2013年9月5日木曜日

【1923年9月5日16時半/羅漢寺(現在の西大島駅)付近 放り出された16人】

日本語/English/esperanto




千葉街道に出ると、朝鮮人が1000人に近いなと思うほど4列に並ばされていました。亀戸警察に一時収容していた人たちです。憲兵と兵隊がある程度ついて、習志野のほうへ護送されるところでした。

もちろん歩いて。列からはみ出すと殴って、捕虜みたいなもので人間扱いじゃないです。(中略)僕は当時純粋の盛りですからね。この人たちが本当に悪いことをするのかなって、気の毒で異様な感じでした。(中略)

ここ(羅漢寺隣の銭湯前)まで来たら、針金で縛って連れてきた朝鮮人が8人ずつ16人いました。さっきの人たちの一部ですね。憲兵が確か2人。兵隊と巡査が4、5人ついているのですが、そのあとを民衆がぞろぞろついてきて「渡せ、渡せ」「俺たちのかたきを渡せ」って、いきり立っているのです。

銭湯に朝鮮人を入れたんです。民衆を追っ払ってね。僕も怖いもの見たさについてきたんだけど、ここで保護して習志野(収容所)に送るんだなあと、よかったなーって思いましたよ。それで帰ろうと思ったら、何分もしないうちに「裏から出たぞー」って騒ぐわけなんです。

何だって見ると、民衆、自警団が殺到していくんです。裏というのは墓地で、一段低くなって水がたまっていました。軍隊も巡査も、あとはいいようにしろと言わんばかりに消えちゃって。さあもうそのあとは、切る、刺す、殴る、蹴る、さすがに鉄砲はなかったけれど、見てはおれませんでした。16人完全にね、殺したんです。5、60人がかたまって、半狂乱で。(中略)

自警団ばかりじゃなく、一般の民衆も裸の入れ墨をした人も、「こいつらがやったんだ」って、夢中になってやったんです。(中略)ちょうど夕方4時半かそこらで、走った血に夕陽が照るのが、いまだに60何年たっても目の前に浮かびます。

(浦辺政雄〈当時16歳〉証言。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』より)



全焼した本所から大島町の親戚のもとに避難していた渡辺さんが目撃した光景である。当時、羅漢寺は現在の位置ではなく、現在の西大島駅(都営新宿線)付近にあった。

やや分かりにくいが、習志野収容所に送られる途中の、1000人近いとも思われる朝鮮人の列から、憲兵が16人だけをよりわけて銭湯の裏口から「放免」し、群衆の殺すがままに任せたということである。

政府と軍は、この数日で、当初実在を信じていた「朝鮮人暴動」がそもそも存在しなかったことに気づき、少しずつ軌道修正を図りつつあった。

朝鮮人の習志野移送は、前日4日の午後4時に第1師団司令部によって決定され、午後10時に具体的な命令が下された。その内容は、かつて戦時捕虜を収容していた習志野収容所に東京近辺の朝鮮人を収容すること、各隊はその警備地域の朝鮮人を「適時収集」して移送すること、というものであった。

朝鮮人を習志野に集中隔離するのは、自警団による虐殺をこれ以上拡大させないための処置である。山本権兵衛首相が5日、「震災に際し、国民自重に関する件(鮮人の所為取締に関する件)」という内閣告諭を出して国民に暴力の自重を求めている。「民衆自ら濫(みだり)に鮮人に迫害を加ふるが如きことは固(もと)より日鮮同化の根本主義に背戻(はいれい)するのみならず、又諸外国に報ぜられて決して好ましきことに非(あら)ず」。警察や軍ではなく、民衆自身が朝鮮人を迫害するのは、韓国を併合した日本の「善意」に反するし、外国で報道されるのは好ましくないという内容だ。虐殺の事実が諸外国で報道され、日本の不利益になることを恐れていたのである。

ちなみに、朝鮮人だけでなく、中国人も習志野に送られている。9月17日の収容最大人数が朝鮮人3079人、中国人1692人であった。9月3日の記事で大島の中国人虐殺について書いたが、この習志野移送命令によって、大島の中国人労働者のうち、虐殺にあわなかった数百人も警官隊によって捕縛され、全員習志野に送られた。大島から中国人の姿は消え、空き家となった中国人宿舎は、そのまま日本人労働者の宿舎となった(先の記事では書き損ねたが、中国人虐殺と時を同じくして、中国人に宿舎を貸していた日本人経営者3、4人も殺されている)。


渡辺少年が目撃したのは、前日夜の命令を受けて、習志野に移送されていく朝鮮人たちだった。ではなぜ、あの16人だけは途中で放り出されて、自警団のえじきに供されたのだろうか。関東大震災時の朝鮮人虐殺の研究では第一人者といえる姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)は、『関東大震災・虐殺の記憶』で、軍や警察の失態を知りすぎた者を処分したのではないかと推察している。

そうかもしれない。しかし、もっと卑小な、わけのわからない理由でたまたま選ばれたのかもしれない。いずれにしろ彼ら16人は、「保護」の建前に従って移送される途中で、自らのあずかり知らない気まぐれのような事情から惨殺されたのである。

(次の更新は6日午前2時の予定です)

参考資料:関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会)、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(青木書店)、田原洋『関東大震災と王希天事件』(三一書房)。





西大島駅(google map)

At 16:30pm on September 5, 1923
Rakanji Temple near the current Nishi-Ojima Train Station
16 Abandoned Koreans

"I saw a procession of over 1000 Koreans being taken by force to a camp in Chiba. They were continually battered by soldiers. The unit somehow released 16 Koreans on the way. As they fleed into the Rakanji Temple, the crowd followed and slaughtered them all. Even now, after 60 years, I still recall seas of blood reflecting the evening sun", said a 76-year-old man.
Although the military decided on September 4, 1923 to take Koreans living in Tokyo to the old internment camp in Narashino, Chiba to stop the massacre by civilians from spreading the 16 Koreans were abondoned. Why?
The historian, Kang Dok Sang, thinks that they might have known too much about blunders by the military and the police, but the actual reason is unknown.


En la 5-a de septembro je la 4-a posttagmeze, ĉe la templo Rakan (ĉ. nuna stacio Nishiooshima), Forĵetataj 16 koreoj

“Mi vidis koreojn kiuj estas transportataj al la koncentrejo en Chiba. Estis vidataj de mi pli ol mil koreoj. Ili piediris batate de japanaj soldatoj kiu gardas ilin. Tio ne estis trakto al homoj. La soldatoj elektis 16 koreojn kaj “reliberigis” ilin sur la loko. La koreoj fuĝis al tombejo malantaŭ la templo. Do amaspopolo alkuris kaj mortigis ilin. Eĉ post 60 jaroj, mi memoras ke subira suno lumigis fluantajn sangojn” (atesto de tiama 16 jaraĝa knabo)
En la antaŭa tago La armeo decidis meti koreojn kiuj loĝas en Tokio al la koncentrejo Narasino en Chiba. Ĉar la armeo ne volas ke popolo ne plu mortigi koreojn. Do kial la armeo forĵetis 16 koreojn? Historiisto GANG Deoksang supozas “Ĉar 16 koreoj sciis eraron de armeo kaj polico.” Sed neniu scias veran kialon.