2013年9月6日金曜日

【1923年9月6日午前2時/埼玉県寄居町警察分署 なんじの隣人を】

日本語/English/esperanto

寄居駅からの眺め

寄居の目抜き通り

当時、朝鮮アメ売りというものがいた。彼らは天秤棒の両端に大きな箱をつけたものを担いで、「ちょーせんにんじーん、にんじんあーめ」と独特の節回しで声を張り上げながら、朝鮮人参が原料だというアメを子どもに売って歩くのである。簡単な芸をみせることもあったらしい。工事人夫として働いていた朝鮮人が、工事が終わり仕事がなくなったためにアメ売りになることも多かった。資本がほとんどなくてもできる商売だからだろう。

秩父に近い埼玉県大里郡寄居町にも、朝鮮人の飴売りの若者がいた。28歳の具学永(グ・ハギョン)さんだ。彼が寄居にいついたのは2年前。それ以前はどこで何をしていたのかわからない。やはり工事人夫として働いていたのかもしれない。寄居駅の南にある浄土宗の寺院、正樹院の隣にある安宿「真下屋」に1人で暮らしていた。小柄でやせ型。おだやかで人のいい若者だったという。町の人で、声を張り上げて往来を行く彼のことを知らない者はなかった。

9月1日の震災以降、東京の避難民が持ち込む流言と自警団結成を求める例の県の通達によって、寄居でも消防団がとりあえず自警団に衣替えしたが、橋のたもとに座っているだけでなんということもなく、ましてや具さんに危害を加えようという者はいなかった。

それでも具さんは、不安を感じていた。あるいは、前日に熊谷で何十人もの朝鮮人が何の理由もなく虐殺された事件の報がすでに耳に届いていたのかもしれない。5日の昼ごろ、彼は寄居警察分署に現れ、自ら「保護」を求める。そうは言っても寄居は平和そのものだったので、彼は「何も仕事をせずに遊んでいては申し訳ない」と笑い、敷地の草むしりをして時間を潰していた。

かつて寄居警察分署があった付近(正樹院の東隣)

だが寄居の隣、用土村では、人々は「不逞鮮人」の襲撃に立ち向かう緊張と高揚に包まれていた。事件のきっかけをつくったのは、その日夜遅く、誰かが怪しい男を捕まえてきたことだった。自警団は男を村役場に連行する。ついに本物の「不逞鮮人」を捕らえた興奮に、100人以上が集まったが、取調べの結果、男は本庄署の警部補であることがわかった。

がっかりした人々に対して、芝崎庫之助という男が演説を始める。「寄居の真下屋には本物の朝鮮人がいる。殺してしまおう」。新しい敵をみつけた村人たちはこれに応え、手に手に日本刀、鳶口、棍棒をもって寄居町へと駆け出していった。

途中、具学永さんが寄居警察分署で保護されていることを知った村人は警察署に押し寄せる。朝鮮人を引き渡せと叫ぶ彼らに対し、星柳三署長は玄関先で、わずか4、5人の署員たちとともに説得に努めた。そのうちに寄居の有力者である在郷軍人会の酒井竹次郎中尉も駆けつけ、「ここにいる朝鮮人は善良なアメ売りである」と訴えるが、興奮した彼らは聞く耳をもたない。群衆は署長らを排除して署内になだれ込む。

竹やりや日本刀で斬りつけられ、血を流しながら、具学永さんは留置房のなかに逃げ込んだ。格子の間から竹やりを突き出してくる男たちとにらみ合いがしばらく続いた後、具さんは突入した男たちにずるずると玄関先まで運ばれていき、そこで集団で暴行されて亡くなった。6日の深夜、2時から3時の間の出来事だった。

『大正の朝鮮人虐殺事件』には、留置房のなかに追い込まれていたとき、彼がそばにあったなにかのポスターのうえに、自らの血で「罰 日本 罪無」と書いたという話が出てくる。「日本人、罪なき者を罰す」という意味ではないかという。それははっきりと抗議の意思表示だったと、同著は語る。

10月、芝崎ほか12人が逮捕された。

具学永さんの墓が、今も寄居の正樹院に残っている。正面に「感天愁雨信士」と戒名。右の側面には「大正十二年九月六日亡 朝鮮慶南蔚山郡廂面山田里居 俗名 具学永 行年 二十八才」、左の側面には「施主 宮澤菊次郎 外有志之者」と彫られている。虐殺犠牲者で、名前と出身地が分かり、さらに戒名もついているというのは珍しいという。山岸秀は「それだけ地元住民との日常関係が成立していたということである」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)と書いている。寄居の人々にとって、具学永の死は、確かに名前と個性をもった隣人の死であった。さらに言えば、用土村という隣人による死(殺害)でもあった。

具学永さんの墓


「具学永」の文字が見える。

正樹院(google map)


寄居警察分署の惨劇が未明にあった6日、戒厳司令部は「朝鮮人に対し、其の性質の善悪に拘らず、無法の待遇をなすことを絶対に慎め」「之に暴行を加へたりして、自ら罪人となるな」といった強い調子の「注意」を発表する。これ以来、「有りもせぬことを言触らすと処罰されます」というビラをまき、メディアを規制するなど、政府・軍の流言に対する態度がようやく、はっきりと否定的になる。

この頃から、東京では騒擾状態は次第に落ち着いていった。とは言うものの、すべてが終わったわけではない。軍や民衆による犯罪は一部ではまだ続く。しかし、9月1日からずっと、事件がおきた時間にこだわって日に数回、更新してきたこのブログのスタイルはギアチェンジする時期に来たようだ。

というわけで、明日からは、基本的にはほぼ1日1本のペースでの、とくに時間を特定しない更新になります。日付や時間を特定できない出来事や人々の体験を紹介していくつもりです。今日まで重苦しい数日間を見つめる試みにお付き合いくださった皆さん、ありがとうございます。少なくとも12日まで(たぶんもう少し先まで)は更新を続ける予定です。つまり、もうしばらく1923年9月という時期をみていくことになります。途絶えている英語・韓国語・エスペラント説明文も、追って補いますので、今しばらく、お付き合いください。


参考資料:『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版)、北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』(鳩の森書房)

At 2:00am on September 6, 1923
Yorii, Saitama
Death of A Neighbor

KOO Hag-yong had been peacefully living in Yorii, Saitama for 2 years. As everybody in the village knew he was a peaceful candy seller. But things changed after the quake.
Late at night on 6th September folks from neighboring villages rushed into Yorii to hunt an evil Korean. Without listening to the police chief and an influential figure trying to convince that KOO Hag-yong was peaceful and innocent the blood-thirsty mob burst in and lynched him to death. He wrote on a piece of paper with his blood, "The Japanese punished an innocent."
Yorii folks built him a grave and gave him a posthumous Buddhist name. There are only a few cases like this where people made grave for their neighbor Koreans killed by Japanese, and that shows he was truly a neighbor of the people in Yorii.


En la 6-a de septembro je la 2-a antaŭtagiĝe, en Yorii en la gbernio Saitama, Morto de najbaro.

Yorii en la gbernio Saitama estas malgranda urbeto. De antaŭ 2 jaroj tie loĝis korea junulo KOO Hag-yong kiu estis vendisto de dolĉaĵo. Ĉiuj urbetanoj sciis lian mildan karakteron.
Tamen ĉi tiu tago homoj de najbaraj vilaĝoj kiuj serĉas “malbonajn koreojn” alkuris amase. Kvankam konvinkado “li estas bona koreo” de policestro kaj haltigo de urbetaj eminentuloj, ili eniris la policejon kaj mortigis Koo Hag-yong. Skribante sur papero “Japanoj mortigas senkulpulon” KOO mortis.
Poste, la loĝantoj de Yorii konstruis tombon de KOO. Kaj laŭ la budisma kutimo ili nomis postmortan nomon de KOO. En tiu tempo estis rare ke loĝantoj konstruis la tombon de viktima koreo tiel. Tio estas pruvo ke Koo estis vere bona najbaro por Yorii.