2013年9月30日月曜日

【子どもたちの見た朝鮮人虐殺】

「ウチノ山ニ○○○○○ジンガスコシスンデヰマシタガ 七十七バンチノセイネンダンガキテ ソノ○○○○○ジンヲコロシテシマイマシタ」(本郷区尋常小学校1年男児)

「お父さんは○○○○人をころすので私やお母さんや、おばあちゃんや、よね子や、とみ子などはお父さんにわかれました」(深川区同2年女児)

「朝鮮人がころされているといふので私わ行ちゃんと二人で見にいった。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによってみた。すると頭わはれて血みどりになってしゃつわ血でそまっていた。皆んなわ竹の棒で頭をつついて『にくらしいやつだこいつがいうべあばれたやつだ』とさもにくにくしげにつばきをひきかけていってしまった」(横浜市高等小学校1年【現在の中学1年】女児)

「夜は又朝鮮人のさはぎなので驚ろきました私らは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました。それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがって居ました」(同1年女児)

「三日になると朝鮮人騒となって皆竹やりを持たり刀を持たりしてあるき廻ってた。其をして朝鮮人を見るとすぐ殺しので大騒になった。其れで朝鮮人が殺されて川へ流れてくる様を見ると、きびの悪いほどである」(同1年男児)

「オソロシイ朝鮮人ノサハギ世間一パン武器ヲツカイ朝鮮人トタタカイ、マルデ戦国時代ノヨウデアル。朝鮮人ノ死体マルデ石ガコロガツテイルヨウデアル」(横浜市尋常小学校6年男児)

「朝起きてみると、近所の子供が『朝鮮人が交番にしばられているから、見にいかないか』と大きな声で言っていました。君江さんは、私に『見にいかないか』といったので、私はいやともいえないので、じゃあゆきましよう。いって見ると、朝鮮人は電信にいわいつけられて、真青な顔をしていました。よその人は、『こいつにくたらしい人だといって』竹棒で頭をぶったので、朝鮮人はぐったりと、下へ頭をさげてしまいました。わきにいた人は、ぶってばかりいてはいけない。ちゃんと、わけをきいてからでなければいけないと言っていました。朝鮮人は頭を上げながら、かく物をくれと、手まねきしていました。君江さんはもうかえらないかといわれたので、じゃあ帰りましょう、といいながら(後略)」(同高等小学校1年女児)




以上は、震災から半年から1年後に書かれた、子どもの作文の一部である。

琴秉洞編『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』(緑蔭書房)は、震災経験を書いた当時の児童の作文のうち、朝鮮人虐殺にふれているものを集めた大部な本だ。原文では学校や児童の名前が入っているが、ここでは省いた。

読み進むと、これまでに読んだ様々な証言以上に、こちらの心が重くなってくる。

ひとつには、あまりにも大量に、造作なく、「死んでいました」「殺してしまいました」といった描写が子どもの作文中に出てくることの衝撃と嫌悪。

もうひとつには、これほどたくさんの子どもたちが無造作に書くほどに、当時、朝鮮人の殺害が珍しくなかった事実を突きつけられること。普通、子どもが学校で「お父さんは人殺しに行きました」と作文に書いたら周囲は騒然となるはずである。学校は警察に相談するだろう。

三つ目は、そこに朝鮮人への同情や虐殺への疑問がうかがえる表現がほとんどないことだ。そうしたなかで、編者の琴秉洞(クム・ピョンドン)が唯一、「救われたような気持ちになった」と記すのは、横浜市寿小学校の高等小学校1年、榊原八重子さんの作文である。長いので、ここでは結びだけ紹介する。

「うむうむとうなっているのは、五、六人の人が木にゆわかれ、顔なぞはめちゃくちゃで目も口もなく、ただ胸のあたりがびくびくと動いているだけであった。/私はいくら朝鮮人が悪い事をしたというが、なんだかしんじようと思ってもしんじる事はできなかった。其の日けいさつのにわでうめいていた人は今何地(どこ)にいるのであろうか」

彼女がこの光景を目撃したのは明け方のことである。その数時間前、彼女の家族のそばに1人の朝鮮人が逃げてきて、助けを求めた。「私朝鮮人あります。らんぼうしません」と彼は訴え、何度も頭を下げた。追っ手に捕まり、連れて行かれる姿を見送ったあと、彼女は一睡もできずに明け方を迎え、警察署前を通りかかったのである。琴秉洞は「なろうことなら、大人たちにこの八重子さんの聡明さと優しさの何分の一かが欲しかった」と嘆じる。

最後にもうひとつ、児童の作文を名前入りで紹介する。深川区霊岸尋常小学校3年生。
彼女の名前は「鄭チヨ」である。



こまつた事/鄭チヨ

(前略)もうここまでは(火が)こないと安心して、その晩は外でねました。あくる日の朝どての所へこやをこしらへてゐると、あつちこつちから丸太を持つた人が来ておとうさんや家にいたしょくにんたちをしばつてけいさつにゆきました。そしてあしたかへしてやるといつてなかなかかへしてくれませんでした。そのばんはお母さんとにげる時、ひろつた赤ちゃんと、家にいた男の子と私と四人でさびしがつてゐました。

すると又しらない男の人が小屋の中にはいつて来て、お前等は○○の女ではないかといひました。お母さんがさうですといひましたら、きさまらころすぞといひました。そしておこりました。私はしんぱいでなき乍(なが)らなんべんもあやまりました。そんなら女の事だからゆるしてやるといつて行きました。よろこんでけいさつにいつてお父さんのいつているならしの(習志野)といふ処へつれていつてもらいました。

お父さんはみんなは死んだと思つてゐましたから、大へんよろこびました。それからみんな東京へ送つてもらいました。



「なき乍らなんべんもあやまりました」の部分に言い知れない胸苦しさを感じる。
彼女にそんなことをさせてはいけなかったのだ。



(9月30日15時加筆)