2013年9月29日日曜日

【いわんや殺戮を喜ぶなどは  文学者の見た朝鮮人虐殺/芥川龍之介】

僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。

戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草を啣(くわ)へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤(もっと)も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訳(わけ)ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論(もちろん)さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう」と云ふ外はなかつた。

しかし次手(ついで)にもう一度、何でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽(たちま)ち自説(?)を撤回した。

再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○の陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装(よそ)はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。

尤も善良なる市民になることは、――兎に角(とにかく)苦心を要するものである。


(芥川龍之介「大正十二年九月一日の大震に際して」1923年9月)
(青空文庫)



○…は、検閲による伏字。○○○○○○○○は「不逞鮮人の放火だ」、○○○○は「不逞鮮人」と思われる。

芥川は震災当時、田端の自宅におり、町会で組織された自警団に参加している。このときに、彼がどのような体験をしたのかまでは分からない。たぶん、大きな出来事にはでくわしてはいないだろう。

上の文章は、一読すれば分かるとおり、自警団の一員となった自らを道化役として、朝鮮人暴動の流言が横行した世相や同調圧力を皮肉り、それに惑わされることのなかった盟友・菊池寛を逆説的な表現で称える文章である。

ところが、思いもよらぬ読み方をする人がいるのである。ノンフィクション作家の工藤美代子は、『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』のなかでこの文章についてこう解説してみせる。「芥川龍之介は大火の原因を一部朝鮮人の犯行と見ていたようである」「芥川龍之介は菊池寛に対する激憤の行方として、自死を選んだように思えてならない」「勃興する共産主義の南下を芥川のように日本の危機とみる時代認識抜きには大正という時代は考えられない」。

ようするに、芥川は朝鮮人暴動を信じていた、ところが菊池寛にそれを否定されて憤激のあまり数年後には死を選んだ、彼はまた、共産主義の浸透を日本の危機として憂えていた―というのだ。

もう手の施しようのないほどメチャクチャである。「もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装(よそ)はねばならぬものである」という一文に、平均的なリテラシーのある読者はふつう、「皮肉」を読む。工藤は「私は嘘つきだ」という人に出会ったら、彼を素直に「嘘つき」だと思い込むのであろうか。

ちなみに同書は、関東大震災で起きたことは朝鮮人虐殺ではないと主張する本である。朝鮮人テロリスト集団による暴動は実際に起こったのであり、自警団や軍の暴力はそれへの反撃であったというのである。ここではこれ以上内容について言及しないが、「アポロ11号は月に行かなかった」「プレスリーはまだ生きている」というのと同じくらいばかげた主張である。だがこのばかげた本をほとんど唯一のネタ元として、ネット上に朝鮮人虐殺否定論が広がっているのも確かだ。

芥川が、自警団による朝鮮人虐殺についてどのように考えていたかについては、当時、文芸春秋に連載された「侏儒の言葉」のなかの「或自警団員の言葉」という短文にあらわれている。

「さあ、自警の部署に就こう。今夜は星も木木の梢(こずえ)に涼しい光を放っている」と始まるこの文章は、深夜、「気楽に警戒」する自警団員の独白である。彼は、明日を心配することもなく静かに眠る鳥を称え、それに引き換え地震によって衣食住の安心を奪われただけで苦痛を味わい、過去を悔いたり、未来を不安に思ったりする人間を「なんと云う情けない動物であろう」と嘆くが、そのあとにこう続ける。


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しかしショオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにし給え。我我は兎に角(とにかく)あそこへ来た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯(ただ)冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐(あわれ)まなければならぬ。況(いわん)や殺戮(さつりく)を喜ぶなどは、――尤(もっと)も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。

我我は互に憐まなければならぬ。ショオペンハウエルの厭世観(えんせいかん)の我我に与えた教訓もこう云うことではなかったであろうか?

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(芥川龍之介「侏儒の言葉」1923年11月)
(青空文庫)


朝鮮人虐殺という事実を芥川がどう受け止めていたのか、もはや明らかだろう。

ちなみに、文学史的には「芸術至上主義的」と形容される芥川だが、研究者の関口安義(都留文科大学教授)によれば、震災前後には社会的なテーマや社会主義に強い関心を向けているのだという。震災前年には「社会主義は理非曲直の問題ではない。単に一つの必然である」とまで書いている。先に引用した「侏儒の言葉」には、反軍的なアフォリズムがいくつか見られる。

震災から1年後に芥川が書いた「桃太郎」という短編を青空文庫で読むことができる。ブラックな笑いに満ちて痛快なこの小説を読めば、朝鮮支配を含めて、彼が当時の日本の帝国主義、植民地主義をどう見ていたのか、よく分かる。彼は、工藤が「ほめ殺し」してみせたような、アホらしい人物ではなかった。

(芥川龍之介「桃太郎」1924年6月)
(青空文庫)



参考文献:青空文庫のほか、工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)、『よみがえる芥川龍之介』(NHKライブラリー)ほかの関口安義の著書。