りがある。だからこそ、そういう時に皆さん(自衛隊)に出動願って、災害の救急だけではなしに、やはり治安の維持も一つ皆さんの大きな目的として遂行していただきたいということを期待しております」(「毎日新聞」2000年4月10日付夕刊)

「東京の犯罪は凶悪化しており、全部三国人、つまり不法入国して居座っている外国人じゃないか」「(関東大震災の時に在日朝鮮人が虐殺されたことに触れ)今度は逆に不法に入国している外国人が必ず騒じょう事件を起こす」(「毎日新聞」同年4月11日付)

「騒じょう事件が起こったときに仮定して、三軍を出動して治安の対策をしてもらううんぬんと言ったのは、言うことが良いことなの。これが抑止力になるの」「中国製の覚せい剤がどんどんどんどん輸入されてきて、売るのはパキスタン人」「もっともっと大量な、そういう危険な薬物が、まさに『三国人』、外国人の手によってまん延してんだ、この日本に」「肩身の狭い、後ろめたい思いをしている外国人がいて、現に狡知にたけた犯罪をしていながらだね、つまり、なかなか手が及ばない。それが大きな災害の時、どんな形で爆発するかということを考えたら、私は知事として本当に寒心に耐えないね」「だから私は、その人間たちが大きな引き金を引いて、大きな騒じょう事件を起こす可能性があると」「とにかく国家に頼んで治安の出動を要請する。その演出をすることで、未然に防げると思ったんで、あえてそういう発言をしてきました」(「毎日新聞」同年4月14日付)

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2000年4月9日、当時の石原慎太郎都知事が陸上自衛隊第1師団の行事で隊員たちを前に語った、いわゆる「三国人発言」である。正確に言うと、上段が「三国人発言」そのもので、中段と下段は、それへの批判に対する反論、釈明として、石原都知事が会見で語った内容だ。

ここまでブログを読み進んでいただいている読者には、この発言がなぜおそろしいのかを細かく説明する必要は、もはやないだろう。当時は「三国人」という差別表現にばかり焦点があてられていたが、それは問題の矮小化である。

ここには、かつて朝鮮人虐殺を拡大させた要素のすべてがある。外国人に対する差別・偏見。その偏見に基づく風聞を信じ込む態度。それを拡散して怪しまない感覚。「治安」最優先の災害対応イメージ。軍事の論理の動員(ちなみに第1師団は、関東大震災当時の戒厳軍の主力であった)。

石原都知事在任中に東京で直下型の大地震がおきなかったことは、都民にとって本当に幸運なことだった。差別的な予見をもった男が行政のトップに立ち、地震の際には外国人が暴動を起こすから自衛隊を治安出動させろ、それが抑止力になると言っているのだ。とんでもない過ちを犯す可能性があった。

もちろん、21世紀の東京でさすがに先祖伝来の日本刀は登場しないだろう。しかし自警団は95年の阪神淡路大震災でも登場している。実際、私たちの友人のジャーナリストは深夜、被災地を移動中に泥棒と間違えられ、バットをもった自警団に取り囲まれている。それでも神戸では「犯人を捕まえようといった積極的攻撃的活動は、危険であるとして回避される傾向にあった」(『世界史としての関東大震災』)から、大事には至らなかった。

そして、阪神淡路大震災でも東日本大震災でも、外国人が悪さをしているといった類の流言は存在した。東京で大地震が起こるときも、「必ず」流されるだろう。行政が間違った対応をした場合、それが現実に跳ね返って、思わぬ形で思わぬ犠牲者を生む可能性を否定できない。

私たちが、「関東大震災時の朝鮮人虐殺は過去のことではない」と重ねて強調してきたのは、こういうリアルな話なのであって、単なる修辞ではないのだ。

防災行政に求められるのは、「エリート・パニック」に乗せられた治安対策ではなく、災害弱者である外国人などのマイノリティを支援する政策であり、差別的な流言によって彼らに被害が及ぶようなことがないようにする対応である。最低限、行政が率先して差別的な予見で動かないことだ。その大前提は、関東大震災の経験を教訓化し、決して忘れないことである。そのことは、行政だけでなく、私たちの社会そのものに求められている。

三国人発言直後、人材育成コンサルタントの辛淑玉(シン・スゴ)がこう語っている。
「東京は、関東大震災の時、朝鮮半島出身者に対する襲撃事件が現実に発生した都市である。その東京の特殊性を考慮するなら、次の震災時に備えて、無法者から外国籍住民の安全を確保する準備を考える方が健全であろう」(2000年4月13日付「毎日新聞」)。

私たちは、かつてレイシズムによって多くの隣人を虐殺した「特殊」な歴史をもつ都市に住んでいる。関東大震災の記憶は、在日の人々の間で今も悪夢として想起され続けている。そして日本人の側は、ありもしなかった「朝鮮人暴動」の鮮烈なイメージを、くりかえし意識下から引っ張り出してきた。石原「三国人発言」も、そこから生まれてきたものだ。東京は、90年まえのトラウマに今もとらわれていることを自覚しなければならない。過ちを繰り返さないために。

そういう意味で、レイシズムやその扇動は、道徳的に間違っているだけでなく、この社会にとって、火薬庫で火遊びをするほどに危険なのである。

とくに私たちの住む東京で絶対に許してはならないのが、関東大震災時に「朝鮮人暴動」が実際にあったと主張する、歴史修正主義の名にも値しないプロパガンダである。その内容は確かにお粗末だが、だからといって放置するわけにはいかない。

「関東大震災時には実際に朝鮮人暴動があり、放火やテロが行われた」と信じる人々は、東京を再び大地震が襲った時に、どのような発想をするだろうか。彼らは揺れが収まると真っ先に「外国人の暴動」を心配するだろう。思いもよらない火災の拡大を見たとき、まず「外国人の放火」を疑うだろう(実際、阪神大震災ではそうした流言が発生している)。

彼らはそうした妄想を、そのままネットに垂れ流すだろう。同じような妄想にとらわれた人が「やっぱりか」とそれをさらに拡大する。そのなかには、事実かどうかなどどうでもいい、朝鮮人をたたく絶好の機会だとはしゃぐ者もいるだろう。その先に何が起こるか。

虐殺否定論は、未来の虐殺を準備することになる。関東大震災時の朝鮮人虐殺という史実をさかさまに捻じ曲げ、「災害時には外国人・少数者に気をつけろ」という「教訓」に歪めてしまう行為を絶対に許してはならない。さらに、当時の新聞のデマ記事を「証拠」として掲げる工藤美代子の本(『関東大震災「朝鮮人虐殺の真実」』)を、ほかならぬ産経「新聞」出版が出したことの罪深さも指摘しておきたい。



【長くなりました。次回はようやく、「あとがき」です】


参考資料:関東大震災80周年記念行事実行委員会編『世界史としての関東大震災』(日本経済評論社)。
引用部分は、同書収録の田中正敬の文章中で紹介されている斉藤豊治論文「阪神大震災と犯罪問題」のもの。留意したいのは、ここで言う「危険」という言葉の意味が「エリート・パニック」の文脈の「治安」と正反対の意味で使われていること。斉藤はこれを、関東大震災の教訓が生かされたものと評価しているという。