2013年9月2日月曜日

【1923年9月2日午前5時/四ッ木橋付近 薪の山のように】

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荒川西岸の河川敷。中央に見えるのは木根川橋(震災当時は存在しない)

京成押上線の鉄橋(荒川西岸から)。こちらは震災当時と同じ位置にある。

震災当時、旧四ッ木橋のたもとだった付近から八広駅を望む。


(9月1日)午前10時ごろすごい雨が降って、あと2分で12時になるというとき、グラグラときた。「これ何だ、これ何だ」と騒いだ。くに(故国)には地震がないからわからないんだよ。それで家は危ないからと荒川土手に行くと、もう人はいっぱいいた。火が燃えてくるから四ッ木橋を渡って1日の晩は同胞14名でかたまっておった。女の人も2人いた。

そこへ消防団が4人来て、縄で俺たちをじゅずつなぎに結わえて言うのよ。「俺たちは行くけど縄を切ったら殺す」って。じっとしていたら夜8時ごろ、向かいの荒川駅(現・八広駅)のほうの土手が騒がしい。まさかそれが朝鮮人を殺しているのだとは思いもしなかった。

翌朝の5時ごろ、また消防が4人来て、寺島警察に行くために四ッ木橋を渡った。そこへ3人連れてこられて、その3人が普通の人に袋だたきにされて殺されているのを、私たちは横目にして橋を渡ったのよ。そのとき、俺の足にもトビが打ちこまれたのよ。

橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった。

(曺仁承(チョ・インスン)さんの証言。関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花の歌をはこべ』教育史料出版会から)



曺仁承さんはこのころ22、3歳。正月に釜山から来日し、大阪などを経て東京に来てから一ヶ月も経っていなかった。荒川の土手に避難した曺さんらが消防団に取り囲まれたのは1日夜10時ごろ。消防団のほか、青年団や中学生までが取り囲んで彼らの身体検査を始め、「小刀ひとつでも出てきたら殺すぞ」と脅かされた。何も出てこなかったので消防団は彼らを縄で縛り、朝になってから寺島警察署に連行したのである。

同胞たちが殺されているのを横目で見ながら曺さんは警察署にたどり着くが、そこでも自警団の襲撃や警官による朝鮮人の殺害を目撃した。

四ッ木橋は、現在の位置ではなく、京成電鉄押上線の鉄橋と木根川橋の間にあった。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、このあたりを中心にした荒川土手で、1日の夜、早くも多くの朝鮮人殺害が行われていたとする住民の証言を収めている。鉄砲や刀で2、30人は殺されたという。

多くの橋が焼失するなか、四ッ木橋は被災地域の外とを結ぶ重要なルートとなり、多くの避難民が行きかい、荒川土手は人でごった返していた。ここではその後の数日間、朝鮮人虐殺がくり返されることとなる。



参考資料:上記のほか、朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』を参考にした。

京成線八広駅付近(Google map 当時の四ッ木橋は現在の京成線鉄橋と木根川橋の間)


(次回は2日午後1時ごろ更新予定です)

At 5:00am on September 2nd, 1923, at Yotsugibashi Bridge, Tokyo 1923
A young worker Cho In-syn was sheltering in the Arakawa river bank when he was captured by a vigilante group. As he crossed the bridge early the next morning while being taken to police he witnessed 3 Koreans being killed and dead bodies piling up by the bridge.

노동자의 조인승 씨의 증언. “1923년 9월 1일밤, 아라카와(강의 이름)에 피난하고 있던 나는 갑자기 소방단에 구속되었다. 다음날 아침 5시, 경찰에 연행되는 도중 , 요추기바시(다리의 이름)의 주위로 장작처럼 쌓아진 많은 시체와 3명의 동포가 살해당하는 것을 보았다”.

Je la 5-a matene en la 2-a de septembro 1923, en Yotsugibashi, Tokio. Korea juna laboristo CHO In-syn estis kaptita de memgarda grupo kiam li fuĝis en rivero Arakawa pro la tertremo. Post la tagiĝo li estis kondukata al policejo trans la ponto Yotsugibashi. Survoje li rigardis mortigon de 3 koreoj. Sub la ponto multaj kadavroj estis stakitaj kiel brullignoj.