日本語/한국어/English
永代橋上東側から南方を望む
1923年9月3日午後4時、永代橋付近で朝鮮人が軍と群衆によって殺害され、その遺体が隅田川を流れていった。その数は「約30名」、あるいは「約32名」。
『関東戒厳司令部詳報』「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」
洲崎警察署ヨリ護送援助ヲ請求セラレタル特務曹長島崎儀助ノ命ヲ受ケ巡査五名ト共ニ洲崎ニテ暴行セシ不逞鮮人約三十名ヲ同署ヨリ日比谷警視庁ニ○○為永代橋ニ至リタルニ橋梁焼毀シ不通ノタメ渡船準備中一名ノ鮮人逃亡ヲ始メシヲ動機トシ内十七名、突然隅田川ニ飛込ミシヲ以テ巡査ノ依頼ニ応シ実包十七発ヲ河中ニ向テ射撃ス 河中ニ入ラスシテ逃亡セントセシ者ハ多数ノ避難民及警官ノ為メニ打殺セラレタリ
(『震災・戒厳令・虐殺』から重引)
永代橋は隅田川にかかる橋で、現在の中央区と江東区の境にある。殺害を実行したのは野戦重砲第1連隊第2中隊の島崎特務曹長指揮下の当麻一等兵、飯山二等兵など3人。「事件調査表」本文では朝鮮人の数は「約三十名」となっているが、被兵器使用者の欄では「約三十二名(内十七名氏名不詳)」。人数が異なるうえに「約」という曖昧な冠が乗っている。
これに対して姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)は、激しい怒りをぶつけている。「『約三十二名』『三十名』という人間連行はなにを意味するのか。『約』とは『およそ』『ほぼ』という、不確かなことばであるが、この曖昧のなかに二人の人の尊厳が埋められていることに気がつかねばならない。うかびあがるのは鴻毛の軽さともいうべき朝鮮人の命である」(『震災・戒厳令・虐殺』)
逃亡をきっかけとした事件のように見えるが、川に飛び込んだ17人を17発の銃弾で射殺するとはいかにも不自然である、実際には隅田川まで連行して射殺、死体処理の省略のために川に流したのだ、と姜は推測する。
前回の記事でも触れたが、『関東戒厳司令部詳報』は軍の作戦行動の記録をまとめたもの。「事件調査表」はその一部だ。爆弾「らしきもの」を投げ「ようとした」ので射殺したなど、この「事件調査表」にはこの事件と同工異曲の軍による殺害が20件、記録されている。もちろん、それは実際にあったことのごく一部にすぎないことだろう。
参考資料:関東大震災85周年シンポジウム実行委員会編『震災・戒厳令・虐殺』(三一書房)
永代橋の位置(google map)
(次の更新は4日午前2時ごろの予定です)
At 16:00 p.m. on September 3, 1923, more than 30 Koreans were killed by soldiers and a mob near the Eitaibashi Bridge over the Sumida River in southeastern Tokyo, and the bodies were dumped into the river.
1923년 9월 3일 오후 4시, 도쿄 남동부, 스미다강에 걸리는 에이타이바시 다리 부근에서 한국인 30명 이상이 군과 군중에 의해서 살해되었다. 그 사체는 스미다강을 흘러 갔다.
2013年9月3日火曜日
【1923年9月3日午後3時/東大島 中国人はなぜ殺されたのか】
日本語/English
最大の虐殺があった現場(東大島文化センター付近)
『関東戒厳司令部詳報』「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル一覧表」
時:9月3日午後3時頃/場所:大島町8丁目付近/隊:野重(野戦重砲兵)一(連隊)ノ二(中隊)砲兵少尉岩波清貞以下69人 騎14(連隊)騎兵少尉三浦孝三以下11人/兵器使用者:騎14騎兵卒3名/被兵器使用者:鮮人約200名(氏名不詳)/処置:殴打/行動概況:大島町付近ノ人民ガ鮮人ヨリ危害ヲ受ケントセル際救援隊トシテ野重一ノ二岩波少尉来着シ騎14ノ三浦少尉ト偶々会合シ共ニ朝鮮人ヲ包囲セントセルニ群衆及警官4、50名約200名ノ鮮人団ヲ率ヰ来リ其ノ始末協議中騎兵卒3名ガ鮮人首領3名ヲ銃把ヲ以テ殴打セルヲ動機トシ鮮人ハ群衆及警官ト争闘ヲ起シ軍隊ハ之ヲ防止セントシガ鮮人ハ全部殺害セラレタリ/備考:①野重ノ岩波以下、兵器を携帯セズ②鮮人約200名は暴行強姦掠奪セリト称セラレ、棍棒、鉈等ノ凶器ヲ携帯セリ。③本鮮人団、支那労働者ナリトノ説アルモ、軍隊側ハ鮮人ト確信シ居タルモノナリ
(田原洋『関東大震災と王希天事件』より重引『関東大震災政府陸海軍関係史料2巻 陸軍関係史料』収録)
警視庁広瀬久忠外事課長直話(1923年9月6日)
目下東京地方にある支那人は約4500名にして内2000名は労働者なるところ、9月3日大島町7丁目に於て鮮人放火嫌疑に関連して支那人及朝鮮人300名乃至400名3回に亘り銃殺又は撲殺せられたり。第1回は同日朝、軍隊に於て青年団より引渡しを受けたる2名の支那人を銃殺し、第2回は午後1時頃軍隊及自警団(青年団及在郷軍人団等)に於て約200名を銃殺又は撲殺、第3回には午後4時頃約100名を同様殺害せり。
右支鮮人の死体は4日まで何等処理せられず、警視庁に於ては野戦重砲兵第3旅団長金子直少将及戒厳司令部参謀長に対し、右死体処理方及同地残余の200名乃至300名の支那人保護方を要請し、とりあえず鴻の台(国府台)兵営に於て集団的保護をなす手筈となりたり。
本事件発生の動機原因等に付ては目下の所不明なるも支那人及朝鮮人にして放火等をなせる明確なる事実なく唯だ鮮人に付ては爆弾所持等の事例発見せられ居るのみ。
(仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』より重引アジア歴史資料センターHPレファレンスコードB04013322800。原文はカタカナ)(注)
「関東戒厳司令部詳報」は、関東大震災における軍の作戦行動の記録をまとめたもの。この事件を調査していた田原洋が国立東京都公文書館で発見した。「直話」とは、臨時震災救護事務局の警備部で行われた談話形式の会合での発言記録である。これもまた戦後、アメリカが持ち去った外務省の文書から発見された。
両者は同じ事件について語っているように見える。実際には何が起こったのか。殺されたのは朝鮮人なのか、中国人なのか―。
この事件については、直後から日本人、中国人による民間の調査が進められている。さらに戦後の調査研究(目撃証言や軍人の聞き取りなどを含む)もあり、「何が起きたのか」自体はかなりはっきりしている。
現場となった南葛飾郡大島町(現・江東区)には当時、工場などで働く中国人労働者千数百人が、60数軒の宿舎に集住していた。
9月3日朝、付近の日本人住民は今日は外に出るなと伝えられていた。伝えてまわったのは在郷軍人会か消防団のようだ。そうして朝のうちに、銃剣を付けた兵士2人が、大島6丁目の中国人宿舎から中国人労働者たちを引き立てて行った。このとき、2発の銃声が響いている。
昼頃、今度は8丁目の中国人宿舎に軍、警察、青年団が現れ、「金をもっているやつは国に返してやるからついてこい」と言って174人を連れ出した。ところが、近くの空き地まで来たところで突然、誰かが「地震だ、伏せろ!」と叫ぶ。中国人たちが地面に伏せると、今度は群衆がいっせいにこれに襲いかかった。
「5、6名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、200人ばかりの支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、とび口、竹やり、日本刀等をもって、片はしから支那人を虐殺し、中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた」と、付近に住む木戸四郎という人物が、事件から2ヵ月後の11月18日に、現地調査に来た牧師の丸山伝太郎らに語っている。
さらに3時ごろ、先述の岩波少尉以下69名、三浦少尉以下11人の部隊が、人々が「約200人の鮮人団を連れて来て、その始末を協議中」のところへ現れ、これをすべて殺害したのである。
8丁目の虐殺を最大として、この日、大島の各地で同様の事件が起こった。殺された中国人の数はぜんぶで200~300300人以上と見られる。
8丁目の虐殺の唯一の生存者である黄子連が10月に帰国し、この事実を中国のメディアに語ったことで、それまで日本救援ムードが強かった中国の世論は一変した。黄は郷里の浙江省温州に帰ったが、虐殺時に負傷した傷が化膿し、吐血するようになり、しだいに体を壊して2、3年後に亡くなった。
残る問題は、この大量殺人が「なぜ」行われたのかである。震災時、朝鮮人が放火や爆弾といった流言のターゲットにされていたのに対して、中国人を特別に攻撃する流言が広がってはいなかった。朝鮮人虐殺に見られるように混乱の中で衝動的に行われたふうもなく、むしろ明らかに計画性が見える。
仁木の前掲書は、その背景に人夫請負人(労働ブローカー)の意図があったと推理している。第一次大戦の好況も終わり、前年から不況が始まっていた。日本人より2割も安い賃金で働く中国人労働者の存在は、日本人労働者にとっても、彼らを手配し、賃金をピンハネする労働ブローカーにとっても目障りであり、排斥の動きが起こっていた。一方、中国人を安く使っていた日本人ブローカーにとっても、僑日共済会の指導によって未払い賃金の支払い要求などを起こすようになった中国人は、もはや使いにくい存在になっていた。
警察も中国人労働者を好ましく思っていなかった。大島を管轄する亀戸署は、多くの労働運動を抱え、公安的な任務を強く負った署である。中国人にまで労働運動を起こされてはたまらない。政府レベルでも、日本人労働者保護のためとして、中国人労働者の国外退去などを進めつつあった。
労働ブローカーと警察が、朝鮮人虐殺で騒然としている状況に便乗して、日本人労働者をけしかけ、さらに「朝鮮人討伐」の功を焦る軍部隊を引き込み、中国人追い出しというかねての悲願を実行に移したのだ―というのが仁木の見立てである。そうであるとすれば、ほかの朝鮮人虐殺とはかなり様相の異なる特殊な事件ということになりそうだ。
だが仁木はこの虐殺に喝采する一般民衆の姿があったことを指摘する。「これに迎合する群衆が喝采しながら無力な相手に自分も手を出している。中国服を着ている中国人を『こいつは朝鮮人だ、やっつけてしまえ』と叫ばせるものは何か。権力者へその行為を促し容認する媚とともに、典型的な異邦人排除の観念がある。これは軍人も民衆も共有している観念である。(中略)それは生命への畏敬を知らない人権感覚の欠如と同居している」と。
参考資料:田原洋『関東大震災と王希天事件』(1982年、三一書房)、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(1993年、青木書店)。松尾章一監修/田崎公司・坂本昇編集『関東大震災政府陸海軍関係史料2巻 陸軍関係史料』(日本経済評論社、1997年)。
(注)冒頭資料は、2013年9月のブログ記事掲載時に重引だったものを原典から引用し直し、それにともない語句を修正した。同時に省略をやめ、全文を掲載した(2014年2月23日記)。
東大島文化センター付近(google map)
At 15:00pm on September 3, 1923
Higashi Ojima
How did the Massacre against Chinese Occur?
Back then over a thousand Chinese workers lived in Ojima Town.
On September 3, 1923, about noon, the military, police and local youths succeded in taking 174 Chinese from workers lodgings in the town, saying, "we could help you go home if you have money", and as the party came to an empty lot they attacked the Chinese from behind.
Researches and witness accounts reveal a total of 200 to 300 Chinese were murdered in Ojima on that day, and this was confirmed by two official documents discovered after the WWII and a testimony to Chinese press media made by Huang Zi Lian, a sole survivor of the 174 workers on his return home to Zhejiang Province of China.
Fumiko Niki points out in her book "Genocide against Chinese in the Aftermath of the Great Kanto Earthquake" that behind the massacre lay evil intentions of brokers who were on aleart against increasingly organized Chinese workers. The local police also considered them as a target of control. As she put it they joined forces, egged Japanese workers on and involved the military to realize their long-cherished wish to drive out the aliens.
最大の虐殺があった現場(東大島文化センター付近)
『関東戒厳司令部詳報』「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル一覧表」
時:9月3日午後3時頃/場所:大島町8丁目付近/隊:野重(野戦重砲兵)一(連隊)ノ二(中隊)砲兵少尉岩波清貞以下69人 騎14(連隊)騎兵少尉三浦孝三以下11人/兵器使用者:騎14騎兵卒3名/被兵器使用者:鮮人約200名(氏名不詳)/処置:殴打/行動概況:大島町付近ノ人民ガ鮮人ヨリ危害ヲ受ケントセル際救援隊トシテ野重一ノ二岩波少尉来着シ騎14ノ三浦少尉ト偶々会合シ共ニ朝鮮人ヲ包囲セントセルニ群衆及警官4、50名約200名ノ鮮人団ヲ率ヰ来リ其ノ始末協議中騎兵卒3名ガ鮮人首領3名ヲ銃把ヲ以テ殴打セルヲ動機トシ鮮人ハ群衆及警官ト争闘ヲ起シ軍隊ハ之ヲ防止セントシガ鮮人ハ全部殺害セラレタリ/備考:①野重ノ岩波以下、兵器を携帯セズ②鮮人約200名は暴行強姦掠奪セリト称セラレ、棍棒、鉈等ノ凶器ヲ携帯セリ。③本鮮人団、支那労働者ナリトノ説アルモ、軍隊側ハ鮮人ト確信シ居タルモノナリ
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警視庁広瀬久忠外事課長直話(1923年9月6日)
目下東京地方にある支那人は約4500名にして内2000名は労働者なるところ、9月3日大島町7丁目に於て鮮人放火嫌疑に関連して支那人及朝鮮人300名乃至400名3回に亘り銃殺又は撲殺せられたり。第1回は同日朝、軍隊に於て青年団より引渡しを受けたる2名の支那人を銃殺し、第2回は午後1時頃軍隊及自警団(青年団及在郷軍人団等)に於て約200名を銃殺又は撲殺、第3回には午後4時頃約100名を同様殺害せり。
右支鮮人の死体は4日まで何等処理せられず、警視庁に於ては野戦重砲兵第3旅団長金子直少将及戒厳司令部参謀長に対し、右死体処理方及同地残余の200名乃至300名の支那人保護方を要請し、とりあえず鴻の台(国府台)兵営に於て集団的保護をなす手筈となりたり。
本事件発生の動機原因等に付ては目下の所不明なるも支那人及朝鮮人にして放火等をなせる明確なる事実なく唯だ鮮人に付ては爆弾所持等の事例発見せられ居るのみ。
(
「関東戒厳司令部詳報」は、関東大震災における軍の作戦行動の記録をまとめたもの。この事件を調査していた田原洋が
両者は同じ事件について語っているように見える。実際には何が起こったのか。殺されたのは朝鮮人なのか、中国人なのか―。
この事件については、直後から日本人、中国人による民間の調査が進められている。さらに戦後の調査研究(目撃証言や軍人の聞き取りなどを含む)もあり、「何が起きたのか」自体はかなりはっきりしている。
現場となった南葛飾郡大島町(現・江東区)には当時、工場などで働く中国人労働者千数百人が、60数軒の宿舎に集住していた。
9月3日朝、付近の日本人住民は今日は外に出るなと伝えられていた。伝えてまわったのは在郷軍人会か消防団のようだ。そうして朝のうちに、銃剣を付けた兵士2人が、大島6丁目の中国人宿舎から中国人労働者たちを引き立てて行った。このとき、2発の銃声が響いている。
昼頃、今度は8丁目の中国人宿舎に軍、警察、青年団が現れ、「金をもっているやつは国に返してやるからついてこい」と言って174人を連れ出した。ところが、近くの空き地まで来たところで突然、誰かが「地震だ、伏せろ!」と叫ぶ。中国人たちが地面に伏せると、今度は群衆がいっせいにこれに襲いかかった。
「5、6名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、200人ばかりの支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、とび口、竹やり、日本刀等をもって、片はしから支那人を虐殺し、中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた」と、付近に住む木戸四郎という人物が、事件から2ヵ月後の11月18日に、現地調査に来た牧師の丸山伝太郎らに語っている。
さらに3時ごろ、先述の岩波少尉以下69名、三浦少尉以下11人の部隊が、人々が「約200人の鮮人団を連れて来て、その始末を協議中」のところへ現れ、これをすべて殺害したのである。
8丁目の虐殺を最大として、この日、大島の各地で同様の事件が起こった。殺された中国人の数はぜんぶで
8丁目の虐殺の唯一の生存者である黄子連が10月に帰国し、この事実を中国のメディアに語ったことで、それまで日本救援ムードが強かった中国の世論は一変した。黄は郷里の浙江省温州に帰ったが、虐殺時に負傷した傷が化膿し、吐血するようになり、しだいに体を壊して2、3年後に亡くなった。
残る問題は、この大量殺人が「なぜ」行われたのかである。震災時、朝鮮人が放火や爆弾といった流言のターゲットにされていたのに対して、中国人を特別に攻撃する流言が広がってはいなかった。朝鮮人虐殺に見られるように混乱の中で衝動的に行われたふうもなく、むしろ明らかに計画性が見える。
仁木の前掲書は、その背景に人夫請負人(労働ブローカー)の意図があったと推理している。第一次大戦の好況も終わり、前年から不況が始まっていた。日本人より2割も安い賃金で働く中国人労働者の存在は、日本人労働者にとっても、彼らを手配し、賃金をピンハネする労働ブローカーにとっても目障りであり、排斥の動きが起こっていた。一方、中国人を安く使っていた日本人ブローカーにとっても、僑日共済会の指導によって未払い賃金の支払い要求などを起こすようになった中国人は、もはや使いにくい存在になっていた。
警察も中国人労働者を好ましく思っていなかった。大島を管轄する亀戸署は、多くの労働運動を抱え、公安的な任務を強く負った署である。中国人にまで労働運動を起こされてはたまらない。政府レベルでも、日本人労働者保護のためとして、中国人労働者の国外退去などを進めつつあった。
労働ブローカーと警察が、朝鮮人虐殺で騒然としている状況に便乗して、日本人労働者をけしかけ、さらに「朝鮮人討伐」の功を焦る軍部隊を引き込み、中国人追い出しというかねての悲願を実行に移したのだ―というのが仁木の見立てである。そうであるとすれば、ほかの朝鮮人虐殺とはかなり様相の異なる特殊な事件ということになりそうだ。
だが仁木はこの虐殺に喝采する一般民衆の姿があったことを指摘する。「これに迎合する群衆が喝采しながら無力な相手に自分も手を出している。中国服を着ている中国人を『こいつは朝鮮人だ、やっつけてしまえ』と叫ばせるものは何か。権力者へその行為を促し容認する媚とともに、典型的な異邦人排除の観念がある。これは軍人も民衆も共有している観念である。(中略)それは生命への畏敬を知らない人権感覚の欠如と同居している」と。
参考資料:田原洋『関東大震災と王希天事件』(1982年、三一書房)、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(1993年、青木書店)。松尾章一監修/田崎公司・坂本昇編集『関東大震災政府陸海軍関係史料2巻 陸軍関係史料』(日本経済評論社、1997年)。
(注)冒頭資料は、2013年9月のブログ記事掲載時に重引だったものを原典から引用し直し、それにともない語句を修正した。同時に省略をやめ、全文を掲載した(2014年2月23日記)。
東大島文化センター付近(google map)
At 15:00pm on September 3, 1923
Higashi Ojima
How did the Massacre against Chinese Occur?
Back then over a thousand Chinese workers lived in Ojima Town.
On September 3, 1923, about noon, the military, police and local youths succeded in taking 174 Chinese from workers lodgings in the town, saying, "we could help you go home if you have money", and as the party came to an empty lot they attacked the Chinese from behind.
Researches and witness accounts reveal a total of 200 to 300 Chinese were murdered in Ojima on that day, and this was confirmed by two official documents discovered after the WWII and a testimony to Chinese press media made by Huang Zi Lian, a sole survivor of the 174 workers on his return home to Zhejiang Province of China.
Fumiko Niki points out in her book "Genocide against Chinese in the Aftermath of the Great Kanto Earthquake" that behind the massacre lay evil intentions of brokers who were on aleart against increasingly organized Chinese workers. The local police also considered them as a target of control. As she put it they joined forces, egged Japanese workers on and involved the military to realize their long-cherished wish to drive out the aliens.
【1923年9月3日午前/上野公園 流されやすい人】
日本語/English/한국어/Esperanto
私がちょうど公園の出口の広場に出た時であった。群集は棒切などを振りかざして、ケンカでもあるかのような塩梅(あんばい)である。得物を持たぬ人は道端の棒切を拾ってきて振り回している。近づいて見ると、ひとりの肥えた浴衣を着た男を大勢の人達が殺せ、と言ってなぐっているのであった。
群集の口から朝鮮人だと云う声が聞えた。巡査に渡さずになぐり殺してしまえ、と云う激昂した声も聞こえた。肥えた男は泣きながら何か言ってる。棒は彼の頭といわず顔といわず当るのであった。
こやつが爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだなと思うと、私もつい怒気があふれて来た。我々は常に鮮人だと思って、憫(あわれ)みの心で迎えているのに、この変災を機会に不逞(ふてい)のたくらみを為るというのは、いわゆる人間の道をわきまえないものである。この如きは宜しくこの場合血祭りにすべきものである。巡査に引渡さずになぐり殺せと云う声はこの際痛快な響きを与えた。私も握り太のステッキで一ツ喰はしてやろうと思って駆け寄っていった。
(渋川藍泉『震災日記』染川藍泉『震災日誌』日本評論社)
(訂正/14年2月2日。名前、書名を間違っておりました。申し訳ありません)
※読みやすさを考慮して新かなづかいとし、一部の漢字をかなに開いた。
「私」(染川)はしかし、すぐに考え直して立ち止まる。神経が過敏になっているこの群衆に近づいていって、万が一自分のほうが朝鮮人に間違えられたら危ないじゃないか…。そうこう迷っている間に兵士が現れて、浴衣の男は連行されていく。「私は自分の今のすさみ切った心に、彼奴がなぐり殺されなかったのを惜しいように思った」。
染川は十五銀行本店の庶務課長で、震災当時43歳。典型的なホワイトカラー上層である。藍泉は俳号で、本名は春彦。震災では日暮里の家にも家族にも何の被害もなく、9月中は一日も休まず銀行業務の復旧のために精勤していた。
染川は「朝鮮人が爆弾を投げている」といった流言を最初から信じていたわけではない。むしろ、前日(2日)の昼間までは、そうしたうわさに振り回される「愚かな人」を軽蔑していた。「この不意に起こった災害を、鮮人が予知することが何でできるものか」「現に火事場の爆音を聞いた私は、それが包装した樽や缶の破裂する音であると云う確信を得ていた」「何も知らぬ鮮人こそ好い面の皮であった」。
ところがその夜、避難先の線路脇で「井戸の中に劇薬が入れてあると云うから、諸君気をつけろよう」という青年団の声が闇の中に響くのを聞くうちに、不安が膨らんでくる。「私は弾かれたように眠りから醒めた。そして考えた。これは路傍の無智な人たちのうわさではない」。青年団が広めるからには何か証拠があってのことに違いない。「さすれば私の宅の井戸も実に危険千万である」。
こうして翌日朝、暴行される朝鮮人らしき男を目の当たりにしたとき、彼の心には「毒薬を井戸に投じたりする」朝鮮人への怒りがあふれたというわけなのである。
上野公園には多くの避難民が流れ込み、混乱を極めていた。作家の佐藤春夫は、町会で自警団として動員され、いもしない敵におびえて深夜の上野公園で右往左往した経験をエッセイに記している。染川が上野公園出口付近を通りかかるのは、その数時間後だ。あるいは浴衣の男は前夜の上野公園で「摘発」されたのだろうか。
染川は、この翌日には冷静さを取り戻し、「朝鮮人暴動」を否定してみせている。「あまりに話がうがちすぎている。…うろたえるにも事を欠いて、憫(あわれ)んで善導せねばならぬ鮮人を、理非も言わせず叩き殺すということは、日本人もあまりに狭量すぎる。今少し落ち着いて考えて見て欲しいと私は思った」。憫(あわれ)んで善導…。
『震災日誌』中には、「(十五銀行)深川支店の前には鮮人が三人殺されて居った。電柱に括り付けられて日本刀で切られて居った。それは山下支店長が実際を見て来ての話であった」という記述もある。
ちなみに朝鮮独立派による関東大震災報告『虐殺』(1924年)に、上野公園付近での朝鮮人の被害として、「重傷3人」と記録されている。名前は「全羅南道光州郡西倉面西竜頭里 金炳権、同道長興郡 李乃善、同道光州郡 李○○」。
(次の更新は3日午後3時ごろを予定しています)
In the morning of September 3, 1923, at Ueno Park, Tokyo
Aizen Shibukawa got angry to think the Korean was one of those criminals. The 43-year old bank staff even felt like getting involved in the attack when witnessing the Korean being battered by crowd.
In fact he laughed off the rumor until the previous day that Koreans had set bombs. But as he listened to youth groups broadcasting crimes allegedly committed by Koreans again and again he began to feel anxiety and found himself believing such rumors.
1923년 9월 3일 오전. 도쿄・우에노 공원(上野公園).
43세의 은행원, 소메카와 아이젠(染川藍泉)은 군중이 조선인을 때리고 있는 현장을 본다. 이 놈이 폭탄을 던졌는가라고 시부카와는 분노를 느껴 때려 죽이고 싶다고 생각한다. 시부카와는 인텔리로서 전날의 낮까지는 그런 뜬소문을 웃고 있었다. 그런데 그 밤, 청년단이 조선인의 범죄를 선전하고 있는 소리를 들어 불안하게 되어, 어느새 뜬소문을 믿게 되었던 것이다.
Antaŭ tagmezo en la 3-a de septembro 1923, la parko Ueno.
Bankisto SHIBUKAWA Aizen 43 jaraĝa propraokule vidis ke popolamaso batis koreon. Li pensis la koreo ĵetis bombon kaj sentis koleron eĉ volis mortigi la koreon batante. Li kiel intelektulo ne kredis onidiron kaj ridis ĝin ĝis la tago de antaŭa tago. Tamen tiu vespere li sentis timon pro la propagando pri krimoj de koreoj fare de junulara asocio. Dum li ne rimarkis, li kredis demagogion.
私がちょうど公園の出口の広場に出た時であった。群集は棒切などを振りかざして、ケンカでもあるかのような塩梅(あんばい)である。得物を持たぬ人は道端の棒切を拾ってきて振り回している。近づいて見ると、ひとりの肥えた浴衣を着た男を大勢の人達が殺せ、と言ってなぐっているのであった。
群集の口から朝鮮人だと云う声が聞えた。巡査に渡さずになぐり殺してしまえ、と云う激昂した声も聞こえた。肥えた男は泣きながら何か言ってる。棒は彼の頭といわず顔といわず当るのであった。
こやつが爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだなと思うと、私もつい怒気があふれて来た。我々は常に鮮人だと思って、憫(あわれ)みの心で迎えているのに、この変災を機会に不逞(ふてい)のたくらみを為るというのは、いわゆる人間の道をわきまえないものである。この如きは宜しくこの場合血祭りにすべきものである。巡査に引渡さずになぐり殺せと云う声はこの際痛快な響きを与えた。私も握り太のステッキで一ツ喰はしてやろうと思って駆け寄っていった。
(
(訂正/14年2月2日。名前、書名を間違っておりました。申し訳ありません)
※読みやすさを考慮して新かなづかいとし、一部の漢字をかなに開いた。
「私」(染川)はしかし、すぐに考え直して立ち止まる。神経が過敏になっているこの群衆に近づいていって、万が一自分のほうが朝鮮人に間違えられたら危ないじゃないか…。そうこう迷っている間に兵士が現れて、浴衣の男は連行されていく。「私は自分の今のすさみ切った心に、彼奴がなぐり殺されなかったのを惜しいように思った」。
染川は十五銀行本店の庶務課長で、震災当時43歳。典型的なホワイトカラー上層である。藍泉は俳号で、本名は春彦。震災では日暮里の家にも家族にも何の被害もなく、9月中は一日も休まず銀行業務の復旧のために精勤していた。
染川は「朝鮮人が爆弾を投げている」といった流言を最初から信じていたわけではない。むしろ、前日(2日)の昼間までは、そうしたうわさに振り回される「愚かな人」を軽蔑していた。「この不意に起こった災害を、鮮人が予知することが何でできるものか」「現に火事場の爆音を聞いた私は、それが包装した樽や缶の破裂する音であると云う確信を得ていた」「何も知らぬ鮮人こそ好い面の皮であった」。
ところがその夜、避難先の線路脇で「井戸の中に劇薬が入れてあると云うから、諸君気をつけろよう」という青年団の声が闇の中に響くのを聞くうちに、不安が膨らんでくる。「私は弾かれたように眠りから醒めた。そして考えた。これは路傍の無智な人たちのうわさではない」。青年団が広めるからには何か証拠があってのことに違いない。「さすれば私の宅の井戸も実に危険千万である」。
こうして翌日朝、暴行される朝鮮人らしき男を目の当たりにしたとき、彼の心には「毒薬を井戸に投じたりする」朝鮮人への怒りがあふれたというわけなのである。
上野公園には多くの避難民が流れ込み、混乱を極めていた。作家の佐藤春夫は、町会で自警団として動員され、いもしない敵におびえて深夜の上野公園で右往左往した経験をエッセイに記している。染川が上野公園出口付近を通りかかるのは、その数時間後だ。あるいは浴衣の男は前夜の上野公園で「摘発」されたのだろうか。
染川は、この翌日には冷静さを取り戻し、「朝鮮人暴動」を否定してみせている。「あまりに話がうがちすぎている。…うろたえるにも事を欠いて、憫(あわれ)んで善導せねばならぬ鮮人を、理非も言わせず叩き殺すということは、日本人もあまりに狭量すぎる。今少し落ち着いて考えて見て欲しいと私は思った」。憫(あわれ)んで善導…。
『震災日誌』中には、「(十五銀行)深川支店の前には鮮人が三人殺されて居った。電柱に括り付けられて日本刀で切られて居った。それは山下支店長が実際を見て来ての話であった」という記述もある。
ちなみに朝鮮独立派による関東大震災報告『虐殺』(1924年)に、上野公園付近での朝鮮人の被害として、「重傷3人」と記録されている。名前は「全羅南道光州郡西倉面西竜頭里 金炳権、同道長興郡 李乃善、同道光州郡 李○○」。
(次の更新は3日午後3時ごろを予定しています)
In the morning of September 3, 1923, at Ueno Park, Tokyo
Aizen Shibukawa got angry to think the Korean was one of those criminals. The 43-year old bank staff even felt like getting involved in the attack when witnessing the Korean being battered by crowd.
In fact he laughed off the rumor until the previous day that Koreans had set bombs. But as he listened to youth groups broadcasting crimes allegedly committed by Koreans again and again he began to feel anxiety and found himself believing such rumors.
1923년 9월 3일 오전. 도쿄・우에노 공원(上野公園).
43세의 은행원, 소메카와 아이젠(染川藍泉)은 군중이 조선인을 때리고 있는 현장을 본다. 이 놈이 폭탄을 던졌는가라고 시부카와는 분노를 느껴 때려 죽이고 싶다고 생각한다. 시부카와는 인텔리로서 전날의 낮까지는 그런 뜬소문을 웃고 있었다. 그런데 그 밤, 청년단이 조선인의 범죄를 선전하고 있는 소리를 들어 불안하게 되어, 어느새 뜬소문을 믿게 되었던 것이다.
Antaŭ tagmezo en la 3-a de septembro 1923, la parko Ueno.
Bankisto SHIBUKAWA Aizen 43 jaraĝa propraokule vidis ke popolamaso batis koreon. Li pensis la koreo ĵetis bombon kaj sentis koleron eĉ volis mortigi la koreon batante. Li kiel intelektulo ne kredis onidiron kaj ridis ĝin ĝis la tago de antaŭa tago. Tamen tiu vespere li sentis timon pro la propagando pri krimoj de koreoj fare de junulara asocio. Dum li ne rimarkis, li kredis demagogion.
【1923年9月の四ッ木橋付近】
日本語/English/한국어/Esperanto
1923年9月2日午前5時に、曺仁承(チョ・インスン)さんが薪の山のように積まれた死体を目撃した四ッ木橋の周辺では、その後も数日間、朝鮮人虐殺が繰り返された。
何度か引用してきた、関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会、1992年)には、同会がこの付近で地元のお年寄りから聞き取った証言が数多く紹介されている。毎週日曜日に手分けして地域のお年寄りの家をまわり、100人以上に聞き取りを行った成果であった。その時点で震災から60年が経っていることを思えば、最後の機会を捉えた本当に貴重なものだ。
ただ、60年という歳月のため、日にちや時間などははっきりしないものが多い。また、実名で証言することに二の足を踏む人は、仮名での証言になっている。
私たちのブログは、ある日時を切り取って取り上げることを企画のスタイルとしているが、今回は、9月1日から数日間の四ツ木橋周辺の凄惨な状況を伝えるものとして、これらの貴重な証言をいくつか紹介する。
荒川西岸から木根川橋を望む
「四ッ木の橋のむこう(葛飾側 編者〈ほうせんか〉注)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ッ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ。(中略)雨が降っているときだった。四ツ木の連中がこっちの方に捨てにきた。連れてきて切りつけ、土手下に細長く掘った穴に蹴とばして入れて埋めた」(永井仁三郎さん)
「今の京成荒川駅(現・八広駅)の南側に温泉池という大きな池がありました。泳いだりできる池でした。追い出された朝鮮人7、8人がそこへ逃げこんだので、自警団の人は猟銃をもち出して撃ったんですよ。むこうに行けばむこうから、こっちに来ればこっちから撃ちして、とうとう撃ち殺してしまいましたよ」(井伊〈仮名〉)
「たしか三日の昼だったね。荒川の四ッ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」(青木〈仮名〉)
「上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人くらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは『朝鮮人が井戸に毒を投げた』『婦女暴行をしている』という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが…、わからない。気の毒なことをした。善良な朝鮮人も殺されて。その人は『何もしていない』と泣いて嘆願していた」(池田〈仮名〉)
「警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んではいけないと言ってきた」という証言も出てくる。
同会による「旧四ツ木橋付近 関東大震災 朝鮮人虐殺事件地図」
http://www.maroon.dti.ne.jp/housenka/map.html
上記以外にも、多くの証言が書き込まれている。
かつて旧四ツ木橋がかかり、今も新四ツ木橋や木根川橋などがかかっている「荒川放水路」は、実は人工の川である。1911年に着工し、1930年に完成した。1923年の震災当時はまだ工事中で、土砂を運ぶトロッコが走るレールが河川敷に敷かれていた。建設作業には多くの朝鮮人労働者が従事していた。彼らは、自分たちが建設に尽力した場で殺されたのである。
9月2日から3日にかけて、軍が進駐してくると、今度は機関銃を使った軍による虐殺が始まる。それについての証言は明日、あらためて紹介したいと思う。
2013年9月7日(土)には、上記の本の出版をはじめ、遺骨発掘や朝鮮人虐殺の事実の掘り起こし、そして追悼を続けてきた「一般社団法人ほうせんか(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会)」主催による「韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」がかつての四ッ木橋のたもと付近の河川敷で開かれる。同会は、1982年から毎年、追悼式を続けてきた。
関東大震災90周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式とほうせんかの夕べ
2013年9月7日(土) 15時~ 荒川河川敷(京成押上線八広駅から徒歩5分)
http://moon.ap.teacup.com/housenka/125.html
(次の更新は9月3日昼ごろの予定です)
旧四ッ木橋のたもと付近
September, 1923, in the vicinity of Yotsugibashi Bridge
100 elderly people interviewed in the 1980's by a citizens' group testified that many Koreans were murdered near Yotsugibashi Bridge while taking refuge at the river bank.
The group helds memorial service for the Korean victims every year.
1923년 9월의 요츠기바시(다리의 이름)부근.
80년대에 시민 단체가 노인 100명에게 조사하면 요즈기바시 부근에서의 조선인 학살의 증언이 많이 나왔다. 이 부근은 많은 조선인이 학살된 현장이었다. 시민 단체는 매년 한국・조선인 희생자 추도식을 실시하고 있다.
En septembro 1923, ĉirkaŭ la ponto Yotsugibashi.
En 1980 jaroj civitana grupo enketis maljunulojn. Aperis multaj atestoj de buĉoj al koreoj ĉirkaŭ Yotsugibashi. Ĉirkaŭ ĉi tie estas aktualaj lokoj de buĉoj al multaj koreoj. La civitana grupo funebras koreajn viktimojn ĉiujare.
1923年9月2日午前5時に、曺仁承(チョ・インスン)さんが薪の山のように積まれた死体を目撃した四ッ木橋の周辺では、その後も数日間、朝鮮人虐殺が繰り返された。
何度か引用してきた、関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会、1992年)には、同会がこの付近で地元のお年寄りから聞き取った証言が数多く紹介されている。毎週日曜日に手分けして地域のお年寄りの家をまわり、100人以上に聞き取りを行った成果であった。その時点で震災から60年が経っていることを思えば、最後の機会を捉えた本当に貴重なものだ。
ただ、60年という歳月のため、日にちや時間などははっきりしないものが多い。また、実名で証言することに二の足を踏む人は、仮名での証言になっている。
私たちのブログは、ある日時を切り取って取り上げることを企画のスタイルとしているが、今回は、9月1日から数日間の四ツ木橋周辺の凄惨な状況を伝えるものとして、これらの貴重な証言をいくつか紹介する。
荒川西岸から木根川橋を望む
「四ッ木の橋のむこう(葛飾側 編者〈ほうせんか〉注)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ッ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ。(中略)雨が降っているときだった。四ツ木の連中がこっちの方に捨てにきた。連れてきて切りつけ、土手下に細長く掘った穴に蹴とばして入れて埋めた」(永井仁三郎さん)
「今の京成荒川駅(現・八広駅)の南側に温泉池という大きな池がありました。泳いだりできる池でした。追い出された朝鮮人7、8人がそこへ逃げこんだので、自警団の人は猟銃をもち出して撃ったんですよ。むこうに行けばむこうから、こっちに来ればこっちから撃ちして、とうとう撃ち殺してしまいましたよ」(井伊〈仮名〉)
「たしか三日の昼だったね。荒川の四ッ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」(青木〈仮名〉)
「上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人くらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは『朝鮮人が井戸に毒を投げた』『婦女暴行をしている』という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが…、わからない。気の毒なことをした。善良な朝鮮人も殺されて。その人は『何もしていない』と泣いて嘆願していた」(池田〈仮名〉)
「警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んではいけないと言ってきた」という証言も出てくる。
同会による「旧四ツ木橋付近 関東大震災 朝鮮人虐殺事件地図」
http://www.maroon.dti.ne.jp/housenka/map.html
上記以外にも、多くの証言が書き込まれている。
かつて旧四ツ木橋がかかり、今も新四ツ木橋や木根川橋などがかかっている「荒川放水路」は、実は人工の川である。1911年に着工し、1930年に完成した。1923年の震災当時はまだ工事中で、土砂を運ぶトロッコが走るレールが河川敷に敷かれていた。建設作業には多くの朝鮮人労働者が従事していた。彼らは、自分たちが建設に尽力した場で殺されたのである。
9月2日から3日にかけて、軍が進駐してくると、今度は機関銃を使った軍による虐殺が始まる。それについての証言は明日、あらためて紹介したいと思う。
2013年9月7日(土)には、上記の本の出版をはじめ、遺骨発掘や朝鮮人虐殺の事実の掘り起こし、そして追悼を続けてきた「一般社団法人ほうせんか(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会)」主催による「韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」がかつての四ッ木橋のたもと付近の河川敷で開かれる。同会は、1982年から毎年、追悼式を続けてきた。
関東大震災90周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式とほうせんかの夕べ
2013年9月7日(土) 15時~ 荒川河川敷(京成押上線八広駅から徒歩5分)
http://moon.ap.teacup.com/housenka/125.html
(次の更新は9月3日昼ごろの予定です)
旧四ッ木橋のたもと付近
September, 1923, in the vicinity of Yotsugibashi Bridge
100 elderly people interviewed in the 1980's by a citizens' group testified that many Koreans were murdered near Yotsugibashi Bridge while taking refuge at the river bank.
The group helds memorial service for the Korean victims every year.
1923년 9월의 요츠기바시(다리의 이름)부근.
80년대에 시민 단체가 노인 100명에게 조사하면 요즈기바시 부근에서의 조선인 학살의 증언이 많이 나왔다. 이 부근은 많은 조선인이 학살된 현장이었다. 시민 단체는 매년 한국・조선인 희생자 추도식을 실시하고 있다.
En septembro 1923, ĉirkaŭ la ponto Yotsugibashi.
En 1980 jaroj civitana grupo enketis maljunulojn. Aperis multaj atestoj de buĉoj al koreoj ĉirkaŭ Yotsugibashi. Ĉirkaŭ ĉi tie estas aktualaj lokoj de buĉoj al multaj koreoj. La civitana grupo funebras koreajn viktimojn ĉiujare.
2013年9月2日月曜日
【1923年9月2日午後8時/千歳烏山 椎の木は誰のために(「13本の椎の木」改題】
※2014年2月23日に本文を全面的に改訂しました。
日本語/English/한국어/Esperanto
事件があったと思われる附近
烏山の惨行
9月2日午後8時頃、北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向かって疾走する一台の貨物自動車があって、折から同村へ世田ヶ谷方面から暴徒来襲すと伝えたので、同村青年団、在郷軍人団、消防隊は手に手に竹やり、棍棒、トビ口、刀などをかつぎ出して村の要所要所を厳重に警戒した。
この自動車もたちまち警戒団の取締りを受けたが、車内に米俵、土工(土木工事)用具などとともに内地人(日本人)1名に伴われた朝鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原の土工親方、二階堂左次郎方に止宿して労働に従事していた朝鮮人で、この日、京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼があり、それに赴く途中であった。
朝鮮人と見るや、警戒団の約20名ばかりは自動車を取り巻き二、三、押し問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩(なだ)れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の朝鮮人に重軽傷を負わせ、ひるむと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえりみるものもなかった。
時を経てこれを知った駐在巡査は府中署に急報し、本署から係官が急行して被害者に手当てを加えるとともに、一方で加害者の取調べに着手したが、被害者中の一同1名は翌3日朝、ついに絶命した。(中略)
加害者の警戒団に対しては10月4日から大々的に取調べを開始した。18日までに喚問した村民は50余名におよび、なお目下引き続き署長自ら厳重取調べ中である。
(「東京日日新聞」1923年10月21日付。『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)
※ 読みやすさを考慮して新かなづかいとし、一部の漢字をかなに開き、句読点を打った。「鮮人」も「朝鮮人」に直している。
上記の新聞記事引用に続く、「知らせ隊」による以下の文章の内容について、全面的に訂正します。
(2014年2月23日記)
(以下、内容の訂正が必要な部分を含む、2013年9月執筆の文章)・・・・・・・・・・・・・・・
命を落とした朝鮮人は洪其白(ホン・ギベク)さんら13人。加害者側は12名が「殺人および同未遂」で逮捕された。朝鮮人労働者たちは、京王電車から車庫の工事に向かう途中だったようだ。
震災後、甲州街道は都心から西へ向かう避難民の列がえんえんと続き、なかには力尽きて路上で倒れる人もいたという。そうしたなか、夜更けの道を反対に都心へと向かうトラックを見たとき、自警団の人々はさぞ怪しいと決めつけたに違いない。
世田谷区が発行した『世田谷、町村のおいたち』(1982年刊行)にこの事件についてふれた箇所がある。そこでは、近所に住んでいた徳富蘆花が随筆『ミミズのたはこと』のなかで事件に言及していることを紹介したうえで、こうまとめている。「今も烏山神社(南烏山2丁目)に13本の椎(しい)の木が粛然と立っていますが、これは殺された朝鮮の人13人の霊をとむらって地元の人びとが植えたものです」。
余談になるが、この事件についてネットで調べていたとき、烏山神社の写真を掲載したブログをみつけた。烏山事件の話を人から聞いて、わざわざ神社まで出向いたのだ。だが「ネットで調べても何もひっかからないし、烏山事件なんていうのが史実かどうかも疑わしい」と嘲笑して終わっている。ネットにひっかからない事実などいくらでもある。こうした悲しい歴史に、そんな不遜な態度で向き合ってほしくないと思った。
(以上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
訂正が必要な内容について
上記の文章を全面的に訂正しなければなりません。
事実関係の誤りが二つあります。ひとつは、朝鮮人死者数は『世田谷、町村のおいたち』が記している「13人」ではなく、「1人」(3人の可能性もある)であるということ。もうひとつは、「椎の木は誰のために植えられたか」です。これについては、以下を最後まで読んでいただければと思います。
この記事をアップした後、 荒川の河川敷で慰霊式典を続けている「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の方から、会でまとめた資料集をいただきました。そのなかに、東京日日新聞1923年10月21日付の「府下版」が掲載されていました。そこには、この「烏山事件」で負傷、死亡したすべての朝鮮人の名前が列挙されていたのですが、それによれば、病院まで送られた人が3人で、死者は洪其白さん1人となっていたのです。
追悼する会に確認したところ、「新聞によって幅はあるが、おそらく1人が正しいだろう」との答えをいただきました。たしかに、死者、負傷者について、名前を明記しているのですから、この「府下版」の記事がもっとも信頼できると考えるべきでしょう。死者3人とする史料もあり、入院した3人のうち2人が亡くなった可能性もありますが、冒頭に掲載した東京日日新聞の記事の「被害者中の一同」が死亡したという記述は「被害者中の1名」の誤字と考えるのが妥当だと思われます。つまり、『世田谷、町村のおいたち』は、死者数については誤りだということになります(その場にいた朝鮮人労働者全体の数についても史料によって幅があります)。
しかしそうなると新たな疑問がわいてきます。烏山神社の椎の木は、ではいったい何の目的で植えられたのか。
この疑問を率直にぶつけると、「追悼する会」の方から、今度は87年に発行された『大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞』を送っていただきました。「編者は世田谷区の文化財保護委員や調査員などをやった方で、事件の地元の人です。椎の木は誰のために植えられたのかについて今の時点ではこれ以上に信頼のおけるものは見ていません」というメッセージつきでした。そこには、あのとき起きたことが、古老からの聞き取りをもとに詳しく書かれていました。
まず、事件は、旧甲州街道を横切る烏山川にかかる石橋で、朝鮮人労働者を載せたトラックが崩落箇所にはまり、自警団に包囲されたところから始まったとあります。このブログ記事冒頭の写真(「事件があったと思われる附近」)をよく見ていただくと、左右に小道が横切っているのが分かりますが、これが今は暗渠となっている烏山川であり、事件の現場です。石橋の崩落箇所に…という事件のディティールは、内田良平の記録にも出てきます。その後に起きたことについては、おおよそ東京日日新聞の伝えるとおりです。
そして、烏山神社の椎の木については、『大橋場の跡』は次のように説明しています。
「結局12人の被害者に対して12人の加害者が出てご苦労されている。このとき千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。千歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」
「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない、すべては未曾有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さがおおきく作用したことは厳粛な事実だ」
この一文から分かるのは、植えられた椎の木は朝鮮人犠牲者の供養のためではなく、殺人罪などによって起訴された被告の「ご苦労」をねぎらうために植えられた気配が濃厚であるということです。苦い結論ですが、そのように受け止めざるを得ません。
現時点で分かっているのは以上の内容になります。
ブログ連載企画進行中の昨年9月、誤った説明をお伝えしてしまったことをお詫びします。
釈放された人々とともに椎の木を植えたとき、村の人々の心にどんな思いが交錯していたのか、本当のところはわかりません。なぜ一部で「あの椎の木は死んだ朝鮮人の供養のために植えられたのだ」という話が伝えられてきたのか。それもわかりません。
最後に、当時の東京日日新聞「府下版」が伝えた被害者の名前をあげておきます。
比較的軽傷者:金丁石(25)、魯数珍(20)、李敬植(36)、権宜徳(24)、許衍寛(36)、朴在春(32)、朴道先(32)、朴敬鎮(50)、李永寿(23)、金希伯(34)、高学伊(24)、李洪中(25)、宋学伯(23)、鳳虚到(38)、具鉄元(27)、金珠栄(26)、文己出(26)、閔丙玉(31)、金仁寿(24)、権七奉(23)、鄭三俊(25)。
赤十字病院に送られし者:金奉和(35)、金威光(28)、成●●(32)
絶命した者:洪基台(35)【「洪其白」が正しい】
今も、烏山神社の正面の鳥居をくぐってすぐのあたり、参道の左右に、4本の椎の木がそびえているのを確かめることができます。
(2014年2月23日記)
姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房、1963年)
山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』(緑蔭書房、2004年)関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京フィールドワーク資料(下町以外編)』(冊子、12年1月)
下山照夫編『大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞』(発売・岩田書院、1987年)
烏山神社
事件があったと思われる付近(google map)
烏山神社(google map)
At 20:00pm on September 2nd, 1923, at Chitose-Karasuyama, Tokyo
A vigilante group organized by the villagers pulled 17 Korean workers out of a track at a checkpoint it set up and attaked them with swords and bamboo spears until the the Koreans were mortally wounded. They were actually on the way to downtown Tokyo in response to a request from a railroad company to fix train depots.
One of them died the next morning. 12 out of those involved in the attack were arrested on murder charges.
1923년 9월 2일 오후 8시, 도쿄・치토세카라스야마(千歳烏山).
토쿄 중심으로 향해 가는 트럭을 마을의 자경단이 검문했다. 조선인 17명이 타고 있는 것을 발견하자 마자 칼이나 죽창으로 폭행. 빈사의 중상을 받은 그들을 그 자리에 방치했다. 다음날 아침, 그 중 1명이 죽었다. 조선인들은 노동자이고 철도 회사의 의뢰를 받아 차고의 수리로 향하는 도중이었다. 폭행 실행자 중 12명이 살인죄등에서 체포되었다.
Je la 8-a vespere en la 2-a de septembro 1923, ChitoseKarasuyama, Tokio.
Memgarda grupo kontrolis kamionon al la centro de la urbo. Tuj post la trovo de 17 koreoj, ili perfortis la koreojn per glavoj kaj bambuaj lancoj. Ili lasis tie la koreojn kiuj estis severe vunditaj. En sekvanta mateno, unu koreoj mortis. La koreoj estis laboristoj irantaj al reparo de remizo laŭ la peto de fervoja kompanio.12 el perfortintoj estis arestitaj pro la kulpo de mortigo.
日本語/English/한국어/Esperanto
事件があったと思われる附近
烏山の惨行
9月2日午後8時頃、北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向かって疾走する一台の貨物自動車があって、折から同村へ世田ヶ谷方面から暴徒来襲すと伝えたので、同村青年団、在郷軍人団、消防隊は手に手に竹やり、棍棒、トビ口、刀などをかつぎ出して村の要所要所を厳重に警戒した。
この自動車もたちまち警戒団の取締りを受けたが、車内に米俵、土工(土木工事)用具などとともに内地人(日本人)1名に伴われた朝鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原の土工親方、二階堂左次郎方に止宿して労働に従事していた朝鮮人で、この日、京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼があり、それに赴く途中であった。
朝鮮人と見るや、警戒団の約20名ばかりは自動車を取り巻き二、三、押し問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩(なだ)れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の朝鮮人に重軽傷を負わせ、ひるむと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえりみるものもなかった。
時を経てこれを知った駐在巡査は府中署に急報し、本署から係官が急行して被害者に手当てを加えるとともに、一方で加害者の取調べに着手したが、被害者中の
加害者の警戒団に対しては10月4日から大々的に取調べを開始した。18日までに喚問した村民は50余名におよび、なお目下引き続き署長自ら厳重取調べ中である。
(「東京日日新聞」1923年10月21日付。『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)
※ 読みやすさを考慮して新かなづかいとし、一部の漢字をかなに開き、句読点を打った。「鮮人」も「朝鮮人」に直している。
上記の新聞記事引用に続く、「知らせ隊」による以下の文章の内容について、全面的に訂正します。
(2014年2月23日記)
(以下、内容の訂正が必要な部分を含む、2013年9月執筆の文章)・・・・・・・・・・・・・・・
命を落とした朝鮮人は洪其白(ホン・ギベク)さんら13人。加害者側は12名が「殺人および同未遂」で逮捕された。朝鮮人労働者たちは、京王電車から車庫の工事に向かう途中だったようだ。
震災後、甲州街道は都心から西へ向かう避難民の列がえんえんと続き、なかには力尽きて路上で倒れる人もいたという。そうしたなか、夜更けの道を反対に都心へと向かうトラックを見たとき、自警団の人々はさぞ怪しいと決めつけたに違いない。
世田谷区が発行した『世田谷、町村のおいたち』(1982年刊行)にこの事件についてふれた箇所がある。そこでは、近所に住んでいた徳富蘆花が随筆『ミミズのたはこと』のなかで事件に言及していることを紹介したうえで、こうまとめている。「今も烏山神社(南烏山2丁目)に13本の椎(しい)の木が粛然と立っていますが、これは殺された朝鮮の人13人の霊をとむらって地元の人びとが植えたものです」。
余談になるが、この事件についてネットで調べていたとき、烏山神社の写真を掲載したブログをみつけた。烏山事件の話を人から聞いて、わざわざ神社まで出向いたのだ。だが「ネットで調べても何もひっかからないし、烏山事件なんていうのが史実かどうかも疑わしい」と嘲笑して終わっている。ネットにひっかからない事実などいくらでもある。こうした悲しい歴史に、そんな不遜な態度で向き合ってほしくないと思った。
(以上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
訂正が必要な内容について
上記の文章を全面的に訂正しなければなりません。
事実関係の誤りが二つあります。ひとつは、朝鮮人死者数は『世田谷、町村のおいたち』が記している「13人」ではなく、「1人」(3人の可能性もある)であるということ。もうひとつは、「椎の木は誰のために植えられたか」です。これについては、以下を最後まで読んでいただければと思います。
この記事をアップした後、 荒川の河川敷で慰霊式典を続けている「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の方から、会でまとめた資料集をいただきました。そのなかに、東京日日新聞1923年10月21日付の「府下版」が掲載されていました。そこには、この「烏山事件」で負傷、死亡したすべての朝鮮人の名前が列挙されていたのですが、それによれば、病院まで送られた人が3人で、死者は洪其白さん1人となっていたのです。
追悼する会に確認したところ、「新聞によって幅はあるが、おそらく1人が正しいだろう」との答えをいただきました。たしかに、死者、負傷者について、名前を明記しているのですから、この「府下版」の記事がもっとも信頼できると考えるべきでしょう。死者3人とする史料もあり、入院した3人のうち2人が亡くなった可能性もありますが、冒頭に掲載した東京日日新聞の記事の「被害者中の一同」が死亡したという記述は「被害者中の1名」の誤字と考えるのが妥当だと思われます。つまり、『世田谷、町村のおいたち』は、死者数については誤りだということになります(その場にいた朝鮮人労働者全体の数についても史料によって幅があります)。
しかしそうなると新たな疑問がわいてきます。烏山神社の椎の木は、ではいったい何の目的で植えられたのか。
この疑問を率直にぶつけると、「追悼する会」の方から、今度は87年に発行された『大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞』を送っていただきました。「編者は世田谷区の文化財保護委員や調査員などをやった方で、事件の地元の人です。椎の木は誰のために植えられたのかについて今の時点ではこれ以上に信頼のおけるものは見ていません」というメッセージつきでした。そこには、あのとき起きたことが、古老からの聞き取りをもとに詳しく書かれていました。
まず、事件は、旧甲州街道を横切る烏山川にかかる石橋で、朝鮮人労働者を載せたトラックが崩落箇所にはまり、自警団に包囲されたところから始まったとあります。このブログ記事冒頭の写真(「事件があったと思われる附近」)をよく見ていただくと、左右に小道が横切っているのが分かりますが、これが今は暗渠となっている烏山川であり、事件の現場です。石橋の崩落箇所に…という事件のディティールは、内田良平の記録にも出てきます。その後に起きたことについては、おおよそ東京日日新聞の伝えるとおりです。
そして、烏山神社の椎の木については、『大橋場の跡』は次のように説明しています。
「結局12人の被害者に対して12人の加害者が出てご苦労されている。このとき千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。千歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」
「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない、すべては未曾有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さがおおきく作用したことは厳粛な事実だ」
この一文から分かるのは、植えられた椎の木は朝鮮人犠牲者の供養のためではなく、殺人罪などによって起訴された被告の「ご苦労」をねぎらうために植えられた気配が濃厚であるということです。苦い結論ですが、そのように受け止めざるを得ません。
現時点で分かっているのは以上の内容になります。
ブログ連載企画進行中の昨年9月、誤った説明をお伝えしてしまったことをお詫びします。
釈放された人々とともに椎の木を植えたとき、村の人々の心にどんな思いが交錯していたのか、本当のところはわかりません。なぜ一部で「あの椎の木は死んだ朝鮮人の供養のために植えられたのだ」という話が伝えられてきたのか。それもわかりません。
最後に、当時の東京日日新聞「府下版」が伝えた被害者の名前をあげておきます。
比較的軽傷者:金丁石(25)、魯数珍(20)、李敬植(36)、権宜徳(24)、許衍寛(36)、朴在春(32)、朴道先(32)、朴敬鎮(50)、李永寿(23)、金希伯(34)、高学伊(24)、李洪中(25)、宋学伯(23)、鳳虚到(38)、具鉄元(27)、金珠栄(26)、文己出(26)、閔丙玉(31)、金仁寿(24)、権七奉(23)、鄭三俊(25)。
赤十字病院に送られし者:金奉和(35)、金威光(28)、成●●(32)
絶命した者:洪基台(35)【「洪其白」が正しい】
今も、烏山神社の正面の鳥居をくぐってすぐのあたり、参道の左右に、4本の椎の木がそびえているのを確かめることができます。
(2014年2月23日記)
姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房、1963年)
山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』(緑蔭書房、2004年)関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京フィールドワーク資料(下町以外編)』(冊子、12年1月)
下山照夫編『大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞』(発売・岩田書院、1987年)
烏山神社
事件があったと思われる付近(google map)
烏山神社(google map)
At 20:00pm on September 2nd, 1923, at Chitose-Karasuyama, Tokyo
A vigilante group organized by the villagers pulled 17 Korean workers out of a track at a checkpoint it set up and attaked them with swords and bamboo spears until the the Koreans were mortally wounded. They were actually on the way to downtown Tokyo in response to a request from a railroad company to fix train depots.
One of them died the next morning. 12 out of those involved in the attack were arrested on murder charges.
1923년 9월 2일 오후 8시, 도쿄・치토세카라스야마(千歳烏山).
토쿄 중심으로 향해 가는 트럭을 마을의 자경단이 검문했다. 조선인 17명이 타고 있는 것을 발견하자 마자 칼이나 죽창으로 폭행. 빈사의 중상을 받은 그들을 그 자리에 방치했다. 다음날 아침, 그 중 1명이 죽었다. 조선인들은 노동자이고 철도 회사의 의뢰를 받아 차고의 수리로 향하는 도중이었다. 폭행 실행자 중 12명이 살인죄등에서 체포되었다.
Je la 8-a vespere en la 2-a de septembro 1923, ChitoseKarasuyama, Tokio.
Memgarda grupo kontrolis kamionon al la centro de la urbo. Tuj post la trovo de 17 koreoj, ili perfortis la koreojn per glavoj kaj bambuaj lancoj. Ili lasis tie la koreojn kiuj estis severe vunditaj. En sekvanta mateno, unu koreoj mortis. La koreoj estis laboristoj irantaj al reparo de remizo laŭ la peto de fervoja kompanio.12 el perfortintoj estis arestitaj pro la kulpo de mortigo.
【1923年9月2日午後2時/亀戸駅付近 騒擾の街】
日本語/English/한국어/esperanto
亀戸駅前にて
そして「敵は帝都にあり」というわけで、実弾と銃剣をふるって侵入したのであるから仲々すさまじかったわけである。ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは9月2日の時刻にして正午少し前であったろうか。とにかく恐ろしく急であった。(中略)
二日分の糧食および馬糧、予備蹄鉄まで携行、実弾は60発。将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮命令をしたのであるからさながら戦争気分!そして何が何やら分からぬままに疾風のように兵営を後にして、千葉街道を一路砂塵をあげてぶっ続けに飛ばしたのである。
亀戸に到着したのが午後の2時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先ず、列車改め、というのをやった。将校は抜剣して列車の内外を調べ回った。どの列車も超満員で、機関車に積まれてある石炭の上まで蝿のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声―国賊!朝鮮人は皆殺しにしろ!
ぼくたちの連隊はこれを劈頭の血祭りにし、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやり出した。
越中谷利一「関東大震災の思い出」(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』収録)
越中谷利一は1901年生まれ。21年に習志野騎兵連隊に入隊。関東大震災の出動時に反抗的な態度をとったために直後に除隊させられたという。のちにプロレタリア作家となる。「関東大震災の思い出」は戦後に書かれたもの。
軍は、1日には警視庁の要請を受けて各地に出動したが、やはり「朝鮮人暴動」を事実と考え、幻の朝鮮人暴徒を探して走り回っていた。2日夕方には東京では戒厳令が施行される。
本所や深川を全焼させた火災は、亀戸駅の西を南北に走る横十間川で止まったため、亀戸駅周辺は避難民であふれかえり、大混乱だった。そうしたなかで、「不逞鮮人」が襲ってくるという流言が広がり、街の随所で騒ぎが起きていた。「殆んど狂的に昂奮せる住民は良否の区別なく鮮人に対し暴行するのみならず、或は警鐘を乱打し或は小銃を発射するものあり」(「騎兵第十三連隊機関銃隊 陸軍騎兵大尉 岩田文三外五十二名」勲功具状、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)という状況。亀戸駅内も「秩序全く乱れ、悲鳴喚叫修羅場の如し」であった。岩田大尉の機関銃隊は喚声のあがる場所を求めて走り回り、3日朝まで一睡もできなかった。
『風よ鳳仙花の歌を運べ』には、亀戸で青年団の役員をしていた岡村金三郎さん(当時21歳)の話が出てくる。岡村さんは9月2日、「一般の者も刀や鉄砲を持て」と軍に命令されたという。「それでみんな家にある先祖伝来の刀や猟銃を持って朝鮮人を殺った。それはもうひどいもんですよ。十間川にとびこんだ朝鮮人は猟銃で撃たれました。2日か3日の晩は大変だったんですよ」。
周辺地域での軍の殺害についてはさまざまな記録や証言があるが、亀戸駅付近においては、軍が朝鮮人に対して直接、手を下したかどうかについては具体的な記録がないようだ。しかし「この時点では軍隊、警察も朝鮮人暴動の流言を信じこんでいた。9月2日の夜に朝鮮人を殺傷したのが一般の民衆だけだったとは考えにくい」と同書は指摘している。
亀戸駅(google map)
(次の更新予定は2日午後8時です)
Je la 2-a postotagmeze en la 2-a de septembro 1923, en la stacidomo Kameido, Tokio. Laŭ la proklamo de sieĝostato, la trupo de japana armeo intermetis. La trupo al kiu japana soldato ETTYUYA Riichi (poste igxis verkisto) apartenis, ĉe la stacidomo Kameido kaptis koreojn kiuj veturas en vagonaro. Vidante armeon trovi koreojn kaj mortigi ilin per glavo, japana popolamaso bravokriis “Tutmortigu koreojn!”
1923년 9월 2일 오후 2시. 도쿄・카메이도역. 병사, 월나카타니 리이치(越中谷利一 후년에 작가에)가 소속하는 군의 부대는 카메이도역에서 열차를 탄 조선인을 적발한다. 조선인을 발견해 칼로 베어 버리는 군의 행동에 군중은 갈채를 외친다. “조선인은 몰살로 해라!”.
At 14:00pm on September 2nd, 1923 at Kameido train station, Tokyo
The army unit Riichi Ecchuuya (later to becomea novelist) was assigned to was ordered to crack down local Koreans.
At Kameido station the unit discovered some Koreans in a train. The crowd erupted into cheers and shouted, “Exterminate Koreans!” as they were killed with sword.
亀戸駅前にて
そして「敵は帝都にあり」というわけで、実弾と銃剣をふるって侵入したのであるから仲々すさまじかったわけである。ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは9月2日の時刻にして正午少し前であったろうか。とにかく恐ろしく急であった。(中略)
二日分の糧食および馬糧、予備蹄鉄まで携行、実弾は60発。将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮命令をしたのであるからさながら戦争気分!そして何が何やら分からぬままに疾風のように兵営を後にして、千葉街道を一路砂塵をあげてぶっ続けに飛ばしたのである。
亀戸に到着したのが午後の2時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先ず、列車改め、というのをやった。将校は抜剣して列車の内外を調べ回った。どの列車も超満員で、機関車に積まれてある石炭の上まで蝿のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声―国賊!朝鮮人は皆殺しにしろ!
ぼくたちの連隊はこれを劈頭の血祭りにし、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやり出した。
越中谷利一「関東大震災の思い出」(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』収録)
越中谷利一は1901年生まれ。21年に習志野騎兵連隊に入隊。関東大震災の出動時に反抗的な態度をとったために直後に除隊させられたという。のちにプロレタリア作家となる。「関東大震災の思い出」は戦後に書かれたもの。
軍は、1日には警視庁の要請を受けて各地に出動したが、やはり「朝鮮人暴動」を事実と考え、幻の朝鮮人暴徒を探して走り回っていた。2日夕方には東京では戒厳令が施行される。
本所や深川を全焼させた火災は、亀戸駅の西を南北に走る横十間川で止まったため、亀戸駅周辺は避難民であふれかえり、大混乱だった。そうしたなかで、「不逞鮮人」が襲ってくるという流言が広がり、街の随所で騒ぎが起きていた。「殆んど狂的に昂奮せる住民は良否の区別なく鮮人に対し暴行するのみならず、或は警鐘を乱打し或は小銃を発射するものあり」(「騎兵第十三連隊機関銃隊 陸軍騎兵大尉 岩田文三外五十二名」勲功具状、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)という状況。亀戸駅内も「秩序全く乱れ、悲鳴喚叫修羅場の如し」であった。岩田大尉の機関銃隊は喚声のあがる場所を求めて走り回り、3日朝まで一睡もできなかった。
『風よ鳳仙花の歌を運べ』には、亀戸で青年団の役員をしていた岡村金三郎さん(当時21歳)の話が出てくる。岡村さんは9月2日、「一般の者も刀や鉄砲を持て」と軍に命令されたという。「それでみんな家にある先祖伝来の刀や猟銃を持って朝鮮人を殺った。それはもうひどいもんですよ。十間川にとびこんだ朝鮮人は猟銃で撃たれました。2日か3日の晩は大変だったんですよ」。
周辺地域での軍の殺害についてはさまざまな記録や証言があるが、亀戸駅付近においては、軍が朝鮮人に対して直接、手を下したかどうかについては具体的な記録がないようだ。しかし「この時点では軍隊、警察も朝鮮人暴動の流言を信じこんでいた。9月2日の夜に朝鮮人を殺傷したのが一般の民衆だけだったとは考えにくい」と同書は指摘している。
亀戸駅(google map)
(次の更新予定は2日午後8時です)
Je la 2-a postotagmeze en la 2-a de septembro 1923, en la stacidomo Kameido, Tokio. Laŭ la proklamo de sieĝostato, la trupo de japana armeo intermetis. La trupo al kiu japana soldato ETTYUYA Riichi (poste igxis verkisto) apartenis, ĉe la stacidomo Kameido kaptis koreojn kiuj veturas en vagonaro. Vidante armeon trovi koreojn kaj mortigi ilin per glavo, japana popolamaso bravokriis “Tutmortigu koreojn!”
1923년 9월 2일 오후 2시. 도쿄・카메이도역. 병사, 월나카타니 리이치(越中谷利一 후년에 작가에)가 소속하는 군의 부대는 카메이도역에서 열차를 탄 조선인을 적발한다. 조선인을 발견해 칼로 베어 버리는 군의 행동에 군중은 갈채를 외친다. “조선인은 몰살로 해라!”.
At 14:00pm on September 2nd, 1923 at Kameido train station, Tokyo
The army unit Riichi Ecchuuya (later to becomea novelist) was assigned to was ordered to crack down local Koreans.
At Kameido station the unit discovered some Koreans in a train. The crowd erupted into cheers and shouted, “Exterminate Koreans!” as they were killed with sword.
【1923年9月2日昼/神楽坂下 警察署前の凶行】
日本語/English/한국어/esperanto
ともかく、神楽坂警察署の前あたりは、ただごととは思えない人だかりであった。自動車も一時動かなくなってしまったので、わたくしは車から下りて、その人だかりの方に近よって行った。群集の肩ごしにのぞきこむと、人だかりの中心に二人の人間がいて、腕をつかまれてもみくしゃにされながら、警察の方へ押しこくられているのだ。(中略)
突然、トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、力まかせに、つかまった二人のうち、一歩おくれていた方の男の頭めがけて振りおろしかけた。わたくしは、あっと呼吸をのんだ。ゴツンとにぶい音がして、なぐられた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭に振りおろしたのである。ズブリと刃先が突きささったようで、わたくしはその音を聞くと思わず声をあげて、目をつぶってしまった。
ふしぎなことに、その兇悪な犯行に対して、だれもとめようとしないのだ。そして、まともにトビ口を受けたその男を、かつぐようにして、今度は急に足が早くなり、警察の門内に押し入れると、大ぜいの人間がますます狂乱状態になって、ぐったりした男をなぐる、ける、大あばれをしながら警察の玄関の中に投げ入れた。(中略)
人もまばらになった警察の黒い板塀に、大きなはり紙がしてあった。それには、警察署の名で、れいれいと、目下東京市内の混乱につけこんで「不逞鮮人」の一派がいたるところで暴動を起こそうとしている模様だから、市民は厳重に警戒せよ、と書いてあった。トビ口をまともに頭にうけて、殺されたか、重傷を負ったかしたにちがいないあの男は、朝鮮人だったのだな、とはじめてわかった。
(中島健蔵『昭和時代』岩波新書)
文芸評論家の中島健蔵による回想。当時、彼は18歳で、旧制高等学校生徒だった。被害のなかった駒沢の自宅から、親類の安否確認のために車で小石川に向かう途中、この出来事に出会う。神楽坂署は、現在の神楽坂下、牛込橋のたもとにあった。
中島は「トビ口が朝鮮人らしい男の頭に振りおろされた瞬間、わたくしは、あやうく、もどしそうになった」という。突然のショッキングな光景にパニックを起こした中島の一行はあわてて車に戻り、猛烈な勢いでその場を立ち去る。西大久保の親友の家に立ち寄ると、そこはまだ平和そのものの雰囲気で、彼が神楽坂で見た光景を訴えても、友人たちは誰も本気にせず、笑って取り合わなかった。
だがその日の夕方には「『不逞鮮人』さわぎ」は彼の住む駒沢まで波及してくる。半鐘が打ち鳴らされ、「朝鮮人が爆弾を持って襲ってくる!」という大声が響く。村会の指示で自警団が組織され、彼もまた短刀をもって動員された。
「やがて世田谷の方から、一台の軍用トラックがゆっくりと動いてきた。本物の軍隊の出動である。そのトラックを囲むようにして、着剣した兵士が、重々しく走ってくる。これでもう疑う余地がなくなってしまった。今にも銃声が起り、爆音がとどろきそうであった。そのころには、東京中が、恐慌状態になっていたのである」
流言を事実と考えた各地の警察が張り紙やメガホンでそれを拡大し、軍の出動が人々に「朝鮮人暴動」を確信させることになった。
この日から猛烈な勢いで自警団が各地に誕生し(東京府・市だけで1000以上)、街角で道行く人を誰何しては「バビブベボと言ってみろ」「教育勅語を読んでみろ」と詰問し、朝鮮人の疑いがあれば殴ったり殺したり、よくて警察に突き出すのである。
神楽坂警察署があったおおよその位置(google map)
On September 2, 1923, around midday, at Kagurazaka, Tokyo
A high school student, Kenzo Nakajima (later to become a literary critic), felt like throwing up when he witnessed crowd stabbing a Korean with knives in the head in front of a police station with a sign saying, “Warning! Dangerous Koreans”.
1923년 9월 2일.낮.도쿄・카구라자카.
고등학교학생의 나카지마 겐조(中島健蔵 나중에 문예 평론가가 되다)는 경찰서 앞에서 군중이 조선인 남자의 머리에 칼날을 찌르는 순간을 목격해 구역질이 났다. 경찰서에는 “위험한 조선인을 경계하라”라는 게시가 경찰의 이름으로 내걸어 있었다.
Tagmeze de la 2-a de septembro 1923 en Kagurazaka, Tokio. Japana lernanto de gimnazio NAKAZIMA Kenzo (poste iĝis literatura eseisto) rigardis koreon kies kapo estis pikita per tranĉilo fare de japana popolamaso, kaj naŭziĝis. En policejo li rigardis la afiŝon sub la nomo de polico “Gardu kontraŭ danĝera koreo.”
ともかく、神楽坂警察署の前あたりは、ただごととは思えない人だかりであった。自動車も一時動かなくなってしまったので、わたくしは車から下りて、その人だかりの方に近よって行った。群集の肩ごしにのぞきこむと、人だかりの中心に二人の人間がいて、腕をつかまれてもみくしゃにされながら、警察の方へ押しこくられているのだ。(中略)
突然、トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、力まかせに、つかまった二人のうち、一歩おくれていた方の男の頭めがけて振りおろしかけた。わたくしは、あっと呼吸をのんだ。ゴツンとにぶい音がして、なぐられた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭に振りおろしたのである。ズブリと刃先が突きささったようで、わたくしはその音を聞くと思わず声をあげて、目をつぶってしまった。
ふしぎなことに、その兇悪な犯行に対して、だれもとめようとしないのだ。そして、まともにトビ口を受けたその男を、かつぐようにして、今度は急に足が早くなり、警察の門内に押し入れると、大ぜいの人間がますます狂乱状態になって、ぐったりした男をなぐる、ける、大あばれをしながら警察の玄関の中に投げ入れた。(中略)
人もまばらになった警察の黒い板塀に、大きなはり紙がしてあった。それには、警察署の名で、れいれいと、目下東京市内の混乱につけこんで「不逞鮮人」の一派がいたるところで暴動を起こそうとしている模様だから、市民は厳重に警戒せよ、と書いてあった。トビ口をまともに頭にうけて、殺されたか、重傷を負ったかしたにちがいないあの男は、朝鮮人だったのだな、とはじめてわかった。
(中島健蔵『昭和時代』岩波新書)
文芸評論家の中島健蔵による回想。当時、彼は18歳で、旧制高等学校生徒だった。被害のなかった駒沢の自宅から、親類の安否確認のために車で小石川に向かう途中、この出来事に出会う。神楽坂署は、現在の神楽坂下、牛込橋のたもとにあった。
中島は「トビ口が朝鮮人らしい男の頭に振りおろされた瞬間、わたくしは、あやうく、もどしそうになった」という。突然のショッキングな光景にパニックを起こした中島の一行はあわてて車に戻り、猛烈な勢いでその場を立ち去る。西大久保の親友の家に立ち寄ると、そこはまだ平和そのものの雰囲気で、彼が神楽坂で見た光景を訴えても、友人たちは誰も本気にせず、笑って取り合わなかった。
だがその日の夕方には「『不逞鮮人』さわぎ」は彼の住む駒沢まで波及してくる。半鐘が打ち鳴らされ、「朝鮮人が爆弾を持って襲ってくる!」という大声が響く。村会の指示で自警団が組織され、彼もまた短刀をもって動員された。
「やがて世田谷の方から、一台の軍用トラックがゆっくりと動いてきた。本物の軍隊の出動である。そのトラックを囲むようにして、着剣した兵士が、重々しく走ってくる。これでもう疑う余地がなくなってしまった。今にも銃声が起り、爆音がとどろきそうであった。そのころには、東京中が、恐慌状態になっていたのである」
流言を事実と考えた各地の警察が張り紙やメガホンでそれを拡大し、軍の出動が人々に「朝鮮人暴動」を確信させることになった。
この日から猛烈な勢いで自警団が各地に誕生し(東京府・市だけで1000以上)、街角で道行く人を誰何しては「バビブベボと言ってみろ」「教育勅語を読んでみろ」と詰問し、朝鮮人の疑いがあれば殴ったり殺したり、よくて警察に突き出すのである。
神楽坂警察署があったおおよその位置(google map)
On September 2, 1923, around midday, at Kagurazaka, Tokyo
A high school student, Kenzo Nakajima (later to become a literary critic), felt like throwing up when he witnessed crowd stabbing a Korean with knives in the head in front of a police station with a sign saying, “Warning! Dangerous Koreans”.
1923년 9월 2일.낮.도쿄・카구라자카.
고등학교학생의 나카지마 겐조(中島健蔵 나중에 문예 평론가가 되다)는 경찰서 앞에서 군중이 조선인 남자의 머리에 칼날을 찌르는 순간을 목격해 구역질이 났다. 경찰서에는 “위험한 조선인을 경계하라”라는 게시가 경찰의 이름으로 내걸어 있었다.
Tagmeze de la 2-a de septembro 1923 en Kagurazaka, Tokio. Japana lernanto de gimnazio NAKAZIMA Kenzo (poste iĝis literatura eseisto) rigardis koreon kies kapo estis pikita per tranĉilo fare de japana popolamaso, kaj naŭziĝis. En policejo li rigardis la afiŝon sub la nomo de polico “Gardu kontraŭ danĝera koreo.”
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