2013年9月4日水曜日

【1923年9月4日午前2時/京成線の荒川鉄橋上で】

日本語/English/한국어




「一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞き取ることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で呼び『何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ』と、声を張りあげました。その言葉が終わるやいなや自警団の手から、日本刀が振り降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。…私は横にいる弟動勲と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました」

慎昌範(シン・チャンボム)さんが日本に来たのは1923年8月20日。親戚など15人の仲間とともに日本に旅行に来たのである。関西を回り、30日に東京に着いた。
9月1日午前11時58分には、彼は上野の旅館で昼食の最中だった。朝鮮半島には地震がほとんどない。「生まれて初めての経験なので、階段から転げ落ちるやら、わなわなふるえている者やら、様々でした。私は二階から外へ飛び降りました」。

その後、燃えさかる町を逃げまどい、朝鮮人の知人を頼りながら転々と避難。荒川の堤防にたどり着いたのは3日の夜だった。堤防の上は歩くのも困難なほど避難民であふれ、押し寄せる人波のために、気がつくと京成線鉄橋の半ばまで押し出されていった。東京で暮らす同胞も合流していた。

深夜2時ごろ、うとうとしていると、「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてくる。気がつくと、武装した一団が群がる避難民を一人一人起こしては朝鮮人かどうかを確かめているようだった。

日本語でいろいろ聞かれても分からなかった林善一さんが日本刀で一刀の下に切り捨てられ、横にいた男も殺害されるのを目の当たりにした慎さんは、弟や義兄とともに鉄橋の上から荒川に飛び込んだのである。

だが彼は、小船で追ってきた自警団にすぐつかまってしまう。岸に引き上げられた彼はすぐに日本刀で切りつけられたが、相手に飛びかかって抵抗する。

次の瞬間に、周りの日本人たちに襲いかかられて失神したらしく、慎さんにその後の記憶はない。気がつくと、全身に重傷を負って寺島警察署の死体置き場に転がされていた。同じ寺島警察署に収容されていた弟が、死体のなかに埋もれている彼を見つけて介抱してくれたことで、奇跡的に一命を取りとめた。

10月末に重傷者が寺島警察署から日赤病院に移された際、彼は総督府の役人に「この度の事は、天災と思ってあきらめるように」と念を押されている。重傷者のなかで唯一、日本語が理解できた彼は、その言葉を翻訳して仲間たちに伝えなくてはならなかった。日赤病院でも、まともな治療はなく、同じ病室の16人中、生き残ったのは9人だけだった。

慎さんの体には、終生、無数の傷跡が残った。頭に4ヶ所、右頬、左肩、右脇。両足首の内側にある傷は、死んだと思われた慎さんを運ぶ際、鳶口をそこに刺して引きずったためだと彼は考えている。ちょうど魚河岸で大きな魚を引っかけて引きずるのと同じだと。



※朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』(1963年)掲載の慎昌範さんの証言を「知らせ隊」でまとめた。京成線の荒川鉄橋とは、旧四ッ木橋のすぐ横を平行してかかっている鉄橋である。

京成線荒川鉄橋付近(google map)



At 2:00am on September 4, 1923. Off the Arakawa Railroad Bridge.

Sin Chang-beom, who was visited by the quake on his family trip to Japan, jumped off the railroad bridge into the Arakawa River as he saw a fellow countryman named Rim sun-il killed by a bunch of armed Japanese, but he was easily captured by the vigilante group.

When he came to himself he was critically injured lying in a morgue at the Terashima Police Station. Although he miraculously survived the attack and the subsequent insufficient treatment by the Japan Red Cross hospital left him a number of permanent scars including those at the ankles, which he thought had been stabbed with hooks to help drag his body.

1923년 9월 4일 오전 2시. 케이세이선의 아라카와 철교.
신창범 씨는 친척 등 15명과 함께 일본에 여행하러 와 대지진을 경험했다. 이 날, 아라카와의 철교상에 피난하고 있었는데 갑자기 눈앞에서 동료가 자경단에 습격당한다. 신창범 씨는 강에 뛰어들지만 잡히고 폭행을 받아 실신. 깨달으면 경찰서의 시체안치소에 있었다. 경찰서에서도 병원에서도 비인간적인 취급을 받았다. 신창범 씨의 신체에는 그 후도 무수한 상처 자국이 남았다.