9月、東京の路上で
関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺から90年。記憶・追悼・未来のために~知らせ隊「相思華」プロジェクト。
2013年10月8日火曜日
【あとがき 「非人間」化に抗する】
具学永の墓を立てた宮澤菊次郎は、あんま師だった。
具学永(グ・ハギョン)は埼玉県寄居町に住んでいた、アメ売りの若者である。1923年9月6日深夜、隣村から押し寄せた自警団に殺害された。
私たち「知らせ隊」は、ブログに写真を掲載するために、地元の人々が建てたという彼の墓を訪れた。その際、墓の側面に「宮澤菊次郎 他有志之者」とあるのを見たが、この時点ではそれが誰なのかを知らなかった。立派な墓石を見て、私たちは、「地元の有力者なのだろうか」と首をかしげるしかなかった。
その後、ブログ中で何度も引用してきた山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(創史社)に、それについて書いた部分を見つけた。読み落としていたのだ。
それによると、寄居署で具学永が虐殺された後、その遺体を引き取り、墓を建てたのは、宮澤菊次郎というあんま師だったとある。あんま師がそれほど裕福とも思われないので、「他有志之者」がそれなりに費用を出したのだろう。
目抜き通りを売り声をあげながら行き来するアメ売りと、あんま師。私たちは、彼らが出会う光景が想像できるような気がする。
寄居は荒川に面する水上交通の拠点であり、かつては宿場町でもあった。大正の頃、その目抜き通りは今よりもずっと華やかだったに違いない。おそらくはその路上で、彼らは出会った。もしかしたら、たとえば同じ下宿屋の店子だったのかもしれないが、いずれにしろ二人は、路上を行き来して生計を立てている者として、互いに身近な存在だったのだろう。
もうひとつ、あんまといえば、当時はもっぱら視覚障害者の仕事である。宮澤菊次郎は、声と手触り、体温を通じてのみ、具学永を知っていたのかもしれないとも思う。
さらに私たちは、具学永につけられた「感天愁雨信士」という戒名からも、込められた思いを受け取る。「雨」の字にも、具学永が売っていた「アメ」を読み込んだのではないかと空想する。
具学永さんの墓(埼玉県寄居町・正調院)
もちろん、本には「宮澤菊次郎というあんま師が具学永の遺体を引き取り、墓を建てた」としか書いていない。実際には、それ以上のことは何もわからない。だが、とにかく具学永を親しく思う誰かがいたから、その死を悼む人がいたから、あの墓がある。
「はじめに」でも書いたように、私たちがこのブログを始めるとき、もっとも大事にしたいと考えたのは、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺について、事実を「知る」こと以上に、「感じる」ことだった。
関東大震災時に、朝鮮人たちは「不逞鮮人」と呼ばれて殺されたが、「不逞鮮人」とはそもそも、日本の植民地支配に抵抗する人々を指す言葉として当時のマスコミで多用されていたもので、震災の4年前に起こった三一独立運動も、「不逞鮮人の暴動」とされた。
外国の強権支配に怒るのは、人間として当然の感情だ。それを否定するには、相手を、その訴えに耳を傾ける必要がない、「非人間」として描く必要がある。朝鮮人が、向き合って対話をする必要がない、その能力がない相手であるかのように描くため、「嘘つき」「犯罪者」「外国の手先」等々といったあらゆる否定的なレッテルを貼り付けるキャンペーンが行われたのである。
関東大震災はそんななかで起こった。朝鮮人を「非人間」化する「不逞鮮人」というイメージが増殖し、存在そのものの否定である虐殺に帰結したのは、論理としては当然だった。
そして2013年の今、その歴史をなぞるかのように、メディアにもネットにも、「韓国」「朝鮮」と名がつくすべての人や要素の「非人間」化の嵐が吹き荒れている。そこでは、植民地支配に由来する差別感情にせっせと薪がくべられている。「中国」についてもほぼ同様と言ってよい。
それは90年代の歴史修正主義の台頭から始まったのだと思う。南京大虐殺や日本軍「慰安婦」問題など、日本の「負の歴史」とされる史実を―私たちは歴史に正負があるとは思わないが―打ち消すために、その被害者、被害国の「非人間」化が必要だったのだ。
21世紀に入ると、「非人間」化の営みは、歴史の打ち消しから、「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」という、存在の否定にまで行き着いた。しかし、「あのお婆さんたちは泣きながら訴えているが、実際には売春を強制させられたわけではない」という語りが、「くたばれ売春ババア」に行き着くのは、もともとそこに「非人間」化の論理があったからで、不思議でもなんでもない。そして、ときに「ヘイトスピーチ」に眉をしかめてみせるメディアは、毎日、毎週、「嫌韓」「嫌中」と称する「非人間」化キャンペーンを続けて、相変わらずレイシズムに栄養を与えている。
「非人間」化をすすめる勢力が恐れているのは、人々が相手を普通の人間と認めて、その声に耳を傾けることだ。そのとき、相手の「非人間」化によらなければ通用しない歴史観やイデオロギーや妄執やナルシシズムは崩壊してしまう。だからこそ彼らは、「共感」というパイプを必死にふさごうとする。人間として受け止め、考えるべき史実を、無感情な数字論争(何人死んだか)に変えてしまうのも、耳をふさぎ、共感を防ぐための手段にすぎない。
だからこそ私たちは、このブログを始めるとき、「感じる」ことを大事にしたかった。90年前の路上に確かに存在した人々のことを感じ、共感できるものにしたかった。記号としての朝鮮人や日本人ではなく、名前をもつ誰かとしての朝鮮人や中国人や日本人がそこにいたことを伝えたかったのだ。「共感」こそ、やつらが恐れるものだから。
そして、撮影に走り回り、文章をまとめていくなかで初めて気づいたのは、実は90年前の路上も、「非人間」化と共感がせめぎあう現場だったということだ。ときには同じ人間の中でそのせめぎあいがおきている。殺してしまった人々を、殺した人々が供養するのは、そういうことだろう。
私たちはとくに、宮澤菊次郎と具学永の間にあったような、小さな共感を思う。歴史問題や外交といった、一見、身近な世界からは遠くに思える次元から始まる「非人間」化が、昂じていけば、そんな誰かと誰かの共感の糸まで断ち切ってしまうことを、おぼえておきたい。
上野、両国、千歳烏山、高円寺…90年前、私たちがよく知る東京の路上が、共感と「非人間」化のせめぎあいの現場だった。結果として、数千人とも言われる人々を殺してしまった都市に、私たちは今も住んでいて、再びそのせめぎあいのなかにいる。
右翼政治家たちがけしかけ、メディアが展開する、集団ヒステリーのような「非人間」化=レイシズム・キャンペーンを、誰も疑問に思わない状況。それはどこにたどり着くのだろうか。私たちはいつまで、当たり前の共感を手放さずにいられるだろうか。90年前の9月に確かに存在した、具学永、洪其白、鄭チヨ、徳田安蔵、岩波清貞少尉、染川春彦といった人々のことを、私たちは覚えておこうと思う。
2013年10月8日
民族差別(レイシズム)への抗議行動・知らせ隊
sirasetai5595■yahoo.co.jp
(■は @ に置き換えてください)
「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」(墨田区八広6-31-8)
(碑文)
一九二三年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。/東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。/この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。
二〇〇九年九月 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会/グループ ほうせんか
お知らせ
・9月末までといいつつ、10月第1週まで続けてしまいましたが、このブログの更新は、これで終了します。
・ただし、各記事の英語/韓国語/エスペラント文については少しずつ整備し、また誤字脱字などの校正、事実説明の誤りなどについては、明記して訂正していきます。
・そのうえで当面は、このまま掲げておきますので、アーカイブとしてお読みいただければ幸いです。
追記:
ブログ開始から、10月9日午前9時までで、アクセスの回数が4万4175ビューとなりました。この1ヶ月、思いを共有して下さったみなさんにお礼申し上げます。
2013年10月5日土曜日
【東京は今も、90年前のトラウマを抱えている】
「今日の東京をみますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もはや東京の犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況で、すごく大きな災害が起きた時には大きな大きな騒じょう事件すらですね想定される、そういう現状であります。こういうことに対処するためには我々警察の力をもっても限りがある。だからこそ、そういう時に皆さん(自衛隊)に出動願って、災害の救急だけではなしに、やはり治安の維持も一つ皆さんの大きな目的として遂行していただきたいということを期待しております」(「毎日新聞」2000年4月10日付夕刊)
「東京の犯罪は凶悪化しており、全部三国人、つまり不法入国して居座っている外国人じゃないか」「(関東大震災の時に在日朝鮮人が虐殺されたことに触れ)今度は逆に不法に入国している外国人が必ず騒じょう事件を起こす」(「毎日新聞」同年4月11日付)
「騒じょう事件が起こったときに仮定して、三軍を出動して治安の対策をしてもらううんぬんと言ったのは、言うことが良いことなの。これが抑止力になるの」「中国製の覚せい剤がどんどんどんどん輸入されてきて、売るのはパキスタン人」「もっともっと大量な、そういう危険な薬物が、まさに『三国人』、外国人の手によってまん延してんだ、この日本に」「肩身の狭い、後ろめたい思いをしている外国人がいて、現に狡知にたけた犯罪をしていながらだね、つまり、なかなか手が及ばない。それが大きな災害の時、どんな形で爆発するかということを考えたら、私は知事として本当に寒心に耐えないね」「だから私は、その人間たちが大きな引き金を引いて、大きな騒じょう事件を起こす可能性があると」「とにかく国家に頼んで治安の出動を要請する。その演出をすることで、未然に防げると思ったんで、あえてそういう発言をしてきました」(「毎日新聞」同年4月14日付)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2000年4月9日、当時の石原慎太郎都知事が陸上自衛隊第1師団の行事で隊員たちを前に語った、いわゆる「三国人発言」である。正確に言うと、上段が「三国人発言」そのもので、中段と下段は、それへの批判に対する反論、釈明として、石原都知事が会見で語った内容だ。
ここまでブログを読み進んでいただいている読者には、この発言がなぜおそろしいのかを細かく説明する必要は、もはやないだろう。当時は「三国人」という差別表現にばかり焦点があてられていたが、それは問題の矮小化である。
ここには、かつて朝鮮人虐殺を拡大させた要素のすべてがある。外国人に対する差別・偏見。その偏見に基づく風聞を信じ込む態度。それを拡散して怪しまない感覚。「治安」最優先の災害対応イメージ。軍事の論理の動員(ちなみに第1師団は、関東大震災当時の戒厳軍の主力であった)。
石原都知事在任中に東京で直下型の大地震がおきなかったことは、都民にとって本当に幸運なことだった。差別的な予見をもった男が行政のトップに立ち、地震の際には外国人が暴動を起こすから自衛隊を治安出動させろ、それが抑止力になると言っているのだ。とんでもない過ちを犯す可能性があった。
もちろん、21世紀の東京でさすがに先祖伝来の日本刀は登場しないだろう。しかし自警団は95年の阪神淡路大震災でも登場している。実際、私たちの友人のジャーナリストは深夜、被災地を移動中に泥棒と間違えられ、バットをもった自警団に取り囲まれている。それでも神戸では「犯人を捕まえようといった積極的攻撃的活動は、危険であるとして回避される傾向にあった」(『世界史としての関東大震災』)から、大事には至らなかった。
そして、阪神淡路大震災でも東日本大震災でも、外国人が悪さをしているといった類の流言は存在した。東京で大地震が起こるときも、「必ず」流されるだろう。行政が間違った対応をした場合、それが現実に跳ね返って、思わぬ形で思わぬ犠牲者を生む可能性を否定できない。
私たちが、「関東大震災時の朝鮮人虐殺は過去のことではない」と重ねて強調してきたのは、こういうリアルな話なのであって、単なる修辞ではないのだ。
防災行政に求められるのは、「エリート・パニック」に乗せられた治安対策ではなく、災害弱者である外国人などのマイノリティを支援する政策であり、差別的な流言によって彼らに被害が及ぶようなことがないようにする対応である。最低限、行政が率先して差別的な予見で動かないことだ。その大前提は、関東大震災の経験を教訓化し、決して忘れないことである。そのことは、行政だけでなく、私たちの社会そのものに求められている。
三国人発言直後、人材育成コンサルタントの辛淑玉(シン・スゴ)がこう語っている。
「東京は、関東大震災の時、朝鮮半島出身者に対する襲撃事件が現実に発生した都市である。その東京の特殊性を考慮するなら、次の震災時に備えて、無法者から外国籍住民の安全を確保する準備を考える方が健全であろう」(2000年4月13日付「毎日新聞」)。
私たちは、かつてレイシズムによって多くの隣人を虐殺した「特殊」な歴史をもつ都市に住んでいる。関東大震災の記憶は、在日の人々の間で今も悪夢として想起され続けている。そして日本人の側は、ありもしなかった「朝鮮人暴動」の鮮烈なイメージを、くりかえし意識下から引っ張り出してきた。石原「三国人発言」も、そこから生まれてきたものだ。東京は、90年まえのトラウマに今もとらわれていることを自覚しなければならない。過ちを繰り返さないために。
そういう意味で、レイシズムやその扇動は、道徳的に間違っているだけでなく、この社会にとって、火薬庫で火遊びをするほどに危険なのである。
とくに私たちの住む東京で絶対に許してはならないのが、関東大震災時に「朝鮮人暴動」が実際にあったと主張する、歴史修正主義の名にも値しないプロパガンダである。その内容は確かにお粗末だが、だからといって放置するわけにはいかない。
「関東大震災時には実際に朝鮮人暴動があり、放火やテロが行われた」と信じる人々は、東京を再び大地震が襲った時に、どのような発想をするだろうか。彼らは揺れが収まると真っ先に「外国人の暴動」を心配するだろう。思いもよらない火災の拡大を見たとき、まず「外国人の放火」を疑うだろう(実際、阪神大震災ではそうした流言が発生している)。
彼らはそうした妄想を、そのままネットに垂れ流すだろう。同じような妄想にとらわれた人が「やっぱりか」とそれをさらに拡大する。そのなかには、事実かどうかなどどうでもいい、朝鮮人をたたく絶好の機会だとはしゃぐ者もいるだろう。その先に何が起こるか。
虐殺否定論は、未来の虐殺を準備することになる。関東大震災時の朝鮮人虐殺という史実をさかさまに捻じ曲げ、「災害時には外国人・少数者に気をつけろ」という「教訓」に歪めてしまう行為を絶対に許してはならない。さらに、当時の新聞のデマ記事を「証拠」として掲げる工藤美代子の本(『関東大震災「朝鮮人虐殺の真実」』)を、ほかならぬ産経「新聞」出版が出したことの罪深さも指摘しておきたい。
【長くなりました。次回はようやく、「あとがき」です】
参考資料:関東大震災80周年記念行事実行委員会編『世界史としての関東大震災』(日本経済評論社)。
引用部分は、同書収録の田中正敬の文章中で紹介されている斉藤豊治論文「阪神大震災と犯罪問題」のもの。留意したいのは、ここで言う「危険」という言葉の意味が「エリート・パニック」の文脈の「治安」と正反対の意味で使われていること。斉藤はこれを、関東大震災の教訓が生かされたものと評価しているという。
「東京の犯罪は凶悪化しており、全部三国人、つまり不法入国して居座っている外国人じゃないか」「(関東大震災の時に在日朝鮮人が虐殺されたことに触れ)今度は逆に不法に入国している外国人が必ず騒じょう事件を起こす」(「毎日新聞」同年4月11日付)
「騒じょう事件が起こったときに仮定して、三軍を出動して治安の対策をしてもらううんぬんと言ったのは、言うことが良いことなの。これが抑止力になるの」「中国製の覚せい剤がどんどんどんどん輸入されてきて、売るのはパキスタン人」「もっともっと大量な、そういう危険な薬物が、まさに『三国人』、外国人の手によってまん延してんだ、この日本に」「肩身の狭い、後ろめたい思いをしている外国人がいて、現に狡知にたけた犯罪をしていながらだね、つまり、なかなか手が及ばない。それが大きな災害の時、どんな形で爆発するかということを考えたら、私は知事として本当に寒心に耐えないね」「だから私は、その人間たちが大きな引き金を引いて、大きな騒じょう事件を起こす可能性があると」「とにかく国家に頼んで治安の出動を要請する。その演出をすることで、未然に防げると思ったんで、あえてそういう発言をしてきました」(「毎日新聞」同年4月14日付)
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2000年4月9日、当時の石原慎太郎都知事が陸上自衛隊第1師団の行事で隊員たちを前に語った、いわゆる「三国人発言」である。正確に言うと、上段が「三国人発言」そのもので、中段と下段は、それへの批判に対する反論、釈明として、石原都知事が会見で語った内容だ。
ここまでブログを読み進んでいただいている読者には、この発言がなぜおそろしいのかを細かく説明する必要は、もはやないだろう。当時は「三国人」という差別表現にばかり焦点があてられていたが、それは問題の矮小化である。
ここには、かつて朝鮮人虐殺を拡大させた要素のすべてがある。外国人に対する差別・偏見。その偏見に基づく風聞を信じ込む態度。それを拡散して怪しまない感覚。「治安」最優先の災害対応イメージ。軍事の論理の動員(ちなみに第1師団は、関東大震災当時の戒厳軍の主力であった)。
石原都知事在任中に東京で直下型の大地震がおきなかったことは、都民にとって本当に幸運なことだった。差別的な予見をもった男が行政のトップに立ち、地震の際には外国人が暴動を起こすから自衛隊を治安出動させろ、それが抑止力になると言っているのだ。とんでもない過ちを犯す可能性があった。
もちろん、21世紀の東京でさすがに先祖伝来の日本刀は登場しないだろう。しかし自警団は95年の阪神淡路大震災でも登場している。実際、私たちの友人のジャーナリストは深夜、被災地を移動中に泥棒と間違えられ、バットをもった自警団に取り囲まれている。それでも神戸では「犯人を捕まえようといった積極的攻撃的活動は、危険であるとして回避される傾向にあった」(『世界史としての関東大震災』)から、大事には至らなかった。
そして、阪神淡路大震災でも東日本大震災でも、外国人が悪さをしているといった類の流言は存在した。東京で大地震が起こるときも、「必ず」流されるだろう。行政が間違った対応をした場合、それが現実に跳ね返って、思わぬ形で思わぬ犠牲者を生む可能性を否定できない。
私たちが、「関東大震災時の朝鮮人虐殺は過去のことではない」と重ねて強調してきたのは、こういうリアルな話なのであって、単なる修辞ではないのだ。
防災行政に求められるのは、「エリート・パニック」に乗せられた治安対策ではなく、災害弱者である外国人などのマイノリティを支援する政策であり、差別的な流言によって彼らに被害が及ぶようなことがないようにする対応である。最低限、行政が率先して差別的な予見で動かないことだ。その大前提は、関東大震災の経験を教訓化し、決して忘れないことである。そのことは、行政だけでなく、私たちの社会そのものに求められている。
三国人発言直後、人材育成コンサルタントの辛淑玉(シン・スゴ)がこう語っている。
「東京は、関東大震災の時、朝鮮半島出身者に対する襲撃事件が現実に発生した都市である。その東京の特殊性を考慮するなら、次の震災時に備えて、無法者から外国籍住民の安全を確保する準備を考える方が健全であろう」(2000年4月13日付「毎日新聞」)。
私たちは、かつてレイシズムによって多くの隣人を虐殺した「特殊」な歴史をもつ都市に住んでいる。関東大震災の記憶は、在日の人々の間で今も悪夢として想起され続けている。そして日本人の側は、ありもしなかった「朝鮮人暴動」の鮮烈なイメージを、くりかえし意識下から引っ張り出してきた。石原「三国人発言」も、そこから生まれてきたものだ。東京は、90年まえのトラウマに今もとらわれていることを自覚しなければならない。過ちを繰り返さないために。
そういう意味で、レイシズムやその扇動は、道徳的に間違っているだけでなく、この社会にとって、火薬庫で火遊びをするほどに危険なのである。
とくに私たちの住む東京で絶対に許してはならないのが、関東大震災時に「朝鮮人暴動」が実際にあったと主張する、歴史修正主義の名にも値しないプロパガンダである。その内容は確かにお粗末だが、だからといって放置するわけにはいかない。
「関東大震災時には実際に朝鮮人暴動があり、放火やテロが行われた」と信じる人々は、東京を再び大地震が襲った時に、どのような発想をするだろうか。彼らは揺れが収まると真っ先に「外国人の暴動」を心配するだろう。思いもよらない火災の拡大を見たとき、まず「外国人の放火」を疑うだろう(実際、阪神大震災ではそうした流言が発生している)。
彼らはそうした妄想を、そのままネットに垂れ流すだろう。同じような妄想にとらわれた人が「やっぱりか」とそれをさらに拡大する。そのなかには、事実かどうかなどどうでもいい、朝鮮人をたたく絶好の機会だとはしゃぐ者もいるだろう。その先に何が起こるか。
虐殺否定論は、未来の虐殺を準備することになる。関東大震災時の朝鮮人虐殺という史実をさかさまに捻じ曲げ、「災害時には外国人・少数者に気をつけろ」という「教訓」に歪めてしまう行為を絶対に許してはならない。さらに、当時の新聞のデマ記事を「証拠」として掲げる工藤美代子の本(『関東大震災「朝鮮人虐殺の真実」』)を、ほかならぬ産経「新聞」出版が出したことの罪深さも指摘しておきたい。
【長くなりました。次回はようやく、「あとがき」です】
参考資料:関東大震災80周年記念行事実行委員会編『世界史としての関東大震災』(日本経済評論社)。
引用部分は、同書収録の田中正敬の文章中で紹介されている斉藤豊治論文「阪神大震災と犯罪問題」のもの。留意したいのは、ここで言う「危険」という言葉の意味が「エリート・パニック」の文脈の「治安」と正反対の意味で使われていること。斉藤はこれを、関東大震災の教訓が生かされたものと評価しているという。
【2005年9月、ニューオリンズの路上で】
カトリーナの直後にホルムが加わることができたバーベキューで、キーウエスト土産のティーシャツを着た、白髪が薄くなりつつあるずんぐりした白人の男性が、得意げに笑いながら言った。
「11ヵ月前には、ニューオリンズの通りを2本の38口径と散弾銃を肩に担いで歩く日が来るなんてこたあ、夢にも思っちゃいなかったがね。そりゃあ、いい気分だったぜ。まるでサウスダコダのキジ狩りシーズンだった。動いたら、撃つ」
肉付きのいい腕をしたショートヘアのたくましそうな女性が付け加えた。「もちろん、相手はキジじゃないし、ここはサウスダコダじゃないわよ。でも、それのどこが悪いの?」
男はいかにも楽しげに言った。「あのときは、そんな感じだったな」
(レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』亜紀書房)
この年の8月末、アメリカ南部を襲ったハリケーン・カトリーナによって、ニューオリンズ全域が冠水。死者1800人以上という大惨事となった。このとき、豊かな白人たちは車などで安全な場所にいちはやく避難できたのに対して、黒人を中心とした貧しい人々は、水浸しの市内に取り残されていた。彼らはインフラが破壊された巨大施設に避難して、いっこうにやって来ない救援を待っていた。浸水に体力を奪われた老人たちがむなしく死んでいくなかで、ふだんギャングスタイルで往来を歩いていた若者たちは、弱い人々の命を守るために必死で奔走していた。
きっかけは、一部の地域でおきた商店からの「略奪」をテレビが恐ろしげに取り上げたことだった。しかしそれは、孤立した地域で生き延びるのに必要な食料や水、寝具を無人のスーパーマーケットから調達している光景にすぎなかった。これを「略奪」と呼ぶ歪みは、黒人へのレイシズムの視線に発している。
だがこの映像から、被災地周辺に流言が広がっていく。市内では強盗が横行している、避難所はギャングに支配されており、殺人やレイプが頻発している、人肉を食っている者もいるらしい、と。そして最悪なことに、市長など、行政のトップの地位にある人々がこれを事実であるかのように宣伝し始めたのだ。ある警察署長はテレビで泣きながら「避難所では赤ん坊までがレイプされている」と訴えたという。こうした行政の発信がGOサインとなり、メディアも「無法地帯ニューオリンズ」といった構図の報道を繰り返す。CNNさえその例外ではなかった。
その結果、レイシズムと結合した「治安回復」が暴走していったのである。救援目的で投入されたはずの州兵部隊は、自動小銃で身を固め、装甲車で街をパトロールし始める。イラク帰りの彼らに加え、ファルージャ掃討戦の引き金を引いたことで悪名高いあの民間軍事会社までが乗り込んできた。「貧しい黒人が人々を襲うだろう、または襲っている、ニューオリンズは獣性の渦巻く大混乱に陥っているという思い込みが、政府の対応とメディアの報道を方向づけていた。そして、そのせいで市民は自警団を結成した」。
豊かな白人たちが結成した自警団は、通りを行く非白人に無差別に銃撃を加えた。地元の若い医師が証言している。「ある人は『おれたちで7人の人間を撃ち殺した』と言い、『殺したのは5人だよ。あとの2人がどうなったかはわからない』と言う人もいれば、『4人と3人だ』という人もいました」「(殺してしまったのは)たぶん保安官がばらまいた噂のせいでしょうね」。警官もまた、自警団同様に殺人に手を染めた。当局から防弾チョッキと銃を渡され、「ニガーを撃ってこい」と命じられた人の話も出てくる。殺された人は全体で数十人にのぼると見られるようだ。
ソルニットは怒りを込めて書く。「確かにメディアが執拗に書き立てた殺人集団は存在した。ただし、それは白人の老人たちであり、その公道での行動は明るみには出なかった」と。
背筋が寒くなる。これは、私たちがこの間見てきた90年まえの東京の光景とまったく同じである。実際に読んでいただくとわかるが、出来事の詳細なディティールのひとつひとつ、証言のひとつひとつが、まるでコピーのように、私たちの知る9月の光景とそっくりなのである。
「災害ユートピア」とは、自然災害の現場で人々がおのずと作り出す相互扶助の空間のことを指しているが、その反対に、災害現場に行政が持ち込む人災として、ソルニットは「エリート・パニック」という概念を紹介する。災害時の公権力の無力化に対して、これを自分たちの支配の正統性への挑戦ととらえる行政エリートたちが起こす恐慌である。その中身として挙げられているのは「社会的混乱に対する恐怖、貧乏人やマイノリティや移民に対する恐怖、火事場泥棒や窃盗に対する強迫観念、すぐに致死的手段に訴える性向、噂をもとに起こすアクション」だ。
ここから見えるのは、ある種の行政エリートの脳裏にある「治安」という概念が、必ずしも人々の生命と健康を守ることを意味しないということである。それどころか、マイノリティや移民の生命や健康など、最初から員数に入っていないということである。
ニューオリンズのある地域には、被害の深刻な一帯と安全な郊外を結ぶ橋があった。ここをわたって避難しようとした市内の人々、赤ん坊を抱いた母親、松葉杖の老人などを含む人々は、保安官たちの威嚇射撃によってけちらされたという。後にこの命令を非難された警察署長はこう語っている。「あの決断について、あとからあれこれ説明する気はありません。正しい理由のもとに下した決断だったという自信がありますから。良心の呵責など微塵もなしに、毎晩、眠りについています」。
この言葉は、彼らにとっての「治安」が何であるかを物語っているが、私たちはこれを読んで、1923年に日本のエリートたちが残したいくつかの言葉を思い出す。
「流言蜚語、其ものは少しも害にならなかったものを伝播したのではなくして、此注意は当時にあって、甚だ必要なるものでありしと云ふことも疑なきことであります」(後藤新平内相〔震災直後に水野錬太郎から引き継いで就任した〕。姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』)
「アノ当時の状態としてアレ丈の事に気づいたのは寧ろよい事をしたとさへ思っている」(埼玉県内務部長。山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』)
暴動はデマだったし、いくらかの朝鮮人が死んだかもしれないが、万が一に備えて「治安」を守ろうとした結果だから仕方ないだろう、と言うわけだ。朝鮮人の生命は最初から「治安」のなかに含まれていないから、こうした論理が出てくる。
そして、彼らとまったく同質の言葉を公然と語った行政エリートが、現代の日本にもいた。その言葉を最後に置いて、次の記事に進もうと思う。
「騒じょう事件が起こったときに仮定して、三軍を出動して治安の対策をしてもらううんぬんと言ったのは、言うことが良いことなの。これが抑止力になるの」。
2012年まで13年間、東京都知事を務めた石原慎太郎の発言である。
参考資料:レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』亜紀書房、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)
2013年10月4日金曜日
【無所属の人・田渕豊吉と「他日の答え」】
私は内閣諸公が最も人道上悲しむべき所の大事件を一言半句も此神聖なる議会に報告しないで、又神聖なるべき筈(はず)の諸君が一言半句も此点に付て述べられないのは、非常なる憤激と悲みを有する者であります。それは何であるかと言へば、朝鮮人殺傷事件であります。(中略)
千人以上の人が殺された大事件を不問に附して宜(よろし)いのであるか。朝鮮人であるから宜いと云ふ考を持つて居るのであるか。吾々(われわれ)は悪い事をした場合には、謝罪すると云ふことは、人間の礼儀でなければならぬと思ふ。(中略)
日本国民として吾々は之に向つて相当朝鮮人に対する陳謝をするとか、或は物質的の援助をなするとかしなければ、吾々は気が済まぬやうに私は考へるのである(拍手)(中略)
被害者の遺族の救済と云ふことも講じなければならぬ。各国に向つて(震災支援に対する)謝電を送り、外国に向つて先日吾々議院が謝意を表明する前に、先づ朝鮮人に謝するのが事の順序ではなからうか。
1923年12月14日 田渕豊吉衆議院議員による国会質問(『朝鮮人虐殺関連官庁史料』)
田渕豊吉は1882年、和歌山県御坊市生まれ。早稲田大学卒業後、ヨーロッパ各地で政治や哲学を学んだ。1920年に初当選して衆議院議員となるが、政党の勧誘を拒否して生涯、無所属を貫いた。「タトイ一人でも言いたい事を云ってノケル」(『警世の人 田渕豊吉伝』)ためである。リベラリズムの立場からの巧みな質問と鋭い野次によって、彼はすぐに名物議員となった。一方でユーモラスな奇行も多く、マスコミは彼を「田渕仙人」と親しみを込めて呼んだ。
1923年12月14日。この日、彼の質問の趣旨は震災復興関連であった。後半、朝鮮人虐殺問題に話が進んでいくと、議場は静まり返ったという。それでも、そのまっすぐな訴えは、議員たちの心にも響いたようだ。先の引用部分も含め、何度か拍手さえ沸き起こった。漫画家の岡本一平(岡本太郎の父)は、新聞紙上で、この日の田渕の姿を「自由自在、無所属なるかな。舌端、巧みを弄するに似たれど、一条の真摯、満場の腹中に通ずるものあって存す、故に弥次の妨害を蒙らず」と描写する。岡本はまた、「震後、別人の感あり」とも言う。震災前とは別人のようだと。「非常なる憤激と悲しみ」が、彼に異様な気迫を与えていた。
だが、これに対する山本権兵衛首相の答弁は、木で鼻をくくったような、という言葉そのものだった。
「只今田淵君より熱心にして且つ高遠なる諸方面に対しての御意見、且又質問もあつたことでございます。右に対しましては相当に御答えするの必要を認めておりますが、何にせよ、随分多岐に亙(わた)つておりますから尚(な)ほ熟考の上他日御答を致すことと御承知を願つています」
熟考して、あとでお答えします(他日御答を致す)、というのだ。
翌15日には、田渕の早稲田大学時代からの盟友・永井龍太郎が、やはり政府の責任を問う質問を行って二の矢を放つ。先日紹介した、内務省警保局の「不逞鮮人」通牒は、このときに永井によって暴露されたものだ。だがこれに対しても、政府は何も答えなかった。
しかし田渕はあきらめなかった。同月23日の議会最終日、「他日の答え」はどうなったのかと議長席に登って問い詰め、大もめする。これが尾を引いて、後に懲戒も受けた。
左は自由法曹団の布施達治から、右は天皇至上主義の憲法学者、上杉慎吉まで、社会の各方面から、自警団は起訴しつつも警察や軍の責任は問おうとしない政府への批判の声が上がっていた。だが当局は、これにきちんと向き合うのではなく、むしろ自警団の処罰を緩めることでバランスをとった。たとえば、最大で80人が殺されたと見られるあの熊谷の事件で、実刑に服したのはたったの1人。しかも懲役2年であった。
田渕の求めた「他日の答え」は、そのまま棚上げとなった。
田渕はその後も、議場を騒然とさせた張作霖爆殺事件(28年)の際の真相暴露演説をはじめ、政府も野党も真っ青にさせる鋭い質問を放ち続けた。だが満州事変(31年)の翌年には、議院法の改正によって無所属の彼は質問の機会さえ事実上奪われてしまう。すると彼は、もっぱら野次を武器に闘いを続けた。41年には東条英機に「(対米)戦争、やったらあきまへんで」と警告し、東条に追従する議員たちに「そんなことで日本が救えるか!」と怒鳴った。退場を命じられるのは毎度のことだった。しかし、42年の選挙は大政翼賛会が相手とあって衆寡敵せず、無所属の彼は落選。その翌年、60歳の若さで亡くなった。
歴史学者の小山仁示は田渕について「自分の発言が速記録に記されることで永遠の生命をもつことにすべてを託した」のだと評している。政争を通じて政治を変えることを断念し、その代わりに、政治の場に、正しくまっとうな「言葉」を撃ち込むこと。それが彼にとっての「無所属」の意味だったのだろう。異形の代議士であるが、そんな彼がいたことで、私たちの民主主義は、1923年12月14日の「言葉」を速記録上の財産としてもつことができたのだ。
政府に「他日の答え」を求める動きはしかし、決して終わらなかった。90年後の2003年、日弁連が、朝鮮人虐殺の最後の生き証人と言われた文戊仙(ムン・ムソン)さんの申し立てを受理し、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺に対する国家責任を認め、謝罪と、事件の真相究明を求める人権救済勧告を出したのである。その後も、研究者の姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)や山田昭次(立教大学名誉教授)らが共同代表となって、「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」という運動も始まっている。
田渕の無所属の言葉は、90年後の今も、アクチュアルなままだ。
参考資料:
琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連関連官庁史料』(緑蔭書房)、山本亨介『警世の人 田渕豊吉伝』(詩画工房)、小山仁示「権勢に抗した田淵豊吉代議士」(『月刊ヒューマンライツ』2003年8月号)、同「権勢に抗した田淵豊吉代議士Ⅱ」(同12月号)
日弁連「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」
ごく短い文章だが、非常に手堅い検証を踏んで、虐殺に対する国の責任を明らかにしており、この問題に関心がある方にはお勧めである。
「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」は、衆参両院議長と内閣総理大臣宛てに「関東大震災時の朝鮮人虐殺の真相究明を求める請願」という署名を集めている。事件の実態調査や資料の開示・保存などを求める内容である。公式サイトらしきものは見当たらないが、署名についての問い合わせ先は、こちらで確認できる。
月刊イオ「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会 第7回学習会」
2013年10月3日木曜日
【俯瞰的な視点② いったい何人が殺されたのか】
いったい何人が殺されたのか。
これについては「正確なことはわからない」というのが研究者の一致した見解のようだ。当時、政府は虐殺の全貌を調査しようとせず、むしろ「『遺骨ハ内鮮人判明セザル様処置』し『起訴セラレタル事件ニシテ鮮人ニ被害アルモノハ速ニ其ノ遺骨ヲ不明ノ程度ニ始末』する方針」(『震災と治安秩序構想』)を打ち出すなど、事件の矮小化、ごまかしに努めたからである。
朝鮮人殺害によって起訴された事件はたった53件で、その被害死者数をカウントすると233人(司法省まとめ。内務省では231人)になる。だが言うまでもなく、この233人は、立件された事件のなかの被害者総数にすぎず、虐殺された人の総数とは言えない。
さらに政府は、刑事事件として立件するものをあらかじめ「顕著なるもののみに限定」する方針だった(「臨時震災救護事務局警備打合せ/大正12年9月11日決定事項」。『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)。理由は「情状酌量すべき点少なからざる」(同)からだという。あまり逮捕者を増やすと矛先が警察や軍の責任追及へと向かうことになるのを恐れたというのが本音だろう。実際、そういう声があがったことで、起訴された人々の最終的な量刑も非常に甘くなった。
その「限定」に当たっても、「警察権に反抗の実ある」(同)事件がもっとも重視された。朝鮮人殺害そのものよりも、警察に反抗して治安を乱したほうが重要だったわけである。その結果、埼玉や群馬で起きたような、警察署を襲って朝鮮人を殺した事件が大きな存在感を占める一方で、虐殺証言が多かった横浜市では2人の死についてしか事件化されていないという具合になる。
あれだけ多くの目撃証言がある四ッ木橋周辺でも、最大で10人の死についてしか立件されていない。9月5日の羅漢寺(西大島駅)での殺害は、記事でとりあげた渡辺政雄さんの証言だけでなく「黒龍会」(有力な右翼結社)の調査にも登場するが、やはり立件されていない。暴行の怪我がもとで収容所で亡くなった人も、収容所から引き出されて殺され、98年に遺骨が発掘された高津の6人も、このなかには数えられていない。もちろん軍の「適正な」武器使用の犠牲者も入っていない。「233人」とは、そういう数字にすぎないのだ。
姜徳相は、『関東大震災・虐殺の記憶』のなかで、よく知られている朝鮮独立派の「独立新聞」調査による「6661人」という数字のほかに、同じ調査団の途中までの調査に基づく吉野作造の「2613人」、黒龍会の調査に基づく「東京府のみで722人」、新聞報道に表れている死者数を合計した「1464人」の数字を示している。これらはもちろん、目安として参考にする以上の正確さは期待できないだろう。
身元がわからないように遺体や遺骨を処分したり、「なるべく限定しよう」という方針の下で立件された事件の被害者総数が233人であること。10万人が地震と火災で亡くなり、避難民が大移動している状況では、「限定」の意図以前に、警察が認識できてもいない事件が多数あったと想像されること。また、子どもの作文に殺人の話が出てきても誰もあやしまない(そのまま東京市の震災記念文集に収録されたりしている)ほど多くの目撃証言があり、そのなかには信頼度の高いものも少なくないことを思えば、実際に殺された朝鮮人の数は3ケタ4ケタ(1000~数千人)にのぼると考えて不自然ではない―私たちにはそのように思える。
中国人殺害については、東大島で殺された人に各地で朝鮮人に間違われて殺された人を加えると、200数十人~750人の間と推定されている(日弁連「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」)。
参考資料:宮地忠彦『震災と治安秩序構想』(クレイン)、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、日弁連「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」(http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html)
修正情報:2013年10月10日午前11時、最後から2つ目の段落で1箇所、修正しました。誤字です。
これについては「正確なことはわからない」というのが研究者の一致した見解のようだ。当時、政府は虐殺の全貌を調査しようとせず、むしろ「『遺骨ハ内鮮人判明セザル様処置』し『起訴セラレタル事件ニシテ鮮人ニ被害アルモノハ速ニ其ノ遺骨ヲ不明ノ程度ニ始末』する方針」(『震災と治安秩序構想』)を打ち出すなど、事件の矮小化、ごまかしに努めたからである。
朝鮮人殺害によって起訴された事件はたった53件で、その被害死者数をカウントすると233人(司法省まとめ。内務省では231人)になる。だが言うまでもなく、この233人は、立件された事件のなかの被害者総数にすぎず、虐殺された人の総数とは言えない。
さらに政府は、刑事事件として立件するものをあらかじめ「顕著なるもののみに限定」する方針だった(「臨時震災救護事務局警備打合せ/大正12年9月11日決定事項」。『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)。理由は「情状酌量すべき点少なからざる」(同)からだという。あまり逮捕者を増やすと矛先が警察や軍の責任追及へと向かうことになるのを恐れたというのが本音だろう。実際、そういう声があがったことで、起訴された人々の最終的な量刑も非常に甘くなった。
その「限定」に当たっても、「警察権に反抗の実ある」(同)事件がもっとも重視された。朝鮮人殺害そのものよりも、警察に反抗して治安を乱したほうが重要だったわけである。その結果、埼玉や群馬で起きたような、警察署を襲って朝鮮人を殺した事件が大きな存在感を占める一方で、虐殺証言が多かった横浜市では2人の死についてしか事件化されていないという具合になる。
あれだけ多くの目撃証言がある四ッ木橋周辺でも、最大で10人の死についてしか立件されていない。9月5日の羅漢寺(西大島駅)での殺害は、記事でとりあげた渡辺政雄さんの証言だけでなく「黒龍会」(有力な右翼結社)の調査にも登場するが、やはり立件されていない。暴行の怪我がもとで収容所で亡くなった人も、収容所から引き出されて殺され、98年に遺骨が発掘された高津の6人も、このなかには数えられていない。もちろん軍の「適正な」武器使用の犠牲者も入っていない。「233人」とは、そういう数字にすぎないのだ。
姜徳相は、『関東大震災・虐殺の記憶』のなかで、よく知られている朝鮮独立派の「独立新聞」調査による「6661人」という数字のほかに、同じ調査団の途中までの調査に基づく吉野作造の「2613人」、黒龍会の調査に基づく「東京府のみで722人」、新聞報道に表れている死者数を合計した「1464人」の数字を示している。これらはもちろん、目安として参考にする以上の正確さは期待できないだろう。
身元がわからないように遺体や遺骨を処分したり、「なるべく限定しよう」という方針の下で立件された事件の被害者総数が233人であること。10万人が地震と火災で亡くなり、避難民が大移動している状況では、「限定」の意図以前に、警察が認識できてもいない事件が多数あったと想像されること。また、子どもの作文に殺人の話が出てきても誰もあやしまない(そのまま東京市の震災記念文集に収録されたりしている)ほど多くの目撃証言があり、そのなかには信頼度の高いものも少なくないことを思えば、実際に殺された朝鮮人の数は
中国人殺害については、東大島で殺された人に各地で朝鮮人に間違われて殺された人を加えると、200数十人~750人の間と推定されている(日弁連「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」)。
参考資料:宮地忠彦『震災と治安秩序構想』(クレイン)、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、日弁連「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」(http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html)
修正情報:2013年10月10日午前11時、最後から2つ目の段落で1箇所、修正しました。誤字です。
【俯瞰的な視点① 虐殺はなぜ起こったのか】
「遅くとも9月末には更新を終了する」と大見得を切って始めたこのブログですが、10月に入ってしまいました。4日(金)までには終了させますので、今しばらくお付き合いください。
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この1ヶ月、私たちは、90年まえの9月に起こったことを、東京を中心に様々な現場でみてきた。このブログの目的は、俯瞰的な解説をすることよりも、当時の朝鮮人や日本人、そして中国人が見たもの、経験したものを、その現場で目撃し、読者のみなさんと共有していくことにあったからだ。
とはいえ、多くの人の心中には、疑問が残るのではないだろうか。いったいどうしてこんなことが起きてしまったのか。だが、歴史学者でもない私たちには、自信をもって俯瞰的な説明をする能力はない。
それでも、朝鮮人虐殺について研究してきた人々の言葉を読んできたなかで素人なりに理解したことを、簡単に書いておこうと思う。とはいえ、こうしたまとめ方は不得手な私たちであるから、足りない部分もあるかと思う。よりくわしく正確に知りたい人は、これまで紹介してきた書籍に直接あたっていただければ幸いである。
「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れている」といった流言が、どこでなぜ発生したのか。これについては、はっきりしたことは言えないようだ。震災直後の流言は朝鮮人についてのものだけに限らなかった。「今日の午後3時に再び地震が、あるいは津波が来る」「地震は某国が人工的に引き起こしたものだ」「富士山も噴火する」など、さまざまだった。攻めてくるのも、朝鮮人ではなくて「大本教信者」というバージョンもあった。
それでも、もっとも猛威を振るったのはやはり朝鮮人暴動の流言だった。突然の地震と火事ですべてを失った人々の驚き、恐怖、怒りをぶつける対象として、朝鮮人が選ばれたのだろうか。先に紹介した、児童の作文を集めた『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』のなかに、焼け焦げた橋のうえで刃物をもって立ち、通行人を誰彼かまわず詰問する男の話が出てくる。「俺の子どもを連れ去ったのはお前だろう!子どもを返せ!」と男は叫ぶのである。
だがそうした感情をぶつける対象として朝鮮人が選ばれたのは、決してたまたまのことではない。その背景には、植民地支配に由来する朝鮮人蔑視があり(上野公園の銀行員を想起してほしい)、4年前の三一独立運動以降の、いつか復讐されるではないかという恐怖心や罪悪感があった。そうした感情が差別意識を作り出し、目の前の朝鮮人を「非人間」化してしまう。過剰な防衛意識に発した暴力は、「非人間」に対するサディスティックな暴力へと肥大化していく。
しかし、庶民の差別意識だけでは、惨事はあそこまで拡大しなかった。事態を拡大させ、深刻化させたのは治安行政・警察であり、軍である。水野錬太郎内相を頂点として治安にかかわる人々は、地震と火災によって東京が壊滅的な被害を受ける様を目前にしたとき、まっさきに反政府暴動を警戒するという発想に陥ってしまった。さらに彼らは、独立運動を取り締まる者として、普通の庶民以上に朝鮮人への差別意識と強い敵意をもっていた。
だからこそ、朝鮮人暴動の流言に接したとき、警官や官僚の一部は「さもありなん」と考えて疑わずに拡散してしまったのである。震災初日にはメガフォンを口に当てて「朝鮮人襲来」を宣伝して回る警官たちが現われる。これらは現場の勝手な判断だろう。しかし翌日には、警視庁中枢さえも流言を「現実」と受け止めてしまう。
「急ぎ帰りますれば警視庁前はすでに物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。(中略)しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうち、ようやく夜の10時頃に至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。(中略)警視庁当局として誠に面目なき次第でありますが(後略)」(正力松太郎『米騒動や大震災の思い出』読売新聞社冊子 1944年2月刊。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)。
後に読売新聞の中興の祖となる正力松太郎は当時、警視庁官房主事という、警視総監に次ぐ地位にあったが、少なくとも9月2日の1日間は、流言を信じて行動していたのである。正力よりもっと上位である内務省警保局の後藤文夫局長も「不逞鮮人が各地で放火しているので厳しく取り締まってほしい」という趣旨の通牒を各県知事に発している。それが、たとえば埼玉県では熊谷市や寄居町などでの凶行に帰結した。妄想は中枢から現場へと還流していったのだ。
右翼の憲法学者として高名な上杉慎吉は、「関東全体を挙げて動乱の状況を呈するに至ったのは、主として警察官憲が自動車ポスター口達者の主張による大袈裟なる宣伝に由れることは、市民を挙げて目撃体験せる疑うべからざる事実である」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)と書いている。要するに警察は、流言にお墨付きを与えて拡散し、自警団による虐殺を後押ししてしまったのである。これによって、朝鮮人迫害は一部の地域から関東全域へと広がってしまう。
さらに、戒厳令によって強大な権限を与えられた軍も、同様に迫害を後押しする役割を果たす。王希天の記事のなかで紹介した「久保野日記」には、「軍隊が到着するや在郷軍人等非常なものだ。鮮人と見るやものも云わず、大道であろうが何処であろうが斬殺してしまうた。そして川に投げこんでしまう。余等見たのばかりで、20人一かたまり、4人、8人、皆地方人(民間人)に斬殺されてしまっていた」という一節がある。ものものしく武装した軍の登場は、戦争が本当に起こっていることを人々に確信させたのだ。
軍の場合、それだけではすまなかった。司令部の意図はともかく、現場の軍部隊には朝鮮人を敵として戦争をしているかのような雰囲気があり、実際に多くの朝鮮人が虐殺された。当時の軍は、三一運動を弾圧し、シベリア出兵では村を焼き払うような対ゲリラ戦を経験している(シベリア出兵帰りは自警団の中核をなす在郷軍人にも多かった)。イラクやアフガンでの米軍の行動を思い出してほしい。こうした軍事の論理がそのまま東京に持ち込まれたのだ。
軍が殺害した人数は、公式の記録では朝鮮人57~60人、中国人200人(東大島の件。軍は朝鮮人だとしている)、日本人23~25人(『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』)。このなかには、「9月3日午後4時 永代橋付近」の記事で取り上げた事例も含まれている。軍はこれらについてすべて適正な武器使用だったとしているが、状況説明記録を読んでも、とてもそうは思えない。また、これらの記録に入っていない虐殺の証言も多数あり、公式記録に残っているのは軍による殺害の一部にすぎないと思われる。
陸軍少将でもある津野田是重代議士は当時、「戒厳部当局は当時あたかも敵国が国内にでも乱入した場合のようなやりかたをしたのではなかったろうか」と軍の行動を批判した(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。
関東大震災時の朝鮮人虐殺は、普通の人々の間に根ざした差別意識に始まり、避難民の群れを見て真っ先に暴動の心配をするような治安優先の発想(と庶民以上の差別意識)をもつ行政が拡大させ、さらにこれに、朝鮮やシベリアで弾圧や対ゲリラ戦を戦ってきた軍が「軍事の論理」を加えることで、一層深刻化したということが言えそうである。
参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』、山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(創史社)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』(緑蔭書房)
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この1ヶ月、私たちは、90年まえの9月に起こったことを、東京を中心に様々な現場でみてきた。このブログの目的は、俯瞰的な解説をすることよりも、当時の朝鮮人や日本人、そして中国人が見たもの、経験したものを、その現場で目撃し、読者のみなさんと共有していくことにあったからだ。
とはいえ、多くの人の心中には、疑問が残るのではないだろうか。いったいどうしてこんなことが起きてしまったのか。だが、歴史学者でもない私たちには、自信をもって俯瞰的な説明をする能力はない。
それでも、朝鮮人虐殺について研究してきた人々の言葉を読んできたなかで素人なりに理解したことを、簡単に書いておこうと思う。とはいえ、こうしたまとめ方は不得手な私たちであるから、足りない部分もあるかと思う。よりくわしく正確に知りたい人は、これまで紹介してきた書籍に直接あたっていただければ幸いである。
「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れている」といった流言が、どこでなぜ発生したのか。これについては、はっきりしたことは言えないようだ。震災直後の流言は朝鮮人についてのものだけに限らなかった。「今日の午後3時に再び地震が、あるいは津波が来る」「地震は某国が人工的に引き起こしたものだ」「富士山も噴火する」など、さまざまだった。攻めてくるのも、朝鮮人ではなくて「大本教信者」というバージョンもあった。
それでも、もっとも猛威を振るったのはやはり朝鮮人暴動の流言だった。突然の地震と火事ですべてを失った人々の驚き、恐怖、怒りをぶつける対象として、朝鮮人が選ばれたのだろうか。先に紹介した、児童の作文を集めた『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』のなかに、焼け焦げた橋のうえで刃物をもって立ち、通行人を誰彼かまわず詰問する男の話が出てくる。「俺の子どもを連れ去ったのはお前だろう!子どもを返せ!」と男は叫ぶのである。
だがそうした感情をぶつける対象として朝鮮人が選ばれたのは、決してたまたまのことではない。その背景には、植民地支配に由来する朝鮮人蔑視があり(上野公園の銀行員を想起してほしい)、4年前の三一独立運動以降の、いつか復讐されるではないかという恐怖心や罪悪感があった。そうした感情が差別意識を作り出し、目の前の朝鮮人を「非人間」化してしまう。過剰な防衛意識に発した暴力は、「非人間」に対するサディスティックな暴力へと肥大化していく。
しかし、庶民の差別意識だけでは、惨事はあそこまで拡大しなかった。事態を拡大させ、深刻化させたのは治安行政・警察であり、軍である。水野錬太郎内相を頂点として治安にかかわる人々は、地震と火災によって東京が壊滅的な被害を受ける様を目前にしたとき、まっさきに反政府暴動を警戒するという発想に陥ってしまった。さらに彼らは、独立運動を取り締まる者として、普通の庶民以上に朝鮮人への差別意識と強い敵意をもっていた。
だからこそ、朝鮮人暴動の流言に接したとき、警官や官僚の一部は「さもありなん」と考えて疑わずに拡散してしまったのである。震災初日にはメガフォンを口に当てて「朝鮮人襲来」を宣伝して回る警官たちが現われる。これらは現場の勝手な判断だろう。しかし翌日には、警視庁中枢さえも流言を「現実」と受け止めてしまう。
「急ぎ帰りますれば警視庁前はすでに物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。(中略)しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうち、ようやく夜の10時頃に至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。(中略)警視庁当局として誠に面目なき次第でありますが(後略)」(正力松太郎『米騒動や大震災の思い出』読売新聞社冊子 1944年2月刊。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)。
後に読売新聞の中興の祖となる正力松太郎は当時、警視庁官房主事という、警視総監に次ぐ地位にあったが、少なくとも9月2日の1日間は、流言を信じて行動していたのである。正力よりもっと上位である内務省警保局の後藤文夫局長も「不逞鮮人が各地で放火しているので厳しく取り締まってほしい」という趣旨の通牒を各県知事に発している。それが、たとえば埼玉県では熊谷市や寄居町などでの凶行に帰結した。妄想は中枢から現場へと還流していったのだ。
右翼の憲法学者として高名な上杉慎吉は、「関東全体を挙げて動乱の状況を呈するに至ったのは、主として警察官憲が自動車ポスター口達者の主張による大袈裟なる宣伝に由れることは、市民を挙げて目撃体験せる疑うべからざる事実である」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)と書いている。要するに警察は、流言にお墨付きを与えて拡散し、自警団による虐殺を後押ししてしまったのである。これによって、朝鮮人迫害は一部の地域から関東全域へと広がってしまう。
さらに、戒厳令によって強大な権限を与えられた軍も、同様に迫害を後押しする役割を果たす。王希天の記事のなかで紹介した「久保野日記」には、「軍隊が到着するや在郷軍人等非常なものだ。鮮人と見るやものも云わず、大道であろうが何処であろうが斬殺してしまうた。そして川に投げこんでしまう。余等見たのばかりで、20人一かたまり、4人、8人、皆地方人(民間人)に斬殺されてしまっていた」という一節がある。ものものしく武装した軍の登場は、戦争が本当に起こっていることを人々に確信させたのだ。
軍の場合、それだけではすまなかった。司令部の意図はともかく、現場の軍部隊には朝鮮人を敵として戦争をしているかのような雰囲気があり、実際に多くの朝鮮人が虐殺された。当時の軍は、三一運動を弾圧し、シベリア出兵では村を焼き払うような対ゲリラ戦を経験している(シベリア出兵帰りは自警団の中核をなす在郷軍人にも多かった)。イラクやアフガンでの米軍の行動を思い出してほしい。こうした軍事の論理がそのまま東京に持ち込まれたのだ。
軍が殺害した人数は、公式の記録では朝鮮人57~60人、中国人200人(東大島の件。軍は朝鮮人だとしている)、日本人23~25人(『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』)。このなかには、「9月3日午後4時 永代橋付近」の記事で取り上げた事例も含まれている。軍はこれらについてすべて適正な武器使用だったとしているが、状況説明記録を読んでも、とてもそうは思えない。また、これらの記録に入っていない虐殺の証言も多数あり、公式記録に残っているのは軍による殺害の一部にすぎないと思われる。
陸軍少将でもある津野田是重代議士は当時、「戒厳部当局は当時あたかも敵国が国内にでも乱入した場合のようなやりかたをしたのではなかったろうか」と軍の行動を批判した(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。
関東大震災時の朝鮮人虐殺は、普通の人々の間に根ざした差別意識に始まり、避難民の群れを見て真っ先に暴動の心配をするような治安優先の発想(と庶民以上の差別意識)をもつ行政が拡大させ、さらにこれに、朝鮮やシベリアで弾圧や対ゲリラ戦を戦ってきた軍が「軍事の論理」を加えることで、一層深刻化したということが言えそうである。
参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』、山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(創史社)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』(緑蔭書房)
2013年9月30日月曜日
【75年後に掘り出された遺骨 習志野収容所で殺された人々】
八日 太左エ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰(もら)ふにする 小石川に二斗 本郷に二斗 麻布に二斗 朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く 九時頃に至り二人貰ってくる 都合五人 (ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて仕舞ふ 皆労(つか)れたらしく皆其此(そこ)に寝て居る 夜になるとまた各持場の警戒線に付く。
(姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』)
千葉県八千代市高津地区のある住民が残した日記である。1923年9月8日、村人が朝鮮人を斬殺した日のことを記している。この犠牲者たちは、ほかの事例のように自警団の検問にひっかかったのではない。軍によって習志野収容所で「保護」されていたはずの人々である。軍はひそかに、高津、大和田、大和田新田、萱田など、収容所周辺の村の人々に朝鮮人の殺害を行わせていたのだ。
すでに書いたように、9月4日、戒厳司令部では東京附近の朝鮮人を習志野の捕虜収容所などいくつかの施設に収容し「保護」する方針を決定した。これ以上、自警団による殺害が続けば、国際的な非難も受けるであろうし、日本の朝鮮支配にも悪い影響を与えることを恐れたのだ。
自警団ではなく、何の落ち度もない被害者である朝鮮人の自由を拘束するのは、明らかに不当である。それでも、これによって暴徒化した群衆からは守られることだけは確かなはずであった。現に、前回の記事で紹介した鄭チヨさんの一家、あるいは丸山集落の「福田」さん、「木下」さんは、その後無事に帰って来ている。最大で3200人の朝鮮人を収容した習志野収容所は、およそ2ヵ月後の10月末に閉鎖された。
ところがその間、収容所では不可解なことが起きていた。船橋警察署巡査部長として、習志野収容所への護送者や収容人員について毎日、記録していた渡辺良雄さんは、「1日に2人か3人ぐらいづつ足りなくなる」ことに気がつく。収容所附近の駐在を問いただしたところ、どうも軍が地元の自警団に殺させているのではないかという。
収容される側にいた申鴻湜(シン・ホンジェ)さん(当時18歳・学生)もまた、腑に落ちない体験をしていた。収容所内で朝鮮人の自治活動を組織していたのだが、仲間が拡声器で呼ばれて、そのまま帰って来ないということが繰り返されたのである。軍人に聞くと、「昔の知り合いが訪ねてきた」「親戚が来た」などと言う。だが何のあいさつもないのは妙だ。申さんは疑問を残したまま、収容所を後にすることになった。
軍が近所の村の人々に朝鮮人を殺害させていた事実が明らかになるのは、戦後のことである。研究者の姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)によれば、収容者と釈放累計の間に約300人のずれがあるという。収容前の負傷によって死亡した人も多いと見られるが、この幅のなかに、恐らくはこうして殺害された人々がいる。姜は、「思想的に問題がある」と目された者が選び出されて殺されたのではないかと推測する。
殺害を行った村人の当時の心情は、残された記録や証言だけではつかみかねる。しかしその後、彼らは盆や彼岸には現場に線香を上げ、だんごを供えるなどして供養していたようだ。上の日記で殺害の現場として出てくる「なぎの原」には、いつの頃か、ひそかに卒塔婆が立てられた。
高津の古老たちが重い口を開くのは、1970年代後半のことである。きっかけは、習志野市の中学校の郷土史クラブの子どもたちによる聞き取り調査であった。聞き取りに訪れた子どもたちに、古老たちは当時のことを証言し始めたのだ。冒頭の日記も、中学生が当時のことを調べていると知った住民が「子どもたちには村の歴史を正しく伝えたい」と学校に持ち込んだものである。
同じ時期、船橋市を中心に朝鮮人虐殺の歴史を掘り起こす市民グループも結成され、その働きかけもあって、1982年9月23日、高津区民一同による大施餓鬼会(せがきえ)が行われる。なぎの原には、同地区の観音寺住職の手になる新しい卒塔婆が立った。そこには「一切我今皆懺悔」の文字が入っていた。
98年9月、高津区の総会は、「子や孫の代までこの問題を残してはならない」として、地区で積み立ててきた数百万円を使って現場を発掘することを決断する。親や祖父母たちの行ったあやまちを認めることは決して簡単なことではない。観音寺住職らの粘り強い説得が受け入れられた結果だった。
警官立会いの下、8時間にわたってショベルで掘り進めると、果たして6人の遺骨があらわれた。検視の結果、死後数十年が経っており、当時のものと確認された。翌月、遺骨は観音寺に納められ、翌99年には境内に慰霊碑が建立される。同年1月12日付けの朝日新聞は「心の中では、きちんと供養すべきだとみんな思っていた。時代が流れ、先人たちの行動よりも、軍に逆らえなかった当時の異常さが問題だった、と考え方が変わってきた」という古老の言葉を伝えている。
参考資料:千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、朝日新聞99年1月12日付、沖縄タイムス03年6月13日付など。
(姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』)
千葉県八千代市高津地区のある住民が残した日記である。1923年9月8日、村人が朝鮮人を斬殺した日のことを記している。この犠牲者たちは、ほかの事例のように自警団の検問にひっかかったのではない。軍によって習志野収容所で「保護」されていたはずの人々である。軍はひそかに、高津、大和田、大和田新田、萱田など、収容所周辺の村の人々に朝鮮人の殺害を行わせていたのだ。
すでに書いたように、9月4日、戒厳司令部では東京附近の朝鮮人を習志野の捕虜収容所などいくつかの施設に収容し「保護」する方針を決定した。これ以上、自警団による殺害が続けば、国際的な非難も受けるであろうし、日本の朝鮮支配にも悪い影響を与えることを恐れたのだ。
自警団ではなく、何の落ち度もない被害者である朝鮮人の自由を拘束するのは、明らかに不当である。それでも、これによって暴徒化した群衆からは守られることだけは確かなはずであった。現に、前回の記事で紹介した鄭チヨさんの一家、あるいは丸山集落の「福田」さん、「木下」さんは、その後無事に帰って来ている。最大で3200人の朝鮮人を収容した習志野収容所は、およそ2ヵ月後の10月末に閉鎖された。
ところがその間、収容所では不可解なことが起きていた。船橋警察署巡査部長として、習志野収容所への護送者や収容人員について毎日、記録していた渡辺良雄さんは、「1日に2人か3人ぐらいづつ足りなくなる」ことに気がつく。収容所附近の駐在を問いただしたところ、どうも軍が地元の自警団に殺させているのではないかという。
収容される側にいた申鴻湜(シン・ホンジェ)さん(当時18歳・学生)もまた、腑に落ちない体験をしていた。収容所内で朝鮮人の自治活動を組織していたのだが、仲間が拡声器で呼ばれて、そのまま帰って来ないということが繰り返されたのである。軍人に聞くと、「昔の知り合いが訪ねてきた」「親戚が来た」などと言う。だが何のあいさつもないのは妙だ。申さんは疑問を残したまま、収容所を後にすることになった。
軍が近所の村の人々に朝鮮人を殺害させていた事実が明らかになるのは、戦後のことである。研究者の姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)によれば、収容者と釈放累計の間に約300人のずれがあるという。収容前の負傷によって死亡した人も多いと見られるが、この幅のなかに、恐らくはこうして殺害された人々がいる。姜は、「思想的に問題がある」と目された者が選び出されて殺されたのではないかと推測する。
殺害を行った村人の当時の心情は、残された記録や証言だけではつかみかねる。しかしその後、彼らは盆や彼岸には現場に線香を上げ、だんごを供えるなどして供養していたようだ。上の日記で殺害の現場として出てくる「なぎの原」には、いつの頃か、ひそかに卒塔婆が立てられた。
高津の古老たちが重い口を開くのは、1970年代後半のことである。きっかけは、習志野市の中学校の郷土史クラブの子どもたちによる聞き取り調査であった。聞き取りに訪れた子どもたちに、古老たちは当時のことを証言し始めたのだ。冒頭の日記も、中学生が当時のことを調べていると知った住民が「子どもたちには村の歴史を正しく伝えたい」と学校に持ち込んだものである。
同じ時期、船橋市を中心に朝鮮人虐殺の歴史を掘り起こす市民グループも結成され、その働きかけもあって、1982年9月23日、高津区民一同による大施餓鬼会(せがきえ)が行われる。なぎの原には、同地区の観音寺住職の手になる新しい卒塔婆が立った。そこには「一切我今皆懺悔」の文字が入っていた。
98年9月、高津区の総会は、「子や孫の代までこの問題を残してはならない」として、地区で積み立ててきた数百万円を使って現場を発掘することを決断する。親や祖父母たちの行ったあやまちを認めることは決して簡単なことではない。観音寺住職らの粘り強い説得が受け入れられた結果だった。
警官立会いの下、8時間にわたってショベルで掘り進めると、果たして6人の遺骨があらわれた。検視の結果、死後数十年が経っており、当時のものと確認された。翌月、遺骨は観音寺に納められ、翌99年には境内に慰霊碑が建立される。同年1月12日付けの朝日新聞は「心の中では、きちんと供養すべきだとみんな思っていた。時代が流れ、先人たちの行動よりも、軍に逆らえなかった当時の異常さが問題だった、と考え方が変わってきた」という古老の言葉を伝えている。
参考資料:千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、朝日新聞99年1月12日付、沖縄タイムス03年6月13日付など。
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