2013年10月3日木曜日

【俯瞰的な視点① 虐殺はなぜ起こったのか】

「遅くとも9月末には更新を終了する」と大見得を切って始めたこのブログですが、10月に入ってしまいました。4日(金)までには終了させますので、今しばらくお付き合いください。

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この1ヶ月、私たちは、90年まえの9月に起こったことを、東京を中心に様々な現場でみてきた。このブログの目的は、俯瞰的な解説をすることよりも、当時の朝鮮人や日本人、そして中国人が見たもの、経験したものを、その現場で目撃し、読者のみなさんと共有していくことにあったからだ。

とはいえ、多くの人の心中には、疑問が残るのではないだろうか。いったいどうしてこんなことが起きてしまったのか。だが、歴史学者でもない私たちには、自信をもって俯瞰的な説明をする能力はない。

それでも、朝鮮人虐殺について研究してきた人々の言葉を読んできたなかで素人なりに理解したことを、簡単に書いておこうと思う。とはいえ、こうしたまとめ方は不得手な私たちであるから、足りない部分もあるかと思う。よりくわしく正確に知りたい人は、これまで紹介してきた書籍に直接あたっていただければ幸いである。





「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れている」といった流言が、どこでなぜ発生したのか。これについては、はっきりしたことは言えないようだ。震災直後の流言は朝鮮人についてのものだけに限らなかった。「今日の午後3時に再び地震が、あるいは津波が来る」「地震は某国が人工的に引き起こしたものだ」「富士山も噴火する」など、さまざまだった。攻めてくるのも、朝鮮人ではなくて「大本教信者」というバージョンもあった。

それでも、もっとも猛威を振るったのはやはり朝鮮人暴動の流言だった。突然の地震と火事ですべてを失った人々の驚き、恐怖、怒りをぶつける対象として、朝鮮人が選ばれたのだろうか。先に紹介した、児童の作文を集めた『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』のなかに、焼け焦げた橋のうえで刃物をもって立ち、通行人を誰彼かまわず詰問する男の話が出てくる。「俺の子どもを連れ去ったのはお前だろう!子どもを返せ!」と男は叫ぶのである。

だがそうした感情をぶつける対象として朝鮮人が選ばれたのは、決してたまたまのことではない。その背景には、植民地支配に由来する朝鮮人蔑視があり(上野公園の銀行員を想起してほしい)、4年前の三一独立運動以降の、いつか復讐されるではないかという恐怖心や罪悪感があった。そうした感情が差別意識を作り出し、目の前の朝鮮人を「非人間」化してしまう。過剰な防衛意識に発した暴力は、「非人間」に対するサディスティックな暴力へと肥大化していく。

しかし、庶民の差別意識だけでは、惨事はあそこまで拡大しなかった。事態を拡大させ、深刻化させたのは治安行政・警察であり、軍である。水野錬太郎内相を頂点として治安にかかわる人々は、地震と火災によって東京が壊滅的な被害を受ける様を目前にしたとき、まっさきに反政府暴動を警戒するという発想に陥ってしまった。さらに彼らは、独立運動を取り締まる者として、普通の庶民以上に朝鮮人への差別意識と強い敵意をもっていた。

だからこそ、朝鮮人暴動の流言に接したとき、警官や官僚の一部は「さもありなん」と考えて疑わずに拡散してしまったのである。震災初日にはメガフォンを口に当てて「朝鮮人襲来」を宣伝して回る警官たちが現われる。これらは現場の勝手な判断だろう。しかし翌日には、警視庁中枢さえも流言を「現実」と受け止めてしまう。

「急ぎ帰りますれば警視庁前はすでに物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。(中略)しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうち、ようやく夜の10時頃に至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。(中略)警視庁当局として誠に面目なき次第でありますが(後略)」(正力松太郎『米騒動や大震災の思い出』読売新聞社冊子 1944年2月刊。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)。

後に読売新聞の中興の祖となる正力松太郎は当時、警視庁官房主事という、警視総監に次ぐ地位にあったが、少なくとも9月2日の1日間は、流言を信じて行動していたのである。正力よりもっと上位である内務省警保局の後藤文夫局長も「不逞鮮人が各地で放火しているので厳しく取り締まってほしい」という趣旨の通牒を各県知事に発している。それが、たとえば埼玉県では熊谷市や寄居町などでの凶行に帰結した。妄想は中枢から現場へと還流していったのだ。

右翼の憲法学者として高名な上杉慎吉は、「関東全体を挙げて動乱の状況を呈するに至ったのは、主として警察官憲が自動車ポスター口達者の主張による大袈裟なる宣伝に由れることは、市民を挙げて目撃体験せる疑うべからざる事実である」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)と書いている。要するに警察は、流言にお墨付きを与えて拡散し、自警団による虐殺を後押ししてしまったのである。これによって、朝鮮人迫害は一部の地域から関東全域へと広がってしまう。

さらに、戒厳令によって強大な権限を与えられた軍も、同様に迫害を後押しする役割を果たす。王希天の記事のなかで紹介した「久保野日記」には、「軍隊が到着するや在郷軍人等非常なものだ。鮮人と見るやものも云わず、大道であろうが何処であろうが斬殺してしまうた。そして川に投げこんでしまう。余等見たのばかりで、20人一かたまり、4人、8人、皆地方人(民間人)に斬殺されてしまっていた」という一節がある。ものものしく武装した軍の登場は、戦争が本当に起こっていることを人々に確信させたのだ。

軍の場合、それだけではすまなかった。司令部の意図はともかく、現場の軍部隊には朝鮮人を敵として戦争をしているかのような雰囲気があり、実際に多くの朝鮮人が虐殺された。当時の軍は、三一運動を弾圧し、シベリア出兵では村を焼き払うような対ゲリラ戦を経験している(シベリア出兵帰りは自警団の中核をなす在郷軍人にも多かった)。イラクやアフガンでの米軍の行動を思い出してほしい。こうした軍事の論理がそのまま東京に持ち込まれたのだ。

軍が殺害した人数は、公式の記録では朝鮮人57~60人、中国人200人(東大島の件。軍は朝鮮人だとしている)、日本人23~25人(『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』)。このなかには、「9月3日午後4時 永代橋付近」の記事で取り上げた事例も含まれている。軍はこれらについてすべて適正な武器使用だったとしているが、状況説明記録を読んでも、とてもそうは思えない。また、これらの記録に入っていない虐殺の証言も多数あり、公式記録に残っているのは軍による殺害の一部にすぎないと思われる。

陸軍少将でもある津野田是重代議士は当時、「戒厳部当局は当時あたかも敵国が国内にでも乱入した場合のようなやりかたをしたのではなかったろうか」と軍の行動を批判した(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。

関東大震災時の朝鮮人虐殺は、普通の人々の間に根ざした差別意識に始まり、避難民の群れを見て真っ先に暴動の心配をするような治安優先の発想(と庶民以上の差別意識)をもつ行政が拡大させ、さらにこれに、朝鮮やシベリアで弾圧や対ゲリラ戦を戦ってきた軍が「軍事の論理」を加えることで、一層深刻化したということが言えそうである。



参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』、山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(創史社)、姜徳相『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)、琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』(緑蔭書房)