日本語/English/esperanto
寄居駅からの眺め
寄居の目抜き通り
当時、朝鮮アメ売りというものがいた。彼らは天秤棒の両端に大きな箱をつけたものを担いで、「ちょーせんにんじーん、にんじんあーめ」と独特の節回しで声を張り上げながら、朝鮮人参が原料だというアメを子どもに売って歩くのである。簡単な芸をみせることもあったらしい。工事人夫として働いていた朝鮮人が、工事が終わり仕事がなくなったためにアメ売りになることも多かった。資本がほとんどなくてもできる商売だからだろう。
秩父に近い埼玉県大里郡寄居町にも、朝鮮人の飴売りの若者がいた。28歳の具学永(グ・ハギョン)さんだ。彼が寄居にいついたのは2年前。それ以前はどこで何をしていたのかわからない。やはり工事人夫として働いていたのかもしれない。寄居駅の南にある浄土宗の寺院、正樹院の隣にある安宿「真下屋」に1人で暮らしていた。小柄でやせ型。おだやかで人のいい若者だったという。町の人で、声を張り上げて往来を行く彼のことを知らない者はなかった。
9月1日の震災以降、東京の避難民が持ち込む流言と自警団結成を求める例の県の通達によって、寄居でも消防団がとりあえず自警団に衣替えしたが、橋のたもとに座っているだけでなんということもなく、ましてや具さんに危害を加えようという者はいなかった。
それでも具さんは、不安を感じていた。あるいは、前日に熊谷で何十人もの朝鮮人が何の理由もなく虐殺された事件の報がすでに耳に届いていたのかもしれない。5日の昼ごろ、彼は寄居警察分署に現れ、自ら「保護」を求める。そうは言っても寄居は平和そのものだったので、彼は「何も仕事をせずに遊んでいては申し訳ない」と笑い、敷地の草むしりをして時間を潰していた。
かつて寄居警察分署があった付近(正樹院の東隣)
だが寄居の隣、用土村では、人々は「不逞鮮人」の襲撃に立ち向かう緊張と高揚に包まれていた。事件のきっかけをつくったのは、その日夜遅く、誰かが怪しい男を捕まえてきたことだった。自警団は男を村役場に連行する。ついに本物の「不逞鮮人」を捕らえた興奮に、100人以上が集まったが、取調べの結果、男は本庄署の警部補であることがわかった。
がっかりした人々に対して、芝崎庫之助という男が演説を始める。「寄居の真下屋には本物の朝鮮人がいる。殺してしまおう」。新しい敵をみつけた村人たちはこれに応え、手に手に日本刀、鳶口、棍棒をもって寄居町へと駆け出していった。
途中、具学永さんが寄居警察分署で保護されていることを知った村人は警察署に押し寄せる。朝鮮人を引き渡せと叫ぶ彼らに対し、星柳三署長は玄関先で、わずか4、5人の署員たちとともに説得に努めた。そのうちに寄居の有力者である在郷軍人会の酒井竹次郎中尉も駆けつけ、「ここにいる朝鮮人は善良なアメ売りである」と訴えるが、興奮した彼らは聞く耳をもたない。群衆は署長らを排除して署内になだれ込む。
竹やりや日本刀で斬りつけられ、血を流しながら、具学永さんは留置房のなかに逃げ込んだ。格子の間から竹やりを突き出してくる男たちとにらみ合いがしばらく続いた後、具さんは突入した男たちにずるずると玄関先まで運ばれていき、そこで集団で暴行されて亡くなった。6日の深夜、2時から3時の間の出来事だった。
『大正の朝鮮人虐殺事件』には、留置房のなかに追い込まれていたとき、彼がそばにあったなにかのポスターのうえに、自らの血で「罰 日本 罪無」と書いたという話が出てくる。「日本人、罪なき者を罰す」という意味ではないかという。それははっきりと抗議の意思表示だったと、同著は語る。
10月、芝崎ほか12人が逮捕された。
具学永さんの墓が、今も寄居の正樹院に残っている。正面に「感天愁雨信士」と戒名。右の側面には「大正十二年九月六日亡 朝鮮慶南蔚山郡廂面山田里居 俗名 具学永 行年 二十八才」、左の側面には「施主 宮澤菊次郎 外有志之者」と彫られている。虐殺犠牲者で、名前と出身地が分かり、さらに戒名もついているというのは珍しいという。山岸秀は「それだけ地元住民との日常関係が成立していたということである」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)と書いている。寄居の人々にとって、具学永の死は、確かに名前と個性をもった隣人の死であった。さらに言えば、用土村という隣人による死(殺害)でもあった。
具学永さんの墓
「具学永」の文字が見える。
正樹院(google map)
寄居警察分署の惨劇が未明にあった6日、戒厳司令部は「朝鮮人に対し、其の性質の善悪に拘らず、無法の待遇をなすことを絶対に慎め」「之に暴行を加へたりして、自ら罪人となるな」といった強い調子の「注意」を発表する。これ以来、「有りもせぬことを言触らすと処罰されます」というビラをまき、メディアを規制するなど、政府・軍の流言に対する態度がようやく、はっきりと否定的になる。
この頃から、東京では騒擾状態は次第に落ち着いていった。とは言うものの、すべてが終わったわけではない。軍や民衆による犯罪は一部ではまだ続く。しかし、9月1日からずっと、事件がおきた時間にこだわって日に数回、更新してきたこのブログのスタイルはギアチェンジする時期に来たようだ。
というわけで、明日からは、基本的にはほぼ1日1本のペースでの、とくに時間を特定しない更新になります。日付や時間を特定できない出来事や人々の体験を紹介していくつもりです。今日まで重苦しい数日間を見つめる試みにお付き合いくださった皆さん、ありがとうございます。少なくとも12日まで(たぶんもう少し先まで)は更新を続ける予定です。つまり、もうしばらく1923年9月という時期をみていくことになります。途絶えている英語・韓国語・エスペラント説明文も、追って補いますので、今しばらく、お付き合いください。
参考資料:『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)、北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』(鳩の森書房)
At 2:00am on September 6, 1923
Yorii, Saitama
Death of A Neighbor
KOO Hag-yong had been peacefully living in Yorii, Saitama for 2 years. As everybody in the village knew he was a peaceful candy seller. But things changed after the quake.
Late at night on 6th September folks from neighboring villages rushed into Yorii to hunt an evil Korean. Without listening to the police chief and an influential figure trying to convince that KOO Hag-yong was peaceful and innocent the blood-thirsty mob burst in and lynched him to death. He wrote on a piece of paper with his blood, "The Japanese punished an innocent."
Yorii folks built him a grave and gave him a posthumous Buddhist name. There are only a few cases like this where people made grave for their neighbor Koreans killed by Japanese, and that shows he was truly a neighbor of the people in Yorii.
En la 6-a de septembro je la 2-a antaŭtagiĝe, en Yorii en la gbernio Saitama, Morto de najbaro.
Yorii en la gbernio Saitama estas malgranda urbeto. De antaŭ 2 jaroj tie loĝis korea junulo KOO Hag-yong kiu estis vendisto de dolĉaĵo. Ĉiuj urbetanoj sciis lian mildan karakteron.
Tamen ĉi tiu tago homoj de najbaraj vilaĝoj kiuj serĉas “malbonajn koreojn” alkuris amase. Kvankam konvinkado “li estas bona koreo” de policestro kaj haltigo de urbetaj eminentuloj, ili eniris la policejon kaj mortigis Koo Hag-yong. Skribante sur papero “Japanoj mortigas senkulpulon” KOO mortis.
Poste, la loĝantoj de Yorii konstruis tombon de KOO. Kaj laŭ la budisma kutimo ili nomis postmortan nomon de KOO. En tiu tempo estis rare ke loĝantoj konstruis la tombon de viktima koreo tiel. Tio estas pruvo ke Koo estis vere bona najbaro por Yorii.
2013年9月6日金曜日
2013年9月5日木曜日
【1923年9月5日16時半/羅漢寺(現在の西大島駅)付近 放り出された16人】
日本語/English/esperanto
千葉街道に出ると、朝鮮人が1000人に近いなと思うほど4列に並ばされていました。亀戸警察に一時収容していた人たちです。憲兵と兵隊がある程度ついて、習志野のほうへ護送されるところでした。
もちろん歩いて。列からはみ出すと殴って、捕虜みたいなもので人間扱いじゃないです。(中略)僕は当時純粋の盛りですからね。この人たちが本当に悪いことをするのかなって、気の毒で異様な感じでした。(中略)
ここ(羅漢寺隣の銭湯前)まで来たら、針金で縛って連れてきた朝鮮人が8人ずつ16人いました。さっきの人たちの一部ですね。憲兵が確か2人。兵隊と巡査が4、5人ついているのですが、そのあとを民衆がぞろぞろついてきて「渡せ、渡せ」「俺たちのかたきを渡せ」って、いきり立っているのです。
銭湯に朝鮮人を入れたんです。民衆を追っ払ってね。僕も怖いもの見たさについてきたんだけど、ここで保護して習志野(収容所)に送るんだなあと、よかったなーって思いましたよ。それで帰ろうと思ったら、何分もしないうちに「裏から出たぞー」って騒ぐわけなんです。
何だって見ると、民衆、自警団が殺到していくんです。裏というのは墓地で、一段低くなって水がたまっていました。軍隊も巡査も、あとはいいようにしろと言わんばかりに消えちゃって。さあもうそのあとは、切る、刺す、殴る、蹴る、さすがに鉄砲はなかったけれど、見てはおれませんでした。16人完全にね、殺したんです。5、60人がかたまって、半狂乱で。(中略)
自警団ばかりじゃなく、一般の民衆も裸の入れ墨をした人も、「こいつらがやったんだ」って、夢中になってやったんです。(中略)ちょうど夕方4時半かそこらで、走った血に夕陽が照るのが、いまだに60何年たっても目の前に浮かびます。
(浦辺政雄〈当時16歳〉証言。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』より)
全焼した本所から大島町の親戚のもとに避難していた渡辺さんが目撃した光景である。当時、羅漢寺は現在の位置ではなく、現在の西大島駅(都営新宿線)付近にあった。
やや分かりにくいが、習志野収容所に送られる途中の、1000人近いとも思われる朝鮮人の列から、憲兵が16人だけをよりわけて銭湯の裏口から「放免」し、群衆の殺すがままに任せたということである。
政府と軍は、この数日で、当初実在を信じていた「朝鮮人暴動」がそもそも存在しなかったことに気づき、少しずつ軌道修正を図りつつあった。
朝鮮人の習志野移送は、前日4日の午後4時に第1師団司令部によって決定され、午後10時に具体的な命令が下された。その内容は、かつて戦時捕虜を収容していた習志野収容所に東京近辺の朝鮮人を収容すること、各隊はその警備地域の朝鮮人を「適時収集」して移送すること、というものであった。
朝鮮人を習志野に集中隔離するのは、自警団による虐殺をこれ以上拡大させないための処置である。山本権兵衛首相が5日、「震災に際し、国民自重に関する件(鮮人の所為取締に関する件)」という内閣告諭を出して国民に暴力の自重を求めている。「民衆自ら濫(みだり)に鮮人に迫害を加ふるが如きことは固(もと)より日鮮同化の根本主義に背戻(はいれい)するのみならず、又諸外国に報ぜられて決して好ましきことに非(あら)ず」。警察や軍ではなく、民衆自身が朝鮮人を迫害するのは、韓国を併合した日本の「善意」に反するし、外国で報道されるのは好ましくないという内容だ。虐殺の事実が諸外国で報道され、日本の不利益になることを恐れていたのである。
ちなみに、朝鮮人だけでなく、中国人も習志野に送られている。9月17日の収容最大人数が朝鮮人3079人、中国人1692人であった。9月3日の記事で大島の中国人虐殺について書いたが、この習志野移送命令によって、大島の中国人労働者のうち、虐殺にあわなかった数百人も警官隊によって捕縛され、全員習志野に送られた。大島から中国人の姿は消え、空き家となった中国人宿舎は、そのまま日本人労働者の宿舎となった(先の記事では書き損ねたが、中国人虐殺と時を同じくして、中国人に宿舎を貸していた日本人経営者3、4人も殺されている)。
渡辺少年が目撃したのは、前日夜の命令を受けて、習志野に移送されていく朝鮮人たちだった。ではなぜ、あの16人だけは途中で放り出されて、自警団のえじきに供されたのだろうか。関東大震災時の朝鮮人虐殺の研究では第一人者といえる姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)は、『関東大震災・虐殺の記憶』で、軍や警察の失態を知りすぎた者を処分したのではないかと推察している。
そうかもしれない。しかし、もっと卑小な、わけのわからない理由でたまたま選ばれたのかもしれない。いずれにしろ彼ら16人は、「保護」の建前に従って移送される途中で、自らのあずかり知らない気まぐれのような事情から惨殺されたのである。
(次の更新は6日午前2時の予定です)
参考資料:関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会)、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(青木書店)、田原洋『関東大震災と王希天事件』(三一書房)。
西大島駅(google map)
At 16:30pm on September 5, 1923
Rakanji Temple near the current Nishi-Ojima Train Station
16 Abandoned Koreans
"I saw a procession of over 1000 Koreans being taken by force to a camp in Chiba. They were continually battered by soldiers. The unit somehow released 16 Koreans on the way. As they fleed into the Rakanji Temple, the crowd followed and slaughtered them all. Even now, after 60 years, I still recall seas of blood reflecting the evening sun", said a 76-year-old man.
Although the military decided on September 4, 1923 to take Koreans living in Tokyo to the old internment camp in Narashino, Chiba to stop the massacre by civilians from spreading the 16 Koreans were abondoned. Why?
The historian, Kang Dok Sang, thinks that they might have known too much about blunders by the military and the police, but the actual reason is unknown.
En la 5-a de septembro je la 4-a posttagmeze, ĉe la templo Rakan (ĉ. nuna stacio Nishiooshima), Forĵetataj 16 koreoj
“Mi vidis koreojn kiuj estas transportataj al la koncentrejo en Chiba. Estis vidataj de mi pli ol mil koreoj. Ili piediris batate de japanaj soldatoj kiu gardas ilin. Tio ne estis trakto al homoj. La soldatoj elektis 16 koreojn kaj “reliberigis” ilin sur la loko. La koreoj fuĝis al tombejo malantaŭ la templo. Do amaspopolo alkuris kaj mortigis ilin. Eĉ post 60 jaroj, mi memoras ke subira suno lumigis fluantajn sangojn” (atesto de tiama 16 jaraĝa knabo)
En la antaŭa tago La armeo decidis meti koreojn kiuj loĝas en Tokio al la koncentrejo Narasino en Chiba. Ĉar la armeo ne volas ke popolo ne plu mortigi koreojn. Do kial la armeo forĵetis 16 koreojn? Historiisto GANG Deoksang supozas “Ĉar 16 koreoj sciis eraron de armeo kaj polico.” Sed neniu scias veran kialon.
千葉街道に出ると、朝鮮人が1000人に近いなと思うほど4列に並ばされていました。亀戸警察に一時収容していた人たちです。憲兵と兵隊がある程度ついて、習志野のほうへ護送されるところでした。
もちろん歩いて。列からはみ出すと殴って、捕虜みたいなもので人間扱いじゃないです。(中略)僕は当時純粋の盛りですからね。この人たちが本当に悪いことをするのかなって、気の毒で異様な感じでした。(中略)
ここ(羅漢寺隣の銭湯前)まで来たら、針金で縛って連れてきた朝鮮人が8人ずつ16人いました。さっきの人たちの一部ですね。憲兵が確か2人。兵隊と巡査が4、5人ついているのですが、そのあとを民衆がぞろぞろついてきて「渡せ、渡せ」「俺たちのかたきを渡せ」って、いきり立っているのです。
銭湯に朝鮮人を入れたんです。民衆を追っ払ってね。僕も怖いもの見たさについてきたんだけど、ここで保護して習志野(収容所)に送るんだなあと、よかったなーって思いましたよ。それで帰ろうと思ったら、何分もしないうちに「裏から出たぞー」って騒ぐわけなんです。
何だって見ると、民衆、自警団が殺到していくんです。裏というのは墓地で、一段低くなって水がたまっていました。軍隊も巡査も、あとはいいようにしろと言わんばかりに消えちゃって。さあもうそのあとは、切る、刺す、殴る、蹴る、さすがに鉄砲はなかったけれど、見てはおれませんでした。16人完全にね、殺したんです。5、60人がかたまって、半狂乱で。(中略)
自警団ばかりじゃなく、一般の民衆も裸の入れ墨をした人も、「こいつらがやったんだ」って、夢中になってやったんです。(中略)ちょうど夕方4時半かそこらで、走った血に夕陽が照るのが、いまだに60何年たっても目の前に浮かびます。
(浦辺政雄〈当時16歳〉証言。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』より)
全焼した本所から大島町の親戚のもとに避難していた渡辺さんが目撃した光景である。当時、羅漢寺は現在の位置ではなく、現在の西大島駅(都営新宿線)付近にあった。
やや分かりにくいが、習志野収容所に送られる途中の、1000人近いとも思われる朝鮮人の列から、憲兵が16人だけをよりわけて銭湯の裏口から「放免」し、群衆の殺すがままに任せたということである。
政府と軍は、この数日で、当初実在を信じていた「朝鮮人暴動」がそもそも存在しなかったことに気づき、少しずつ軌道修正を図りつつあった。
朝鮮人の習志野移送は、前日4日の午後4時に第1師団司令部によって決定され、午後10時に具体的な命令が下された。その内容は、かつて戦時捕虜を収容していた習志野収容所に東京近辺の朝鮮人を収容すること、各隊はその警備地域の朝鮮人を「適時収集」して移送すること、というものであった。
朝鮮人を習志野に集中隔離するのは、自警団による虐殺をこれ以上拡大させないための処置である。山本権兵衛首相が5日、「震災に際し、国民自重に関する件(鮮人の所為取締に関する件)」という内閣告諭を出して国民に暴力の自重を求めている。「民衆自ら濫(みだり)に鮮人に迫害を加ふるが如きことは固(もと)より日鮮同化の根本主義に背戻(はいれい)するのみならず、又諸外国に報ぜられて決して好ましきことに非(あら)ず」。警察や軍ではなく、民衆自身が朝鮮人を迫害するのは、韓国を併合した日本の「善意」に反するし、外国で報道されるのは好ましくないという内容だ。虐殺の事実が諸外国で報道され、日本の不利益になることを恐れていたのである。
ちなみに、朝鮮人だけでなく、中国人も習志野に送られている。9月17日の収容最大人数が朝鮮人3079人、中国人1692人であった。9月3日の記事で大島の中国人虐殺について書いたが、この習志野移送命令によって、大島の中国人労働者のうち、虐殺にあわなかった数百人も警官隊によって捕縛され、全員習志野に送られた。大島から中国人の姿は消え、空き家となった中国人宿舎は、そのまま日本人労働者の宿舎となった(先の記事では書き損ねたが、中国人虐殺と時を同じくして、中国人に宿舎を貸していた日本人経営者3、4人も殺されている)。
渡辺少年が目撃したのは、前日夜の命令を受けて、習志野に移送されていく朝鮮人たちだった。ではなぜ、あの16人だけは途中で放り出されて、自警団のえじきに供されたのだろうか。関東大震災時の朝鮮人虐殺の研究では第一人者といえる姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)は、『関東大震災・虐殺の記憶』で、軍や警察の失態を知りすぎた者を処分したのではないかと推察している。
そうかもしれない。しかし、もっと卑小な、わけのわからない理由でたまたま選ばれたのかもしれない。いずれにしろ彼ら16人は、「保護」の建前に従って移送される途中で、自らのあずかり知らない気まぐれのような事情から惨殺されたのである。
(次の更新は6日午前2時の予定です)
参考資料:関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会)、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(青木書店)、田原洋『関東大震災と王希天事件』(三一書房)。
西大島駅(google map)
At 16:30pm on September 5, 1923
Rakanji Temple near the current Nishi-Ojima Train Station
16 Abandoned Koreans
"I saw a procession of over 1000 Koreans being taken by force to a camp in Chiba. They were continually battered by soldiers. The unit somehow released 16 Koreans on the way. As they fleed into the Rakanji Temple, the crowd followed and slaughtered them all. Even now, after 60 years, I still recall seas of blood reflecting the evening sun", said a 76-year-old man.
Although the military decided on September 4, 1923 to take Koreans living in Tokyo to the old internment camp in Narashino, Chiba to stop the massacre by civilians from spreading the 16 Koreans were abondoned. Why?
The historian, Kang Dok Sang, thinks that they might have known too much about blunders by the military and the police, but the actual reason is unknown.
En la 5-a de septembro je la 4-a posttagmeze, ĉe la templo Rakan (ĉ. nuna stacio Nishiooshima), Forĵetataj 16 koreoj
“Mi vidis koreojn kiuj estas transportataj al la koncentrejo en Chiba. Estis vidataj de mi pli ol mil koreoj. Ili piediris batate de japanaj soldatoj kiu gardas ilin. Tio ne estis trakto al homoj. La soldatoj elektis 16 koreojn kaj “reliberigis” ilin sur la loko. La koreoj fuĝis al tombejo malantaŭ la templo. Do amaspopolo alkuris kaj mortigis ilin. Eĉ post 60 jaroj, mi memoras ke subira suno lumigis fluantajn sangojn” (atesto de tiama 16 jaraĝa knabo)
En la antaŭa tago La armeo decidis meti koreojn kiuj loĝas en Tokio al la koncentrejo Narasino en Chiba. Ĉar la armeo ne volas ke popolo ne plu mortigi koreojn. Do kial la armeo forĵetis 16 koreojn? Historiisto GANG Deoksang supozas “Ĉar 16 koreoj sciis eraron de armeo kaj polico.” Sed neniu scias veran kialon.
2013年9月4日水曜日
【1923年9月4日夜/埼玉県熊谷市 地方へと拡大する虐殺:後編】
それにしても、息を呑むほかないような惨劇である。焼け出された人々が、過剰防衛意識ややり場のない怒りから暴力的になるというならまだ分かる。だが被災地から遠く離れた人々がなぜ、ここまで残酷になれたのだろうか。山岸秀は、前掲書のなかで、流入した新住民の過剰な忠誠心、同調意識などを背景として指摘しているが、どうもすっきりしない。しかし、私たちが心にひっかかったのは以下の一節だった。
「自警団、自警団員の中には、自警を超えて、虐殺、朝鮮人いじめを楽しむ者も出てきた。前述で見たような殺し方は、もはや自衛のためのものではなく、社会的に抑圧されていた者が、その屈折した心の発散を弱者に向けるようになったものである」「危険な朝鮮人ではないということを十分に知った上での暴虐であり、自分たちのストレスの発散を求めた、完全な弱い者いじめになっている」「対象は安全に攻撃できる、自分より弱いものであればいいということになる」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)
これは熊谷の事件に特定したものではなく、自警団一般について書いた文章である。むしろ、ここで描かれているのは、特定の時代や国、地域などと関係ない、人間が普遍的にもつ醜さにすぎないといえばそれまでだ。だが、2013年9月の私たちにとって、妙にどこかで見た光景に思えるのはなぜだろうか。少なくとも私たち「知らせ隊」は、こんな光景を見たおぼえがある。
話を1923年9月の熊谷に戻す。
町のあちこちに転がった遺体は、暑いなか、すぐに激しい腐臭を発するようになる。野犬が食いあさる。放置されたままで誰も近づかなかったこれらの遺体を黙々と荷車に積み込み、野焼きしたのは、一人の火葬人夫と、町の助役である新井良作だけだったと、山岸は書いている。その後、熊谷市の初代市長となった新井は、1938年に朝鮮人犠牲者の供養塔を建立。今も供養塔は守られ、毎年、熊谷市主催で供養が営まれている。(※)
熊谷と同じ5日に起こった本庄市(100人前後殺害)や神保原村(現上里町。42人殺害)の事件をはじめ、埼玉県内で殺された朝鮮人は、山岸のまとめによれば200人を超える。それらを裁く公判はその年の11月には判決となったが、懲役4年を最長として、ほとんどが半年か1年程度だった。証人として出廷した本庄署の巡査は「検事は虐殺の様子などに触れることは努めて避けていたようで、最初から最後まで事件に立ち会っていた私に、何ひとつ聞こうとはしなかった」と述懐している(『大正の朝鮮人虐殺事件』)。不真面目な裁判だったようだ。
また、これだけの惨事の引き金を引いたのは、あの県の通達であることは明らかであり、そのことは事件直後からメディアでも指摘されていた。だがこれに対して、当時の県内務部長は「アノ当時ノ状態としてアレ丈の事に気づいたのは寧ろよい事をしたとさへ思つている」(「東京日日新聞」1923年10月24日付。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)と居直るだけだったという。責任はどこかに消えてしまったわけである。
(次の更新は5日午後4時半ごろの予定です)
熊谷寺大原霊園にある供養塔。慰霊塔の左にある献花は民団、右は総連のもの(2013年9月1日撮影)
(※)この供養塔に刻まれた碑文には、具体的な事件の内容も、殺されたのが朝鮮人であることも明記されていないという限界があることも、山岸は指摘している。
参考文献:山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』(早稲田出版)、北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』(鳩の森書房)。
事件が起きた場所
最初の虐殺現場(google map)
熊谷寺(google map)
供養碑(野口石材店の正面墓地内すぐ)(google map)
「自警団、自警団員の中には、自警を超えて、虐殺、朝鮮人いじめを楽しむ者も出てきた。前述で見たような殺し方は、もはや自衛のためのものではなく、社会的に抑圧されていた者が、その屈折した心の発散を弱者に向けるようになったものである」「危険な朝鮮人ではないということを十分に知った上での暴虐であり、自分たちのストレスの発散を求めた、完全な弱い者いじめになっている」「対象は安全に攻撃できる、自分より弱いものであればいいということになる」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)
これは熊谷の事件に特定したものではなく、自警団一般について書いた文章である。むしろ、ここで描かれているのは、特定の時代や国、地域などと関係ない、人間が普遍的にもつ醜さにすぎないといえばそれまでだ。だが、2013年9月の私たちにとって、妙にどこかで見た光景に思えるのはなぜだろうか。少なくとも私たち「知らせ隊」は、こんな光景を見たおぼえがある。
話を1923年9月の熊谷に戻す。
町のあちこちに転がった遺体は、暑いなか、すぐに激しい腐臭を発するようになる。野犬が食いあさる。放置されたままで誰も近づかなかったこれらの遺体を黙々と荷車に積み込み、野焼きしたのは、一人の火葬人夫と、町の助役である新井良作だけだったと、山岸は書いている。その後、熊谷市の初代市長となった新井は、1938年に朝鮮人犠牲者の供養塔を建立。今も供養塔は守られ、毎年、熊谷市主催で供養が営まれている。(※)
熊谷と同じ5日に起こった本庄市(100人前後殺害)や神保原村(現上里町。42人殺害)の事件をはじめ、埼玉県内で殺された朝鮮人は、山岸のまとめによれば200人を超える。それらを裁く公判はその年の11月には判決となったが、懲役4年を最長として、ほとんどが半年か1年程度だった。証人として出廷した本庄署の巡査は「検事は虐殺の様子などに触れることは努めて避けていたようで、最初から最後まで事件に立ち会っていた私に、何ひとつ聞こうとはしなかった」と述懐している(『大正の朝鮮人虐殺事件』)。不真面目な裁判だったようだ。
また、これだけの惨事の引き金を引いたのは、あの県の通達であることは明らかであり、そのことは事件直後からメディアでも指摘されていた。だがこれに対して、当時の県内務部長は「アノ当時ノ状態としてアレ丈の事に気づいたのは寧ろよい事をしたとさへ思つている」(「東京日日新聞」1923年10月24日付。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)と居直るだけだったという。責任はどこかに消えてしまったわけである。
(次の更新は5日午後4時半ごろの予定です)
熊谷寺大原霊園にある供養塔。慰霊塔の左にある献花は民団、右は総連のもの(2013年9月1日撮影)
(※)この供養塔に刻まれた碑文には、具体的な事件の内容も、殺されたのが朝鮮人であることも明記されていないという限界があることも、山岸は指摘している。
参考文献:山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』(早稲田出版)、北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』(鳩の森書房)。
事件が起きた場所
最初の虐殺現場(google map)
熊谷寺(google map)
供養碑(野口石材店の正面墓地内すぐ)(google map)
【1923年9月4日夜/埼玉県熊谷市 地方へと拡大する虐殺:前編】
熊谷寺
「熊谷寺では、生から死まで見ました。寺の庭では1人の朝鮮人を日本人がぐるって取りまいたグループが、5つほど出来ました。そして殺すたびに『わあ、わあー』『万才、万才』と喚声があがるのです」(関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼実行委員会編『かくされていた歴史、増補版』。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)。
上は、埼玉県熊谷市の市内中心部にある熊谷寺の、1923年9月4日夜の光景である。
主に東京でおきたことを主にとりあげると最初に書いた当ブログだが、今回と明後日の2回だけは、埼玉県でおきた事件をとりあげさせて頂きたい。
地震の被害が少なかった埼玉県だったが、東京から流入する避難民を通じて、朝鮮人暴動の流言は広まっていったという。「今、上野の山で日本の陸軍と朝鮮人で内乱が起きちゃってね」(引用同上)といった言葉も、ぼろぼろの姿をした避難民の口から聞くと切迫した信憑性を帯びたのである。
さらに、この流言にお墨付きを与えたのが、例によって行政である。埼玉県は2日、「東京に於ける震災に乗じ暴行をなしたる不逞鮮人」が埼玉に入ってくる可能性があるから各町村で在郷軍人会などと協力して有事に備えよ、という趣旨の通達を各郡町村に発する。これに応じて、各地に自警団が結成された。
あわせて県は、県内に避難してくる朝鮮人を実際に川口で検束し、蕨に移送。その北への護送を各町村の自警団にゆだねた。各町村の自警団が少数の警官とともに駅伝式に隣町まで護送するのである。目的地は群馬県の高崎連隊だったのではないかと見られているが、いまだにはっきりしないそうだ。残暑の厳しいなか、家族連れも含む朝鮮人たちは、徒歩で休憩もなく延々と歩かされた。途中、逃亡した者が合わせて10数人、殺害されている。
蕨から大宮、桶川と彼らは歩き続け、町から町へとリレーされて、熊谷に着いたのは4日の夕方、蕨から50キロを30時間かけて歩き続けた末のことだった。市内中心部に入るあたりで、柳原の自警団から熊谷町の自警団に引き継ぐはずだったが、現場の状況はそれまでの町や村とは異なっていた。
熊谷町中心部は、数千とも思われる人々に埋め尽くされていた。当時、急速に膨張しつつあった熊谷の人口は約2万3000人。一軒に1人、自警団に参加せよという呼びかけは、不必要な数の人々を街頭に呼び寄せてしまっていた。彼らは東京の仇を打とうと殺気立った烏合の衆と化している。
群衆は、引き継ぎポイントに現れた朝鮮人の群れにどっと殺到する。
「家の叔母さんだ、兄貴だ、いとこだのをこの朝鮮人が殺っちゃったんだから、家を焼いちゃったんだから、このやつらは敵だ」(引用同上)
とこれをあおる者もいたという。20人以上がここで殺害された。
最初の虐殺が起きた付近(ニットーモール裏手の秩父鉄道踏み切りあたり)
「中心部入り口における殺戮に加わった民衆は、その昂奮をそのまま市街地へ持ち込んだ。彼らは血がついた刀、竹槍、棍棒を持って逃げた朝鮮人を探し、みつけ出しては殺す。そこに自警のかけらは少しもない」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。
逃げずに縄で縛られ、おとなしく連行されていく者も容赦なく暴行を受けた。「その時私は、眼の前で日本刀を持って来た人が、『よせ、よせ』というのをふりきって、日本刀で朝鮮人を斬ったのを見ました。…こんな時に斬ってみなければ切れ味がわからないといって、斬ったのだそうです」(『かくされていた歴史、増補版』。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)。竹やりを背中に何本も刺された朝鮮人も目撃されている。
彼らが最終的にたどり着いたのが深夜の熊谷寺の境内だった。ここで残りのすべての朝鮮人が「万才、万才」の声のなか、殺害されたのである。
熊谷寺は、かつて熊谷直実が出家生活を送っていた庵のあとに開かれた浄土宗の寺である。熊谷直実とはもちろん、平家物語の「敦盛最期」で、わが子と同じ年頃の平敦盛の首を泣く泣く斬った(「泣く泣く首をぞ掻いてける」)、あの熊谷だ。彼は後に、その懺悔から出家し、法然の弟子となった。
熊谷市在住の研究者、山岸秀は、殺害された朝鮮人の数を、40~80人ほどと見ている。「殺された人数すらはっきりとわかっていないのだから、名前、年齢、性別、職業、出身地などは何も残されていない」。
(後編へ続く)
「熊谷寺では、生から死まで見ました。寺の庭では1人の朝鮮人を日本人がぐるって取りまいたグループが、5つほど出来ました。そして殺すたびに『わあ、わあー』『万才、万才』と喚声があがるのです」(関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼実行委員会編『かくされていた歴史、増補版』。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)。
上は、埼玉県熊谷市の市内中心部にある熊谷寺の、1923年9月4日夜の光景である。
主に東京でおきたことを主にとりあげると最初に書いた当ブログだが、今回と明後日の2回だけは、埼玉県でおきた事件をとりあげさせて頂きたい。
地震の被害が少なかった埼玉県だったが、東京から流入する避難民を通じて、朝鮮人暴動の流言は広まっていったという。「今、上野の山で日本の陸軍と朝鮮人で内乱が起きちゃってね」(引用同上)といった言葉も、ぼろぼろの姿をした避難民の口から聞くと切迫した信憑性を帯びたのである。
さらに、この流言にお墨付きを与えたのが、例によって行政である。埼玉県は2日、「東京に於ける震災に乗じ暴行をなしたる不逞鮮人」が埼玉に入ってくる可能性があるから各町村で在郷軍人会などと協力して有事に備えよ、という趣旨の通達を各郡町村に発する。これに応じて、各地に自警団が結成された。
あわせて県は、県内に避難してくる朝鮮人を実際に川口で検束し、蕨に移送。その北への護送を各町村の自警団にゆだねた。各町村の自警団が少数の警官とともに駅伝式に隣町まで護送するのである。目的地は群馬県の高崎連隊だったのではないかと見られているが、いまだにはっきりしないそうだ。残暑の厳しいなか、家族連れも含む朝鮮人たちは、徒歩で休憩もなく延々と歩かされた。途中、逃亡した者が合わせて10数人、殺害されている。
蕨から大宮、桶川と彼らは歩き続け、町から町へとリレーされて、熊谷に着いたのは4日の夕方、蕨から50キロを30時間かけて歩き続けた末のことだった。市内中心部に入るあたりで、柳原の自警団から熊谷町の自警団に引き継ぐはずだったが、現場の状況はそれまでの町や村とは異なっていた。
熊谷町中心部は、数千とも思われる人々に埋め尽くされていた。当時、急速に膨張しつつあった熊谷の人口は約2万3000人。一軒に1人、自警団に参加せよという呼びかけは、不必要な数の人々を街頭に呼び寄せてしまっていた。彼らは東京の仇を打とうと殺気立った烏合の衆と化している。
群衆は、引き継ぎポイントに現れた朝鮮人の群れにどっと殺到する。
「家の叔母さんだ、兄貴だ、いとこだのをこの朝鮮人が殺っちゃったんだから、家を焼いちゃったんだから、このやつらは敵だ」(引用同上)
とこれをあおる者もいたという。20人以上がここで殺害された。
最初の虐殺が起きた付近(ニットーモール裏手の秩父鉄道踏み切りあたり)
「中心部入り口における殺戮に加わった民衆は、その昂奮をそのまま市街地へ持ち込んだ。彼らは血がついた刀、竹槍、棍棒を持って逃げた朝鮮人を探し、みつけ出しては殺す。そこに自警のかけらは少しもない」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。
逃げずに縄で縛られ、おとなしく連行されていく者も容赦なく暴行を受けた。「その時私は、眼の前で日本刀を持って来た人が、『よせ、よせ』というのをふりきって、日本刀で朝鮮人を斬ったのを見ました。…こんな時に斬ってみなければ切れ味がわからないといって、斬ったのだそうです」(『かくされていた歴史、増補版』。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)。竹やりを背中に何本も刺された朝鮮人も目撃されている。
彼らが最終的にたどり着いたのが深夜の熊谷寺の境内だった。ここで残りのすべての朝鮮人が「万才、万才」の声のなか、殺害されたのである。
熊谷寺は、かつて熊谷直実が出家生活を送っていた庵のあとに開かれた浄土宗の寺である。熊谷直実とはもちろん、平家物語の「敦盛最期」で、わが子と同じ年頃の平敦盛の首を泣く泣く斬った(「泣く泣く首をぞ掻いてける」)、あの熊谷だ。彼は後に、その懺悔から出家し、法然の弟子となった。
熊谷市在住の研究者、山岸秀は、殺害された朝鮮人の数を、40~80人ほどと見ている。「殺された人数すらはっきりとわかっていないのだから、名前、年齢、性別、職業、出身地などは何も残されていない」。
(後編へ続く)
【1923年9月 四ッ木橋付近での軍による虐殺】
日本語/English
木根川橋近く。軍による虐殺があったあたり。
何度か引用してきた『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、自警団の一般の人々による朝鮮人虐殺だけでなく、軍による朝鮮人虐殺についての証言がいくつも掲載されている。
一般的に、関東大震災時の朝鮮人虐殺というと、一般の人が自警団をつくって朝鮮人を殺した事件というイメージで固まっている。もちろんそれは事実である。しかし、それだけでは行政が果たした役割が消えてしまう。現場の警察官による「不逞鮮人注意」の宣伝はもちろんだが、中央レベルでも、内務省警保局が各地方行政に「朝鮮人が放火している」といった報告を打電するなど、誤った情報を拡散していた。後に読売新聞を創刊するの中興の祖となる正力松太郎は当時、警視庁官房主事の立場にあったが、彼も軍も、9月2日の時点では朝鮮人暴動を信じていたと、戦後太平洋戦争末期に語っている。
そして軍は、朝鮮人暴徒を「討伐」すべく各地に進撃し、多くの朝鮮人を虐殺した。
上記の本によれば、四ッ木橋周辺に軍が来たのは2日か3日ごろという以上はわからないという。今回の記事では、日付は区切らず、四ッ木橋周辺での軍による虐殺の証言をいくつか、ピックアップしておこうと思う。
「四ッ木橋は習志野の騎兵(連隊)でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮人がデマを飛ばしたそうで…。それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」(高田さん〈仮名〉)
「一個小隊くらい、つまり2、30人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2、3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち合いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ」(田中さん〈仮名〉)
「四ッ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」(浅岡重蔵)
「9月5日、18歳の兄といっしょに二人して、本所の焼けあとに行こうと思い、旧四ッ木橋を渡り、西詰めまで来たとき、大勢の人が橋の下を見ているので、私たち二人も下を見たら、朝鮮人10人以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました」(篠塚行吉さん)
篠原さんの証言については、直筆の証言と現場状況地図が上記の本をつくった「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の「体験談」のところで見ることができる。
http://www.maroon.dti.ne.jp/housenka/taiken.html
すでに3日の記事でご紹介したが、2013年9月7日(土)には、同会主催による「韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」が旧四ッ木橋のたもと付近の河川敷で開かれる。この追悼式は、1982年から毎年、続けられてきたものだ。
関東大震災90周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式とほうせんかの夕べ
2013年9月7日(土) 15時~ 荒川河川敷(京成押上線八広駅から徒歩5分)
http://moon.ap.teacup.com/housenka/125.html
翌8日(日)には、「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」(関東大震災中国人受難者を追悼する会主催)もある。
2013年9月8日(日)1時~5時/韓国YMCA9階ホール(JR水道橋駅東口下車)。
中国人虐殺について掘り起こしてきた田原洋さんの記念講演「王希天事件の発見」もある。参加費は1000円。
(次の更新予定は4日午後7時です)
September, 1923
Massacre by Military
Yotsugibashi Bridge
The military and the police actually believed the rumor that Koreans were causing riots in the immediate aftermath of the quake. There are withness accounts that a lot of Koreans were killed by the military. These include the killing near Yotsugibashi Bridge caused by the regiment based in Narashino, Chiba.
木根川橋近く。軍による虐殺があったあたり。
何度か引用してきた『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、自警団の一般の人々による朝鮮人虐殺だけでなく、軍による朝鮮人虐殺についての証言がいくつも掲載されている。
一般的に、関東大震災時の朝鮮人虐殺というと、一般の人が自警団をつくって朝鮮人を殺した事件というイメージで固まっている。もちろんそれは事実である。しかし、それだけでは行政が果たした役割が消えてしまう。現場の警察官による「不逞鮮人注意」の宣伝はもちろんだが、中央レベルでも、内務省警保局が各地方行政に「朝鮮人が放火している」といった報告を打電するなど、誤った情報を拡散していた。後に読売新聞
そして軍は、朝鮮人暴徒を「討伐」すべく各地に進撃し、多くの朝鮮人を虐殺した。
上記の本によれば、四ッ木橋周辺に軍が来たのは2日か3日ごろという以上はわからないという。今回の記事では、日付は区切らず、四ッ木橋周辺での軍による虐殺の証言をいくつか、ピックアップしておこうと思う。
「四ッ木橋は習志野の騎兵(連隊)でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮人がデマを飛ばしたそうで…。それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」(高田さん〈仮名〉)
「一個小隊くらい、つまり2、30人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2、3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち合いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ」(田中さん〈仮名〉)
「四ッ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」(浅岡重蔵)
「9月5日、18歳の兄といっしょに二人して、本所の焼けあとに行こうと思い、旧四ッ木橋を渡り、西詰めまで来たとき、大勢の人が橋の下を見ているので、私たち二人も下を見たら、朝鮮人10人以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました」(篠塚行吉さん)
篠原さんの証言については、直筆の証言と現場状況地図が上記の本をつくった「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の「体験談」のところで見ることができる。
http://www.maroon.dti.ne.jp/housenka/taiken.html
すでに3日の記事でご紹介したが、2013年9月7日(土)には、同会主催による「韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」が旧四ッ木橋のたもと付近の河川敷で開かれる。この追悼式は、1982年から毎年、続けられてきたものだ。
関東大震災90周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式とほうせんかの夕べ
2013年9月7日(土) 15時~ 荒川河川敷(京成押上線八広駅から徒歩5分)
http://moon.ap.teacup.com/housenka/125.html
翌8日(日)には、「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」(関東大震災中国人受難者を追悼する会主催)もある。
2013年9月8日(日)1時~5時/韓国YMCA9階ホール(JR水道橋駅東口下車)。
中国人虐殺について掘り起こしてきた田原洋さんの記念講演「王希天事件の発見」もある。参加費は1000円。
(次の更新予定は4日午後7時です)
September, 1923
Massacre by Military
Yotsugibashi Bridge
The military and the police actually believed the rumor that Koreans were causing riots in the immediate aftermath of the quake. There are withness accounts that a lot of Koreans were killed by the military. These include the killing near Yotsugibashi Bridge caused by the regiment based in Narashino, Chiba.
【1923年9月4日朝/亀戸署 警察署の中での惨劇】
日本語/English
震災当時、亀戸署は左の高いビルの付近にあった。
朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず2名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。私は同志の殺されたことをここで始めて知り、明け方に聞いた銃声の意味も判りました。
朝になって我慢できなくなり便所に行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3、40の死体が積んでありました。この虐殺について、私は2階だったので直接は見ては居ませんが、階下に収容された人は皆見ているはずです。虐殺のことが判って収容された人は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声をたてず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。
虐殺は4日も一日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降り続きましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。(中略)
亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。
(朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』掲載の全虎巌さんの証言)
有名な「亀戸事件」である。被災者救援活動にあたっていた平沢計七や川合義虎などの労働運動活動家10人が、9月3日夜、亀戸署に検束され、5日に警察の要請を受けた軍(騎兵13連隊)によって殺害されたというものだ(4日の朝、彼らの死について聞いたというのは全さんの記憶違いか?→3日夜殺害説もあり。13/12/24注に追記)。殺された10人のうち、平沢以外は20代、多くは20歳そこそこだった。(注)
しかし、このとき殺されたのは彼らだけではない。自警団4人と、そして人数もわからない多くの朝鮮人たちがいた。
中国人虐殺の記事でふれたように、亀戸署は管轄に工場が密集し、労働運動が多く、ストライキもさかんに行われていることから、これに対する取締り、監視を重要な任務とする公安色の強い警察署であった。ようするに左翼や外国人を敵視する雰囲気がほかの警察署以上に強かった。震災当時の署長の古森繁高も、警視庁特高課長出身であった。
さらに、亀戸署の管内は混乱が激しく(四ッ木橋、大島、亀戸駅周辺も管内)、亀戸署の警官隊は、軍とともに騒擾の現場に出向いては朝鮮人を検束。1000人を超える朝鮮人、中国人で署内はすし詰め状態だった(これに対して、署員の数は230人程度)。これは決して朝鮮人を保護することへの積極性の表れではなく、むしろ「不逞鮮人」検束への積極性の結果である。
先述のように、亀戸署では拘留中の日本人自警団4人も殺害されている。
警視庁は前日の3日以降、勝手にリンチを行うなといった内容のビラをまくなど、権力のコントロールのきかない自警団の活動を抑え込み始めた(同日、「朝鮮人暴動」の飛ばし記事を書き続ける地方紙にも警告)。朝鮮人暴動の実在に否定的になってきた現われでもあるが、この時点ではまだどちらつかずだった。軍は依然として「朝鮮人討伐」を続けている。
自警団の4人は彼らの行動をとがめた警官に日本刀で切りかかって逮捕されていた。房内で「殺すなら殺せ」と騒ぎ続ける彼らに対して、亀戸署は軍に要請して殺害させたのである。
証言者の全虎巌(チョン・ホオム)さんは、川合義虎などが指導する南葛労働組合のメンバーだった。3年前に学校に通うために来日した全さんは、朝鮮独立への思いから社会変革の必要を考えるようになり、この頃、ヤスリ工場の労働者として労組の活動を熱心に行っていた。
2日以降、街中で自警団が朝鮮人を襲うのを目にするようになり、全さんは身の危険を感じる。警察で朝鮮人を収容し始めていると聞き、その方が安全だと判断。2日昼ごろ、工場の日本人の友人たち10数人に取り囲んでもらいつつ、亀戸警察署に向かったのである。道すがら、竹やりが刺さった朝鮮人の死体をあちこちで見た。
だが亀戸署は外よりも危険な場所であった。署内で殺されたなかには、自警団から逃げて亀戸署に飛び込んだ人も多かったと、全さんは語っている。
全さんは7日まで亀戸署に置かれ、その後、習志野の収容所に送られた。4日午後4時に戒厳司令部が東京付近の朝鮮人を習志野の旧捕虜収容所に収容するとの命令を出したのだ。虐殺が国際問題化することを恐れたのである。解放されたあと、全さんは帰国を考えるが、やはり南葛に戻ることにする。組合の仲間たちの安否が知りたかったのである。
亀戸署における10人の活動家殺害については、社会問題となり、政府も10月、事実を認めたが、軍の適正な行動であったとして誰も罪に問われることはなかった。一方、同じ夜に同じ署でおきた朝鮮人虐殺については、真相の一端さえ公式には明らかにされていない。
亀戸署があった場所(google map)
(注)当記事は当初、本日の昼前にアップしましたが、直後に、自警団4人と平沢ら労働運動活動家の死の日時について、資料を誤読していることに気づき、若干の修正をしました。
◆13/12/24追記。3日夜に殺害されたという説もあることを知りました。
二村一夫「亀戸事件小論」 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/kameidojikenshoron.html
(次の更新は4日午後4時半の予定です)
参考文献:上記のほか、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、田原洋『関東大震災と王希天事件』(三一書房)など。
On the morning of September 4, 1923
Massacre at a Police Station
The Kameido Police Station began cracking down labor unions and local Koreans immediately after the quake. The station was packed with over a thousand arrested Koreans and Chinese.
Chun Ho-uhm, a member of Nankatsu Labor Union, heard 2 gunshorts a few days after he asked the police for protection. As far as he witnessed himself 50 to 60 people including those who were also asking for protection were killed in the police station. Later he knew 2 leaders of the labor union were the victims of the gunshots. However, little is known about those Koreans killed at the police station.
震災当時、亀戸署は左の高いビルの付近にあった。
朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず2名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。私は同志の殺されたことをここで始めて知り、明け方に聞いた銃声の意味も判りました。
朝になって我慢できなくなり便所に行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3、40の死体が積んでありました。この虐殺について、私は2階だったので直接は見ては居ませんが、階下に収容された人は皆見ているはずです。虐殺のことが判って収容された人は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声をたてず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。
虐殺は4日も一日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降り続きましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。(中略)
亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。
(朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』掲載の全虎巌さんの証言)
有名な「亀戸事件」である。被災者救援活動にあたっていた平沢計七や川合義虎などの労働運動活動家10人が、9月3日夜、亀戸署に検束され、5日に警察の要請を受けた軍(騎兵13連隊)によって殺害されたというものだ(4日の朝、彼らの死について聞いたというのは全さんの記憶違いか?→3日夜殺害説もあり。13/12/24注に追記)。殺された10人のうち、平沢以外は20代、多くは20歳そこそこだった。(注)
しかし、このとき殺されたのは彼らだけではない。自警団4人と、そして人数もわからない多くの朝鮮人たちがいた。
中国人虐殺の記事でふれたように、亀戸署は管轄に工場が密集し、労働運動が多く、ストライキもさかんに行われていることから、これに対する取締り、監視を重要な任務とする公安色の強い警察署であった。ようするに左翼や外国人を敵視する雰囲気がほかの警察署以上に強かった。震災当時の署長の古森繁高も、警視庁特高課長出身であった。
さらに、亀戸署の管内は混乱が激しく(四ッ木橋、大島、亀戸駅周辺も管内)、亀戸署の警官隊は、軍とともに騒擾の現場に出向いては朝鮮人を検束。1000人を超える朝鮮人、中国人で署内はすし詰め状態だった(これに対して、署員の数は230人程度)。これは決して朝鮮人を保護することへの積極性の表れではなく、むしろ「不逞鮮人」検束への積極性の結果である。
先述のように、亀戸署では拘留中の日本人自警団4人も殺害されている。
警視庁は前日の3日以降、勝手にリンチを行うなといった内容のビラをまくなど、権力のコントロールのきかない自警団の活動を抑え込み始めた(同日、「朝鮮人暴動」の飛ばし記事を書き続ける地方紙にも警告)。朝鮮人暴動の実在に否定的になってきた現われでもあるが、この時点ではまだどちらつかずだった。軍は依然として「朝鮮人討伐」を続けている。
自警団の4人は彼らの行動をとがめた警官に日本刀で切りかかって逮捕されていた。房内で「殺すなら殺せ」と騒ぎ続ける彼らに対して、亀戸署は軍に要請して殺害させたのである。
証言者の全虎巌(チョン・ホオム)さんは、川合義虎などが指導する南葛労働組合のメンバーだった。3年前に学校に通うために来日した全さんは、朝鮮独立への思いから社会変革の必要を考えるようになり、この頃、ヤスリ工場の労働者として労組の活動を熱心に行っていた。
2日以降、街中で自警団が朝鮮人を襲うのを目にするようになり、全さんは身の危険を感じる。警察で朝鮮人を収容し始めていると聞き、その方が安全だと判断。2日昼ごろ、工場の日本人の友人たち10数人に取り囲んでもらいつつ、亀戸警察署に向かったのである。道すがら、竹やりが刺さった朝鮮人の死体をあちこちで見た。
だが亀戸署は外よりも危険な場所であった。署内で殺されたなかには、自警団から逃げて亀戸署に飛び込んだ人も多かったと、全さんは語っている。
全さんは7日まで亀戸署に置かれ、その後、習志野の収容所に送られた。4日午後4時に戒厳司令部が東京付近の朝鮮人を習志野の旧捕虜収容所に収容するとの命令を出したのだ。虐殺が国際問題化することを恐れたのである。解放されたあと、全さんは帰国を考えるが、やはり南葛に戻ることにする。組合の仲間たちの安否が知りたかったのである。
亀戸署における10人の活動家殺害については、社会問題となり、政府も10月、事実を認めたが、軍の適正な行動であったとして誰も罪に問われることはなかった。一方、同じ夜に同じ署でおきた朝鮮人虐殺については、真相の一端さえ公式には明らかにされていない。
亀戸署があった場所(google map)
(注)当記事は当初、本日の昼前にアップしましたが、直後に、自警団4人と平沢ら労働運動活動家の死の日時について、資料を誤読していることに気づき、若干の修正をしました。
◆13/12/24追記。3日夜に殺害されたという説もあることを知りました。
二村一夫「亀戸事件小論」 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/kameidojikenshoron.html
(次の更新は4日午後4時半の予定です)
参考文献:上記のほか、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、田原洋『関東大震災と王希天事件』(三一書房)など。
On the morning of September 4, 1923
Massacre at a Police Station
The Kameido Police Station began cracking down labor unions and local Koreans immediately after the quake. The station was packed with over a thousand arrested Koreans and Chinese.
Chun Ho-uhm, a member of Nankatsu Labor Union, heard 2 gunshorts a few days after he asked the police for protection. As far as he witnessed himself 50 to 60 people including those who were also asking for protection were killed in the police station. Later he knew 2 leaders of the labor union were the victims of the gunshots. However, little is known about those Koreans killed at the police station.
【1923年9月4日午前2時/京成線の荒川鉄橋上で】
日本語/English/한국어
「一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞き取ることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で呼び『何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ』と、声を張りあげました。その言葉が終わるやいなや自警団の手から、日本刀が振り降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。…私は横にいる弟動勲と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました」
慎昌範(シン・チャンボム)さんが日本に来たのは1923年8月20日。親戚など15人の仲間とともに日本に旅行に来たのである。関西を回り、30日に東京に着いた。
9月1日午前11時58分には、彼は上野の旅館で昼食の最中だった。朝鮮半島には地震がほとんどない。「生まれて初めての経験なので、階段から転げ落ちるやら、わなわなふるえている者やら、様々でした。私は二階から外へ飛び降りました」。
その後、燃えさかる町を逃げまどい、朝鮮人の知人を頼りながら転々と避難。荒川の堤防にたどり着いたのは3日の夜だった。堤防の上は歩くのも困難なほど避難民であふれ、押し寄せる人波のために、気がつくと京成線鉄橋の半ばまで押し出されていった。東京で暮らす同胞も合流していた。
深夜2時ごろ、うとうとしていると、「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてくる。気がつくと、武装した一団が群がる避難民を一人一人起こしては朝鮮人かどうかを確かめているようだった。
日本語でいろいろ聞かれても分からなかった林善一さんが日本刀で一刀の下に切り捨てられ、横にいた男も殺害されるのを目の当たりにした慎さんは、弟や義兄とともに鉄橋の上から荒川に飛び込んだのである。
だが彼は、小船で追ってきた自警団にすぐつかまってしまう。岸に引き上げられた彼はすぐに日本刀で切りつけられたが、相手に飛びかかって抵抗する。
次の瞬間に、周りの日本人たちに襲いかかられて失神したらしく、慎さんにその後の記憶はない。気がつくと、全身に重傷を負って寺島警察署の死体置き場に転がされていた。同じ寺島警察署に収容されていた弟が、死体のなかに埋もれている彼を見つけて介抱してくれたことで、奇跡的に一命を取りとめた。
10月末に重傷者が寺島警察署から日赤病院に移された際、彼は総督府の役人に「この度の事は、天災と思ってあきらめるように」と念を押されている。重傷者のなかで唯一、日本語が理解できた彼は、その言葉を翻訳して仲間たちに伝えなくてはならなかった。日赤病院でも、まともな治療はなく、同じ病室の16人中、生き残ったのは9人だけだった。
慎さんの体には、終生、無数の傷跡が残った。頭に4ヶ所、右頬、左肩、右脇。両足首の内側にある傷は、死んだと思われた慎さんを運ぶ際、鳶口をそこに刺して引きずったためだと彼は考えている。ちょうど魚河岸で大きな魚を引っかけて引きずるのと同じだと。
※朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』(1963年)掲載の慎昌範さんの証言を「知らせ隊」でまとめた。京成線の荒川鉄橋とは、旧四ッ木橋のすぐ横を平行してかかっている鉄橋である。
京成線荒川鉄橋付近(google map)
At 2:00am on September 4, 1923. Off the Arakawa Railroad Bridge.
Sin Chang-beom, who was visited by the quake on his family trip to Japan, jumped off the railroad bridge into the Arakawa River as he saw a fellow countryman named Rim sun-il killed by a bunch of armed Japanese, but he was easily captured by the vigilante group.
When he came to himself he was critically injured lying in a morgue at the Terashima Police Station. Although he miraculously survived the attack and the subsequent insufficient treatment by the Japan Red Cross hospital left him a number of permanent scars including those at the ankles, which he thought had been stabbed with hooks to help drag his body.
1923년 9월 4일 오전 2시. 케이세이선의 아라카와 철교.
신창범 씨는 친척 등 15명과 함께 일본에 여행하러 와 대지진을 경험했다. 이 날, 아라카와의 철교상에 피난하고 있었는데 갑자기 눈앞에서 동료가 자경단에 습격당한다. 신창범 씨는 강에 뛰어들지만 잡히고 폭행을 받아 실신. 깨달으면 경찰서의 시체안치소에 있었다. 경찰서에서도 병원에서도 비인간적인 취급을 받았다. 신창범 씨의 신체에는 그 후도 무수한 상처 자국이 남았다.
「一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞き取ることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で呼び『何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ』と、声を張りあげました。その言葉が終わるやいなや自警団の手から、日本刀が振り降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。…私は横にいる弟動勲と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました」
慎昌範(シン・チャンボム)さんが日本に来たのは1923年8月20日。親戚など15人の仲間とともに日本に旅行に来たのである。関西を回り、30日に東京に着いた。
9月1日午前11時58分には、彼は上野の旅館で昼食の最中だった。朝鮮半島には地震がほとんどない。「生まれて初めての経験なので、階段から転げ落ちるやら、わなわなふるえている者やら、様々でした。私は二階から外へ飛び降りました」。
その後、燃えさかる町を逃げまどい、朝鮮人の知人を頼りながら転々と避難。荒川の堤防にたどり着いたのは3日の夜だった。堤防の上は歩くのも困難なほど避難民であふれ、押し寄せる人波のために、気がつくと京成線鉄橋の半ばまで押し出されていった。東京で暮らす同胞も合流していた。
深夜2時ごろ、うとうとしていると、「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてくる。気がつくと、武装した一団が群がる避難民を一人一人起こしては朝鮮人かどうかを確かめているようだった。
日本語でいろいろ聞かれても分からなかった林善一さんが日本刀で一刀の下に切り捨てられ、横にいた男も殺害されるのを目の当たりにした慎さんは、弟や義兄とともに鉄橋の上から荒川に飛び込んだのである。
だが彼は、小船で追ってきた自警団にすぐつかまってしまう。岸に引き上げられた彼はすぐに日本刀で切りつけられたが、相手に飛びかかって抵抗する。
次の瞬間に、周りの日本人たちに襲いかかられて失神したらしく、慎さんにその後の記憶はない。気がつくと、全身に重傷を負って寺島警察署の死体置き場に転がされていた。同じ寺島警察署に収容されていた弟が、死体のなかに埋もれている彼を見つけて介抱してくれたことで、奇跡的に一命を取りとめた。
10月末に重傷者が寺島警察署から日赤病院に移された際、彼は総督府の役人に「この度の事は、天災と思ってあきらめるように」と念を押されている。重傷者のなかで唯一、日本語が理解できた彼は、その言葉を翻訳して仲間たちに伝えなくてはならなかった。日赤病院でも、まともな治療はなく、同じ病室の16人中、生き残ったのは9人だけだった。
慎さんの体には、終生、無数の傷跡が残った。頭に4ヶ所、右頬、左肩、右脇。両足首の内側にある傷は、死んだと思われた慎さんを運ぶ際、鳶口をそこに刺して引きずったためだと彼は考えている。ちょうど魚河岸で大きな魚を引っかけて引きずるのと同じだと。
※朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』(1963年)掲載の慎昌範さんの証言を「知らせ隊」でまとめた。京成線の荒川鉄橋とは、旧四ッ木橋のすぐ横を平行してかかっている鉄橋である。
京成線荒川鉄橋付近(google map)
At 2:00am on September 4, 1923. Off the Arakawa Railroad Bridge.
Sin Chang-beom, who was visited by the quake on his family trip to Japan, jumped off the railroad bridge into the Arakawa River as he saw a fellow countryman named Rim sun-il killed by a bunch of armed Japanese, but he was easily captured by the vigilante group.
When he came to himself he was critically injured lying in a morgue at the Terashima Police Station. Although he miraculously survived the attack and the subsequent insufficient treatment by the Japan Red Cross hospital left him a number of permanent scars including those at the ankles, which he thought had been stabbed with hooks to help drag his body.
1923년 9월 4일 오전 2시. 케이세이선의 아라카와 철교.
신창범 씨는 친척 등 15명과 함께 일본에 여행하러 와 대지진을 경험했다. 이 날, 아라카와의 철교상에 피난하고 있었는데 갑자기 눈앞에서 동료가 자경단에 습격당한다. 신창범 씨는 강에 뛰어들지만 잡히고 폭행을 받아 실신. 깨달으면 경찰서의 시체안치소에 있었다. 경찰서에서도 병원에서도 비인간적인 취급을 받았다. 신창범 씨의 신체에는 그 후도 무수한 상처 자국이 남았다.
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