2013年9月21日土曜日

【「あの朝鮮人たちに指一本ふれさせねえぞ」。 朝鮮人を「かくまった」庶民について考える】 

日本語/English


ところが、3丁目と馬込沢の自警団が凶器をもって「丸山に朝鮮人が二人いるが、あれを生かしておいてはならん」といって押しかけてきたんです。(中略)だから徳田安蔵だの富蔵だのの連中は「奴ら、今夜来るに相違ないが、来ても渡すまい。奴らが来ればすぐ殺されちゃう。悪いことしてない人間だし、村の人と愛情をともにしてた人間だから、いくら朝鮮人でも渡さない」ってね。(中略)

丸山の自警団は5~6人くらいで2人を守るため、鉢巻をしめて人数は少ないけど威厳をみせていたわけだ。彼らは40人くらい来たですよ。鉄砲もったり、刀もったり、槍もったりね。まわりに竹薮のある丘の高い所に丸山がいて、下に彼らがいるわけです。奴らは渡せという、こっちは渡さないという。(中略)

徳田オサムが先頭に立って「何も悪いことをしないのに殺すことはねえ、おめえたちには迷惑かけない。俺ら若いもんでもって警察に送り届けるからケエレ!」ってわけでね、やつは身体は小さかったが、けんかは強かったからね。そしたら向こうで「何オーこの! テメエから先ブッ殺すゾォ」なんていいました。そしたら安蔵がね、あのころ45歳くらい(40歳前後の誤り)だったかね。「殺すなら殺してみろ、テメェラがいくらがんばったって俺ら絶対に生命かけたって渡しゃしねえからな」「殺すなら俺こと先殺せ!」なんて言った。

その威厳に驚いて、これじゃしかたないと思ったのか、まさか日本人を殺すわけにいかないから、最後に「それじあお前たち、必ず警察に届けるか」「届ける!それくらいのこと何だ!あの朝鮮人たちに指一本でも触れさせねえぞ、おめえたちに殺す資格ネェだからなあ」と怒鳴り返した。とうとう奴ら「必ずめいわくかけねえなあ」なんていって、けんか別れになった。

その晩はみんなで交代で寝ずに2人の朝鮮人を番してたわけです。それは震災から4日だったか、その次の日船橋警察署に届けました。それから習志野の鉄条網かこった朝鮮人収容所ってところへ送られたということです。そこへ送られたものは憲兵が守ったらしい。

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』)



丸山集落に住んでいた徳田慶蔵さんの証言である。慶蔵さんは当時24歳。集落の「若いもん」だった。

丸山集落は、現在の千葉県船橋市丸山。当時は法典村に属していた。住民は20戸程度で、整備された水田もない、小さく貧しい集落である。土地をもっているのは2軒だけで、残りはみな、小作人だった。

丸山には、2年前から2人の朝鮮人がいた。日本名は「福田」と「木下」。北総鉄道の建設工事で来ていた人々で、工事が終わったあとも、丸山にあったお堂を借りて住んでいたのである。2人は集落に溶け込んでいた。住民の武藤よしさんは、丸顔の福田さんが毎日のように武藤家に来ては話し込んでいったのをおぼえている。

「丸山から死人を出すな」「あの2人は奴らに渡さない」。集落の人々を説得し、団結させたのは、徳田安蔵さん(当時40歳前後)だ。背は低いが迫力があり、間違っていると思えば村長でも怒鳴りつける正義感の強さで、丸山の人々に一目置かれていた。

船橋周辺では、1923年9月4日、自警団による朝鮮人虐殺が各地で繰り返された。もっとも規模が大きかったのは船橋駅北口附近で、38人が殺害された。安蔵さんはこの虐殺を目の当たりにしていた。幼い子どもが「アイゴー」と泣き叫んでいる姿が目に焼きついている、と晩年にも語っている。懇意にしている福田さんと木下さんがあのように殺されるのを黙ってみていることはできなかった。

小さく貧しい丸山集落にとって、周辺集落の意向に逆らうのはあまりにも危険な行動だったはずだ。だが、丸山の人々は安蔵さんの言葉に共感して一丸となり、手に手にカマ、クワ、さらには「肥やしかき棒」まで握って、自警団の集落侵入を防いだのである。徳田慶蔵さんは後に、あのときなぜできたのかを考えると不思議に思う、と語っている。

寝ずの番をして2人を守った翌日(5日ごろ?)、丸山の人々は2人を警察署に連れて行った。このまま集落で守り続けるのは不可能に思われたのだ。「送っていくときには、泣き別れでした」と武藤さんは語っている。

1年後、習志野の収容所に入っていた2人は無事に解放され、あいさつに来た。「そんとき、ひょうきんな人が『おメェら、生命助かってメデテェだから、朝鮮の踊りみたことねえから、知ってたら踊ってみせてくんねえか』っていったら、2人で涙流しながら、アリラン、アリランと踊ってくれましたよ」(徳田慶蔵さん)。

徳田安蔵さんはその後、丸山で農民組合を結成し、小作人の権利のために闘った。他地域の小作争議に応援に行っては、警察に何度も逮捕され、家宅捜索も受けたが、屈しなかった。1926年に労働農民党が結成されると、その党員にもなった。1969年、86歳で亡くなった。

武藤よしさんの夫、韻蔵さんはその後も、朝鮮人の屑買いが来ると何時間も話し込むのが常だった。「朝鮮人も日本人も同じだ」と。晩年は、船橋市で行われていた朝鮮人虐殺の慰霊祭に毎年参加していたという。



関東大震災時の朝鮮人虐殺の記録を読んでいると、朝鮮人をかくまった日本人もいたことがわかる。あれほど軽々と多くの朝鮮人の生命が奪われている最中でも、ひそかに、ときに公然と朝鮮人をかくまった人の記録にしばしば出会うのである。屋根裏にかくした、殺されようとしている子どもを連れて逃げた等である。

「朝鮮人を守った日本人」の話として最も有名なのは横浜の潮見警察署署長の大川常吉だろう。警察署を包囲した1000人の群衆を前に「朝鮮人を奪取するなら君らと死ぬまで戦う」と宣言したといわれる。

この逸話は90年代に一世を風靡した自由主義史観研究会編のベストセラー『教科書が教えない歴史』にも登場した。同書のコンセプトは、子どもや若者が日本を誇らしく思えるような歴史エピソードを集めるというものだったと記憶する。だが私たちは、こうした文脈で大川署長が取り上げられることには違和感をもつ。

もちろん大川署長は尊敬すべき人物である。しかし、多くの日本人が、警察や軍も含めて朝鮮人虐殺に手を染めたときに、それを拒絶した人物を、後世の日本人が「誇れる日本人」という仕方で称揚するのは何かがおかしい。朝鮮人虐殺が私たちにとって明らかに「誇れない歴史」であることをまず認識すべきだ。一人のシンドラーでドイツやナチスを免罪することはできないのと同じである。「都合がよすぎる」と言われても文句は言えまい。

もうひとつ、虐殺を拒絶した日本人は多く存在するのに、なぜそのなかから警察署長だけを選ぶのか、という違和感である。朝鮮人をかくまった人の多くは庶民である。下宿人を空き部屋に隠した下宿屋。隣人を集落でかくまった小作人。同僚を取り囲んで警察に送り届けた工員。列車で隣り合った朝鮮人学生のために「俺が朝鮮人ならどうするんだ」と自警団に食ってかかり、自らが連れて行かれた学生。彼らが守りたかったのは、隣の誰かとの小さな結びつきであって、「日本人の誇り」ではない。

自由主義史観研究会の人々にとって「守った日本人」が庶民ではなく、警察署長でなくてはならないのはなぜか。彼らが誇りたい、擁護したい「日本」が、理性を失った群衆を一喝する警察署長に表象されるような「何か」だからではないだろうか。

だが、たけりくるった「日本人」の群衆が、特定の誰かではなく「朝鮮人」を殺せと叫んでいるとき、その前に一人で立ちふさがる人を支えるのは、「日本人の誇り」ではなく、「人間の矜持」ではないか。私たちは、朝鮮人をかくまったという記録に出会うたびに、あの9月にも、日本人のなかに「人間」であろうとした人がいたのだと感じる。もちろん、大川署長もまた、警察官としての職務を通じて「人間」であろうとしたのに違いない。



朝鮮人を殺した日本人と、朝鮮人を守った日本人。その間にはどのような違いがあったのだろうか。山岸秀はこれについて、守った事例では「たとえ差別的な関係においてであっても、日本人と朝鮮人の間に一定の日常的な人間関係が成立していた」と指摘している。つまり、本物の朝鮮人と話したこともないような連中とは違い、ふだん、朝鮮人の誰かと人としての付き合いをもっている人のなかから、「守る人」が現れたということだ。

言ってしまえば当たり前すぎる話である。だがこの当たり前の話を逆にしてみれば、「差別扇動犯罪(ヘイトクライム)」とは何かが見えてくる。

社会は、多くの人の結びつきの網の目でできている。そこには支配と抑圧がもちろんあるが、そうした力に歪められながらも、助け合うための結びつきも確かにあり、それこそが当たり前の日常を支えている。

植民地支配という構造によって深刻に歪められながらも、当時の朝鮮人と日本人の間においてさえ、生きている日常の場では、ときに同僚だったり、商売相手だったり、友人だったり、夫婦であったりという結びつきがあった。

だが虐殺者は、朝鮮人の個々の誰かであるものを「敵=朝鮮人」という記号に変えて「非人間」化し、それへの暴力を扇動する。誰かの同僚であり、友人である個々の誰かへの暴力が「我々日本人」による敵への防衛行動として正当化される。その結果、「我々日本人」の群れが、人が生きる場に土足でなだれ込んでくることになる。当時の証言には、自宅に乱入した自警団が日本人の妻の目の前で朝鮮人の夫を殺したらしい、という噂話が出てくる。実際にそういうことがあったかどうかはともかく、つまりそういうことなのである。

ヘイトクライムは、日常の場を支えている最低限の小さな結びつきを破壊する犯罪でもあるのだ。ごく日常的な、小さな信頼関係を守るために、危険を冒さなくてはならなかった人々の存在は、日常の場に乱入し「こいつは朝鮮人。こいつは敵」と叫んで暴力を扇動するヘイトクライムの悪質さ、深刻さをこそ伝えている。



最後に蛇足になるが。
すでにふれたように、右傾化の危機が叫ばれ始めた90年代には、「日本の誇り」を叫ぶ人々は、自警団から朝鮮人を守った大川署長を英雄として称揚していた。今日、同種の人々は関東大震災時の朝鮮人虐殺を「悪い朝鮮人を自警団が征伐した事件」と考え、自警団をこそ英雄と考えている。今さらながら、日本社会が深刻な水位に来ていることに慄然とする。


(9月21日19時に、若干の加筆を行いました)


参考資料:関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)、千葉県における追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと』(青木書店)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)


Saturday, September 21, 2013
Ordinary People Who Defended Koreans


In Funabashi, Chiba Prefecture, 38 Koreans were murdered in front of Funabashi train station in the aftermath of the quake, while in a small and poor village in Funabashi, named Maruyama, only 5 to 6 local youths courageously defended two Koreans living there for 2 years from armed vigilante groups of 40 men trying to kill the Koreans. On the following day the Koreans called Fukuda-san and Kinoshita-san respectively were escorted by the villagers to police station, and then were sent to Narashino Internment Camp. A year later they showed up to tell the villagers that they were doing well. There were many other cases of ordinary Japanese defending Koreans back then.

What's the difference between Japanese who killed Koreans and Japanese who defended Koreans?
The least you could say is that the latter had some sort of relationships with Koreans even if it was something discriminatory. On the contrary, each individual Korean was not seen by the former as a human being but as a part of enemy, and violence against Koreans who obviously were someone's colleagues or friends, or even husbands or wives was justified as a form of self-defense from the enemy. That was hate-crime.