2013年9月30日月曜日

【諸君、こいつは朝鮮人だぞ  文学者が見た朝鮮人虐殺/江口渙】

屋根と云う屋根は無論の事、連結機の上から機関車の罐(かま)の周囲にまでも、ちょうど、芋虫にたかった蟻のように、べた一面、東京からの避難民を乗せた私たちの列車が、赤羽の鉄橋を北へ渡ったのは、九月八日の午後六時すぎででもあったろうか。
汽車の中は、地震の噂、火事の噂、朝鮮人、社会主義者の噂でもっていっぱいだった。(中略)

汽車が荒川の鉄橋をほとんど渡ろうとした時だった。みんなの話しに耳を貸しながらぼんやり外を眺めていた私は、一丁足らずの上流を、岸に近く、何か白い細長いものが流れて来るのに気がついた。多量に水蒸気を含んで鈍く煙った雨上がりの薄暮と、うす濁りのしている河水のために、最初はその白いものが何であるか、少しも見当がつかなかった。

然し、畦(あぜ)の草叢(くさむら)の上を一群の人々が、その白いものを追い駈けるらしくぞろぞろやって来るのを見た時、ことにみんな手に手に竹槍や鳶口(とびくち)らしいものを持っているうえに、白いものに向かってしきりと石を投げつけているのを見た時、それが何であるかを私ははじめて知った。

「あれは何です」
傍(かたわら)に立っていた若い男がこう私にきいた。
「どうも死骸のようですね」
「きっと鮮人でしょうね。それとも主義者かしら」
「さあ。どっちですかね」

重そうに流れて来る白い細長いものと、投げられた小石がその周囲にしきりにあげる飛沫に眼をやりながら、私は押し潰されるような気持ちでもってこう答えた。そして、さらに息をころしてなおもそれらのものを見詰めた。

「やあ鮮人。鮮人」
「何。鮮人だ。どこに。どこに」
「あれを見ろよ。あれを」

こんな叫びがあっちこっちに起こったと思うと、車内はたちまち物狂わしい鯨波(とき)の声でみたされてしまった。そして、一度に総立ちになったみんなは、互いに肩や頭を押しのけてまでも、ひたすら上流の河面を見ようとさえ焦った。

やがて汽車が鉄橋を渡り終わってそれらのすべてが視界から消えさった時になっても、人々の動揺は鎮まらなかった。そして鮮人と主義者との噂がなおさら盛んに話されたのは云うまでもない。

それから二十分ほどたったのちだった。私から三側後の座席で突然喧嘩(けんか)が始まった。三十四、五歳のカアキ一服を着た在郷軍人らしい男と、四十前後の眼鏡をかけて麦藁(むぎわら)帽子をかぶった商人かとも思われる男とである。(中略)
喧嘩はしばらく続いていた。すると在郷軍人らしい方が、片手を網棚にかけて、突然座席へ突っ立ち上がった。

「諸君、こいつは鮮人だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」
こう叫ぶと片手で相手を指差しながら、四角い顎(あご)を突出して昂然と車中を見渡したと思うと、いきなり足を揚げて頭を蹴った。この場合、鮮人と云う言葉が車中にどんなショックを与えたかは、私が説くまでもない。車内はたちまち総立ちになった。呻(うめ)くような怒声と罵声が一面あたりに迸(ほとばし)って、血の出るような興奮がみるみる不気味な渦を巻き起こす中で、みんなの身体は怖ろしい勢いで波を打った。

「おら鮮人だねえ。鮮人だねえ」
押し合いへし合い、折重なって詰め寄った人間の渦の下から、時どき脅えきったその男の声が聞こえた。しかも相手がおろおろすればするほど、みんなの疑いを増し昂奮を烈しくするばかりだった。

やがて次の駅についた時、その男はホームを固めていた消防隊と青年団と在郷軍人団とに引渡された。そして、手といわず襟(えり)と云わずしゃにむに掴(つか)まれて真逆さまに窓から外へ引摺(ず)り出されたと思うと、いつか物凄いほど鉄拳の雨を浴びた。

「おい。そんな事よせ。よせ日本人だ。日本人だ」
私は思わず窓から首を出してこう叫んだ。側にいた二三人の人もやはり同じような事を怒鳴った。しかしホームの人波はそんなものに耳を貸さない。怒号と叫喚との渦の中にその男を包んだまま、雪崩(なだれ)を打って改札口の方へ動いて行った。そして、いつの間にか鳶口や梶棒がそっちこっちに閃(ひらめ)いたと思うと、帽子を奪われ眼鏡を取られたその男の横顔から赤々と血の流れたのを、私は電燈の光ではっきりと見た。

こうして人の雪崩にもまれながら改札口の彼方にきえて行ったその日本人の後姿をいまだに忘れる事はできない。(中略)そして無防禦(むぼうぎょ)の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにはいかなかった。ことに、その愚昧(ぐまい)と卑劣と無節制とに対して。

(江口渙「車中の出来事」、『関東大震災と朝鮮人虐殺』収録)



1923年11月、江口渙(えぐち・かん)が東京朝日新聞に掲載した随筆である。

江口は、1887年生まれ。夏目漱石の弟子の一人として、芥川龍之介とも親交を結んだ。社会主義に接近し、1920年に日本社会主義同盟が結成されると、その中央執行委員となった。震災前後の頃、日本の社会主義運動はアナ・ボル論争と呼ばれるアナキズムとマルクス主義の対立に揺れていたが、この時期の江口はアナ系である。その後、マルクス主義に接近し、プロレタリア文学運動を主導するようになる。

彼は震災当時、栃木県那須烏山市の実家に滞在していて被害を免れたが、二度にわたって東京に入っている。そのなかで自分自身も自警団に殺されそうになったりもした。

この随筆では、車中で「朝鮮人だ」と決めつけられた男がホームで待ちかまえる自警団に引き渡され、暴行されるが、こうした例は実際に数多く記録されている。東京から東北方面へ多くの人々が列車で避難したが、その過程で、朝鮮人が列車内から引きずり出され、駅の構内や駅前で殺害された。

栃木県では、東北本線石橋駅構内で「下り列車中に潜んで居た氏名不詳の鮮人2名を引き下し、メチャメチャに殴り殺」(上毛新聞23年10月25日)した9月3日夜の事件をはじめ、宇都宮駅、間々田駅、小金井駅、石橋駅、小山駅、東那須(現・那須塩原)駅などで、駅構内や駅周辺において多くの朝鮮人が暴行された。小山駅前では、下車する避難民のなかから朝鮮人を探し出して制裁を加えようと、3000人の群衆が集まった。

検察の発表では、栃木県内で殺害されたのは朝鮮人6人、日本人2人。重傷者は朝鮮人2人、中国人1人、日本人4人。56人が検挙された。

小山駅前では、一人の女性が、朝鮮人に暴行を加えようとする群衆の前に、「こういうことはいけません」「あなた、井戸に毒を入れたところを見たのですか」と叫び、手を広げて立ちはだかったという逸話が残っている。1996年、この女性が74年に92歳で亡くなった大島貞子さんという人であることが、「栃木県朝鮮人真相調査団」の調査で分かった。彼女はキリスト教徒であった。


小山駅ホームから



那須塩原駅前。1923年9月5日夜、朝鮮人の馬達出さんと、一緒にいた宮脇辰至さんが「東那須野村大原間巡査駐在所前道路」で殺害された。



参考資料:江口渙『わが文学半世紀・続』(春陽堂書店)、関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連官庁史料』(緑蔭書房)。