2013年9月3日火曜日

【1923年9月3日午後3時/東大島 中国人はなぜ殺されたのか】

日本語/English

最大の虐殺があった現場(東大島文化センター付近)



『関東戒厳司令部詳報』「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル一覧表」
時:9月3日午後3時頃/場所:大島町8丁目付近/隊:野重(野戦重砲兵)一(連隊)ノ二(中隊)砲兵少尉岩波清貞以下69人 騎14(連隊)騎兵少尉三浦孝三以下11人/兵器使用者:騎14騎兵卒3名/被兵器使用者:鮮人約200名(氏名不詳)/処置:殴打/行動概況:大島町付近ノ人民ガ鮮人ヨリ危害ヲ受ケントセル際救援隊トシテ野重一ノ二岩波少尉来着シ騎14ノ三浦少尉ト偶々会合シ共ニ朝鮮人ヲ包囲セントセルニ群衆及警官4、50名約200名ノ鮮人団ヲ率ヰ来リ其ノ始末協議中騎兵卒3名ガ鮮人首領3名ヲ銃把ヲ以テ殴打セルヲ動機トシ鮮人ハ群衆及警官ト争闘ヲ起シ軍隊ハ之ヲ防止セントシガ鮮人ハ全部殺害セラレタリ/備考:①野重ノ岩波以下、兵器を携帯セズ②鮮人約200名は暴行強姦掠奪セリト称セラレ、棍棒、鉈等ノ凶器ヲ携帯セリ。③本鮮人団、支那労働者ナリトノ説アルモ、軍隊側ハ鮮人ト確信シ居タルモノナリ
田原洋『関東大震災と王希天事件』より重引『関東大震災政府陸海軍関係史料2巻 陸軍関係史料』収録)

警視庁広瀬久忠外事課長直話(1923年9月6日)
目下東京地方にある支那人は約4500名にして内2000名は労働者なるところ、9月3日大島町7丁目に於て鮮人放火嫌疑に関連して支那人及朝鮮人300名乃至400名3回に亘り銃殺又は撲殺せられたり。第1回は同日朝、軍隊に於て青年団より引渡しを受けたる2名の支那人を銃殺し、第2回は午後1時頃軍隊及自警団(青年団及在郷軍人団等)に於て約200名を銃殺又は撲殺、第3回には午後4時頃約100名を同様殺害せり。
右支鮮人の死体は4日まで何等処理せられず、警視庁に於ては野戦重砲兵第3旅団長金子直少将及戒厳司令部参謀長に対し、右死体処理方及同地残余の200名乃至300名の支那人保護方を要請し、とりあえず鴻の台(国府台)兵営に於て集団的保護をなす手筈となりたり。
本事件発生の動機原因等に付ては目下の所不明なるも支那人及朝鮮人にして放火等をなせる明確なる事実なく唯だ鮮人に付ては爆弾所持等の事例発見せられ居るのみ。
仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』より重引アジア歴史資料センターHPレファレンスコードB04013322800。原文はカタカナ)(注)



「関東戒厳司令部詳報」は、関東大震災における軍の作戦行動の記録をまとめたもの。この事件を調査していた田原洋が国立東京都公文書館で発見した。「直話」とは、臨時震災救護事務局の警備部で行われた談話形式の会合での発言記録である。これもまた戦後、アメリカが持ち去った外務省の文書から発見された。

両者は同じ事件について語っているように見える。実際には何が起こったのか。殺されたのは朝鮮人なのか、中国人なのか―。

この事件については、直後から日本人、中国人による民間の調査が進められている。さらに戦後の調査研究(目撃証言や軍人の聞き取りなどを含む)もあり、「何が起きたのか」自体はかなりはっきりしている。

現場となった南葛飾郡大島町(現・江東区)には当時、工場などで働く中国人労働者千数百人が、60数軒の宿舎に集住していた。

9月3日朝、付近の日本人住民は今日は外に出るなと伝えられていた。伝えてまわったのは在郷軍人会か消防団のようだ。そうして朝のうちに、銃剣を付けた兵士2人が、大島6丁目の中国人宿舎から中国人労働者たちを引き立てて行った。このとき、2発の銃声が響いている。

昼頃、今度は8丁目の中国人宿舎に軍、警察、青年団が現れ、「金をもっているやつは国に返してやるからついてこい」と言って174人を連れ出した。ところが、近くの空き地まで来たところで突然、誰かが「地震だ、伏せろ!」と叫ぶ。中国人たちが地面に伏せると、今度は群衆がいっせいにこれに襲いかかった。

「5、6名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、200人ばかりの支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、とび口、竹やり、日本刀等をもって、片はしから支那人を虐殺し、中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた」と、付近に住む木戸四郎という人物が、事件から2ヵ月後の11月18日に、現地調査に来た牧師の丸山伝太郎らに語っている。

さらに3時ごろ、先述の岩波少尉以下69名、三浦少尉以下11人の部隊が、人々が「約200人の鮮人団を連れて来て、その始末を協議中」のところへ現れ、これをすべて殺害したのである。

8丁目の虐殺を最大として、この日、大島の各地で同様の事件が起こった。殺された中国人の数はぜんぶで200~300300人以上と見られる。

8丁目の虐殺の唯一の生存者である黄子連が10月に帰国し、この事実を中国のメディアに語ったことで、それまで日本救援ムードが強かった中国の世論は一変した。黄は郷里の浙江省温州に帰ったが、虐殺時に負傷した傷が化膿し、吐血するようになり、しだいに体を壊して2、3年後に亡くなった。



残る問題は、この大量殺人が「なぜ」行われたのかである。震災時、朝鮮人が放火や爆弾といった流言のターゲットにされていたのに対して、中国人を特別に攻撃する流言が広がってはいなかった。朝鮮人虐殺に見られるように混乱の中で衝動的に行われたふうもなく、むしろ明らかに計画性が見える。

仁木の前掲書は、その背景に人夫請負人(労働ブローカー)の意図があったと推理している。第一次大戦の好況も終わり、前年から不況が始まっていた。日本人より2割も安い賃金で働く中国人労働者の存在は、日本人労働者にとっても、彼らを手配し、賃金をピンハネする労働ブローカーにとっても目障りであり、排斥の動きが起こっていた。一方、中国人を安く使っていた日本人ブローカーにとっても、僑日共済会の指導によって未払い賃金の支払い要求などを起こすようになった中国人は、もはや使いにくい存在になっていた。

警察も中国人労働者を好ましく思っていなかった。大島を管轄する亀戸署は、多くの労働運動を抱え、公安的な任務を強く負った署である。中国人にまで労働運動を起こされてはたまらない。政府レベルでも、日本人労働者保護のためとして、中国人労働者の国外退去などを進めつつあった。

労働ブローカーと警察が、朝鮮人虐殺で騒然としている状況に便乗して、日本人労働者をけしかけ、さらに「朝鮮人討伐」の功を焦る軍部隊を引き込み、中国人追い出しというかねての悲願を実行に移したのだ―というのが仁木の見立てである。そうであるとすれば、ほかの朝鮮人虐殺とはかなり様相の異なる特殊な事件ということになりそうだ。

だが仁木はこの虐殺に喝采する一般民衆の姿があったことを指摘する。「これに迎合する群衆が喝采しながら無力な相手に自分も手を出している。中国服を着ている中国人を『こいつは朝鮮人だ、やっつけてしまえ』と叫ばせるものは何か。権力者へその行為を促し容認する媚とともに、典型的な異邦人排除の観念がある。これは軍人も民衆も共有している観念である。(中略)それは生命への畏敬を知らない人権感覚の欠如と同居している」と。

参考資料:田原洋『関東大震災と王希天事件』(1982年、三一書房)、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(1993年、青木書店)。松尾章一監修/田崎公司・坂本昇編集『関東大震災政府陸海軍関係史料2巻 陸軍関係史料』(日本経済評論社、1997年)。

(注)冒頭資料は、2013年9月のブログ記事掲載時に重引だったものを原典から引用し直し、それにともない語句を修正した。同時に省略をやめ、全文を掲載した(2014年2月23日記)。

東大島文化センター付近(google map)


At 15:00pm on September 3, 1923
Higashi Ojima
How did the Massacre against Chinese Occur?

Back then over a thousand Chinese workers lived in Ojima Town.
On September 3, 1923, about noon, the military, police and local youths succeded in taking 174 Chinese from workers lodgings in the town, saying, "we could help you go home if you have money", and as the party came to an empty lot they attacked the Chinese from behind.

Researches and witness accounts reveal a total of 200 to 300 Chinese were murdered in Ojima on that day, and this was confirmed by two official documents discovered after the WWII and a testimony to Chinese press media made by Huang Zi Lian, a sole survivor of the 174 workers on his return home to Zhejiang Province of China.

Fumiko Niki points out in her book "Genocide against Chinese in the Aftermath of the Great Kanto Earthquake" that behind the massacre lay evil intentions of brokers who were on aleart against increasingly organized Chinese workers. The local police also considered them as a target of control. As she put it they joined forces, egged Japanese workers on and involved the military to realize their long-cherished wish to drive out the aliens.