「ウチノ山ニ○○○○○ジンガスコシスンデヰマシタガ 七十七バンチノセイネンダンガキテ ソノ○○○○○ジンヲコロシテシマイマシタ」(本郷区尋常小学校1年男児)
「お父さんは○○○○人をころすので私やお母さんや、おばあちゃんや、よね子や、とみ子などはお父さんにわかれました」(深川区同2年女児)
「朝鮮人がころされているといふので私わ行ちゃんと二人で見にいった。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによってみた。すると頭わはれて血みどりになってしゃつわ血でそまっていた。皆んなわ竹の棒で頭をつついて『にくらしいやつだこいつがいうべあばれたやつだ』とさもにくにくしげにつばきをひきかけていってしまった」(横浜市高等小学校1年【現在の中学1年】女児)
「夜は又朝鮮人のさはぎなので驚ろきました私らは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました。それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがって居ました」(同1年女児)
「三日になると朝鮮人騒となって皆竹やりを持たり刀を持たりしてあるき廻ってた。其をして朝鮮人を見るとすぐ殺しので大騒になった。其れで朝鮮人が殺されて川へ流れてくる様を見ると、きびの悪いほどである」(同1年男児)
「オソロシイ朝鮮人ノサハギ世間一パン武器ヲツカイ朝鮮人トタタカイ、マルデ戦国時代ノヨウデアル。朝鮮人ノ死体マルデ石ガコロガツテイルヨウデアル」(横浜市尋常小学校6年男児)
「朝起きてみると、近所の子供が『朝鮮人が交番にしばられているから、見にいかないか』と大きな声で言っていました。君江さんは、私に『見にいかないか』といったので、私はいやともいえないので、じゃあゆきましよう。いって見ると、朝鮮人は電信にいわいつけられて、真青な顔をしていました。よその人は、『こいつにくたらしい人だといって』竹棒で頭をぶったので、朝鮮人はぐったりと、下へ頭をさげてしまいました。わきにいた人は、ぶってばかりいてはいけない。ちゃんと、わけをきいてからでなければいけないと言っていました。朝鮮人は頭を上げながら、かく物をくれと、手まねきしていました。君江さんはもうかえらないかといわれたので、じゃあ帰りましょう、といいながら(後略)」(同高等小学校1年女児)
以上は、震災から半年から1年後に書かれた、子どもの作文の一部である。
琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』(緑蔭書房)は、震災経験を書いた当時の児童の作文のうち、朝鮮人虐殺にふれているものを集めた大部な本だ。原文では学校や児童の名前が入っているが、ここでは省いた。
読み進むと、これまでに読んだ様々な証言以上に、こちらの心が重くなってくる。
ひとつには、あまりにも大量に、造作なく、「死んでいました」「殺してしまいました」といった描写が子どもの作文中に出てくることの衝撃と嫌悪。
もうひとつには、これほどたくさんの子どもたちが無造作に書くほどに、当時、朝鮮人の殺害が珍しくなかった事実を突きつけられること。普通、子どもが学校で「お父さんは人殺しに行きました」と作文に書いたら周囲は騒然となるはずである。学校は警察に相談するだろう。
三つ目は、そこに朝鮮人への同情や虐殺への疑問がうかがえる表現がほとんどないことだ。そうしたなかで、編者の琴秉洞(クム・ピョンドン)が唯一、「救われたような気持ちになった」と記すのは、横浜市寿小学校の高等小学校1年、榊原八重子さんの作文である。長いので、ここでは結びだけ紹介する。
「うむうむとうなっているのは、五、六人の人が木にゆわかれ、顔なぞはめちゃくちゃで目も口もなく、ただ胸のあたりがびくびくと動いているだけであった。/私はいくら朝鮮人が悪い事をしたというが、なんだかしんじようと思ってもしんじる事はできなかった。其の日けいさつのにわでうめいていた人は今何地(どこ)にいるのであろうか」
彼女がこの光景を目撃したのは明け方のことである。その数時間前、彼女の家族のそばに1人の朝鮮人が逃げてきて、助けを求めた。「私朝鮮人あります。らんぼうしません」と彼は訴え、何度も頭を下げた。追っ手に捕まり、連れて行かれる姿を見送ったあと、彼女は一睡もできずに明け方を迎え、警察署前を通りかかったのである。琴秉洞は「なろうことなら、大人たちにこの八重子さんの聡明さと優しさの何分の一かが欲しかった」と嘆じる。
最後にもうひとつ、児童の作文を名前入りで紹介する。深川区霊岸尋常小学校3年生。
彼女の名前は「鄭チヨ」である。
こまつた事/鄭チヨ
(前略)もうここまでは(火が)こないと安心して、その晩は外でねました。あくる日の朝どての所へこやをこしらへてゐると、あつちこつちから丸太を持つた人が来ておとうさんや家にいたしょくにんたちをしばつてけいさつにゆきました。そしてあしたかへしてやるといつてなかなかかへしてくれませんでした。そのばんはお母さんとにげる時、ひろつた赤ちゃんと、家にいた男の子と私と四人でさびしがつてゐました。
すると又しらない男の人が小屋の中にはいつて来て、お前等は○○の女ではないかといひました。お母さんがさうですといひましたら、きさまらころすぞといひました。そしておこりました。私はしんぱいでなき乍(なが)らなんべんもあやまりました。そんなら女の事だからゆるしてやるといつて行きました。よろこんでけいさつにいつてお父さんのいつているならしの(習志野)といふ処へつれていつてもらいました。
お父さんはみんなは死んだと思つてゐましたから、大へんよろこびました。それからみんな東京へ送つてもらいました。
「なき乍らなんべんもあやまりました」の部分に言い知れない胸苦しさを感じる。
彼女にそんなことをさせてはいけなかったのだ。
(9月30日15時加筆)
2013年9月30日月曜日
【諸君、こいつは朝鮮人だぞ 文学者が見た朝鮮人虐殺/江口渙】
屋根と云う屋根は無論の事、連結機の上から機関車の罐(かま)の周囲にまでも、ちょうど、芋虫にたかった蟻のように、べた一面、東京からの避難民を乗せた私たちの列車が、赤羽の鉄橋を北へ渡ったのは、九月八日の午後六時すぎででもあったろうか。
汽車の中は、地震の噂、火事の噂、朝鮮人、社会主義者の噂でもっていっぱいだった。(中略)
汽車が荒川の鉄橋をほとんど渡ろうとした時だった。みんなの話しに耳を貸しながらぼんやり外を眺めていた私は、一丁足らずの上流を、岸に近く、何か白い細長いものが流れて来るのに気がついた。多量に水蒸気を含んで鈍く煙った雨上がりの薄暮と、うす濁りのしている河水のために、最初はその白いものが何であるか、少しも見当がつかなかった。
然し、畦(あぜ)の草叢(くさむら)の上を一群の人々が、その白いものを追い駈けるらしくぞろぞろやって来るのを見た時、ことにみんな手に手に竹槍や鳶口(とびくち)らしいものを持っているうえに、白いものに向かってしきりと石を投げつけているのを見た時、それが何であるかを私ははじめて知った。
「あれは何です」
傍(かたわら)に立っていた若い男がこう私にきいた。
「どうも死骸のようですね」
「きっと鮮人でしょうね。それとも主義者かしら」
「さあ。どっちですかね」
重そうに流れて来る白い細長いものと、投げられた小石がその周囲にしきりにあげる飛沫に眼をやりながら、私は押し潰されるような気持ちでもってこう答えた。そして、さらに息をころしてなおもそれらのものを見詰めた。
「やあ鮮人。鮮人」
「何。鮮人だ。どこに。どこに」
「あれを見ろよ。あれを」
こんな叫びがあっちこっちに起こったと思うと、車内はたちまち物狂わしい鯨波(とき)の声でみたされてしまった。そして、一度に総立ちになったみんなは、互いに肩や頭を押しのけてまでも、ひたすら上流の河面を見ようとさえ焦った。
やがて汽車が鉄橋を渡り終わってそれらのすべてが視界から消えさった時になっても、人々の動揺は鎮まらなかった。そして鮮人と主義者との噂がなおさら盛んに話されたのは云うまでもない。
それから二十分ほどたったのちだった。私から三側後の座席で突然喧嘩(けんか)が始まった。三十四、五歳のカアキ一服を着た在郷軍人らしい男と、四十前後の眼鏡をかけて麦藁(むぎわら)帽子をかぶった商人かとも思われる男とである。(中略)
喧嘩はしばらく続いていた。すると在郷軍人らしい方が、片手を網棚にかけて、突然座席へ突っ立ち上がった。
「諸君、こいつは鮮人だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」
こう叫ぶと片手で相手を指差しながら、四角い顎(あご)を突出して昂然と車中を見渡したと思うと、いきなり足を揚げて頭を蹴った。この場合、鮮人と云う言葉が車中にどんなショックを与えたかは、私が説くまでもない。車内はたちまち総立ちになった。呻(うめ)くような怒声と罵声が一面あたりに迸(ほとばし)って、血の出るような興奮がみるみる不気味な渦を巻き起こす中で、みんなの身体は怖ろしい勢いで波を打った。
「おら鮮人だねえ。鮮人だねえ」
押し合いへし合い、折重なって詰め寄った人間の渦の下から、時どき脅えきったその男の声が聞こえた。しかも相手がおろおろすればするほど、みんなの疑いを増し昂奮を烈しくするばかりだった。
やがて次の駅についた時、その男はホームを固めていた消防隊と青年団と在郷軍人団とに引渡された。そして、手といわず襟(えり)と云わずしゃにむに掴(つか)まれて真逆さまに窓から外へ引摺(ず)り出されたと思うと、いつか物凄いほど鉄拳の雨を浴びた。
「おい。そんな事よせ。よせ日本人だ。日本人だ」
私は思わず窓から首を出してこう叫んだ。側にいた二三人の人もやはり同じような事を怒鳴った。しかしホームの人波はそんなものに耳を貸さない。怒号と叫喚との渦の中にその男を包んだまま、雪崩(なだれ)を打って改札口の方へ動いて行った。そして、いつの間にか鳶口や梶棒がそっちこっちに閃(ひらめ)いたと思うと、帽子を奪われ眼鏡を取られたその男の横顔から赤々と血の流れたのを、私は電燈の光ではっきりと見た。
こうして人の雪崩にもまれながら改札口の彼方にきえて行ったその日本人の後姿をいまだに忘れる事はできない。(中略)そして無防禦(むぼうぎょ)の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにはいかなかった。ことに、その愚昧(ぐまい)と卑劣と無節制とに対して。
(江口渙「車中の出来事」、『関東大震災と朝鮮人虐殺』収録)
1923年11月、江口渙(えぐち・かん)が東京朝日新聞に掲載した随筆である。
江口は、1887年生まれ。夏目漱石の弟子の一人として、芥川龍之介とも親交を結んだ。社会主義に接近し、1920年に日本社会主義同盟が結成されると、その中央執行委員となった。震災前後の頃、日本の社会主義運動はアナ・ボル論争と呼ばれるアナキズムとマルクス主義の対立に揺れていたが、この時期の江口はアナ系である。その後、マルクス主義に接近し、プロレタリア文学運動を主導するようになる。
彼は震災当時、栃木県那須烏山市の実家に滞在していて被害を免れたが、二度にわたって東京に入っている。そのなかで自分自身も自警団に殺されそうになったりもした。
この随筆では、車中で「朝鮮人だ」と決めつけられた男がホームで待ちかまえる自警団に引き渡され、暴行されるが、こうした例は実際に数多く記録されている。東京から東北方面へ多くの人々が列車で避難したが、その過程で、朝鮮人が列車内から引きずり出され、駅の構内や駅前で殺害された。
栃木県では、東北本線石橋駅構内で「下り列車中に潜んで居た氏名不詳の鮮人2名を引き下し、メチャメチャに殴り殺」(上毛新聞23年10月25日)した9月3日夜の事件をはじめ、宇都宮駅、間々田駅、小金井駅、石橋駅、小山駅、東那須(現・那須塩原)駅などで、駅構内や駅周辺において多くの朝鮮人が暴行された。小山駅前では、下車する避難民のなかから朝鮮人を探し出して制裁を加えようと、3000人の群衆が集まった。
検察の発表では、栃木県内で殺害されたのは朝鮮人6人、日本人2人。重傷者は朝鮮人2人、中国人1人、日本人4人。56人が検挙された。
小山駅前では、一人の女性が、朝鮮人に暴行を加えようとする群衆の前に、「こういうことはいけません」「あなた、井戸に毒を入れたところを見たのですか」と叫び、手を広げて立ちはだかったという逸話が残っている。1996年、この女性が74年に92歳で亡くなった大島貞子さんという人であることが、「栃木県朝鮮人真相調査団」の調査で分かった。彼女はキリスト教徒であった。
小山駅ホームから
那須塩原駅前。1923年9月5日夜、朝鮮人の馬達出さんと、一緒にいた宮脇辰至さんが「東那須野村大原間巡査駐在所前道路」で殺害された。
参考資料:江口渙『わが文学半世紀・続』(春陽堂書店)、関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連官庁史料』(緑蔭書房)。
汽車の中は、地震の噂、火事の噂、朝鮮人、社会主義者の噂でもっていっぱいだった。(中略)
汽車が荒川の鉄橋をほとんど渡ろうとした時だった。みんなの話しに耳を貸しながらぼんやり外を眺めていた私は、一丁足らずの上流を、岸に近く、何か白い細長いものが流れて来るのに気がついた。多量に水蒸気を含んで鈍く煙った雨上がりの薄暮と、うす濁りのしている河水のために、最初はその白いものが何であるか、少しも見当がつかなかった。
然し、畦(あぜ)の草叢(くさむら)の上を一群の人々が、その白いものを追い駈けるらしくぞろぞろやって来るのを見た時、ことにみんな手に手に竹槍や鳶口(とびくち)らしいものを持っているうえに、白いものに向かってしきりと石を投げつけているのを見た時、それが何であるかを私ははじめて知った。
「あれは何です」
傍(かたわら)に立っていた若い男がこう私にきいた。
「どうも死骸のようですね」
「きっと鮮人でしょうね。それとも主義者かしら」
「さあ。どっちですかね」
重そうに流れて来る白い細長いものと、投げられた小石がその周囲にしきりにあげる飛沫に眼をやりながら、私は押し潰されるような気持ちでもってこう答えた。そして、さらに息をころしてなおもそれらのものを見詰めた。
「やあ鮮人。鮮人」
「何。鮮人だ。どこに。どこに」
「あれを見ろよ。あれを」
こんな叫びがあっちこっちに起こったと思うと、車内はたちまち物狂わしい鯨波(とき)の声でみたされてしまった。そして、一度に総立ちになったみんなは、互いに肩や頭を押しのけてまでも、ひたすら上流の河面を見ようとさえ焦った。
やがて汽車が鉄橋を渡り終わってそれらのすべてが視界から消えさった時になっても、人々の動揺は鎮まらなかった。そして鮮人と主義者との噂がなおさら盛んに話されたのは云うまでもない。
それから二十分ほどたったのちだった。私から三側後の座席で突然喧嘩(けんか)が始まった。三十四、五歳のカアキ一服を着た在郷軍人らしい男と、四十前後の眼鏡をかけて麦藁(むぎわら)帽子をかぶった商人かとも思われる男とである。(中略)
喧嘩はしばらく続いていた。すると在郷軍人らしい方が、片手を網棚にかけて、突然座席へ突っ立ち上がった。
「諸君、こいつは鮮人だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」
こう叫ぶと片手で相手を指差しながら、四角い顎(あご)を突出して昂然と車中を見渡したと思うと、いきなり足を揚げて頭を蹴った。この場合、鮮人と云う言葉が車中にどんなショックを与えたかは、私が説くまでもない。車内はたちまち総立ちになった。呻(うめ)くような怒声と罵声が一面あたりに迸(ほとばし)って、血の出るような興奮がみるみる不気味な渦を巻き起こす中で、みんなの身体は怖ろしい勢いで波を打った。
「おら鮮人だねえ。鮮人だねえ」
押し合いへし合い、折重なって詰め寄った人間の渦の下から、時どき脅えきったその男の声が聞こえた。しかも相手がおろおろすればするほど、みんなの疑いを増し昂奮を烈しくするばかりだった。
やがて次の駅についた時、その男はホームを固めていた消防隊と青年団と在郷軍人団とに引渡された。そして、手といわず襟(えり)と云わずしゃにむに掴(つか)まれて真逆さまに窓から外へ引摺(ず)り出されたと思うと、いつか物凄いほど鉄拳の雨を浴びた。
「おい。そんな事よせ。よせ日本人だ。日本人だ」
私は思わず窓から首を出してこう叫んだ。側にいた二三人の人もやはり同じような事を怒鳴った。しかしホームの人波はそんなものに耳を貸さない。怒号と叫喚との渦の中にその男を包んだまま、雪崩(なだれ)を打って改札口の方へ動いて行った。そして、いつの間にか鳶口や梶棒がそっちこっちに閃(ひらめ)いたと思うと、帽子を奪われ眼鏡を取られたその男の横顔から赤々と血の流れたのを、私は電燈の光ではっきりと見た。
こうして人の雪崩にもまれながら改札口の彼方にきえて行ったその日本人の後姿をいまだに忘れる事はできない。(中略)そして無防禦(むぼうぎょ)の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにはいかなかった。ことに、その愚昧(ぐまい)と卑劣と無節制とに対して。
(江口渙「車中の出来事」、『関東大震災と朝鮮人虐殺』収録)
1923年11月、江口渙(えぐち・かん)が東京朝日新聞に掲載した随筆である。
江口は、1887年生まれ。夏目漱石の弟子の一人として、芥川龍之介とも親交を結んだ。社会主義に接近し、1920年に日本社会主義同盟が結成されると、その中央執行委員となった。震災前後の頃、日本の社会主義運動はアナ・ボル論争と呼ばれるアナキズムとマルクス主義の対立に揺れていたが、この時期の江口はアナ系である。その後、マルクス主義に接近し、プロレタリア文学運動を主導するようになる。
彼は震災当時、栃木県那須烏山市の実家に滞在していて被害を免れたが、二度にわたって東京に入っている。そのなかで自分自身も自警団に殺されそうになったりもした。
この随筆では、車中で「朝鮮人だ」と決めつけられた男がホームで待ちかまえる自警団に引き渡され、暴行されるが、こうした例は実際に数多く記録されている。東京から東北方面へ多くの人々が列車で避難したが、その過程で、朝鮮人が列車内から引きずり出され、駅の構内や駅前で殺害された。
栃木県では、東北本線石橋駅構内で「下り列車中に潜んで居た氏名不詳の鮮人2名を引き下し、メチャメチャに殴り殺」(上毛新聞23年10月25日)した9月3日夜の事件をはじめ、宇都宮駅、間々田駅、小金井駅、石橋駅、小山駅、東那須(現・那須塩原)駅などで、駅構内や駅周辺において多くの朝鮮人が暴行された。小山駅前では、下車する避難民のなかから朝鮮人を探し出して制裁を加えようと、3000人の群衆が集まった。
検察の発表では、栃木県内で殺害されたのは朝鮮人6人、日本人2人。重傷者は朝鮮人2人、中国人1人、日本人4人。56人が検挙された。
小山駅前では、一人の女性が、朝鮮人に暴行を加えようとする群衆の前に、「こういうことはいけません」「あなた、井戸に毒を入れたところを見たのですか」と叫び、手を広げて立ちはだかったという逸話が残っている。1996年、この女性が74年に92歳で亡くなった大島貞子さんという人であることが、「栃木県朝鮮人真相調査団」の調査で分かった。彼女はキリスト教徒であった。
小山駅ホームから
那須塩原駅前。1923年9月5日夜、朝鮮人の馬達出さんと、一緒にいた宮脇辰至さんが「東那須野村大原間巡査駐在所前道路」で殺害された。
参考資料:江口渙『わが文学半世紀・続』(春陽堂書店)、関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連官庁史料』(緑蔭書房)。
2013年9月29日日曜日
【いわんや殺戮を喜ぶなどは 文学者の見た朝鮮人虐殺/芥川龍之介】
僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。
戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草を啣(くわ)へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤(もっと)も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訳(わけ)ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論(もちろん)さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう」と云ふ外はなかつた。
しかし次手(ついで)にもう一度、何でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽(たちま)ち自説(?)を撤回した。
再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○の陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装(よそ)はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。
尤も善良なる市民になることは、――兎に角(とにかく)苦心を要するものである。
(芥川龍之介「大正十二年九月一日の大震に際して」1923年9月)
(青空文庫)
○…は、検閲による伏字。○○○○○○○○は「不逞鮮人の放火だ」、○○○○は「不逞鮮人」と思われる。
芥川は震災当時、田端の自宅におり、町会で組織された自警団に参加している。このときに、彼がどのような体験をしたのかまでは分からない。たぶん、大きな出来事にはでくわしてはいないだろう。
上の文章は、一読すれば分かるとおり、自警団の一員となった自らを道化役として、朝鮮人暴動の流言が横行した世相や同調圧力を皮肉り、それに惑わされることのなかった盟友・菊池寛を逆説的な表現で称える文章である。
ところが、思いもよらぬ読み方をする人がいるのである。ノンフィクション作家の工藤美代子は、『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』のなかでこの文章についてこう解説してみせる。「芥川龍之介は大火の原因を一部朝鮮人の犯行と見ていたようである」「芥川龍之介は菊池寛に対する激憤の行方として、自死を選んだように思えてならない」「勃興する共産主義の南下を芥川のように日本の危機とみる時代認識抜きには大正という時代は考えられない」。
ようするに、芥川は朝鮮人暴動を信じていた、ところが菊池寛にそれを否定されて憤激のあまり数年後には死を選んだ、彼はまた、共産主義の浸透を日本の危機として憂えていた―というのだ。
もう手の施しようのないほどメチャクチャである。「もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装(よそ)はねばならぬものである」という一文に、平均的なリテラシーのある読者はふつう、「皮肉」を読む。工藤は「私は嘘つきだ」という人に出会ったら、彼を素直に「嘘つき」だと思い込むのであろうか。
ちなみに同書は、関東大震災で起きたことは朝鮮人虐殺ではないと主張する本である。朝鮮人テロリスト集団による暴動は実際に起こったのであり、自警団や軍の暴力はそれへの反撃であったというのである。ここではこれ以上内容について言及しないが、「アポロ11号は月に行かなかった」「プレスリーはまだ生きている」というのと同じくらいばかげた主張である。だがこのばかげた本をほとんど唯一のネタ元として、ネット上に朝鮮人虐殺否定論が広がっているのも確かだ。
芥川が、自警団による朝鮮人虐殺についてどのように考えていたかについては、当時、文芸春秋に連載された「侏儒の言葉」のなかの「或自警団員の言葉」という短文にあらわれている。
「さあ、自警の部署に就こう。今夜は星も木木の梢(こずえ)に涼しい光を放っている」と始まるこの文章は、深夜、「気楽に警戒」する自警団員の独白である。彼は、明日を心配することもなく静かに眠る鳥を称え、それに引き換え地震によって衣食住の安心を奪われただけで苦痛を味わい、過去を悔いたり、未来を不安に思ったりする人間を「なんと云う情けない動物であろう」と嘆くが、そのあとにこう続ける。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかしショオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにし給え。我我は兎に角(とにかく)あそこへ来た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯(ただ)冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐(あわれ)まなければならぬ。況(いわん)や殺戮(さつりく)を喜ぶなどは、――尤(もっと)も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。
我我は互に憐まなければならぬ。ショオペンハウエルの厭世観(えんせいかん)の我我に与えた教訓もこう云うことではなかったであろうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(芥川龍之介「侏儒の言葉」1923年11月)
(青空文庫)
朝鮮人虐殺という事実を芥川がどう受け止めていたのか、もはや明らかだろう。
ちなみに、文学史的には「芸術至上主義的」と形容される芥川だが、研究者の関口安義(都留文科大学教授)によれば、震災前後には社会的なテーマや社会主義に強い関心を向けているのだという。震災前年には「社会主義は理非曲直の問題ではない。単に一つの必然である」とまで書いている。先に引用した「侏儒の言葉」には、反軍的なアフォリズムがいくつか見られる。
震災から1年後に芥川が書いた「桃太郎」という短編を青空文庫で読むことができる。ブラックな笑いに満ちて痛快なこの小説を読めば、朝鮮支配を含めて、彼が当時の日本の帝国主義、植民地主義をどう見ていたのか、よく分かる。彼は、工藤が「ほめ殺し」してみせたような、アホらしい人物ではなかった。
(芥川龍之介「桃太郎」1924年6月)
(青空文庫)
参考文献:青空文庫のほか、工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)、『よみがえる芥川龍之介』(NHKライブラリー)ほかの関口安義の著書。
戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草を啣(くわ)へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤(もっと)も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訳(わけ)ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論(もちろん)さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう」と云ふ外はなかつた。
しかし次手(ついで)にもう一度、何でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽(たちま)ち自説(?)を撤回した。
再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○の陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装(よそ)はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。
尤も善良なる市民になることは、――兎に角(とにかく)苦心を要するものである。
(芥川龍之介「大正十二年九月一日の大震に際して」1923年9月)
(青空文庫)
○…は、検閲による伏字。○○○○○○○○は「不逞鮮人の放火だ」、○○○○は「不逞鮮人」と思われる。
芥川は震災当時、田端の自宅におり、町会で組織された自警団に参加している。このときに、彼がどのような体験をしたのかまでは分からない。たぶん、大きな出来事にはでくわしてはいないだろう。
上の文章は、一読すれば分かるとおり、自警団の一員となった自らを道化役として、朝鮮人暴動の流言が横行した世相や同調圧力を皮肉り、それに惑わされることのなかった盟友・菊池寛を逆説的な表現で称える文章である。
ところが、思いもよらぬ読み方をする人がいるのである。ノンフィクション作家の工藤美代子は、『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』のなかでこの文章についてこう解説してみせる。「芥川龍之介は大火の原因を一部朝鮮人の犯行と見ていたようである」「芥川龍之介は菊池寛に対する激憤の行方として、自死を選んだように思えてならない」「勃興する共産主義の南下を芥川のように日本の危機とみる時代認識抜きには大正という時代は考えられない」。
ようするに、芥川は朝鮮人暴動を信じていた、ところが菊池寛にそれを否定されて憤激のあまり数年後には死を選んだ、彼はまた、共産主義の浸透を日本の危機として憂えていた―というのだ。
もう手の施しようのないほどメチャクチャである。「もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装(よそ)はねばならぬものである」という一文に、平均的なリテラシーのある読者はふつう、「皮肉」を読む。工藤は「私は嘘つきだ」という人に出会ったら、彼を素直に「嘘つき」だと思い込むのであろうか。
ちなみに同書は、関東大震災で起きたことは朝鮮人虐殺ではないと主張する本である。朝鮮人テロリスト集団による暴動は実際に起こったのであり、自警団や軍の暴力はそれへの反撃であったというのである。ここではこれ以上内容について言及しないが、「アポロ11号は月に行かなかった」「プレスリーはまだ生きている」というのと同じくらいばかげた主張である。だがこのばかげた本をほとんど唯一のネタ元として、ネット上に朝鮮人虐殺否定論が広がっているのも確かだ。
芥川が、自警団による朝鮮人虐殺についてどのように考えていたかについては、当時、文芸春秋に連載された「侏儒の言葉」のなかの「或自警団員の言葉」という短文にあらわれている。
「さあ、自警の部署に就こう。今夜は星も木木の梢(こずえ)に涼しい光を放っている」と始まるこの文章は、深夜、「気楽に警戒」する自警団員の独白である。彼は、明日を心配することもなく静かに眠る鳥を称え、それに引き換え地震によって衣食住の安心を奪われただけで苦痛を味わい、過去を悔いたり、未来を不安に思ったりする人間を「なんと云う情けない動物であろう」と嘆くが、そのあとにこう続ける。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかしショオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにし給え。我我は兎に角(とにかく)あそこへ来た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯(ただ)冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐(あわれ)まなければならぬ。況(いわん)や殺戮(さつりく)を喜ぶなどは、――尤(もっと)も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。
我我は互に憐まなければならぬ。ショオペンハウエルの厭世観(えんせいかん)の我我に与えた教訓もこう云うことではなかったであろうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(芥川龍之介「侏儒の言葉」1923年11月)
(青空文庫)
朝鮮人虐殺という事実を芥川がどう受け止めていたのか、もはや明らかだろう。
ちなみに、文学史的には「芸術至上主義的」と形容される芥川だが、研究者の関口安義(都留文科大学教授)によれば、震災前後には社会的なテーマや社会主義に強い関心を向けているのだという。震災前年には「社会主義は理非曲直の問題ではない。単に一つの必然である」とまで書いている。先に引用した「侏儒の言葉」には、反軍的なアフォリズムがいくつか見られる。
震災から1年後に芥川が書いた「桃太郎」という短編を青空文庫で読むことができる。ブラックな笑いに満ちて痛快なこの小説を読めば、朝鮮支配を含めて、彼が当時の日本の帝国主義、植民地主義をどう見ていたのか、よく分かる。彼は、工藤が「ほめ殺し」してみせたような、アホらしい人物ではなかった。
(芥川龍之介「桃太郎」1924年6月)
(青空文庫)
参考文献:青空文庫のほか、工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)、『よみがえる芥川龍之介』(NHKライブラリー)ほかの関口安義の著書。
2013年9月26日木曜日
【おん身らは誰を殺したと思ふ 文学者の見た朝鮮人虐殺/折口信夫】
国びとの
心(うら)さぶる世に値(あ)ひしより、
顔よき子らも、
頼まずなりぬ
大正12年の地震の時、9月4日の夕方ここ(増上寺山門)を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦(いったん)事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値(あ)つて以来といふものは、此国(このくに)の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた。
(折口信夫による自歌自註。『日本近代文学大系 46巻 折口信夫集』)
折口信夫(おりくちしのぶ)の晩年の言葉である。
折口信夫は1887年生まれ。国文学、民俗学、詩歌や小説と、幅広い領域で活動した人である。歌人としては「釈迢空(しゃくちょうくう)」と名乗った。しかし、折口といえばやはり民俗学研究が思いおこされる。
折口民俗学の観念で広く知られるのは「まれびと」論だろう。柳田国男が、日本の神の起源を共同体の同質性を保障する祖先への崇拝に求めたのに対して、折口は神の起源を共同体の外、遠い異郷・異界からやってきて幸せをもたらす異質な「まれびと神」への信仰だと考えた。沖縄に、海の向こうの異界「ニライカナイ」への信仰や異装のまれびとが村を訪れる「アカマタ・クロマタ」祭りが今も残っていると知った折口は、二度にわたって沖縄を訪ね、調査を行った。
1923年9月1日を、彼は北九州の門司港で迎えている。二度目の沖縄旅行を終えて帰る途中であった。その後、船で3日夜に横浜に上陸し、4日の正午から夜まで歩き続けて、ようやく谷中清水町(今の池之端)の自宅に戻ることができたのであった。
彼はその道々で、「酸鼻な、残虐な色々の姿」を見ることとなった。サディスティックな自警団の振る舞いには「人間の凄まじさあさましさを痛感した。此気持ちは3カ月や半年、元通りにならなかった」。彼自身が増上寺の門前で自警団に取り囲まれたのは、この日の夜のことだった。彼は、これまで見ることのなかった、この国の人々の別の顔を見たように感じた。
このショックは従来の「滑らかな拍子」の短歌では表現できないと痛感した折口(釈迢空)は、新しい形式として4行からなる四句詩型をつくり出し、10数連の作品「砂けぶり」を創作する。そこには、彼が見た震災直後の東京が、ざらりとした手触りでよみこまれていた。
夜になつた―。
また 蝋燭(ろうそく)と流言の夜だ。
まつくらな町を 金棒ひいて
夜警に出るとしよう
かはゆい子どもが―
大道で ぴちやぴちやしばいて居た。
あの音―。
不逞帰順民の死骸の―。
おん身らは 誰をころしたと思ふ。
陛下のみ名において―。
おそろしい呪文だ。
陛下萬歳 ばあんざあい
あなた方は、誰を殺したと思うのか。天皇の名の下で、という。
「誰」とは不思議な問いである。
あのとき殺されたのは、誰だったのだろうか。何だったのだろうか。
13/12/24修正:「砂けぶり」引用第2連を修正。「しばいて居たつけ」→「しばいて居た」。初出は後者でした。
注)「砂けぶり」の引用は初出のものを採用した。その後、まとめられるなかで、折口はそれぞれ手を加えている。たとえば最後の歌は「おん身らは/誰を殺したと思ふ。/かの尊い/御名において―。/おそろしい呪文だ。/萬歳/ばんざあい」となった。また、「帰順民」とは朝鮮人を指す言葉。韓国併合によって日本に「帰順」した人々という意味で当時使われていた。
参考資料:『日本近代文学大系 46巻 折口信夫集』(角川書店)、石井正己『文豪たちの関東大震災体験記』(小学館101新書)、『折口信夫』(筑摩書房)、中沢新一『未来から来た古代人』(ちくまプリマー新書)。
心(うら)さぶる世に値(あ)ひしより、
顔よき子らも、
頼まずなりぬ
大正12年の地震の時、9月4日の夕方ここ(増上寺山門)を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦(いったん)事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値(あ)つて以来といふものは、此国(このくに)の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた。
(折口信夫による自歌自註。『日本近代文学大系 46巻 折口信夫集』)
折口信夫(おりくちしのぶ)の晩年の言葉である。
折口信夫は1887年生まれ。国文学、民俗学、詩歌や小説と、幅広い領域で活動した人である。歌人としては「釈迢空(しゃくちょうくう)」と名乗った。しかし、折口といえばやはり民俗学研究が思いおこされる。
折口民俗学の観念で広く知られるのは「まれびと」論だろう。柳田国男が、日本の神の起源を共同体の同質性を保障する祖先への崇拝に求めたのに対して、折口は神の起源を共同体の外、遠い異郷・異界からやってきて幸せをもたらす異質な「まれびと神」への信仰だと考えた。沖縄に、海の向こうの異界「ニライカナイ」への信仰や異装のまれびとが村を訪れる「アカマタ・クロマタ」祭りが今も残っていると知った折口は、二度にわたって沖縄を訪ね、調査を行った。
1923年9月1日を、彼は北九州の門司港で迎えている。二度目の沖縄旅行を終えて帰る途中であった。その後、船で3日夜に横浜に上陸し、4日の正午から夜まで歩き続けて、ようやく谷中清水町(今の池之端)の自宅に戻ることができたのであった。
彼はその道々で、「酸鼻な、残虐な色々の姿」を見ることとなった。サディスティックな自警団の振る舞いには「人間の凄まじさあさましさを痛感した。此気持ちは3カ月や半年、元通りにならなかった」。彼自身が増上寺の門前で自警団に取り囲まれたのは、この日の夜のことだった。彼は、これまで見ることのなかった、この国の人々の別の顔を見たように感じた。
このショックは従来の「滑らかな拍子」の短歌では表現できないと痛感した折口(釈迢空)は、新しい形式として4行からなる四句詩型をつくり出し、10数連の作品「砂けぶり」を創作する。そこには、彼が見た震災直後の東京が、ざらりとした手触りでよみこまれていた。
夜になつた―。
また 蝋燭(ろうそく)と流言の夜だ。
まつくらな町を 金棒ひいて
夜警に出るとしよう
かはゆい子どもが―
大道で ぴちやぴちやしばいて居た。
あの音―。
不逞帰順民の死骸の―。
おん身らは 誰をころしたと思ふ。
陛下のみ名において―。
おそろしい呪文だ。
陛下萬歳 ばあんざあい
あなた方は、誰を殺したと思うのか。天皇の名の下で、という。
「誰」とは不思議な問いである。
あのとき殺されたのは、誰だったのだろうか。何だったのだろうか。
13/12/24修正:「砂けぶり」引用第2連を修正。「しばいて居たつけ」→「しばいて居た」。初出は後者でした。
注)「砂けぶり」の引用は初出のものを採用した。その後、まとめられるなかで、折口はそれぞれ手を加えている。たとえば最後の歌は「おん身らは/誰を殺したと思ふ。/かの尊い/御名において―。/おそろしい呪文だ。/萬歳/ばんざあい」となった。また、「帰順民」とは朝鮮人を指す言葉。韓国併合によって日本に「帰順」した人々という意味で当時使われていた。
参考資料:『日本近代文学大系 46巻 折口信夫集』(角川書店)、石井正己『文豪たちの関東大震災体験記』(小学館101新書)、『折口信夫』(筑摩書房)、中沢新一『未来から来た古代人』(ちくまプリマー新書)。
2013年9月25日水曜日
【化石しろ、醜い骸骨! 文学者の見た朝鮮人虐殺/秋田雨雀】
日本語/English
秋田雨雀は劇作家、童話作家として知られる。関東大震災当時は40歳。数年前から社会主義に接近し、ヒューマニスティックな作風で注目されていた。
1923年9月1日、彼は秋田県にいたが、震災の報を聞いて東京に戻る。雑司が谷の自宅にたどり着いたのは6日のことだったが、その帰路で、彼は殺人を自慢する自警団員と、それを平然と受け入れる群衆を目撃した。多くの朝鮮人留学生と親交を結び、彼らの人間性と民族解放への思いに共感していた秋田にとって、これは大きな衝撃だった。「私は淋しかった!」と、日本人同胞のなかで一人孤立した思いを書き残している。
翌年4月、彼は戯曲「骸骨(がいこつ)の舞跳(ぶちょう)」を発表する。朝鮮人虐殺に対する人間的な怒りをストレートに叩きつける作品であり、彼の戯曲としての代表作となった。
物語の舞台となるのは、震災直後、東京から東北方面に150里のN駅。時間は深夜。傷を負った避難民が収容された救護テントの中だ。疲れきり、ささくれだった人であふれている。
主人公の青年は、朝鮮人襲来の噂を不安げに語る老人に、それを否定して、むしろ朝鮮人が虐殺されている事実を告げて「僕は日本人がつくづく嫌やになりました。もう少し落ち着いた人間らしい国民だと思いました。それが今度のことですっかり裏切られてしまいました」とつぶやく。しかし続けてこうも言う。「僕は国民として日本人には失望しましたが、人間としての日本人には失望していません」。
しばらくすると、自警団の一団がテントに入ってくる。甲冑に陣羽織、在郷軍人の制服、そして手に手に槍や刀と、大時代で滑稽ないでたちである。「このなかに朝鮮人の奴が隠れている」と宣言する彼らは、まもなく、青年と老人の後ろに隠れる若い男を発見する。「僕は何もしていない」「僕は日本人です」と必死に否定する男だが、生年を年号で聞かれて言葉につまってしまう。自警団はおびえる彼の口ぶりを真似して嘲笑する。
このとき、主人公の青年が「よし給え!君達に何の権利があってそんなことを聞くんですか?」と抗議する。このあとに続く彼の大演説は、ほとんど秋田雨雀の叫びそのものである。
甲冑、陣羽織、柔道着…。/君達には一体着る衣服がないのか?
(中略)
君達のいうように、/この人は朝鮮人かも知れない、
しかし朝鮮人は君たちの敵ではない。/日本人、日本人、日本人、
日本人は君たちに何をしたろう?/日本人を苦しめているのは、
朝鮮人でなく日本人自身だ!
そんな簡単な事実が諸君には解っていないのか?
(中略)
この人(朝鮮人の青年)にも敵はあるだろう、
然(しか)しそれは君達じゃないんだ。
君達には解っていない。/何も知らない。
何にも知らされていない。/また何も知ろうと思っていない。
君達の仲間は、この人の友達を
罪も武器もない、/一枚の葉のように従順で無邪気な人達を、
君達の仲間は理由もなく殺したのだ!
(中略)
この人こそほんとうの人間だ!
君達は一体何んだ?/君達の持っているものは、
黴(かび)の生えた死んだ道徳だけだ。
甲冑や陣羽織は骨董品として、/価値があるだろう。
然し生きた人間に何になろう?
もし諸君の心臓の中に血が流れているならば、
諸君は諸君自身の着物が要る筈(はず)だ。
その甲冑を脱いで見給え、/その陣羽織を脱いで見給え、
諸君は生命のない操(あやつり)人形だ!/死蝋だ!
木乃伊(ミイラ)だ!/骸骨だ!
青年の激しい抗議に、自警団の人々は憎しみの目を向ける。「不逞日本人だ…」「主義者だ…」「危険人物だ…」「2人をやっつけろ!」。老人はうろたえ、女たちは泣き叫ぶ。キャンプの中は混乱状態になる。自警団がにじり寄って来る前で、青年は朝鮮人の若者の手をとってさらに語る。
何百人、何千人が、何百年何千年前から、
自分の愛する民衆のために、/殺されたか?
私達は馬鹿な民衆に媚びるために、/生まれたのじゃない、
戦って死ぬために生れたのだ!
正義と友情のために死んで、/行くのだ…。
(中略)
新しい神秘よ!/力と友情との、
新しい人類の結合のために、/生まれ出づる神秘よ!
沸上(わきあが)って/この魂のない醜い潜在の黴を払い落せ!
卑劣なる先祖崇拝の虚偽と/英雄主義と、/民族主義と
の仮面をはぎとって、/醜い骸骨の舞跳(ぶちょう)をおどらせよ。
オオケストラよ、/暫(しばら)く待って呉れ、
化石しろ、/醜い骸骨!
化石しろ、/醜い骸骨!
青年が叫ぶと、甲冑やら陣羽織やら鉢巻やらが、刀を振り上げた姿のままで化石になってしまう。続けて「骸骨よ、跳(おど)り出せ!」と命じると、骸骨と化した自警団は音楽に乗って激しく踊り始め、次第に弱っていく。すると、舞台のそでから鋭い笑い声が響いてくる。
死んだ人々よ/よく笑って呉れた!
オオケストラよ、/最後に別れの輪舞曲を…。
醜い骸骨共よ、/跳りながら消え失せよ!
骸骨たちは関節から折れて地面に倒れていく。一瞬、舞台は暗黒に包まれ、再びほの明るくなったテントのなかでは、女たちがすすり泣いている。看護婦が静かに口を開く。
「お気の毒でした…でもやっぱり…」
こうして、物語は2人の死を暗示して終わる。
秋田雨雀は、早くも1923年9月には朝鮮人虐殺についての論考を読売新聞で発表している(「民族解放の道徳」)。そのなかで彼は、自警団に現れた残虐性が、「戦争によって国家的地位を確立した」日本では「道徳の性質を帯びている」と指摘し、日本人は「国民道徳」から解放されて、「本当の広い自由な新しい道徳」「人類共存の生活」へと進まなくてはならないと主張する。そして
「もし今日の国民教育或いは民族精神というようなものを是認し或いはビ縫して行ったならば、恐らく日本人は幾度も幾度もみにくい残虐性を暴露して、民族の持っているいい素質さえも失ってしまうだろう」
と警告した。
自警団の暴力に、彼は日本の行く末をはっきりと見ていたのである。
参考資料:『日本プロレタリア文学集35』(新日本出版社)【同書には亀戸署で殺された平沢計七の作品も収められている】、山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(創史社)、関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)
How Did A Storywriter Viewed the Massacre of Koreans?
"Petrify, the Ugly Skeleton!" - Ujaku Akita, Skeletons Dance
It was a shock for Ujaku Akita to see vigilante groups boasting of killing of Koreans and people taking it for granted. The storywriter had many friends from Korea. Skeletons Dance, one of his best works, expresses his indignation against Japanese.
The scene is a refuge camp full of injured by the quake where an old man is scared at rumors of Korean riots. The leading character tells him the truth is that Japanese are killing Koreans. After a while a vigilante group comes up searching for a Korean and presses a youth with questions as it finds him hiding behind the old man.
"This man may be a Korean, but Koreans are not your enemy," the main character breaks in. "but still people like you all killed his friends for no reason!"
He accuses the vigilante group of being puppets or skeletons with masks of despicable nationalism. As he calls out, "Petrify, the ugly skeleton!" the vigilante group members turn into skeletons, and dance vigorously until they gradually fade away and finally drop.
In an article Akita contributed to Yomiuri newspaper he pointed out that the cruelty of the vigilante groups had an aspect of a moral of the Japanese society, and warned Japanese would repeatedly express the cruelties and end up losing even their good characters unless they freed themselves from such a moral.
秋田雨雀は劇作家、童話作家として知られる。関東大震災当時は40歳。数年前から社会主義に接近し、ヒューマニスティックな作風で注目されていた。
1923年9月1日、彼は秋田県にいたが、震災の報を聞いて東京に戻る。雑司が谷の自宅にたどり着いたのは6日のことだったが、その帰路で、彼は殺人を自慢する自警団員と、それを平然と受け入れる群衆を目撃した。多くの朝鮮人留学生と親交を結び、彼らの人間性と民族解放への思いに共感していた秋田にとって、これは大きな衝撃だった。「私は淋しかった!」と、日本人同胞のなかで一人孤立した思いを書き残している。
翌年4月、彼は戯曲「骸骨(がいこつ)の舞跳(ぶちょう)」を発表する。朝鮮人虐殺に対する人間的な怒りをストレートに叩きつける作品であり、彼の戯曲としての代表作となった。
物語の舞台となるのは、震災直後、東京から東北方面に150里のN駅。時間は深夜。傷を負った避難民が収容された救護テントの中だ。疲れきり、ささくれだった人であふれている。
主人公の青年は、朝鮮人襲来の噂を不安げに語る老人に、それを否定して、むしろ朝鮮人が虐殺されている事実を告げて「僕は日本人がつくづく嫌やになりました。もう少し落ち着いた人間らしい国民だと思いました。それが今度のことですっかり裏切られてしまいました」とつぶやく。しかし続けてこうも言う。「僕は国民として日本人には失望しましたが、人間としての日本人には失望していません」。
しばらくすると、自警団の一団がテントに入ってくる。甲冑に陣羽織、在郷軍人の制服、そして手に手に槍や刀と、大時代で滑稽ないでたちである。「このなかに朝鮮人の奴が隠れている」と宣言する彼らは、まもなく、青年と老人の後ろに隠れる若い男を発見する。「僕は何もしていない」「僕は日本人です」と必死に否定する男だが、生年を年号で聞かれて言葉につまってしまう。自警団はおびえる彼の口ぶりを真似して嘲笑する。
このとき、主人公の青年が「よし給え!君達に何の権利があってそんなことを聞くんですか?」と抗議する。このあとに続く彼の大演説は、ほとんど秋田雨雀の叫びそのものである。
甲冑、陣羽織、柔道着…。/君達には一体着る衣服がないのか?
(中略)
君達のいうように、/この人は朝鮮人かも知れない、
しかし朝鮮人は君たちの敵ではない。/日本人、日本人、日本人、
日本人は君たちに何をしたろう?/日本人を苦しめているのは、
朝鮮人でなく日本人自身だ!
そんな簡単な事実が諸君には解っていないのか?
(中略)
この人(朝鮮人の青年)にも敵はあるだろう、
然(しか)しそれは君達じゃないんだ。
君達には解っていない。/何も知らない。
何にも知らされていない。/また何も知ろうと思っていない。
君達の仲間は、この人の友達を
罪も武器もない、/一枚の葉のように従順で無邪気な人達を、
君達の仲間は理由もなく殺したのだ!
(中略)
この人こそほんとうの人間だ!
君達は一体何んだ?/君達の持っているものは、
黴(かび)の生えた死んだ道徳だけだ。
甲冑や陣羽織は骨董品として、/価値があるだろう。
然し生きた人間に何になろう?
もし諸君の心臓の中に血が流れているならば、
諸君は諸君自身の着物が要る筈(はず)だ。
その甲冑を脱いで見給え、/その陣羽織を脱いで見給え、
諸君は生命のない操(あやつり)人形だ!/死蝋だ!
木乃伊(ミイラ)だ!/骸骨だ!
青年の激しい抗議に、自警団の人々は憎しみの目を向ける。「不逞日本人だ…」「主義者だ…」「危険人物だ…」「2人をやっつけろ!」。老人はうろたえ、女たちは泣き叫ぶ。キャンプの中は混乱状態になる。自警団がにじり寄って来る前で、青年は朝鮮人の若者の手をとってさらに語る。
何百人、何千人が、何百年何千年前から、
自分の愛する民衆のために、/殺されたか?
私達は馬鹿な民衆に媚びるために、/生まれたのじゃない、
戦って死ぬために生れたのだ!
正義と友情のために死んで、/行くのだ…。
(中略)
新しい神秘よ!/力と友情との、
新しい人類の結合のために、/生まれ出づる神秘よ!
沸上(わきあが)って/この魂のない醜い潜在の黴を払い落せ!
卑劣なる先祖崇拝の虚偽と/英雄主義と、/民族主義と
の仮面をはぎとって、/醜い骸骨の舞跳(ぶちょう)をおどらせよ。
オオケストラよ、/暫(しばら)く待って呉れ、
化石しろ、/醜い骸骨!
化石しろ、/醜い骸骨!
青年が叫ぶと、甲冑やら陣羽織やら鉢巻やらが、刀を振り上げた姿のままで化石になってしまう。続けて「骸骨よ、跳(おど)り出せ!」と命じると、骸骨と化した自警団は音楽に乗って激しく踊り始め、次第に弱っていく。すると、舞台のそでから鋭い笑い声が響いてくる。
死んだ人々よ/よく笑って呉れた!
オオケストラよ、/最後に別れの輪舞曲を…。
醜い骸骨共よ、/跳りながら消え失せよ!
骸骨たちは関節から折れて地面に倒れていく。一瞬、舞台は暗黒に包まれ、再びほの明るくなったテントのなかでは、女たちがすすり泣いている。看護婦が静かに口を開く。
「お気の毒でした…でもやっぱり…」
こうして、物語は2人の死を暗示して終わる。
秋田雨雀は、早くも1923年9月には朝鮮人虐殺についての論考を読売新聞で発表している(「民族解放の道徳」)。そのなかで彼は、自警団に現れた残虐性が、「戦争によって国家的地位を確立した」日本では「道徳の性質を帯びている」と指摘し、日本人は「国民道徳」から解放されて、「本当の広い自由な新しい道徳」「人類共存の生活」へと進まなくてはならないと主張する。そして
「もし今日の国民教育或いは民族精神というようなものを是認し或いはビ縫して行ったならば、恐らく日本人は幾度も幾度もみにくい残虐性を暴露して、民族の持っているいい素質さえも失ってしまうだろう」
と警告した。
自警団の暴力に、彼は日本の行く末をはっきりと見ていたのである。
参考資料:『日本プロレタリア文学集35』(新日本出版社)【同書には亀戸署で殺された平沢計七の作品も収められている】、山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(創史社)、関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)
How Did A Storywriter Viewed the Massacre of Koreans?
"Petrify, the Ugly Skeleton!" - Ujaku Akita, Skeletons Dance
It was a shock for Ujaku Akita to see vigilante groups boasting of killing of Koreans and people taking it for granted. The storywriter had many friends from Korea. Skeletons Dance, one of his best works, expresses his indignation against Japanese.
The scene is a refuge camp full of injured by the quake where an old man is scared at rumors of Korean riots. The leading character tells him the truth is that Japanese are killing Koreans. After a while a vigilante group comes up searching for a Korean and presses a youth with questions as it finds him hiding behind the old man.
"This man may be a Korean, but Koreans are not your enemy," the main character breaks in. "but still people like you all killed his friends for no reason!"
He accuses the vigilante group of being puppets or skeletons with masks of despicable nationalism. As he calls out, "Petrify, the ugly skeleton!" the vigilante group members turn into skeletons, and dance vigorously until they gradually fade away and finally drop.
In an article Akita contributed to Yomiuri newspaper he pointed out that the cruelty of the vigilante groups had an aspect of a moral of the Japanese society, and warned Japanese would repeatedly express the cruelties and end up losing even their good characters unless they freed themselves from such a moral.
2013年9月21日土曜日
【「あの朝鮮人たちに指一本ふれさせねえぞ」。 朝鮮人を「かくまった」庶民について考える】
日本語/English
ところが、3丁目と馬込沢の自警団が凶器をもって「丸山に朝鮮人が二人いるが、あれを生かしておいてはならん」といって押しかけてきたんです。(中略)だから徳田安蔵だの富蔵だのの連中は「奴ら、今夜来るに相違ないが、来ても渡すまい。奴らが来ればすぐ殺されちゃう。悪いことしてない人間だし、村の人と愛情をともにしてた人間だから、いくら朝鮮人でも渡さない」ってね。(中略)
丸山の自警団は5~6人くらいで2人を守るため、鉢巻をしめて人数は少ないけど威厳をみせていたわけだ。彼らは40人くらい来たですよ。鉄砲もったり、刀もったり、槍もったりね。まわりに竹薮のある丘の高い所に丸山がいて、下に彼らがいるわけです。奴らは渡せという、こっちは渡さないという。(中略)
徳田オサムが先頭に立って「何も悪いことをしないのに殺すことはねえ、おめえたちには迷惑かけない。俺ら若いもんでもって警察に送り届けるからケエレ!」ってわけでね、やつは身体は小さかったが、けんかは強かったからね。そしたら向こうで「何オーこの! テメエから先ブッ殺すゾォ」なんていいました。そしたら安蔵がね、あのころ45歳くらい(40歳前後の誤り)だったかね。「殺すなら殺してみろ、テメェラがいくらがんばったって俺ら絶対に生命かけたって渡しゃしねえからな」「殺すなら俺こと先殺せ!」なんて言った。
その威厳に驚いて、これじゃしかたないと思ったのか、まさか日本人を殺すわけにいかないから、最後に「それじあお前たち、必ず警察に届けるか」「届ける!それくらいのこと何だ!あの朝鮮人たちに指一本でも触れさせねえぞ、おめえたちに殺す資格ネェだからなあ」と怒鳴り返した。とうとう奴ら「必ずめいわくかけねえなあ」なんていって、けんか別れになった。
その晩はみんなで交代で寝ずに2人の朝鮮人を番してたわけです。それは震災から4日だったか、その次の日船橋警察署に届けました。それから習志野の鉄条網かこった朝鮮人収容所ってところへ送られたということです。そこへ送られたものは憲兵が守ったらしい。
(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』)
丸山集落に住んでいた徳田慶蔵さんの証言である。慶蔵さんは当時24歳。集落の「若いもん」だった。
丸山集落は、現在の千葉県船橋市丸山。当時は法典村に属していた。住民は20戸程度で、整備された水田もない、小さく貧しい集落である。土地をもっているのは2軒だけで、残りはみな、小作人だった。
丸山には、2年前から2人の朝鮮人がいた。日本名は「福田」と「木下」。北総鉄道の建設工事で来ていた人々で、工事が終わったあとも、丸山にあったお堂を借りて住んでいたのである。2人は集落に溶け込んでいた。住民の武藤よしさんは、丸顔の福田さんが毎日のように武藤家に来ては話し込んでいったのをおぼえている。
「丸山から死人を出すな」「あの2人は奴らに渡さない」。集落の人々を説得し、団結させたのは、徳田安蔵さん(当時40歳前後)だ。背は低いが迫力があり、間違っていると思えば村長でも怒鳴りつける正義感の強さで、丸山の人々に一目置かれていた。
船橋周辺では、1923年9月4日、自警団による朝鮮人虐殺が各地で繰り返された。もっとも規模が大きかったのは船橋駅北口附近で、38人が殺害された。安蔵さんはこの虐殺を目の当たりにしていた。幼い子どもが「アイゴー」と泣き叫んでいる姿が目に焼きついている、と晩年にも語っている。懇意にしている福田さんと木下さんがあのように殺されるのを黙ってみていることはできなかった。
小さく貧しい丸山集落にとって、周辺集落の意向に逆らうのはあまりにも危険な行動だったはずだ。だが、丸山の人々は安蔵さんの言葉に共感して一丸となり、手に手にカマ、クワ、さらには「肥やしかき棒」まで握って、自警団の集落侵入を防いだのである。徳田慶蔵さんは後に、あのときなぜできたのかを考えると不思議に思う、と語っている。
寝ずの番をして2人を守った翌日(5日ごろ?)、丸山の人々は2人を警察署に連れて行った。このまま集落で守り続けるのは不可能に思われたのだ。「送っていくときには、泣き別れでした」と武藤さんは語っている。
1年後、習志野の収容所に入っていた2人は無事に解放され、あいさつに来た。「そんとき、ひょうきんな人が『おメェら、生命助かってメデテェだから、朝鮮の踊りみたことねえから、知ってたら踊ってみせてくんねえか』っていったら、2人で涙流しながら、アリラン、アリランと踊ってくれましたよ」(徳田慶蔵さん)。
徳田安蔵さんはその後、丸山で農民組合を結成し、小作人の権利のために闘った。他地域の小作争議に応援に行っては、警察に何度も逮捕され、家宅捜索も受けたが、屈しなかった。1926年に労働農民党が結成されると、その党員にもなった。1969年、86歳で亡くなった。
武藤よしさんの夫、韻蔵さんはその後も、朝鮮人の屑買いが来ると何時間も話し込むのが常だった。「朝鮮人も日本人も同じだ」と。晩年は、船橋市で行われていた朝鮮人虐殺の慰霊祭に毎年参加していたという。
関東大震災時の朝鮮人虐殺の記録を読んでいると、朝鮮人をかくまった日本人もいたことがわかる。あれほど軽々と多くの朝鮮人の生命が奪われている最中でも、ひそかに、ときに公然と朝鮮人をかくまった人の記録にしばしば出会うのである。屋根裏にかくした、殺されようとしている子どもを連れて逃げた等である。
「朝鮮人を守った日本人」の話として最も有名なのは横浜の潮見警察署署長の大川常吉だろう。警察署を包囲した1000人の群衆を前に「朝鮮人を奪取するなら君らと死ぬまで戦う」と宣言したといわれる。
この逸話は90年代に一世を風靡した自由主義史観研究会編のベストセラー『教科書が教えない歴史』にも登場した。同書のコンセプトは、子どもや若者が日本を誇らしく思えるような歴史エピソードを集めるというものだったと記憶する。だが私たちは、こうした文脈で大川署長が取り上げられることには違和感をもつ。
もちろん大川署長は尊敬すべき人物である。しかし、多くの日本人が、警察や軍も含めて朝鮮人虐殺に手を染めたときに、それを拒絶した人物を、後世の日本人が「誇れる日本人」という仕方で称揚するのは何かがおかしい。朝鮮人虐殺が私たちにとって明らかに「誇れない歴史」であることをまず認識すべきだ。一人のシンドラーでドイツやナチスを免罪することはできないのと同じである。「都合がよすぎる」と言われても文句は言えまい。
もうひとつ、虐殺を拒絶した日本人は多く存在するのに、なぜそのなかから警察署長だけを選ぶのか、という違和感である。朝鮮人をかくまった人の多くは庶民である。下宿人を空き部屋に隠した下宿屋。隣人を集落でかくまった小作人。同僚を取り囲んで警察に送り届けた工員。列車で隣り合った朝鮮人学生のために「俺が朝鮮人ならどうするんだ」と自警団に食ってかかり、自らが連れて行かれた学生。彼らが守りたかったのは、隣の誰かとの小さな結びつきであって、「日本人の誇り」ではない。
自由主義史観研究会の人々にとって「守った日本人」が庶民ではなく、警察署長でなくてはならないのはなぜか。彼らが誇りたい、擁護したい「日本」が、理性を失った群衆を一喝する警察署長に表象されるような「何か」だからではないだろうか。
だが、たけりくるった「日本人」の群衆が、特定の誰かではなく「朝鮮人」を殺せと叫んでいるとき、その前に一人で立ちふさがる人を支えるのは、「日本人の誇り」ではなく、「人間の矜持」ではないか。私たちは、朝鮮人をかくまったという記録に出会うたびに、あの9月にも、日本人のなかに「人間」であろうとした人がいたのだと感じる。もちろん、大川署長もまた、警察官としての職務を通じて「人間」であろうとしたのに違いない。
朝鮮人を殺した日本人と、朝鮮人を守った日本人。その間にはどのような違いがあったのだろうか。山岸秀はこれについて、守った事例では「たとえ差別的な関係においてであっても、日本人と朝鮮人の間に一定の日常的な人間関係が成立していた」と指摘している。つまり、本物の朝鮮人と話したこともないような連中とは違い、ふだん、朝鮮人の誰かと人としての付き合いをもっている人のなかから、「守る人」が現れたということだ。
言ってしまえば当たり前すぎる話である。だがこの当たり前の話を逆にしてみれば、「差別扇動犯罪(ヘイトクライム)」とは何かが見えてくる。
社会は、多くの人の結びつきの網の目でできている。そこには支配と抑圧がもちろんあるが、そうした力に歪められながらも、助け合うための結びつきも確かにあり、それこそが当たり前の日常を支えている。
植民地支配という構造によって深刻に歪められながらも、当時の朝鮮人と日本人の間においてさえ、生きている日常の場では、ときに同僚だったり、商売相手だったり、友人だったり、夫婦であったりという結びつきがあった。
だが虐殺者は、朝鮮人の個々の誰かであるものを「敵=朝鮮人」という記号に変えて「非人間」化し、それへの暴力を扇動する。誰かの同僚であり、友人である個々の誰かへの暴力が「我々日本人」による敵への防衛行動として正当化される。その結果、「我々日本人」の群れが、人が生きる場に土足でなだれ込んでくることになる。当時の証言には、自宅に乱入した自警団が日本人の妻の目の前で朝鮮人の夫を殺したらしい、という噂話が出てくる。実際にそういうことがあったかどうかはともかく、つまりそういうことなのである。
ヘイトクライムは、日常の場を支えている最低限の小さな結びつきを破壊する犯罪でもあるのだ。ごく日常的な、小さな信頼関係を守るために、危険を冒さなくてはならなかった人々の存在は、日常の場に乱入し「こいつは朝鮮人。こいつは敵」と叫んで暴力を扇動するヘイトクライムの悪質さ、深刻さをこそ伝えている。
最後に蛇足になるが。
すでにふれたように、右傾化の危機が叫ばれ始めた90年代には、「日本の誇り」を叫ぶ人々は、自警団から朝鮮人を守った大川署長を英雄として称揚していた。今日、同種の人々は関東大震災時の朝鮮人虐殺を「悪い朝鮮人を自警団が征伐した事件」と考え、自警団をこそ英雄と考えている。今さらながら、日本社会が深刻な水位に来ていることに慄然とする。
(9月21日19時に、若干の加筆を行いました)
参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)
Saturday, September 21, 2013
Ordinary People Who Defended Koreans
In Funabashi, Chiba Prefecture, 38 Koreans were murdered in front of Funabashi train station in the aftermath of the quake, while in a small and poor village in Funabashi, named Maruyama, only 5 to 6 local youths courageously defended two Koreans living there for 2 years from armed vigilante groups of 40 men trying to kill the Koreans. On the following day the Koreans called Fukuda-san and Kinoshita-san respectively were escorted by the villagers to police station, and then were sent to Narashino Internment Camp. A year later they showed up to tell the villagers that they were doing well. There were many other cases of ordinary Japanese defending Koreans back then.
What's the difference between Japanese who killed Koreans and Japanese who defended Koreans?
The least you could say is that the latter had some sort of relationships with Koreans even if it was something discriminatory. On the contrary, each individual Korean was not seen by the former as a human being but as a part of enemy, and violence against Koreans who obviously were someone's colleagues or friends, or even husbands or wives was justified as a form of self-defense from the enemy. That was hate-crime.
ところが、3丁目と馬込沢の自警団が凶器をもって「丸山に朝鮮人が二人いるが、あれを生かしておいてはならん」といって押しかけてきたんです。(中略)だから徳田安蔵だの富蔵だのの連中は「奴ら、今夜来るに相違ないが、来ても渡すまい。奴らが来ればすぐ殺されちゃう。悪いことしてない人間だし、村の人と愛情をともにしてた人間だから、いくら朝鮮人でも渡さない」ってね。(中略)
丸山の自警団は5~6人くらいで2人を守るため、鉢巻をしめて人数は少ないけど威厳をみせていたわけだ。彼らは40人くらい来たですよ。鉄砲もったり、刀もったり、槍もったりね。まわりに竹薮のある丘の高い所に丸山がいて、下に彼らがいるわけです。奴らは渡せという、こっちは渡さないという。(中略)
徳田オサムが先頭に立って「何も悪いことをしないのに殺すことはねえ、おめえたちには迷惑かけない。俺ら若いもんでもって警察に送り届けるからケエレ!」ってわけでね、やつは身体は小さかったが、けんかは強かったからね。そしたら向こうで「何オーこの! テメエから先ブッ殺すゾォ」なんていいました。そしたら安蔵がね、あのころ45歳くらい(40歳前後の誤り)だったかね。「殺すなら殺してみろ、テメェラがいくらがんばったって俺ら絶対に生命かけたって渡しゃしねえからな」「殺すなら俺こと先殺せ!」なんて言った。
その威厳に驚いて、これじゃしかたないと思ったのか、まさか日本人を殺すわけにいかないから、最後に「それじあお前たち、必ず警察に届けるか」「届ける!それくらいのこと何だ!あの朝鮮人たちに指一本でも触れさせねえぞ、おめえたちに殺す資格ネェだからなあ」と怒鳴り返した。とうとう奴ら「必ずめいわくかけねえなあ」なんていって、けんか別れになった。
その晩はみんなで交代で寝ずに2人の朝鮮人を番してたわけです。それは震災から4日だったか、その次の日船橋警察署に届けました。それから習志野の鉄条網かこった朝鮮人収容所ってところへ送られたということです。そこへ送られたものは憲兵が守ったらしい。
(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』)
丸山集落に住んでいた徳田慶蔵さんの証言である。慶蔵さんは当時24歳。集落の「若いもん」だった。
丸山集落は、現在の千葉県船橋市丸山。当時は法典村に属していた。住民は20戸程度で、整備された水田もない、小さく貧しい集落である。土地をもっているのは2軒だけで、残りはみな、小作人だった。
丸山には、2年前から2人の朝鮮人がいた。日本名は「福田」と「木下」。北総鉄道の建設工事で来ていた人々で、工事が終わったあとも、丸山にあったお堂を借りて住んでいたのである。2人は集落に溶け込んでいた。住民の武藤よしさんは、丸顔の福田さんが毎日のように武藤家に来ては話し込んでいったのをおぼえている。
「丸山から死人を出すな」「あの2人は奴らに渡さない」。集落の人々を説得し、団結させたのは、徳田安蔵さん(当時40歳前後)だ。背は低いが迫力があり、間違っていると思えば村長でも怒鳴りつける正義感の強さで、丸山の人々に一目置かれていた。
船橋周辺では、1923年9月4日、自警団による朝鮮人虐殺が各地で繰り返された。もっとも規模が大きかったのは船橋駅北口附近で、38人が殺害された。安蔵さんはこの虐殺を目の当たりにしていた。幼い子どもが「アイゴー」と泣き叫んでいる姿が目に焼きついている、と晩年にも語っている。懇意にしている福田さんと木下さんがあのように殺されるのを黙ってみていることはできなかった。
小さく貧しい丸山集落にとって、周辺集落の意向に逆らうのはあまりにも危険な行動だったはずだ。だが、丸山の人々は安蔵さんの言葉に共感して一丸となり、手に手にカマ、クワ、さらには「肥やしかき棒」まで握って、自警団の集落侵入を防いだのである。徳田慶蔵さんは後に、あのときなぜできたのかを考えると不思議に思う、と語っている。
寝ずの番をして2人を守った翌日(5日ごろ?)、丸山の人々は2人を警察署に連れて行った。このまま集落で守り続けるのは不可能に思われたのだ。「送っていくときには、泣き別れでした」と武藤さんは語っている。
1年後、習志野の収容所に入っていた2人は無事に解放され、あいさつに来た。「そんとき、ひょうきんな人が『おメェら、生命助かってメデテェだから、朝鮮の踊りみたことねえから、知ってたら踊ってみせてくんねえか』っていったら、2人で涙流しながら、アリラン、アリランと踊ってくれましたよ」(徳田慶蔵さん)。
徳田安蔵さんはその後、丸山で農民組合を結成し、小作人の権利のために闘った。他地域の小作争議に応援に行っては、警察に何度も逮捕され、家宅捜索も受けたが、屈しなかった。1926年に労働農民党が結成されると、その党員にもなった。1969年、86歳で亡くなった。
武藤よしさんの夫、韻蔵さんはその後も、朝鮮人の屑買いが来ると何時間も話し込むのが常だった。「朝鮮人も日本人も同じだ」と。晩年は、船橋市で行われていた朝鮮人虐殺の慰霊祭に毎年参加していたという。
関東大震災時の朝鮮人虐殺の記録を読んでいると、朝鮮人をかくまった日本人もいたことがわかる。あれほど軽々と多くの朝鮮人の生命が奪われている最中でも、ひそかに、ときに公然と朝鮮人をかくまった人の記録にしばしば出会うのである。屋根裏にかくした、殺されようとしている子どもを連れて逃げた等である。
「朝鮮人を守った日本人」の話として最も有名なのは横浜の潮見警察署署長の大川常吉だろう。警察署を包囲した1000人の群衆を前に「朝鮮人を奪取するなら君らと死ぬまで戦う」と宣言したといわれる。
この逸話は90年代に一世を風靡した自由主義史観研究会編のベストセラー『教科書が教えない歴史』にも登場した。同書のコンセプトは、子どもや若者が日本を誇らしく思えるような歴史エピソードを集めるというものだったと記憶する。だが私たちは、こうした文脈で大川署長が取り上げられることには違和感をもつ。
もちろん大川署長は尊敬すべき人物である。しかし、多くの日本人が、警察や軍も含めて朝鮮人虐殺に手を染めたときに、それを拒絶した人物を、後世の日本人が「誇れる日本人」という仕方で称揚するのは何かがおかしい。朝鮮人虐殺が私たちにとって明らかに「誇れない歴史」であることをまず認識すべきだ。一人のシンドラーでドイツやナチスを免罪することはできないのと同じである。「都合がよすぎる」と言われても文句は言えまい。
もうひとつ、虐殺を拒絶した日本人は多く存在するのに、なぜそのなかから警察署長だけを選ぶのか、という違和感である。朝鮮人をかくまった人の多くは庶民である。下宿人を空き部屋に隠した下宿屋。隣人を集落でかくまった小作人。同僚を取り囲んで警察に送り届けた工員。列車で隣り合った朝鮮人学生のために「俺が朝鮮人ならどうするんだ」と自警団に食ってかかり、自らが連れて行かれた学生。彼らが守りたかったのは、隣の誰かとの小さな結びつきであって、「日本人の誇り」ではない。
自由主義史観研究会の人々にとって「守った日本人」が庶民ではなく、警察署長でなくてはならないのはなぜか。彼らが誇りたい、擁護したい「日本」が、理性を失った群衆を一喝する警察署長に表象されるような「何か」だからではないだろうか。
だが、たけりくるった「日本人」の群衆が、特定の誰かではなく「朝鮮人」を殺せと叫んでいるとき、その前に一人で立ちふさがる人を支えるのは、「日本人の誇り」ではなく、「人間の矜持」ではないか。私たちは、朝鮮人をかくまったという記録に出会うたびに、あの9月にも、日本人のなかに「人間」であろうとした人がいたのだと感じる。もちろん、大川署長もまた、警察官としての職務を通じて「人間」であろうとしたのに違いない。
朝鮮人を殺した日本人と、朝鮮人を守った日本人。その間にはどのような違いがあったのだろうか。山岸秀はこれについて、守った事例では「たとえ差別的な関係においてであっても、日本人と朝鮮人の間に一定の日常的な人間関係が成立していた」と指摘している。つまり、本物の朝鮮人と話したこともないような連中とは違い、ふだん、朝鮮人の誰かと人としての付き合いをもっている人のなかから、「守る人」が現れたということだ。
言ってしまえば当たり前すぎる話である。だがこの当たり前の話を逆にしてみれば、「差別扇動犯罪(ヘイトクライム)」とは何かが見えてくる。
社会は、多くの人の結びつきの網の目でできている。そこには支配と抑圧がもちろんあるが、そうした力に歪められながらも、助け合うための結びつきも確かにあり、それこそが当たり前の日常を支えている。
植民地支配という構造によって深刻に歪められながらも、当時の朝鮮人と日本人の間においてさえ、生きている日常の場では、ときに同僚だったり、商売相手だったり、友人だったり、夫婦であったりという結びつきがあった。
だが虐殺者は、朝鮮人の個々の誰かであるものを「敵=朝鮮人」という記号に変えて「非人間」化し、それへの暴力を扇動する。誰かの同僚であり、友人である個々の誰かへの暴力が「我々日本人」による敵への防衛行動として正当化される。その結果、「我々日本人」の群れが、人が生きる場に土足でなだれ込んでくることになる。当時の証言には、自宅に乱入した自警団が日本人の妻の目の前で朝鮮人の夫を殺したらしい、という噂話が出てくる。実際にそういうことがあったかどうかはともかく、つまりそういうことなのである。
ヘイトクライムは、日常の場を支えている最低限の小さな結びつきを破壊する犯罪でもあるのだ。ごく日常的な、小さな信頼関係を守るために、危険を冒さなくてはならなかった人々の存在は、日常の場に乱入し「こいつは朝鮮人。こいつは敵」と叫んで暴力を扇動するヘイトクライムの悪質さ、深刻さをこそ伝えている。
最後に蛇足になるが。
すでにふれたように、右傾化の危機が叫ばれ始めた90年代には、「日本の誇り」を叫ぶ人々は、自警団から朝鮮人を守った大川署長を英雄として称揚していた。今日、同種の人々は関東大震災時の朝鮮人虐殺を「悪い朝鮮人を自警団が征伐した事件」と考え、自警団をこそ英雄と考えている。今さらながら、日本社会が深刻な水位に来ていることに慄然とする。
(9月21日19時に、若干の加筆を行いました)
参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)
Saturday, September 21, 2013
Ordinary People Who Defended Koreans
In Funabashi, Chiba Prefecture, 38 Koreans were murdered in front of Funabashi train station in the aftermath of the quake, while in a small and poor village in Funabashi, named Maruyama, only 5 to 6 local youths courageously defended two Koreans living there for 2 years from armed vigilante groups of 40 men trying to kill the Koreans. On the following day the Koreans called Fukuda-san and Kinoshita-san respectively were escorted by the villagers to police station, and then were sent to Narashino Internment Camp. A year later they showed up to tell the villagers that they were doing well. There were many other cases of ordinary Japanese defending Koreans back then.
What's the difference between Japanese who killed Koreans and Japanese who defended Koreans?
The least you could say is that the latter had some sort of relationships with Koreans even if it was something discriminatory. On the contrary, each individual Korean was not seen by the former as a human being but as a part of enemy, and violence against Koreans who obviously were someone's colleagues or friends, or even husbands or wives was justified as a form of self-defense from the enemy. That was hate-crime.
2013年9月19日木曜日
【ある演劇青年の受難、そして間違えて殺された日本人について】
日本語/English
1923年9月2日の夜。19歳の演劇青年、伊藤国夫は興奮していた。軍が多摩川沿いに展開し、神奈川県方面から北上してきた「不逞鮮人」集団を迎え撃って激突しているという噂を耳にしたからだ。戦場は遠からずこの千駄ヶ谷まで拡大してくるに違いない。彼は二階の長持の底から先祖伝来の小刀を持ち出し、いつでも使えるように便所の小窓の下に隠しておいて、向かいの少年とともに家の前で杖を握って「警備」についた。
だが、いつまでたっても何も始まらない。業を煮やした彼は、千駄ヶ谷駅近くの線路の土手に登って「敵情視察」を試みる。すると闇のなか、後ろの方から「鮮人だ、鮮人だ!」という叫び声が聞こえるではないか。さらに、こちらに向かっていくつもの提灯が近づいてくるのが見える。朝鮮人を追っているのだ。よし、はさみ撃ちにしてやろう。伊藤は提灯の方向にまっしぐらに走り出した。
(以下、引用)
そっちへ走って行くと、いきなり腰のあたりをガーンとやられた。あわてて向きなおると、雲つくばかりの大男がステッキをふりかざして「イタア、イタア」と叫んでいる。登山杖をかまえて後ずさりしながら「違うよ!…ちがいますったら!」といくら弁解しても相手は聞こうともせず、ステッキをめったやたらに振りまわしながら「センジンダア、センジンダア!」とわめきつづける。
そのうち提灯たちが集まって来て、ぐるりと私たちを取りまいた。見ると、わめいている大男は、千駄ヶ谷駅前に住む白系ロシア人(ロシア革命時に日本に亡命してきたロシア人)の羅紗売りだった。そっちは朝鮮人でないことは一目でわかるのだが、私の方はそうは行かない。その証拠に、棍棒だの木剣だの竹槍だの薪割だのをもった、これも日本人だか朝鮮人だか見分けのつきにくい連中が、「畜生、白状しろ」「ふてえ野郎だ、国籍をいえ」「うそをぬかすと、叩き殺すぞ」と私をこづきまわすのである。
「いえ、日本人です。そのすぐ先に住んでいるイトウ・クニオです。この通り早稲田の学生です」と学生証を見せても一向ききいれない。そして薪割りを私の頭の上に振りかざしながら「アイウエオ」をいってみろだの、「教育勅語」を暗誦しろだのという。まあ、この二つはどうやら及第したが歴代の天皇の名をいえというには弱った。
(千田是也「わが家の人形芝居」『テアトロ』1961年5号。『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』より重引)
この直後、自警団のなかにいた近所の人が彼に気づき、伊藤は怪我もせずにすんだ。彼は後に、この出来事にちなんで「千田是也」という芸名を名乗るようになる。千駄ヶ谷のコリアンという意味である。千田是也はその後、俳優座を立ち上げるなど、演出家、俳優として成功し、89歳で亡くなった。
彼は運がよかった。当時、朝鮮人に間違えられて殺された日本人や中国人は数多くいる。
政府のまとめでは、朝鮮人に間違えられて殺された日本人は58人。これは犯人が逮捕され、司法手続きの対象となっているものを数えているだけなので、実際にはもっと多くの人が殺されているだろう。記録されている殺害方法は実に残酷だ。たとえば「竹槍、鳶口及び棒を以て乱打し日本刀にて斬付け又は足蹴して」、あるいは「河中にて日本刀を以て後頭部を斬付」け、あるいは「帆桁薪梶柄を以て頭部腰部を殴打し水中に溺死せしめて」、「石塊を投付け」て、「木剣、金熊手、バット等を以て殴打」し、「針金にて後手に縛し竹の棒、鳶口等」で、という具合。
有名なのは千葉県で起きた福田村事件だ。香川県から薬の行商にやってきた親族集団が、朝鮮人と間違われて襲撃を受け、鳶口や棍棒で刺されたり殴られたりしたあげく、8人が利根川に投げ込まれて溺死させられ、逃げた1人は斬り殺された。1923年11月29日付の東京日日新聞は「被害者、売薬商人の妻が渡船場の水中に逃げのび乳まで水の達する所で赤児をだきあげ『助けてくれ』と悲鳴をあげていた」と報じている(『いわれなく殺された人びと』)。
浦安では「日本語がうまくしゃべれず殺された」沖縄県人がいたという証言もある(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。
当時の政府は、これらの日本人殺害について、朝鮮人虐殺という問題の本質をぼやかす方向で積極的に位置づけようとした気配がある。臨時震災救護事務局が極秘でまとめた「鮮人問題に関する協定」(1923年9月5日)には、こうある。
「朝鮮人にして混雑の際危害を受けたるもの少数あるべきも、内地人(日本人)も同様の危害を蒙りたるもの多数あり。皆混乱の際に生じたるものにして、鮮人に対しことさらに大なる危害を加えたる事実なし」
だがこれは詭弁である。これらの日本人はみな、朝鮮人に間違えられたからこそ殺されたのだ。言いかえれば、犯人は、相手を朝鮮人と思って殺したのである。上の言い分では、まるで殺された中にたまたま朝鮮人もいただけであるかのようだ。朝鮮人も日本人も同様に混乱の犠牲になった、というようなまとめ方は事実に反する。
また、上に紹介したような残酷な殺害方法も、「朝鮮人だと思った」相手に向けられたものである。つまり、はるかに多くの朝鮮人が、同様に残酷な方法で殺されたことを意味している。
もうひとつ、千田是也のエピソードで見落としてはならないのは、彼はそもそも短刀や杖を武器に、倒すべき「不逞鮮人」を求めて走っていったということだ。たまたまぶつかったのがロシア人であったために(そして知人が居合わせたために)笑い話に終わったが、本当に朝鮮人にぶつかっていたらどうなっただろうか。彼は純然たる被害者ではないのである。
参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』
Thursday, September 19, 2013
Fortune and Misfortune for Koreya Senda/Mistakenly Murdered Japanese
Instead of encountering "the insurgent Koreans" a student, who later became known as a famous director
Koreya Senda, was surrounded by a vigilante group who mistook him for a Korean.
He was lucky enough to be identified as a Japanese, but according to a government document 58 Japanese were murdered in the aftermath of the quake including the 9 family members from Kagawa Prefecture who were thrown into Tonegawa River and drowned to death by vigilante groups who mistook them for Koreans - known as the Fukudamura Village Case (Chiba Prefecture).
The death toll was certainly more than 58, and a lot more Koreans were also brutally murdered. The facts that we must bear in mind that these Japanese were murdered precisely because they were all mistaken for Koreans, and that Koreya Senda was not genuinely a victim since he was there with swords to beat up Koreans.
1923年9月2日の夜。19歳の演劇青年、伊藤国夫は興奮していた。軍が多摩川沿いに展開し、神奈川県方面から北上してきた「不逞鮮人」集団を迎え撃って激突しているという噂を耳にしたからだ。戦場は遠からずこの千駄ヶ谷まで拡大してくるに違いない。彼は二階の長持の底から先祖伝来の小刀を持ち出し、いつでも使えるように便所の小窓の下に隠しておいて、向かいの少年とともに家の前で杖を握って「警備」についた。
だが、いつまでたっても何も始まらない。業を煮やした彼は、千駄ヶ谷駅近くの線路の土手に登って「敵情視察」を試みる。すると闇のなか、後ろの方から「鮮人だ、鮮人だ!」という叫び声が聞こえるではないか。さらに、こちらに向かっていくつもの提灯が近づいてくるのが見える。朝鮮人を追っているのだ。よし、はさみ撃ちにしてやろう。伊藤は提灯の方向にまっしぐらに走り出した。
(以下、引用)
そっちへ走って行くと、いきなり腰のあたりをガーンとやられた。あわてて向きなおると、雲つくばかりの大男がステッキをふりかざして「イタア、イタア」と叫んでいる。登山杖をかまえて後ずさりしながら「違うよ!…ちがいますったら!」といくら弁解しても相手は聞こうともせず、ステッキをめったやたらに振りまわしながら「センジンダア、センジンダア!」とわめきつづける。
そのうち提灯たちが集まって来て、ぐるりと私たちを取りまいた。見ると、わめいている大男は、千駄ヶ谷駅前に住む白系ロシア人(ロシア革命時に日本に亡命してきたロシア人)の羅紗売りだった。そっちは朝鮮人でないことは一目でわかるのだが、私の方はそうは行かない。その証拠に、棍棒だの木剣だの竹槍だの薪割だのをもった、これも日本人だか朝鮮人だか見分けのつきにくい連中が、「畜生、白状しろ」「ふてえ野郎だ、国籍をいえ」「うそをぬかすと、叩き殺すぞ」と私をこづきまわすのである。
「いえ、日本人です。そのすぐ先に住んでいるイトウ・クニオです。この通り早稲田の学生です」と学生証を見せても一向ききいれない。そして薪割りを私の頭の上に振りかざしながら「アイウエオ」をいってみろだの、「教育勅語」を暗誦しろだのという。まあ、この二つはどうやら及第したが歴代の天皇の名をいえというには弱った。
(千田是也「わが家の人形芝居」『テアトロ』1961年5号。『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』より重引)
この直後、自警団のなかにいた近所の人が彼に気づき、伊藤は怪我もせずにすんだ。彼は後に、この出来事にちなんで「千田是也」という芸名を名乗るようになる。千駄ヶ谷のコリアンという意味である。千田是也はその後、俳優座を立ち上げるなど、演出家、俳優として成功し、89歳で亡くなった。
彼は運がよかった。当時、朝鮮人に間違えられて殺された日本人や中国人は数多くいる。
政府のまとめでは、朝鮮人に間違えられて殺された日本人は58人。これは犯人が逮捕され、司法手続きの対象となっているものを数えているだけなので、実際にはもっと多くの人が殺されているだろう。記録されている殺害方法は実に残酷だ。たとえば「竹槍、鳶口及び棒を以て乱打し日本刀にて斬付け又は足蹴して」、あるいは「河中にて日本刀を以て後頭部を斬付」け、あるいは「帆桁薪梶柄を以て頭部腰部を殴打し水中に溺死せしめて」、「石塊を投付け」て、「木剣、金熊手、バット等を以て殴打」し、「針金にて後手に縛し竹の棒、鳶口等」で、という具合。
有名なのは千葉県で起きた福田村事件だ。香川県から薬の行商にやってきた親族集団が、朝鮮人と間違われて襲撃を受け、鳶口や棍棒で刺されたり殴られたりしたあげく、8人が利根川に投げ込まれて溺死させられ、逃げた1人は斬り殺された。1923年11月29日付の東京日日新聞は「被害者、売薬商人の妻が渡船場の水中に逃げのび乳まで水の達する所で赤児をだきあげ『助けてくれ』と悲鳴をあげていた」と報じている(『いわれなく殺された人びと』)。
浦安では「日本語がうまくしゃべれず殺された」沖縄県人がいたという証言もある(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。
当時の政府は、これらの日本人殺害について、朝鮮人虐殺という問題の本質をぼやかす方向で積極的に位置づけようとした気配がある。臨時震災救護事務局が極秘でまとめた「鮮人問題に関する協定」(1923年9月5日)には、こうある。
「朝鮮人にして混雑の際危害を受けたるもの少数あるべきも、内地人(日本人)も同様の危害を蒙りたるもの多数あり。皆混乱の際に生じたるものにして、鮮人に対しことさらに大なる危害を加えたる事実なし」
だがこれは詭弁である。これらの日本人はみな、朝鮮人に間違えられたからこそ殺されたのだ。言いかえれば、犯人は、相手を朝鮮人と思って殺したのである。上の言い分では、まるで殺された中にたまたま朝鮮人もいただけであるかのようだ。朝鮮人も日本人も同様に混乱の犠牲になった、というようなまとめ方は事実に反する。
また、上に紹介したような残酷な殺害方法も、「朝鮮人だと思った」相手に向けられたものである。つまり、はるかに多くの朝鮮人が、同様に残酷な方法で殺されたことを意味している。
もうひとつ、千田是也のエピソードで見落としてはならないのは、彼はそもそも短刀や杖を武器に、倒すべき「不逞鮮人」を求めて走っていったということだ。たまたまぶつかったのがロシア人であったために(そして知人が居合わせたために)笑い話に終わったが、本当に朝鮮人にぶつかっていたらどうなっただろうか。彼は純然たる被害者ではないのである。
参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』
Thursday, September 19, 2013
Fortune and Misfortune for Koreya Senda/Mistakenly Murdered Japanese
Instead of encountering "the insurgent Koreans" a student, who later became known as a famous director
Koreya Senda, was surrounded by a vigilante group who mistook him for a Korean.
He was lucky enough to be identified as a Japanese, but according to a government document 58 Japanese were murdered in the aftermath of the quake including the 9 family members from Kagawa Prefecture who were thrown into Tonegawa River and drowned to death by vigilante groups who mistook them for Koreans - known as the Fukudamura Village Case (Chiba Prefecture).
The death toll was certainly more than 58, and a lot more Koreans were also brutally murdered. The facts that we must bear in mind that these Japanese were murdered precisely because they were all mistaken for Koreans, and that Koreya Senda was not genuinely a victim since he was there with swords to beat up Koreans.
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