2013年9月2日月曜日

【1923年9月2日午後8時/千歳烏山 椎の木は誰のために(「13本の椎の木」改題】

※2014年2月23日に本文を全面的に改訂しました。


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事件があったと思われる附近


烏山の惨行

9月2日午後8時頃、北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向かって疾走する一台の貨物自動車があって、折から同村へ世田ヶ谷方面から暴徒来襲すと伝えたので、同村青年団、在郷軍人団、消防隊は手に手に竹やり、棍棒、トビ口、刀などをかつぎ出して村の要所要所を厳重に警戒した。

この自動車もたちまち警戒団の取締りを受けたが、車内に米俵、土工(土木工事)用具などとともに内地人(日本人)1名に伴われた朝鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原の土工親方、二階堂左次郎方に止宿して労働に従事していた朝鮮人で、この日、京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼があり、それに赴く途中であった。

朝鮮人と見るや、警戒団の約20名ばかりは自動車を取り巻き二、三、押し問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩(なだ)れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の朝鮮人に重軽傷を負わせ、ひるむと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえりみるものもなかった。

時を経てこれを知った駐在巡査は府中署に急報し、本署から係官が急行して被害者に手当てを加えるとともに、一方で加害者の取調べに着手したが、被害者中の一同1名は翌3日朝、ついに絶命した。(中略)

加害者の警戒団に対しては10月4日から大々的に取調べを開始した。18日までに喚問した村民は50余名におよび、なお目下引き続き署長自ら厳重取調べ中である。

(「東京日日新聞」1923年10月21日付。『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)


※ 読みやすさを考慮して新かなづかいとし、一部の漢字をかなに開き、句読点を打った。「鮮人」も「朝鮮人」に直している。




上記の新聞記事引用に続く、「知らせ隊」による以下の文章の内容について、全面的に訂正します。
(2014年2月23日記)

(以下、内容の訂正が必要な部分を含む、2013年9月執筆の文章)・・・・・・・・・・・・・・・

命を落とした朝鮮人は洪其白(ホン・ギベク)さんら13人。加害者側は12名が「殺人および同未遂」で逮捕された。朝鮮人労働者たちは、京王電車から車庫の工事に向かう途中だったようだ。
震災後、甲州街道は都心から西へ向かう避難民の列がえんえんと続き、なかには力尽きて路上で倒れる人もいたという。そうしたなか、夜更けの道を反対に都心へと向かうトラックを見たとき、自警団の人々はさぞ怪しいと決めつけたに違いない。

世田谷区が発行した『世田谷、町村のおいたち』(1982年刊行)にこの事件についてふれた箇所がある。そこでは、近所に住んでいた徳富蘆花が随筆『ミミズのたはこと』のなかで事件に言及していることを紹介したうえで、こうまとめている。「今も烏山神社(南烏山2丁目)に13本の椎(しい)の木が粛然と立っていますが、これは殺された朝鮮の人13人の霊をとむらって地元の人びとが植えたものです」。

余談になるが、この事件についてネットで調べていたとき、烏山神社の写真を掲載したブログをみつけた。烏山事件の話を人から聞いて、わざわざ神社まで出向いたのだ。だが「ネットで調べても何もひっかからないし、烏山事件なんていうのが史実かどうかも疑わしい」と嘲笑して終わっている。ネットにひっかからない事実などいくらでもある。こうした悲しい歴史に、そんな不遜な態度で向き合ってほしくないと思った。

(以上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


訂正が必要な内容について

上記の文章を全面的に訂正しなければなりません。
事実関係の誤りが二つあります。ひとつは、朝鮮人死者数は『世田谷、町村のおいたち』が記している「13人」ではなく、「1人」(3人の可能性もある)であるということ。もうひとつは、「椎の木は誰のために植えられたか」です。これについては、以下を最後まで読んでいただければと思います。

この記事をアップした後、 荒川の河川敷で慰霊式典を続けている「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の方から、会でまとめた資料集をいただきました。そのなかに、東京日日新聞1923年10月21日付の「府下版」が掲載されていました。そこには、この「烏山事件」で負傷、死亡したすべての朝鮮人の名前が列挙されていたのですが、それによれば、病院まで送られた人が3人で、死者は洪其白さん1人となっていたのです。

追悼する会に確認したところ、「新聞によって幅はあるが、おそらく1人が正しいだろう」との答えをいただきました。たしかに、死者、負傷者について、名前を明記しているのですから、この「府下版」の記事がもっとも信頼できると考えるべきでしょう。死者3人とする史料もあり、入院した3人のうち2人が亡くなった可能性もありますが、冒頭に掲載した東京日日新聞の記事の「被害者中の一同」が死亡したという記述は「被害者中の1名」の誤字と考えるのが妥当だと思われます。つまり、『世田谷、町村のおいたち』は、死者数については誤りだということになります(その場にいた朝鮮人労働者全体の数についても史料によって幅があります)。

しかしそうなると新たな疑問がわいてきます。烏山神社の椎の木は、ではいったい何の目的で植えられたのか。

この疑問を率直にぶつけると、「追悼する会」の方から、今度は87年に発行された『大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞』を送っていただきました。「編者は世田谷区の文化財保護委員や調査員などをやった方で、事件の地元の人です。椎の木は誰のために植えられたのかについて今の時点ではこれ以上に信頼のおけるものは見ていません」というメッセージつきでした。そこには、あのとき起きたことが、古老からの聞き取りをもとに詳しく書かれていました。

まず、事件は、旧甲州街道を横切る烏山川にかかる石橋で、朝鮮人労働者を載せたトラックが崩落箇所にはまり、自警団に包囲されたところから始まったとあります。このブログ記事冒頭の写真(「事件があったと思われる附近」)をよく見ていただくと、左右に小道が横切っているのが分かりますが、これが今は暗渠となっている烏山川であり、事件の現場です。石橋の崩落箇所に…という事件のディティールは、内田良平の記録にも出てきます。その後に起きたことについては、おおよそ東京日日新聞の伝えるとおりです。

そして、烏山神社の椎の木については、『大橋場の跡』は次のように説明しています。
「結局12人の被害者に対して12人の加害者が出てご苦労されている。このとき千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。千歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」
「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない、すべては未曾有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さがおおきく作用したことは厳粛な事実だ」

この一文から分かるのは、植えられた椎の木は朝鮮人犠牲者の供養のためではなく、殺人罪などによって起訴された被告の「ご苦労」をねぎらうために植えられた気配が濃厚であるということです。苦い結論ですが、そのように受け止めざるを得ません。

現時点で分かっているのは以上の内容になります。
ブログ連載企画進行中の昨年9月、誤った説明をお伝えしてしまったことをお詫びします。

釈放された人々とともに椎の木を植えたとき、村の人々の心にどんな思いが交錯していたのか、本当のところはわかりません。なぜ一部で「あの椎の木は死んだ朝鮮人の供養のために植えられたのだ」という話が伝えられてきたのか。それもわかりません。

最後に、当時の東京日日新聞「府下版」が伝えた被害者の名前をあげておきます。

比較的軽傷者:金丁石(25)、魯数珍(20)、李敬植(36)、権宜徳(24)、許衍寛(36)、朴在春(32)、朴道先(32)、朴敬鎮(50)、李永寿(23)、金希伯(34)、高学伊(24)、李洪中(25)、宋学伯(23)、鳳虚到(38)、具鉄元(27)、金珠栄(26)、文己出(26)、閔丙玉(31)、金仁寿(24)、権七奉(23)、鄭三俊(25)。
赤十字病院に送られし者:金奉和(35)、金威光(28)、成●●(32)
絶命した者:洪基台(35)【「洪其白」が正しい】

今も、烏山神社の正面の鳥居をくぐってすぐのあたり、参道の左右に、4本の椎の木がそびえているのを確かめることができます。

(2014年2月23日記)


姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房、1963年)
山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』(緑蔭書房、2004年)関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京フィールドワーク資料(下町以外編)』(冊子、12年1月)
下山照夫編『大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞』(発売・岩田書院、1987年)




烏山神社


事件があったと思われる付近(google map)


烏山神社(google map)


At 20:00pm on September 2nd, 1923, at Chitose-Karasuyama, Tokyo
A vigilante group organized by the villagers pulled 17 Korean workers out of a track at a checkpoint it set up and attaked them with swords and bamboo spears until the the Koreans were mortally wounded. They were actually on the way to downtown Tokyo in response to a request from a railroad company to fix train depots.
One of them died the next morning. 12 out of those involved in the attack were arrested on murder charges.



1923년 9월 2일 오후 8시, 도쿄・치토세카라스야마(千歳烏山).
토쿄 중심으로 향해 가는 트럭을 마을의 자경단이 검문했다. 조선인 17명이 타고 있는 것을 발견하자 마자 칼이나 죽창으로 폭행. 빈사의 중상을 받은 그들을 그 자리에 방치했다. 다음날 아침, 그 중 1명이 죽었다. 조선인들은 노동자이고 철도 회사의 의뢰를 받아 차고의 수리로 향하는 도중이었다. 폭행 실행자 중 12명이 살인죄등에서 체포되었다.


Je la 8-a vespere en la 2-a de septembro 1923, ChitoseKarasuyama, Tokio.
Memgarda grupo kontrolis kamionon al la centro de la urbo. Tuj post la trovo de 17 koreoj, ili perfortis la koreojn per glavoj kaj bambuaj lancoj. Ili lasis tie la koreojn kiuj estis severe vunditaj. En sekvanta mateno, unu koreoj mortis. La koreoj estis laboristoj irantaj al reparo de remizo laŭ la peto de fervoja kompanio.12 el perfortintoj estis arestitaj pro la kulpo de mortigo.