2013年9月6日金曜日

【1923年9月/高円寺 留学生の経験】

日本語/English/esperanto

尹克栄(ユン・クギョン)さん(ソウル出身)は、震災当時21歳だった。(中略)1921年に東洋音楽学校に留学、同胞の留学生と高円寺に下宿していた。

震災の後、好奇心で都心はどうなったかと銀座あたりまで出かけて夜通し歩いた。2日にどの場所でか、握り飯配給の列に加わっていたところ、朝鮮人労働者が引きずり出されて殴られるのを目撃する。誰何されて日本語で答えられなかったのだ。こうした場面を数回見た。帰り道では、「朝鮮人が井戸に毒を入れて日本人を殺す」「あらゆる犯罪をしている。朝鮮人を追い出せ」などの貼紙が、時間がたつにつれて増えていった。何カ所かで尹さんも誰何されたが、なれた日本語と日本の学生とかわらない雰囲気のためにまぬがれることができた。

下宿に戻ったが余震が続くため、何日か近くの留学生17人でかたまって竹林で野宿をしていた。中野には電信第一連隊があったが、ふいにそこから7、8人の兵士がやってきた。「朝鮮人だろう、井戸に毒を入れたことがあるか」と尋問する。「そんなことはしない」と言うと、嘘をつくなと2、3人が殴られ、下宿を捜索された。そのころの学生なら有島武郎の本の1冊ぐらいは持っていたが、『惜しみなく愛は奪う』のタイトルが赤い字のため、「共産党だろう」と銃剣を突きつけられ、みんな電信隊に連行されてしまった。「保護」の名目で2、3日留置、調査されたのである。

帰されても軍隊にいたほうが安全だったほど、周囲は物騒だった。友人たちと「どうせ殺されるなら、1人殺して殺されるほうがよい」とまで話していたが(後略)

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』教育史料出版会)



この引用部分のあと、1人の男が彼らを訪ねて来て頭を下げる。玉と石を混同していた、と。「石」とは朝鮮人労働者を指している。さらに軍までが「誤解しないでほしい」と伝えてきたそうだ。要するに、有力者の子弟が多い留学生にむやみに怪我でも負わせれば後々まずいというわけである。

上記の証言は、同会が韓国に渡り、日本留学経験者に聞き取りを行ったもの。

「証言者の多くが語ったのが『労働者が殺された。私たちは留学生だったから助かった』ということだった」(同書)。それは上記のような理由のほかに、労働者たちは日本語を体系的に学んでおらず、「誰何や検問に引っかかったとき、まぬがれるのはむずかしかったろう」ということもある。さらに地域の日本人との関係も薄い場合が多かった。

朝鮮人の多くは労働者で、留学生は少ない。留学生が住んでいたのは現在の杉並区、豊島区、新宿区、文京区などの東京西部の郊外だった。

私たちにとって気になるのは、やはりというべきか、われらが高円寺もまた、朝鮮人にとって命の危険を感じるほどに「物騒」だったということだろう(実際に誰も殺されていないと言えるだろうか)。ちなみに彼らが連行された電信第1連隊は、現在の中野駅北側の「中野四季の都市」(警察学校跡)にあった。

高円寺北中商店街の「なんとかバー」に行くと、留学生や外国の若者と呑むこともしばしばだ。彼らにとって、21世紀の高円寺が「物騒」でない、居心地のいい街であり続けてほしいと思う。



追記:尹克栄は、後に高名な作曲家になり、多くの創作童謡を残した。「オッパ・センガク(お兄ちゃんのことを思う)」など、今も多くの曲が歌い継がれている。

「オッパ・センガク」(you tube)

September, 1923
Experience of a Korean Student

In fear of further damages by the intermittent aftershocks a Korean student living in Koenji slept outside with some other Korean friends. One day soldiers showed up and battered them, saying, "You poured poinson into wells!" They were all taken to the military base nearby and detained for 3 days.
A few days later a man came to his place and apologized for having treated them like Korean workers.

The military did not want the colonial rule of the Korean Peninsula affected by hurting Korean students in Japan, many of whom were from affluent families. In fact, most of the murdered Koreans were workers.


En la septembro 1923, La sperto de iu korea studento en Japanio

La korea studento en Japanio kiu loĝis en Kooenji tiama ĉirkaŭurbo de okcidenta Tokio. Timante duan tertremon li fuĝis kaj tranoktis en arbaro, la armeo proksima batis dirante “vi ĵetis venenon al putoj” kaj kondukis lin. Post 3 tagoj li estis liberigita. Post kelkaj tagoj iu viro vizitis lin kaj pardonpetis al li. Ni pardonpetas trakti vin, korea studento en Japanio, kiel korean laboriston.
Tiam multe da studentoj el koreio estis filoj de eminentuloj. La armeo timis ke okazas probremo por japana rego de koreio pro vundigi filojn de eminentuloj. Plej parto de mortintoj estis koreaj laboristoj.